楽天・日記 by はやし浩司

2007/10/04(木)08:06

●伝統論

社会時評(200)

●伝統論 +++++++++++++++ 保守主義者たちは、「伝統」という 言葉を使って、自分たちを正当化する。 「伝統」という言葉を口にすれば、 それですべてが解決すると 信じている。 しかし果たして、それでよいのか。 +++++++++++++++  伝統は、それ自体は、経験の集合である。先人たちの積み重ねてきた知恵や情報が、その中には、ぎっしりとつまっている。  しかしその伝統にしばられるのは、正しくない。伝統は、いつも、よりよい伝統によって置き換えられなければならない。またそうであるなら、それ以前の伝統が否定されても、何ら悲しむべきことではない。なぜなら、伝統そのものも、無数の取捨選択の結果でしかないからである。相撲を例にあげて考えてみよう。  相撲はまさに日本の伝統的スポーツ。しかしその相撲は、ある日突然現れ、そして完成したわけではない。今に見る相撲になるまでに、無数の人たちと、無数の試行錯誤が繰りかえされた。しかしどこかで完成されたわけではない。今の今も、その試行錯誤の過程にあるとみるのが正しい。だとするなら、過去にこだわるあまり、「完成した」とみるのは正しくない。改良すべき点があるなら、どんどんと改良していったらよい。  たとえば相撲では、けがをする人が絶えない。理由は、土俵が上に盛りあがっているからだ。だったらなぜ、土俵を地面と同じ高さにしないのか。あるいは、ころんでもけがをしないように、同じ高さのワクを広げてもよい。またあのマワシにしても、どうしてそれがパンツではいけないのか。こういう意見はどこか極論に聞こえるかもしれないが、「過程」というのは、そういう意味である。過去にこだわりすぎるあまり、試行錯誤する過程を否定してはいけない。  もちろん伝統を頭から否定してはいけない。それはいわば、無数の石で積みあげられた塔のようなもの。こわすのは、だれにだってできる。それに簡単だ。大切なことは、こわすならこわすで、それに代わるもの、あるいはもっとすばらしいものを用意しなければならない。「相撲はつまらないからやめてしまえ」と言ってはいけない。私たちが考えるべきことは、「どうすれば、もっとおもしろくできるか」ということ。  もっとも相撲のばあい、「伝統」という言葉を、逆手にとって利用している面がある。「伝統だから守ろう」という立場ではなく、「伝統だから守るべき」、さらには、「伝統だから、ありがたく思え」というふうにである。この傲慢(ごうまん)さは、いったい、どこからくるのか。 私はその理由の一つとして、「興行」という名のもとの「金儲け」をあげる。つまり今の相撲は、伝統を守ろうとか、守らないとかいうレベルの話ではなく、むしろ「伝統」という言葉を利用して、金儲けの道具に使われている。よい例が、外人力士たちだ。彼らは日本の伝統を守るために、日本へやってきて、力士になったのではない。ボランティア精神など、みじんもない。あくまでも、金儲けだ。わかりやすいと言えばわかりやすいが、そのわかりやすい分だけ、そこに不純なものが、にじみ出てくる。その不純なものを、おおい隠すために、むしろ「伝統」という言葉が利用されている。  だったら、なぜ、相撲を、もっと前向きにとらえないのか。柔道や空手のように、国際的なスポーツにするという方法もある。少なくとも、組織まで、かたくなに守らねばならないという理由はない。もっとも組織にメスを入れたら、その組織の中で安穏としていた人には、大打撃になる。だから当然のことながら抵抗するだろう。つまりその抵抗の道具として、ここでも「伝統」という言葉が利用されている。  こうした例は、日本の中に、無数に残っている。相撲だけではない。伝統という言葉を利用して、既得権を守る。排他的になる。独善的になる。そして改革をこばむ。三木清(哲学者、1897-1945)は、それではいけないと言っている。彼はこう書いている。「伝統が創造されるといふのは、それが形を変化するといふことである。伝統を作り得るものはまた伝統を毀(こわ)し得るものでなければならぬ」(「哲学ノート」)と。つまり伝統というのは、形を変え、また壊しうるものでなければならない、と。  私たち日本人は、「伝統」という言葉にあまりにも、おびえすぎているのではないのか。あるいは、子どものときから、ことあるごとに、そう洗脳されつづけてきた? あなたも子どものころ、学校や近隣で、耳にタコができるほど、「伝統を守ろう」という言葉を聞かされてきたと思う。そしてその結果、ちょうどどこかの宗教団体の信者が、本尊におびえるように、「伝統」という言葉におびえるようになってしまった? しかし何も恐れることはない。もし今までの伝統より、すばらしいものを用意できるなら、その伝統にこだわる必要はない。またこだわってはいけない。  そこでここでの結論として、私はこう考える。  伝統とは、それ自体が、伝統の種である。種であるから、心のどこかにまいてこそ、意味がある。やがて実をつけることができる。決してその種を手の中で、握ったままにしておいてはいけない。握ったままにすれば、腐るだけ。腐って滅びるだけ。

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