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●無私の愛(Unconditional Love)
++++++++++++++++ 無私の愛。 損得の勘定を捨てきった愛。 英語では、「unconditional love(無条件の愛)」という。 しかし無私の愛などというものは、それを求めようとして、 求められるものではない。 無私の愛などいうものは、裏切られ、さらに裏切られ、 その上さらに裏切られ、「どうにでもなれ」という状況 になってはじめて、それがそこにあることを知る。 あるいは苦しみや悲しみの果てでもよい。 苦しんで、苦しんで、悲しんで、悲しんで、 その果てに、それがそこにあることを知る。 が、あくまでも結果。 その結果として、「無私の愛」を知る。 「知る」というよりは、そういう状況に追い込まれる。 否応なしに、追い込まれる。 追い込まれたあと、「無私の愛」がそこにあることを知る。 そこに、最後の救いを見出す。 しがみつく。 +++++++++++++++++ ●本能的な愛 「私は子どもを愛しています」などと、平気で言う人がいる。 結構なことである。 すばらしいことである。 しかしその実、「愛」が何であるか、そういう人たちは、まったくわかっていない。 「愛」という言葉に酔っているだけ(失礼!)。 というのも本能的な部分で、親は子どもを愛する(?)ようにできている。 一方、子どもは、本能的な部分で、親に愛されるようにできている。 最近の研究によれば、そうした心のメカニズムを、「mutual attachment(相互アタッチメント)」という言葉を使って、説明する。 たとえばあの赤ん坊が、オギャーオギャーと泣いたとする。 が、そうして泣くのも、計算づく。 母性愛や父性愛をくすぐるために、赤ん坊は、自分の脳にインプットされた、プログラムに従って泣く。 つまり赤ん坊が、親を操る。 親の心を操る。 それが別の形で現れるのが、「赤ちゃん返り」ということになる。 下の子どもが生まれたりして、愛情飢餓の状態になると、子どもはもう一度、赤ちゃんに戻り、親の関心を自分に引き寄せようとする。 おもらしをしたり、ネチネチした言い方をするなど。 本能的な部分で起こる現象のため、子どもを叱ったり、説教したりしても意味はない。 また、それでどうこうなるような問題ではない。 こうした愛(?)を、私は、「本能的な愛」と呼んでいる。 もちろん先に書いた、「無私の愛」とは、まったく異質のものである。 ●絶望感 時として親は、子育てをしながら、はげしい絶望感を覚える。 挫折感、失望感・・・、何でもよい。 が、そこは自分の子ども。 自分の子どもから、逃れるわけにはいかない。 いかにはげしく葛藤しても、最終的には、受け入れるしかない。 というのも人間の心というのは、不安定な状態には、たいへんもろい。 それから生まれる緊張感には、相当なものがある。 長くは持ちこたえられない。 そのため、一気に、どちらかの側にころぼうとする。 (拒絶)か、さもなければ(受容)か、と。 夫婦のばあいは、(拒絶)=(離婚)という方法もあるが、相手が自分の子どもでは、そうはいかない。 親は、とことん、袋小路に追い詰められる。 もっとも(拒絶)が、まったくないかというと、そうでもない。 本気で子どもを見捨ててしまう親も、少なくない。 家庭騒動、経済問題、夫婦不和などが、原因となることもある。 が、ごくふつうの家庭でも、(見た目には、まったくふつうの家庭でも)、(拒絶)が起こることがある。 援助交際を繰り返していた中学2年生の女子を、警察官が家の母親に電話をしたところ、その母親は、こう言った。 「私には関係ないことですから、(娘を)勝手にしてください」と。 そして娘には、「2度と、家には帰ってこないでよ」(某テレビ局の突撃番組)と。 (中学2年生の娘に、だぞ!) 現実には、そういう家庭もある。 ●受容 が、一般的なケースでは、子どものできが悪ければ悪いほど、親は、自分を責める。 他人の子どもなら、「ハイ、さようなら!」と別れることもできる。 が、相手が自分の子どもでは、そうはいかない。 義務と責任、憎悪と愛情のはざまで、親は、もがく。 苦しむ。 が、それも頂点に達すると、親は究極の選択に迫られる。 「拒絶か、受容か」と。 その(受容)の先にあるのが、冒頭にあげた、「無私の愛」ということになる。 「もうどうにでもなれ!」と。 しかしだからといって、子どもを捨てるわけではない。 あきらめるわけでもない。 子どもを自分の中に、完全に受け入れる。 それが「無私の愛」ということになる。 が、そこか実におおらかで、ゆったりとした世界。 何ものにも束縛されない、自由な世界。 しかしここで誤解してはいけないことがある。 だからといって、それで親子関係が正常になるとか、心豊かになるとか、そういうことではない。 親子関係は、そのまま。 もしあなたの子どもが、どうしようもないドラ息子や、ドラ娘であれば、そのまま。 無私の愛といっても、その中身は一方的なもの。 見返りさえ、ない。 つまりそのことまで、受け入れてしまう。 それが「無私の愛」ということになる。 ●補足 K国による拉致被害者にYTめぐみさんがいる。 その両親は、今の今も、めぐみさんの救済活動をつづけている。 その姿を、テレビなどでかいま見るたび、金xxへの怒りがこみあげてくる。 (拉致の首謀者は、まちがいなく、あの金xxだぞ!) と、同時に、めぐみさんの両親には、神々しいほどまでの崇高さを感ずる。 それはもう「無私の愛」などという、生やさしいものではない。 私がここで説明した「無私の愛」などというものは、めぐみさんの両親には、ただの紙切れのようなもの。 苦しんだり、悲しんだりするといっても、そこには限度というものがある。 めぐみさんの両親は、その限度を超えている。 K国に対する非難の攻撃を、けっしてゆるめてはいけない。 もうこれ以上、めぐみさんの両親を、苦しめてはいけない。 (はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 無私の愛 無条件の愛 親の愛) Hiroshi Hayashi++++++++Jan.2010+++++++++はやし浩司 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2010年01月22日 11時01分43秒
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