2007/10/05(金)10:41
●モバイル人間
●モバイル人間
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携帯電話を手放せない人は多い。
そういう現象は、若い人たちだけの
ものかと思っていたら、結構、年配の
人でも、そういう人がいる。
それを知り、驚いた。
私が知っているのは、50歳近い女性だが、
携帯電話を家に忘れた日は、仕事をサボってでも、
それを取りに帰るという。
「携帯電話がないと、不安でならない」、
ということらしい。
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携帯電話を中心に、携帯電話でつながる世界を、「モバイル空間」と呼ぶ。そしてそのモバイル空間で、いつも携帯電話を手放せない人を、モバイル人間と呼ぶ。いくつかの特徴がある。その中でも、もっとも重要なのが、「今」の共有。
携帯電話を手放せない人たちは、いつも、こういうやりとりをしている。「今、どこにいる?」「今、何をしている?」「今、どう思っている?」と。過去や未来の話ではない。いつも、「今」を話題にする。「今」の話をする。
つまりそういう形で、「今」を共有する。と、同時に、自分の「今」を、相手に共有させる。こうして自分と相手の「今」を、つなぐ。
……という話は、常識で、ここでは、その先を考えてみたい。
携帯電話が現れる前までは、通信手段と言えば、固定電話と手紙しかなかった。固定電話というのは、家の中のどこかに固定してある電話機をいう。
だから他人とコミュニケーションを取るといっても、今から思うと、恐ろしく時間がかかった。お金もかかった。相手が外国に住んでいたりすると、手紙だと、航空便でも、往復2週間。電話代も高かった。1970年当時、オーストラリアへ電話をすると、5~10分話しただけで、1000~2000円ほどかかったように記憶している。今の貨幣価値に換算すると、5000前後くらいか?
それが今では、瞬時、瞬時に、ことが進む。インターネットがそれに拍車をかけた。
こうした時代の変化の中で、私たちがもつ意識も、確実に変わりつつある。思いつくままで恐縮だが、それを並べてみる。
(1) 短絡性(深く、時間をかけて考えることができない。)
(2) 大量性(一度にたくさんの友人と連絡を取りあう。)
(3) 速効性(今の問題は、今、解決しようとする。)
こうした意識の変化の中で、(4)言葉そのものが変質しつつある。モバイル用語というのがあって、モバイル世界では、モバイルの世界でしか通用しない、独特の言い回しがある。
さらに(5)新種の孤独感、疎外感が生まれつつある。モバイル世界そのものが、ある種の共同体を形成し、その共同体から疎外されることによって生まれる、孤独感や疎外感である。
携帯電話がない時代には、人間と人間の間には、(時間)というクッションがあった。そのクッションのおかげで、自分を見つめなおすことができた。反対に、相手との関係を調整することもできた。
が、今は、携帯電話を使って、人間が、(群れ)となって集団行動を繰り返している。言うなれば、太古の昔、人間がまだ魚だったころの群れ意識を、(多分?)、携帯電話によって、呼び覚まされたということになるのか。わかりやすく言えば、人間は携帯電話により、再び「個」を喪失しつつある。
「今」を共有できる人間どうしが集まって、群れをつくる。同じ行動をし、同じことを考える。そして同時に、その群れに入らないものを、差別し、排斥する。が、同時に、自分がその群れからはずれされることを恐れる。それがここでいう新種の孤独感と疎外感を生み出す。
私の知人の中には、携帯電話を家に忘れると、仕事をサボってまで、それを取りに帰る女性がいる。20代や30代の若い人ではない。今年、その女性は、50歳くらいになる。その女性も、こう言う。
「携帯電話がないと、不安でならない」と。
理由を聞いても、それがよくわからない。「どうして?」と聞くと、「とにかく、不安になる」と。
たかが通信手段ではないのか? 携帯電話がなければ、固定電話機をさがせばよい。あるいはその前に、それほどまでに緊急な用事というのは、そうはない。その通信手段が、本来の通信手段というワクを超えて、人間の心理にも大きな影響を与えつつある。
大切なことは、仮に携帯電話をもち歩くとしても、それがもつ弊害を理解しながら使うということ。決して、「群れ意識」の中で、自分を見失ってはいけない。自分という「個」を見失ってはいけない。
さらに言えば、表面的な情報に操られるまま、操られてはいけない。
そこで、(6)として、つぎのことを書き足す。
個の喪失と、思考の浅薄化、と。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 モバイル世界 モバイル人間)