全て
| カテゴリ未分類
| 育児問題
| 教育問題
| 子どもの問題
| 育児エッセー
| 人生論
| 時事問題
| 日々の随筆
| 家族のこと
| 自分(はやし浩司)史
| 友人より
| BW教室のこと
| 生きザマの問題
| 心の問題
| 育児のコツ
| 親子の問題
| 宗教問題(心の問題)
| 幼児・子どもの心理
| 老人問題
| 【保存原稿・SS】
| 旅行記
| ニュース
| 子どもの世界
| 私が見た映画
| ●宗教
| ●日本について
| 社会時評
| 夫婦の問題
| ●経済について(日本+国際)
| 英語のことわざ
| ★BW方式
| 小説
| BW教室
カテゴリ:カテゴリ未分類
●金沢 金沢は、その昔は、学生の町だった。 どこへ行っても、学生がいた。 目だった。 私もその金沢の金沢大学の学生だった。 あの金沢城址にあった学舎で、4年間を過ごした。 が、今は、金沢大学もそこを追い出され、角間というところに移転した。 どこにでもある新制大学のひとつになってしまった。 当然のことながら、レベルも落ちた(失礼!)。 私たちは、それを天下の愚策という。 当時、たまたまNHKの大河ドラマで、前田利家がテーマになった。 それだけではないが、金沢城址を、金沢市は観光地にしようとした。 そのために金沢大学を、金沢城址から追い出した。 が、これは世界の常識ではない。 世界の大都市は、市の中心部に最高学府を置く。 「知」の府を置く。 私が学んだ、メルボルン大学を例にあげるまでもない。 それがその市の誇りでもあり、シンボルにもなっている。 その学府が、町全体の知的文化を引き上げる。 札束も印刷物なら、書本も印刷物。 金沢市は、札束を選び、書本を捨てた。 その結果が、今。 金沢市は、観光都市として、「知」を捨て、俗化した。 ……私が浜松市に移り住んだとき、私はその文化性のなさに驚いた。 浜松市は、工業都市。 20年ほど前から、「音楽の町」として売り出しているが、もともとは「楽器の町」。 「音楽」と「楽器」とでは、「文学」と「印刷機」ほどのちがいがある。 その浜松に住んで、40年。 今度は金沢に来てみると、その浜松とそれほど違わないのに、驚く。 逆の立場で驚く。 あれほど強く感じた「差」は、もうない。 浜松が文化都市になったとは思えない。 つまりその分だけ、金沢は、俗化した。 で、肝心の観光収入は、ふえたのか? 答えは、「NO!」。 同窓生の中には、金沢市役所に勤めたのもいる。 石川県庁に入ったのもいる。 みな、今になってこう言っている。 「まったくの失敗だった」と。 ●サンダーバード13号(金沢、13:03発) 金沢からはサンダーバード13号(特急)で、羽咋まで。 「サンダーバード」という名前がよい。 なつかしい。 が、どう考えても、北陸を走る列車らしくない。 「犀星13号」とか「犀川13号」とか。 そういう名前のほうが風情があって、よい。 どうでもよいことだが……。 羽咋までは、40分。 学生時代には、法律相談所の所員として、毎月のように通った。 「所員」というと大げさに聞こえるかもしれないが、要するにインターンのようなもの。 大学の教授といっしょに通った。 行けば何かを思い出すだろうが、写真が何枚か、残っているだけ。 会場となったのは、どこかの神社の事務所。 その2階。 残っている写真は、その神社の前で撮ったもの。 羽咋出身の友人もいたはず。 SH君という名前ではなかったか。 ●学生時代 金沢での学生時代は、そのあとのメルボルン大学での学生時代の陰に隠れて、記憶の中ではかすんでしまっている。 メルボルン大学での学生生活が、それほどまでに強烈だったということか。 が、こうも考える。 もしあのまま、まじめに(?)、金沢大学を卒業し、商社マンになっていたら、私はどうなっていただろうか、と。 2年ほど前、同窓会に出たとき、「伊藤忠商事を定年まで勤めまして……」と言った友人がいた。 いっしょに入社試験に行ったことのある仲間だった。 その仲間を見ながら、私はこう思った。 「私も、ああなっていただろうな」と。 一社懸命の企業戦士。 バリバリ働いて、定年退職。 が、いくら想像力を働かせても、それ以上のことが頭に浮かんでこない。 ●私は、ただのバカだった 「今」が、つねに「結果」であるとするなら、では、金沢での4年間は、何だったのかということになる。 それはちょうどボケた老人を見るときの自分に似ている。 そんな人にも、それぞれ、自分の過去があったはず。 が、ボケると、そういう過去が、どこかへ吹き飛んでしまう。 積み重ねてきたはずの、人生の年輪が消えてしまう。 今の私にしても、そうだ。 学生時代の私は、たしかにバカだった。 しかも、ただのバカ。 が、今の私が、そのバカから抜け出たかというと、それはない。 むしろさらにバカになったのかもしれない。 ボケ老人、一歩手前。 となると、「金沢での4年間は、何だったのか」ということになる。 就職のための、一里塚? そう考えることはさみしいことだが、私にかぎらず、当時の学生はみな、そう考えていた。 私たちはいつも、何かに追い立てられて生きていた。 あの4年間にしても、そうだ。 「大学へ入るのは、その先の就職のため」と。 そういう私が、「私」をつかんだのは、ほかならない、メルボルンでのことだった。 ●「もう、いやだ!」 私はあのメルボルンという町で、生まれてはじめて「自由」というものを知った。 本物の、自由だ。 だからこそ、三井物産という会社を、迷うこともなく、やめることができた。 「もう、いやだ!」と。 あの会社では、純利益が半年ごとに、成績表のように発表される。 それでその社員の「力」が評価される。 それを知ったとき、私は、「もう、いやだ!」と。 が、もしあのままメルボルンを知らないで、日本の会社に入っていたとしたら……。 その仲間には悪いが、心底、ゾーッとする。 私はその意識もないまま、一度しかない人生を、棒に振っていた。 ●宝達(ほうだつ) 列車は、すれちがい列車を待つため、宝達(ほうだつ)という駅に停まった。 5分の停車という。 さびれた田舎町(失礼!)。 少し心配になってきた。 「羽咋市はだいじょうぶだろうか?」と。 この40年間で、それなりに発展していることを願うばかり……。 レストランもないような田舎町だったら、どうしよう? 先ほどワイフに、「和倉温泉にすればよかった」と言った。 和倉温泉へは、何度か泊まったことがある。 やはり法律相談所の所員として、その町へ行ったときのことだった。 ほかに、能登、珠洲(すず)、富来(とぎ)などなど。 能登半島で、行かなかったところはない。 夏休みになるたびに、巡回相談というので、各地に一泊ずつしながら、能登を一周した。 ……が、言うなれば、六法全書がすべての、血も涙もない、冷酷な相談員。 事務的に相談を受け、事務的に相談に答えていた。 今から思うと、そんな感じがする。 ●書生さん しかし能登はよい。 ほかの地方にはない、独特の風情がある。 その昔は、人も通わない、陸のへき地。 孤島。 金沢から富山方面へ行く人はいたかもしれない。 しかし能登まで回る人はいなかった。 だから私のようなしがない学生でも、、能登を旅すると、土地の人たちは、学生のことを、畏敬の念をこめて、「書生さん」と呼んでくれた。 そんなぬくもりが、この能登には残っている。 ●コスモアイル羽咋(UFO会館) 羽咋へ着くと、すぐ、「コスモアイル羽咋」(UFO会館)へ。 「コスモアイル?」。 「Cosmo Isle(宇宙の島)」のこと? ネーミングが悪い。 これでは記憶に残らない。 観光客も集められない。 やはりズバリ、「UFO会館」のほうが、よいのでは? が、中は、かなり見ごたえがあった。 宇宙船の展示物も立派。 すばらしい。 本気度を随所に感じた。 が、肝心のUFO影が、薄い? また3階では、プラネタリウム風の簡単な映画を見せてくれたが、こちらはガッカリ。 つまらないギリシャ神話と、ハップル望遠鏡の紹介だけ。 が、全体としては、もしあなたがUFOファンなら、一度は訪れてみる価値はある。 (日本には、ここ以外に、それらしい場所ないこともあるが……。 あの矢追純一氏が、名誉館長にもなっている。) で、今日の宿泊ホテルは、「渚ガーデンホテル」。 昨夜急に予約を入れた。 それもあって、食事の用意はできないとのこと。 で、駅前のタクシー運転手に聞くと、「ぼうぼう」という店を勧めてくれた。 「ぼうぼう」というのは、「魚」のこと。 「このあたりでは、魚一般のことを、ぼうぼうと言います」と、店の女将が教えてくれた。 その「ぼうぼう」で、夕食。 サシミの盛り合わせ、天ぷらの盛り合わせ、それと「のど黒」という魚の焼き物。 鯛の頭の入った味噌汁、ごはん、生ビール……。 しめて4300円。 安い! プラス、おいしかった。 「さすが本場!」と、ワイフも大満足。 ありがとう、「ぼうぼう様」。 ●矢追純一氏 矢追純一氏のような有名人にもなると、「私もつきあったことがある」と、名乗り出る人は、多い。 私もその1人かもしれない。 もちろん矢追氏のほうは、私のことなど忘れてしまっているだろう。 しかしこう書けば、思い出してもらえるかもしれない。 浜松で、針麻酔をしていたG先生のところで何度か会った。 東京のホテル・ニューオオタニでも、何度か会った。 UFOを目撃したと電話で伝えたとき、写真を20~30枚送ってくれた。 オーストラリア製の紙巻タバコを送ると、お返しにと、日本テレビのロゴの入ったガスライターを送ってくれた、などなど。 ほかに覚えているのは、ある事件に巻き込まれ、矢追氏がニューヨークへ逃げていったときのこと。 電話で、「ものすごい人を見つけた」と、ニューヨークから連絡をくれた。 その「ものすごい人」というのが、あのユリ・ゲラーだった。 当時はUFOディレクターというよりは、超能力ディレクターだった(「11PM」)。 一度会いたいと思っているが、私のことなど、忘れてしまっているだろう。 当時は、私も矢追氏も、若かった! あの長いトレンチコートが、どういうわけか強く印象に残っている。 あの矢追氏が、この世界で、これほどまでの人になるとは、私は夢にも思っていなかった。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2011年08月23日 19時42分48秒
|