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●性欲からの解放 話を戻す。 私の脳の中に、別の「私」がいる。 それが裏から、私を操っている。 そのことは、60歳を過ぎると、よくわかるようになる。 ・・・というか、私は、55歳前後に、それがわかった。 その前後に、私は「男の更年期」というのを経験した。 医学的に実証されたものではないが、そのころ、急速に性欲の衰えを覚えた。 いや、性欲はあったが、「女体」への関心が、ほとんどゼロになった。 たとえば週刊誌に載っているようなヌード写真を見ても、どれも肉塊にしか見えなかっ た。 ときに豚の脂身(あぶらみ)のように感じたこともある。 そのときのこと。 それまでの私が、いかに性欲の奴隷であったかが、わかった。 だから私はある日、ワイフにこう言った。 「今のぼくならね、女湯にだって平気で入れるよ。裸の女の人と、湯船につかって、平気 で世間話ができるよ」と。 が、それはすがすがしいほどまでに気持のよい、解放感だった。 ●性的エネルギー(リビドー) 若い人たちに、いくらこんなことを言っても、理解されないだろう。 その渦中にある。 が、男性にしても、24時間、頭の中は「女」でいっぱいという人がいる。 そういう人にしても、自分が性欲に操られているだけとは思っていない。 自分の意思で、そうしていると思い込んでいる。 が、実際には、どの人もみな、別の脳で操られているだけ。 ついでに言えば、男がスポーツで目立ちたいと思うのも、女が化粧をするのも、別の脳に 操られているだけ。 その原点にあるのが、性的エネルギー(フロイト)ということになる。 そのエネルギーが、脳の奥深くから、・・・最近の研究によれば、視床下部あたりから、パ ルス信号として発信されているらしいが、そこから発信されている。 このことは、ほかの動物を見れば、わかる。 動物だけではない。 植物にしても、そうだ。 どの生物も、生きる目的を、種族の存続に置いている。 種族の存続にはじまり、種族の存続に終わる。 残りのもろもろの行動は、言うなれば、「雑務」のようなもの。 ●ドラマ が、だからといって、それが無駄とか、無意味とか言っているのではない。 それがあるから、人生も、また楽しい。 あの映画『タイタニック』にしても、もしジャックとローズがいなければ、ただの船の沈 没映画。 沈没再現映画。 ジャックとローズがいたから、人々を感動させ、涙を誘った。 人生も、また同じ。 私たちがもし、無機質なまま、種族の保存だけを考えて生きていたとしたら、そこからは ドラマは何も生まれない。 もちろん感動も、生まれない。 言い換えると、その「ドラマ」にこそ、生きる意味がある。 ●予期せぬ変化 先に、私は、私たちは別の脳に操られていると書いた。 それはその通りだが、その別の脳が、混乱するときがある。 たとえば別の脳が、その人の方向性を決めていたとする。 が、その方向性が、乱されたようなとき。 それが他人との接触ということになる。 「そろそろ喉が渇いてきた。台所へ行って、水を飲んでこい」と。 別の脳がそう決めていたところへ、突然、電話がかかってきた。 友人からの電話である。 「今、近くに来ているから、ちょっとそちらに寄るよ」と。 とたんあなたは、行動計画を変更する。 「あと10分で、仕事の準備を終え、居間を片づけなければならない」と。 つまりそう考えたとき、あなたは別の脳の支配から、抜け出る。 あなたはあなたとして、行動を開始する。 それを「ドラマ」という。 やがて友人がやってきて、居間のソファに座る。 友人にお茶を出し、自分もお茶を飲む。 渇いたのどを、お茶でうるおす・・・。 ついでに友人のおもしろい話を聞いて、笑う。 それが「私」ということになる。 ●生きる意味 私はEメールの署名のところに、こう書いている。 「Life is full of Dramas」と。 だれかの言葉だったが、だれの言葉だったかは、忘れた。 「人生はドラマでいっぱい」と。 で、「なぜ生きているか」と聞かれれば、私は迷わず、こう答えるようにしている。 「ドラマを残すため」と。 言い換えると、私がなぜ「私」であるかと言えば、そのドラマを残すからということに なる。 別の脳に操られるままでは、ドラマは生まれない。 そこに「私自身の意思」を注入することによって、私は「私」を取り戻すことができる。 それがドラマということになる。 さらに言い換えると、ドラマのない人生ほど、味気なく、つまらないものはない。 そのことは、10年を1日にして生きる老人、20年を1日にして生きる老人を見れば、 わかる。 意味もなく、また意味を持たせることもなく、毎日同じことを繰り返している。 そういう人生からは、ドラマは何も生まれない。 ●感動 が、ドラマにも、軽重がある。 振幅の大小と言い換えたほうが、正確かもしれない。 さらにわかりやすく言えば、感動のあるなし。 感動の大きさが、ドラマのスケールを決める。 近所の人に会い、立ち話をするのも、感動。 しかしその一方で、たとえばワールドカップで、ゴールを決めるのも、感動。 さらに言えば、喜怒哀楽の世界で、人を愛するのも、また憎むのも、これまた感動。 日々に葛藤し、もがき、苦しむのも、これまた感動。 そうした無数の感動を通して、私たちは身の回りに、ドラマを築きあげていく。 それが「私」であり、生きる意味ということになる。 ●ザマーミロ 話が繰り返しになってきたので、この話はここまで。 今もはげしい雨が、外で降っている。 雨どいからこぼれ落ちるボタボタという音は、そのまま。 気がつくと、ワイフがいつの間にか、私の横で眠っている。 動くものは、何もない。 いや、私がキーボードを叩くたびに、ペットボトルの水面が、かすかに、小刻みに揺れる。 それが蛍光灯の光を受け、チラチラと光を放つ。 ・・・こうしてものを考え、キーボードで文にしているときだけ、私は私でいられる。 別の脳に支配されない、私。 きっと別の脳は、・・・もともと人間というのは、基本的には怠け者だから、こう叫んでい るにちがいない。 「せっかくの土曜日なのだから、横になって休め」と。 が、私はあえて、それに逆らう。 逆らって、私は自分の意思で、私の文を、こうして書いている。 「ザマーミロ! お前の言いなりになってたまるか!」と。 別の脳に向かって、そう叫ぶ。 それが私にとっては、楽しい。 (はやし浩司 2011-10-22記) Hiroshi Hayashi++++++++Oct.2011+++++++++はやし浩司
最終更新日
2011年11月14日 08時29分59秒
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