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カテゴリ:家族のこと
●血圧
血圧は、午前中には、80~40前後はあったという。 それが午後には、60から55へとさがっていった。 「60台になると、あぶない」という話は聞いていたが、今までにも、 そういうことはたびたびあった。 この2月に、救急車で病院へ運ばれたときも、そうだった。 看護婦さんが、30分ごとに血圧を測ってくれた。 午後3時を過ぎるころには、48にまでさがっていた。 私は言われるまま、母の手を握った。 「冷たいでしょ?」と看護婦さんは言ったが、私には、暖かく感じられた。 午後5時ごろまでは、血圧は46~50前後だった。 が、午後5時ごろから、再び血圧があがりはじめた。 そのころ、義兄夫婦が見舞いに来てくれた。 私たちは、いろいろな話をした。 50、52、54……。 「よかった」と私は思った。 しかし「今夜が山」と、私は思った。 それを察して、看護士の人たち数人が、母のベッドの横に、私たち用の ベッドを並べてくれた。 「今夜は、ここで寝てください」と。 見ると、ワイフがそこに立っていた。 この3日間、ワイフは、ほとんど眠っていなかった。 やつれた顔から生気が消えていた。 「一度、家に帰って、1時間ほど、仮眠してきます」と私は、看護婦さんに告げた。 「今のうちに、そうしてください」と看護婦さん。 私は母の耳元で、「母ちゃん、ごめんな、1時間ほど、家に行ってくる。またすぐ 来るから、待っていてよ」と。 私はワイフの手を引くようにして、外に出た。 家までは、車で、5分前後である。 ●急変 家に着き、勝手口のドアを開けたところで、電話が鳴っているのを知った。 急いでかけつけると、電話の向こうで、看護婦さんがこう言って叫んだ。 「血圧が計れません。すぐ来てください。ごめんなさい。もう間に合わないかも しれません」と。 私はそのまままたセンターへ戻った。 母の部屋にかけつけた。 見ると、先ほどまでの顔色とは変わって、血の気が消え失せていた。 薄い黄色を帯びた、白い顔に変わっていた。 私はベッドの手すりに両手をかけて、母の顔を見た。 とたん、大粒の涙が、止めどもなく、あふれ出た。 ●下痢 母が私の家にやってきたのは、その前の年(07年)の1月4日。 姉の家から体を引き抜くようにして、抱いて車に乗せた。 母は、「行きたくない」と、それをこばんだ。 私は母を幾重にもふとんで包むと、そのまま浜松に向かった。 朝の早い時刻だった。 途中、1度、母のおむつを替えたが、そのとき、すでに母は、下痢をしていた。 私は、便の始末は、ワイフにはさせないと心に決めていた。 が、この状態は、家に着いてからも同じだった。 母は、数時間ごとに、下痢を繰り返した。 私はそのたびに、一度母を立たせたあと、おむつを取り替えた。 母は、こう言った。 「なあ、浩司、オメーニ(お前に)、こんなこと、してもらうようになるとは、 思ってもみなかった」と。 私も、こう言った。 「なあ、母ちゃん、ぼくも、お前に、こんなことをするようになるとは、 思ってもみなかった」と。 その瞬間、それまでのわだかまりが、うそのように、消えた。 その瞬間、そこに立っているのは、私が子どものころに見た、あの母だった。 やさしい、慈愛にあふれた、あの母だった。 ●こだわり 人は、夢と希望を前にぶらさげて生きるもの。 人は、わだかまりとこだわりを、うしろにぶらさげながら、生きるもの。 夢と希望、わだかまりとこだわり、この4つが無数にからみあいながら、 絹のように美しい衣をつくりあげる。 無数のドラマも、そこから生まれる。 私と母の間には、そのわだかまりとこだわりがあった。 大きなわだかまりだった。 大きなこだわりだった。 話しても、意味はないだろう。 話したところで、母が喜ぶはずもないだろう。 しかし私は、そのわだかまりと、こだわりの中で、12年も苦しんだ。 ある時期は、10か月にわたって、毎晩、熱にうなされたこともある。 ワイフが、連日、私を看病してくれた。 その母が、そこにいる。 よぼよぼした足で立って、私に、尻を拭いてもらっている。 ●優等生 1週間を過ぎると、母は、今度は、便秘症になった。 5、6日に1度くらいの割合になった。 精神も落ち着いてきたらしく、まるで優等生のように、私の言うことを聞いてくれた。 ディサービスにも、またショートステイにも、一度とて、それに抵抗することなく、 行ってくれた。 ただ、やる気は、失っていた。 あれほどまでに熱心に信仰したにもかかわらず、仏壇に向かって手を合わせることも なかった。 ちぎり絵も用意してみたが、見向きもしなかった。 春先になって、植木鉢を、20個ほど並べてみたが、水をやる程度で、 それ以上のことはしなかった。 一方で、母はやがて我が家に溶け込み、私たち家族の一員となった。 ●事故 それまでに大きな事故が、3度、重なった。 どれも発見が早かったからよかったようなもの。 もしそれぞれのばあい、発見が、あと1~2時間、遅れていたら、母は死んでいた かもしれない。 一度は、ベッドと簡易ベッドの間のパイプに首をはさんでしまっていた。 一度は、服箱の中に、さかさまに体をつっこんでしまっていた。 もう一度は、寒い夜だったが、床の上にへたりと座り込んでしまっていた。 部屋中にパイプをはわせたのが、かえってよくなかった。 母は、それにつたって、歩くことはできたが、一度、床にへたりと座ってしまうと、 自分の手の力だけでは、身を立てることはできなかった。 私とワイフは、ケアマネ(ケア・マネージャー)に相談した。 結論は、「添い寝をするしかありませんね」だった。 しかしそれは不可能だった。 ●センターへの申し込み このあたりでも、センターへの入居は、1年待ちとか、1年半待ちとか言われている。 入居を申し込んだからといって、すぐ入居できるわけではない。 重度の人や、家庭に深い事情のある人が優先される。 だから「申し込みだけは早めにしておこう」ということで、近くのMセンターに 足を運んだ。 が、相談するやいなや、「ちょうど、明日から1人あきますから、入りますか?」と。 これには驚いた。 私たちにも、まだ、心の準備ができていなかった。 で、一度家に帰り、義姉に相談すると、「入れなさい!」と。 義姉は、介護の会の指導員をしていた。 「今、断ると、1年先になるのよ」と。 これはあとでわかったことだったが、そのとき相談にのってくれたセンターの 女性は、そのセンターの園長だった。 ●入居 母が入居したとたん、私の家は、ウソのように静かになった。 ……といっても、そのころのことは、よく覚えていない。 私とワイフは、こう誓いあった。 「できるだけ、毎日、見舞いに行ってやろう」 「休みには、どこかへ連れていってやろう」と。 しかし仕事をもっているものには、これはままならない。 面会時間と仕事の時間が重なってしまう。 それに近くの公園へ連れていっても、また私の山荘へ連れていっても、 母は、ひたすら眠っているだけ。 「楽しむ」という心さえ、失ってしまったかのように見えた。 ●優等生 もちろん母が入居したからといって、肩の荷がおりたわけではない。 一泊の旅行は、三男の大学の卒業式のとき、一度しただけ。 どこへ行くにも、一度、センターへ電話を入れ、母の様子を聞いてからに しなければならなかった。 それに電話がかかってくるたびに、そのつど、ツンとした緊張感が走った。 母は、何度か、体調を崩し、救急車で病院へ運ばれた。 センターには、医療施設はなかった。 ただうれしかったのは、母は、生徒にたとえるなら、センターでは ほとんど世話のかからない優等生であったこと。 冗談好きで、みなに好かれていたこと。 私が一度、「友だちはできたか?」と聞いたときのこと。 母は、こう言った。 「みんな、役立たずばっかや(ばかりや)」と。 それを聞いて、私は大声で笑った。 横にいたワイフも、大声で笑った。 「お前だって、役だ立たずやろが」と。 加えて、母には、持病がなかった。 毎日服用しなければならないような薬もなかった。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2009年08月17日 00時30分21秒
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