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楽天・日記 by はやし浩司

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2008年03月30日
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カテゴリ:●宗教
●依存宗教(Religion to depend on)

++++++++++++++++

何かの宗教を信仰し、その宗教に
依存する。
それを依存信仰という。
母体となる宗教を、依存宗教という。

たとえば「病気が治りますように」
「お金が儲かりますように」
「子どもが目的の大学に合格しますように」
と祈るのが、それ。

またそれを受け入れる宗教を、
依存宗教という。

++++++++++++++++

日本でいう宗教の多くは、依存宗教と考えてよい。
信仰することによって、信者は、その宗教団体に、絶対的な忠誠を誓う。
彼らの世界で言うところの「熱心な信者」というのは、「従順で、もの言わぬ信者」をいう。
で、その反射的効果として、何らかの利益(りやく)を受け取る。

こんな例で考えてみよう。

現在、私の母は、介護度5で、あるケア・センターに入居している。
そこでのこと。

このところ見るたびに、テーブルをはさんで、別の女性と喧嘩ばかりしている。
よほど相性が合わないらしい。
ときに物を投げあったりする。
私が見たときには、ティッシュペーパーを丸めて、投げあっていた。
ともに耳が悪いので、大声を出して叫びあうこともある。

理由は、ささいなことである。
母は、そういう状態になりながらも、食欲だけは旺盛。
相手の女性が食べようとしている菓子などが、ほしくてたまらない……らしい。

「それは、あんたのじゃない!」「お客さんのだから、食べるんじゃない!」とか言いながら、相手の女性に向かって、ティシュペーパーなど投げつける。

私はそういう光景を見ながら、ふと、こんなことを考えた。

「神は、母を助けるか?」と。
仮に母が敬虔なクリスチャンで、神に熱心に祈ったとする。
「そのとき神なら神がいて、母を助けるか」と。

たとえば母は母なりのレベルで、こう祈ったとする。

「何とか、あの菓子がほしい」「相手の女性から、それを奪ってほしい」と。
ついでに、「何とか、相手の女性をこらしめてほしい」と、祈るかもしれない。

しかし、残念ながら、そんなことに耳を貸す神などいない。
いたら、エセ。インチキ。アホ。バカ。

母にとっては、「地獄のようなところ」(母の言葉)かもしれないが、365日、室温は一定に保たれている。
食事も、それぞれの入居者に合わせて調理されている。
もちろん24時間態勢で、看護してもらっている。
もちろん費用だって、かかる。

今、この瞬間においても、この世界には、飢えで死んでいく人や子どもは、多い。
そういう状況と比較すれば、母が置かれている境遇は、きわめて恵まれていると考えてよい。
母1人に、1か月かける費用だけで、アフリカの貧しい国でなら、数百人が1年間は暮らせるかもしれない。

そんなわけで、もし神の立場で優先順位をつけるなら、母を助けるのは、最後の最後ということになる。

……というふうに考えながら、今度は、私自身を見つめてみる。
「もし、私が神に祈ったら、神は、私の言うことを聞いてくれるか?」と。

答は、「NO!」。
第一、私の方が遠慮する。
私は健康だし、いろいろあったが、とにかくここまで無事に生きてくることができた。
60歳という年齢にしても、江戸時代なら、とっくの昔に死んでいた年齢である。
そんな私が神に祈って、それで私の言うことを聞いてくれたとしたら、その神は、エセ。インチキ。アホ。バカ。

この世界には、私よりもっと神の助けを必要とする人たちがいる。
私よりも、はるかに熱心に、神に祈っている人たちがいる。
私がする信仰など、仮にしたところで、遊びのようなもの。

さらに中には、「この信仰をすれば、アルマゲドン(ヨハネの黙示録による終末)のとき、神によって救われる」と説く宗教団体もある。
しかし日本のような、(アメリカでもよいが)、これほどまでに恵まれた国で、どうして、アルマゲドンなのか?

仮に巨大隕石の衝突や、巨大地震のような天変地異が起きたとしても、それを悪と決めてかかるほうがおかしい。
私やあなたが、今、ここにいるのも、自然現象。
仮に巨大隕石の衝突や、巨大隕石のような天変地異が起きたとしても、それも自然現象。
それをアルマゲドンというのなら、では、いったい、私たちは何かということになってしまう。

ものごとを人間中心に考えてはいけない。
また人間が宇宙の中心にいるわけでもない。

地球温暖化(地球火星化)にしても、そうだ。

神に祈ったところで、どうこうなるような問題ではない。
またどうにもならない。
さらに言えば、ヌクヌクと恵まれた環境の中で生活をしながら、「救われる」も、何もない。

少し話が脱線したが、信仰は、思想でするもの。
もし宗教団体がすべきことがあるとするなら、思想で、信者を指導する。
おかしなパワーや、超自然現象を信じ込ませて、信者を誘導してはならない。
いわんや利益(りやく)を目的として、信者を誘導するとしたら、その宗教団体は、エセ。インチキ。アホ。バカ。

さらに愚劣なバチ論をふりかざし、「この信仰を(途中で)やめた者は、地獄へ堕ちる」と脅すとしたら、その宗教団体は、エセ。インチキ。アホ。バカ。

こんなことは常識で考えれば、だれにだってわかる。
子どもにだって、わかる。

さらに、そのことは、ケアセンターにいる老人たちを見れば、よくわかる。
私たち自身が、地球という巨大なケアセンターの中にいるようなもの。
たしかに私たちから見れば、母たちは、レベルが低い。
しかし神の目から見れば、私たちも、そしてケアセンターにいる老人たちも、同じように見えるはず。

たとえばあのK国は、せっこらせっこらと、核兵器ばかり、作っている。
一方で民を飢えさせて、みじんも、恥じない。
その姿は、菓子を取りあって喧嘩している母たちの姿と、どこもちがわない。
あるいは、どこがどうちがうというのか。

さて、冒頭の話。
それについて、私は、こんな説話を思い出した。

法句経にこんな話がのっている。
ある日釈迦のところへ一人の男がやってきて、こうたずねる。
「釈迦よ、私はもうすぐ死ぬ。死ぬのがこわい。どうすればこの死の恐怖から逃れることができるか」と。
それに答えて釈迦は、こう答える。
「明日のないことを嘆くな。今日まで生きてきたことを喜べ、感謝せよ」と。

私のエッセーで、よく取りあげる説話だが、この説話をもう少していねいに読むと、こういうふうにも、解釈できる。

釈迦のそのときの気持ちになってみると、それがよくわかる。
釈迦は、こう言ったのだ。

「今まで、お前は生かしてもらったではないか。
まず、それに感謝しなさい。
それを忘れて、いつまでも、私に頼ってもらっては困る。
もういいかげんにしなさい」と。

さて、結論。

依存宗教は、どこまでいっても、依存宗教。
それを信仰したからといって、中身は、気休め。
またその程度の意味しかない。

宗教を信ずるのは、それぞれの人の自由。勝手。
しかし宗教に依存してはいけない。

もし祈ることがあるとするなら、自分を離れたところで、他人のために祈る。
宇宙や自然のために、祈る。

どこまでも生きるのは、私であり、あなたである。
それを忘れて信仰をしては、いけない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 依存宗教 依存信仰 宗教とは 宗教論)





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最終更新日  2008年03月30日 15時34分17秒
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