楽天・日記 by はやし浩司

2007/01/24(水)06:13

●洗脳とカルト

宗教問題(心の問題)(20)

●カルトの洗脳 ++++++++++++++++ カルトに洗脳された人たちは、 それこそ、とんでもないことを 言い出す。とんでもないことをする。 その前に、とんでもない ことを信ずる。 以前、死んでミイラ化した人を、 「まだ生きている」とがんばった 教団がいた。 洗脳のこわさは、そこにある。 カルトのこわさは、そこにある。 ++++++++++++++++  「洗脳」といっても、何も「脳を洗う」わけではない。ふつう、洗脳というのは、つぎのような方法を使って、なされる。  私たちは、日常生活の中で、無数の(思い込み)をもっている。それを(ビリーフ)という。たとえば、「納豆は体によい」「誠実であることこそが、他人とうまくつきあう方法である」「兄弟は仲よくしたほうが、よい」などなど。  これらのビリーフを分類していくと、たとえば(1)生活に関するもの、(2)健康に関するもの、(3)行動に関するもの、(4)生き方に関するものなどに分けられる。(ほかにもいろいろあるが、それは問題ではない。)  そこで洗脳する側、つまりカルト教団は、だれかをつかまえると、周辺の、どうでもよい分野から、このビリーフを、自分たちにとって、都合のよいビリーフに置き換えるところから始める。簡単に言えば、あたりさわりのない部分から、その人のビリーフを、つぶすところから始める。  「納豆といっても、遺伝子操作でできた納豆は、まだ安全が確認されていません」  「ときに、正しい生き方をすると、他人と、摩擦を引き起こすこともありますよ」  「兄弟といっても、他人の始まりですから……」と。  本人自身も、それほど深く考えたことがない。そういう分野から、その人のビリーフをつぶしていく。本人が、不安ごとや心配ごとをかかえているときは、さらに効果的である。その分野を、集中的に攻撃する。  「夫婦の仲がうまくいかないのは、あなただけの問題ではありません。あなたがた夫婦には、夫婦になる前からの問題があったのです」  「あなたがずっとお金で苦労しているのは、あなたのせいではありません。人には、それぞれ、運、不運というものがあります」と。  さらにほとんどのカルト教団では、本人をノーブレインの状態にするため、同じ題目や念仏を何度も繰りかえさせる。簡単な歌を歌わせるところもある。つまりこうした状態を20~30分も繰りかえしていると、その人の思考は停止状態になる。  それは心地よくも、甘美な世界である。こうした状態を、「ラポール」と呼ぶ。  本人がそういう状態になったとき、周囲の者たちが、いっせいに、その人に向かってこう言う。  「A先生は、仏様です」  「A先生は、釈迦の生まれ変わりです」  「あなたは、選ばれた、すばらしい人です」と。  まさに催眠状態でそう叩きこまれるから、本人は、それを信じてしまう。最初はそれに抵抗しようとするが、しかしそれにも限度がある。やがて周囲の人たちの言っていることを、受けいれてしまう。  この段階で、「あなたはキツネだ」と吹きこまれると、本当にキツネのようにピョンピョンと座ったまま踊り出す人もいる。それとくらべたら、「A先生は仏様です」ということを信ずることなど、何でもない。  こうしてカルト教団は、無数のビリーフを、自分たちにとって都合のよいビリーフに置きかえたあと、その人の根幹部分、つまり生きザマの分野のビリーフまで、自分たちにとって都合のよいビリーフに置きかえてしまう。  これが洗脳である。  人にもよるが、ここにも書いたように、何か大きな不安ごとや心配ごとをかかえた人ほど、短時間に洗脳される。それだけ心に大きな穴があいているからである。  今の今も、この洗脳は、日本中のいたるところでなされている。そして今の今も、無数のカルトが、人知れず、闇の世界で活動し、勢力を伸ばしている。あなたやあなたの子どもが、いつその犠牲者になってもおかしくない。今は、そういう状況である。  こうしたカルトに対抗するゆいいつの手段は、私たち自身が、賢くなることでしかない。常に考え、自分の常識とくらべて、おかしいものは、おかしいと声をあげる。その勇気でしかない。  ますます巧妙になるカルト。「洗脳」というものがどういうものであるかを知ってほしかったから、ここで思いつくまま、洗脳について書いてみた。 (はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 洗脳 カルト) Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司 ●考えること +++++++++++++++ 「考える」ことの重要性。 それこそが、人間が人間であるという 証(あかし9といってもよい。 +++++++++++++++  子どもに限らず、人を指導するには、簡単に言えば、ふたつの方法がある。ひとつは、(1)脅(おど)す方法。もう一つは、(2)自分で考えさせる方法。  ほとんどの宗教は、(1)の「脅す方法」を使う。バチ論や地獄論がそれ。あるいは反対に、「この教えに従ったら、幸福になれる」とか、「天国へ行ける」というのもそれ。(「従わなければ天国へ行けない」イコール、「地獄へ落ちる」というのは、立派な脅しである。)  カルトになると、さらにそれがはっきりする。「この信仰をやめたら、地獄へ落ちる」と教える宗教教団もある。常識で考えれば、とんでもない教えなのだが、人はそれにハマると、冷静な判断力すらなくす。  もうひとつの方法は、(2)の「自分で考えさせる方法」。倫理とか道徳、さらには哲学というのが、それにあたる。ものの道理や善悪を教えながら、子どもや人を指導する。この方法こそが、まさに「教育」ということになるが、むずかしいところは、「考える」という習慣をどう養うか、である。 たいていの人は、「考える」という習慣がないまま、自分では考えていると思っている。あるいは、そう思い込んでいる。たとえば夜のバラエティ番組の司会者を見てほしい。実に軽いことを、即興でペラペラとしゃべっている。一見、何かを考えているように見えるかもしれないが、実のところ、彼らは何も考えていない。脳の表層部分に飛来する情報を、そのつど適当に加工して言葉にしているだけ。 「考える」ということには、ある種の苦痛がともなう。「苦痛」そのものと言ってもよい。だからたいていの人は、自ら考えることを避けようとする。考えることそのものを放棄している人も、少なくない。子どもや学生とて、同じ。東大の元副総長だった田丸謙二先生も、「日本の教育の欠陥は、考える子どもを育てないこと」と書いている。  前にも書いたが、「人間は考えるから人間である」。パスカルも『パンセ』の中で、「思考こそが、人間の偉大さをなす」と書いている。 私は宗教を否定するものではないが、しかし人間の英知は、その宗教すらも超える力をもっている。まだほんの入り口に立ったばかりだが、しかし自らの足で立つところにこそ、人間が人間であるすばらしさがある。  問題は何を基準にするかだ。つまり人間は何を基準にして、ものを考えればよいかだ。私は、その基準として「常識」をあげる。いつも自分の心に、その常識を問いかけながら、考えている。「何が、おかしいか」「何が、おかしくないか」と。そしてあとはその常識に従って、自分の方向性を定める。ものを考え、それを文章にする。それを繰り返す。 言うまでもなく、私たちの体には、数一〇万年という長い年月を生きてきたという「常識」がしみついている。その常識に耳を傾ければ、おのずと道が見えてくる。その常識に従えば、人間はやがて真理にたどりつくことができる。少なくとも私は、それを信じている。あくまでもひとつの参考意見にすぎないが……。

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