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カテゴリ:●宗教
●依存宗教(Religion to depend on)
++++++++++++++++ 何かの宗教を信仰し、その宗教に 依存する。 それを依存信仰という。 母体となる宗教を、依存宗教という。 たとえば「病気が治りますように」 「お金が儲かりますように」 「子どもが目的の大学に合格しますように」 と祈るのが、それ。 またそれを受け入れる宗教を、 依存宗教という。 ++++++++++++++++ 日本でいう宗教の多くは、依存宗教と考えてよい。 信仰することによって、信者は、その宗教団体に、絶対的な忠誠を誓う。 彼らの世界で言うところの「熱心な信者」というのは、「従順で、もの言わぬ信者」をいう。 で、その反射的効果として、何らかの利益(りやく)を受け取る。 こんな例で考えてみよう。 現在、私の母は、介護度5で、あるケア・センターに入居している。 そこでのこと。 このところ見るたびに、テーブルをはさんで、別の女性と喧嘩ばかりしている。 よほど相性が合わないらしい。 ときに物を投げあったりする。 私が見たときには、ティッシュペーパーを丸めて、投げあっていた。 ともに耳が悪いので、大声を出して叫びあうこともある。 理由は、ささいなことである。 母は、そういう状態になりながらも、食欲だけは旺盛。 相手の女性が食べようとしている菓子などが、ほしくてたまらない……らしい。 「それは、あんたのじゃない!」「お客さんのだから、食べるんじゃない!」とか言いながら、相手の女性に向かって、ティシュペーパーなど投げつける。 私はそういう光景を見ながら、ふと、こんなことを考えた。 「神は、母を助けるか?」と。 仮に母が敬虔なクリスチャンで、神に熱心に祈ったとする。 「そのとき神なら神がいて、母を助けるか」と。 たとえば母は母なりのレベルで、こう祈ったとする。 「何とか、あの菓子がほしい」「相手の女性から、それを奪ってほしい」と。 ついでに、「何とか、相手の女性をこらしめてほしい」と、祈るかもしれない。 しかし、残念ながら、そんなことに耳を貸す神などいない。 いたら、エセ。インチキ。アホ。バカ。 母にとっては、「地獄のようなところ」(母の言葉)かもしれないが、365日、室温は一定に保たれている。 食事も、それぞれの入居者に合わせて調理されている。 もちろん24時間態勢で、看護してもらっている。 もちろん費用だって、かかる。 今、この瞬間においても、この世界には、飢えで死んでいく人や子どもは、多い。 そういう状況と比較すれば、母が置かれている境遇は、きわめて恵まれていると考えてよい。 母1人に、1か月かける費用だけで、アフリカの貧しい国でなら、数百人が1年間は暮らせるかもしれない。 そんなわけで、もし神の立場で優先順位をつけるなら、母を助けるのは、最後の最後ということになる。 ……というふうに考えながら、今度は、私自身を見つめてみる。 「もし、私が神に祈ったら、神は、私の言うことを聞いてくれるか?」と。 答は、「NO!」。 第一、私の方が遠慮する。 私は健康だし、いろいろあったが、とにかくここまで無事に生きてくることができた。 60歳という年齢にしても、江戸時代なら、とっくの昔に死んでいた年齢である。 そんな私が神に祈って、それで私の言うことを聞いてくれたとしたら、その神は、エセ。インチキ。アホ。バカ。 この世界には、私よりもっと神の助けを必要とする人たちがいる。 私よりも、はるかに熱心に、神に祈っている人たちがいる。 私がする信仰など、仮にしたところで、遊びのようなもの。 さらに中には、「この信仰をすれば、アルマゲドン(ヨハネの黙示録による終末)のとき、神によって救われる」と説く宗教団体もある。 しかし日本のような、(アメリカでもよいが)、これほどまでに恵まれた国で、どうして、アルマゲドンなのか? 仮に巨大隕石の衝突や、巨大地震のような天変地異が起きたとしても、それを悪と決めてかかるほうがおかしい。 私やあなたが、今、ここにいるのも、自然現象。 仮に巨大隕石の衝突や、巨大隕石のような天変地異が起きたとしても、それも自然現象。 それをアルマゲドンというのなら、では、いったい、私たちは何かということになってしまう。 ものごとを人間中心に考えてはいけない。 また人間が宇宙の中心にいるわけでもない。 地球温暖化(地球火星化)にしても、そうだ。 神に祈ったところで、どうこうなるような問題ではない。 またどうにもならない。 さらに言えば、ヌクヌクと恵まれた環境の中で生活をしながら、「救われる」も、何もない。 少し話が脱線したが、信仰は、思想でするもの。 もし宗教団体がすべきことがあるとするなら、思想で、信者を指導する。 おかしなパワーや、超自然現象を信じ込ませて、信者を誘導してはならない。 いわんや利益(りやく)を目的として、信者を誘導するとしたら、その宗教団体は、エセ。インチキ。アホ。バカ。 さらに愚劣なバチ論をふりかざし、「この信仰を(途中で)やめた者は、地獄へ堕ちる」と脅すとしたら、その宗教団体は、エセ。インチキ。アホ。バカ。 こんなことは常識で考えれば、だれにだってわかる。 子どもにだって、わかる。 さらに、そのことは、ケアセンターにいる老人たちを見れば、よくわかる。 私たち自身が、地球という巨大なケアセンターの中にいるようなもの。 たしかに私たちから見れば、母たちは、レベルが低い。 しかし神の目から見れば、私たちも、そしてケアセンターにいる老人たちも、同じように見えるはず。 たとえばあのK国は、せっこらせっこらと、核兵器ばかり、作っている。 一方で民を飢えさせて、みじんも、恥じない。 その姿は、菓子を取りあって喧嘩している母たちの姿と、どこもちがわない。 あるいは、どこがどうちがうというのか。 さて、冒頭の話。 それについて、私は、こんな説話を思い出した。 法句経にこんな話がのっている。 ある日釈迦のところへ一人の男がやってきて、こうたずねる。 「釈迦よ、私はもうすぐ死ぬ。死ぬのがこわい。どうすればこの死の恐怖から逃れることができるか」と。 それに答えて釈迦は、こう答える。 「明日のないことを嘆くな。今日まで生きてきたことを喜べ、感謝せよ」と。 私のエッセーで、よく取りあげる説話だが、この説話をもう少していねいに読むと、こういうふうにも、解釈できる。 釈迦のそのときの気持ちになってみると、それがよくわかる。 釈迦は、こう言ったのだ。 「今まで、お前は生かしてもらったではないか。 まず、それに感謝しなさい。 それを忘れて、いつまでも、私に頼ってもらっては困る。 もういいかげんにしなさい」と。 さて、結論。 依存宗教は、どこまでいっても、依存宗教。 それを信仰したからといって、中身は、気休め。 またその程度の意味しかない。 宗教を信ずるのは、それぞれの人の自由。勝手。 しかし宗教に依存してはいけない。 もし祈ることがあるとするなら、自分を離れたところで、他人のために祈る。 宇宙や自然のために、祈る。 どこまでも生きるのは、私であり、あなたである。 それを忘れて信仰をしては、いけない。 (はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 依存宗教 依存信仰 宗教とは 宗教論) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2008年03月30日 15時34分17秒
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