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楽天・日記 by はやし浩司

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2011年08月23日
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●金沢

 金沢は、その昔は、学生の町だった。
どこへ行っても、学生がいた。
目だった。
私もその金沢の金沢大学の学生だった。
あの金沢城址にあった学舎で、4年間を過ごした。
が、今は、金沢大学もそこを追い出され、角間というところに移転した。
どこにでもある新制大学のひとつになってしまった。
当然のことながら、レベルも落ちた(失礼!)。

 私たちは、それを天下の愚策という。

 当時、たまたまNHKの大河ドラマで、前田利家がテーマになった。
それだけではないが、金沢城址を、金沢市は観光地にしようとした。
そのために金沢大学を、金沢城址から追い出した。
が、これは世界の常識ではない。

 世界の大都市は、市の中心部に最高学府を置く。
「知」の府を置く。
私が学んだ、メルボルン大学を例にあげるまでもない。
それがその市の誇りでもあり、シンボルにもなっている。
その学府が、町全体の知的文化を引き上げる。

札束も印刷物なら、書本も印刷物。
金沢市は、札束を選び、書本を捨てた。
その結果が、今。

 金沢市は、観光都市として、「知」を捨て、俗化した。

……私が浜松市に移り住んだとき、私はその文化性のなさに驚いた。
浜松市は、工業都市。
20年ほど前から、「音楽の町」として売り出しているが、もともとは「楽器の町」。
「音楽」と「楽器」とでは、「文学」と「印刷機」ほどのちがいがある。

 その浜松に住んで、40年。
今度は金沢に来てみると、その浜松とそれほど違わないのに、驚く。
逆の立場で驚く。
あれほど強く感じた「差」は、もうない。
浜松が文化都市になったとは思えない。
つまりその分だけ、金沢は、俗化した。

 で、肝心の観光収入は、ふえたのか?
答えは、「NO!」。
同窓生の中には、金沢市役所に勤めたのもいる。
石川県庁に入ったのもいる。
みな、今になってこう言っている。

 「まったくの失敗だった」と。

●サンダーバード13号(金沢、13:03発)

 金沢からはサンダーバード13号(特急)で、羽咋まで。
「サンダーバード」という名前がよい。
なつかしい。
が、どう考えても、北陸を走る列車らしくない。
「犀星13号」とか「犀川13号」とか。
そういう名前のほうが風情があって、よい。
どうでもよいことだが……。

 羽咋までは、40分。
学生時代には、法律相談所の所員として、毎月のように通った。
「所員」というと大げさに聞こえるかもしれないが、要するにインターンのようなもの。
大学の教授といっしょに通った。
行けば何かを思い出すだろうが、写真が何枚か、残っているだけ。
会場となったのは、どこかの神社の事務所。
その2階。
残っている写真は、その神社の前で撮ったもの。

 羽咋出身の友人もいたはず。
SH君という名前ではなかったか。

●学生時代

 金沢での学生時代は、そのあとのメルボルン大学での学生時代の陰に隠れて、記憶の中ではかすんでしまっている。
メルボルン大学での学生生活が、それほどまでに強烈だったということか。
が、こうも考える。

 もしあのまま、まじめに(?)、金沢大学を卒業し、商社マンになっていたら、私はどうなっていただろうか、と。
2年ほど前、同窓会に出たとき、「伊藤忠商事を定年まで勤めまして……」と言った友人がいた。
いっしょに入社試験に行ったことのある仲間だった。
その仲間を見ながら、私はこう思った。
「私も、ああなっていただろうな」と。

一社懸命の企業戦士。
バリバリ働いて、定年退職。
が、いくら想像力を働かせても、それ以上のことが頭に浮かんでこない。

●私は、ただのバカだった

 「今」が、つねに「結果」であるとするなら、では、金沢での4年間は、何だったのかということになる。
それはちょうどボケた老人を見るときの自分に似ている。
そんな人にも、それぞれ、自分の過去があったはず。
が、ボケると、そういう過去が、どこかへ吹き飛んでしまう。
積み重ねてきたはずの、人生の年輪が消えてしまう。

 今の私にしても、そうだ。
学生時代の私は、たしかにバカだった。
しかも、ただのバカ。
が、今の私が、そのバカから抜け出たかというと、それはない。
むしろさらにバカになったのかもしれない。
ボケ老人、一歩手前。

 となると、「金沢での4年間は、何だったのか」ということになる。
就職のための、一里塚?
そう考えることはさみしいことだが、私にかぎらず、当時の学生はみな、そう考えていた。
私たちはいつも、何かに追い立てられて生きていた。
あの4年間にしても、そうだ。
「大学へ入るのは、その先の就職のため」と。
そういう私が、「私」をつかんだのは、ほかならない、メルボルンでのことだった。

●「もう、いやだ!」

 私はあのメルボルンという町で、生まれてはじめて「自由」というものを知った。
本物の、自由だ。
だからこそ、三井物産という会社を、迷うこともなく、やめることができた。
「もう、いやだ!」と。

 あの会社では、純利益が半年ごとに、成績表のように発表される。
それでその社員の「力」が評価される。
それを知ったとき、私は、「もう、いやだ!」と。

 が、もしあのままメルボルンを知らないで、日本の会社に入っていたとしたら……。
その仲間には悪いが、心底、ゾーッとする。
私はその意識もないまま、一度しかない人生を、棒に振っていた。

●宝達(ほうだつ) 

 列車は、すれちがい列車を待つため、宝達(ほうだつ)という駅に停まった。
5分の停車という。
さびれた田舎町(失礼!)。
少し心配になってきた。
「羽咋市はだいじょうぶだろうか?」と。
この40年間で、それなりに発展していることを願うばかり……。

 レストランもないような田舎町だったら、どうしよう?
先ほどワイフに、「和倉温泉にすればよかった」と言った。
和倉温泉へは、何度か泊まったことがある。
やはり法律相談所の所員として、その町へ行ったときのことだった。
ほかに、能登、珠洲(すず)、富来(とぎ)などなど。
能登半島で、行かなかったところはない。
夏休みになるたびに、巡回相談というので、各地に一泊ずつしながら、能登を一周した。

 ……が、言うなれば、六法全書がすべての、血も涙もない、冷酷な相談員。
事務的に相談を受け、事務的に相談に答えていた。
今から思うと、そんな感じがする。

●書生さん

 しかし能登はよい。
ほかの地方にはない、独特の風情がある。
その昔は、人も通わない、陸のへき地。
孤島。
金沢から富山方面へ行く人はいたかもしれない。
しかし能登まで回る人はいなかった。

 だから私のようなしがない学生でも、、能登を旅すると、土地の人たちは、学生のことを、畏敬の念をこめて、「書生さん」と呼んでくれた。
そんなぬくもりが、この能登には残っている。

●コスモアイル羽咋(UFO会館)

 羽咋へ着くと、すぐ、「コスモアイル羽咋」(UFO会館)へ。
「コスモアイル?」。
「Cosmo Isle(宇宙の島)」のこと?
ネーミングが悪い。
これでは記憶に残らない。
観光客も集められない。
やはりズバリ、「UFO会館」のほうが、よいのでは?

 が、中は、かなり見ごたえがあった。
宇宙船の展示物も立派。
すばらしい。
本気度を随所に感じた。
が、肝心のUFO影が、薄い?

また3階では、プラネタリウム風の簡単な映画を見せてくれたが、こちらはガッカリ。
つまらないギリシャ神話と、ハップル望遠鏡の紹介だけ。
が、全体としては、もしあなたがUFOファンなら、一度は訪れてみる価値はある。
(日本には、ここ以外に、それらしい場所ないこともあるが……。
あの矢追純一氏が、名誉館長にもなっている。)

 で、今日の宿泊ホテルは、「渚ガーデンホテル」。
昨夜急に予約を入れた。
それもあって、食事の用意はできないとのこと。

 で、駅前のタクシー運転手に聞くと、「ぼうぼう」という店を勧めてくれた。
「ぼうぼう」というのは、「魚」のこと。
「このあたりでは、魚一般のことを、ぼうぼうと言います」と、店の女将が教えてくれた。

 その「ぼうぼう」で、夕食。
サシミの盛り合わせ、天ぷらの盛り合わせ、それと「のど黒」という魚の焼き物。
鯛の頭の入った味噌汁、ごはん、生ビール……。
しめて4300円。
安い!
プラス、おいしかった。
「さすが本場!」と、ワイフも大満足。

 ありがとう、「ぼうぼう様」。

●矢追純一氏

 矢追純一氏のような有名人にもなると、「私もつきあったことがある」と、名乗り出る人は、多い。
私もその1人かもしれない。
もちろん矢追氏のほうは、私のことなど忘れてしまっているだろう。
しかしこう書けば、思い出してもらえるかもしれない。

 浜松で、針麻酔をしていたG先生のところで何度か会った。
東京のホテル・ニューオオタニでも、何度か会った。
UFOを目撃したと電話で伝えたとき、写真を20~30枚送ってくれた。
オーストラリア製の紙巻タバコを送ると、お返しにと、日本テレビのロゴの入ったガスライターを送ってくれた、などなど。

 ほかに覚えているのは、ある事件に巻き込まれ、矢追氏がニューヨークへ逃げていったときのこと。
電話で、「ものすごい人を見つけた」と、ニューヨークから連絡をくれた。
その「ものすごい人」というのが、あのユリ・ゲラーだった。
当時はUFOディレクターというよりは、超能力ディレクターだった(「11PM」)。

 一度会いたいと思っているが、私のことなど、忘れてしまっているだろう。
当時は、私も矢追氏も、若かった!
あの長いトレンチコートが、どういうわけか強く印象に残っている。
あの矢追氏が、この世界で、これほどまでの人になるとは、私は夢にも思っていなかった。





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最終更新日  2011年08月23日 19時42分48秒



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