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楽天・日記 by はやし浩司

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宗教問題(心の問題)

2009年07月27日
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【「私」って、何だろう?】(1)(09年6月22日記)
(意識と肉体の分離)

【菩提心】

+++++++++++++++++++++++

仏教によれば、私たちは煩悩(=欲望)のかたまり
であるという。
煩悩には、たとえば『貪(どん)』『瞋(しん)』『痴(ち)』
などがある。

『貪(どん)』というのは、「貪(むさぼ)ること」をいう。
『瞋(しん)』というのは、「激しく怒(いか)ること」をいう。
『痴(ち)』というのは、「無知なこと」をいう。
そのほかにもいろいろあるが、私たちの肉体は、これらの
煩悩に満ち溢れている。
その煩悩が、自分の内にある『菩提心』(すべての人々を愛すること)
が目覚めるのを邪魔する
世親(300~400年ごろの人、パキスタン、ペシャワール
あたりの人とされる※)が、そう説いている。

だから世親は、菩提心を呼び起こすためには、心(精神)を、
一度、肉体から切り離さなければならないと説いた(『浄土三部経』)。

+++++++++++++++++++++++++

●精神と肉体

 私は53、4歳のころ、女性に対する興味を、ほとんどなくしてしまった。
女性が、「女」として意識できなくなってしまった。
たとえばある日、テレビで相撲を見ていたときのこと。
相撲取りの胸が、たいへん美しく思えた。
「若い娘の胸より美しい」と思った。
あるいはこんなこともあった。

どこかのレストランで、写真週刊誌を読んでいたときのこと。
後半のほうに、若い女性たちのヌード写真が、たくさん載っていた。
それを見ながら、ふとこう思った。
「今まで、どうしてこんな写真に興味をもったのだろう?」と。

 で、家に帰ってワイフに、こう言った。
「あのなア、お前、今のぼくなら、混浴風呂で若い女性と肩を並べて入っても
平気だぞ」と。
それに答えて、ワイフはこう言った。
「バカねえ……。相手の女性がいやがるわよ」と。

あとでそのことを人に話すと、「男の更年期」と教えてくれた人がいた。
「初老性のうつ病の症状かも」と教えてくれた人もいた。
うつ病になると、性的な関心を失い、似たような症状が出ることがあるそうだ。
が、それはともかくも、私はそのときはじめて、……というより、思春期以来はじめて、
性欲からの解放感を味わった。
さばさばしたというよりは、どこか乾いた砂漠の中に入ったような気分だった。
心が恐ろしく軽くなったのを覚えている。

 と、同時に、それまでの私が、あまりにも性欲の奴隷だったことを知った。
ありとあらゆる面が、「女性」と結びつき、その向こうにある「性」と結びついていた。
それがそのとき、わかった。

●精神と肉体の分離

 たまたま今、私は精神と肉体の分離を、現実に経験している。
(少し、おおげさかな?)
というのも、目下、ダイエット中。
少し油断していたら、体重がいつの間にか68キロ台にまでふえていた。
そこで体重を、63キロ台に落とすことを決意。
それが今の今もつづいている。

 で、食事のとき、私はいつも自分にこう問いかけながら、食べている。
「食べたら損(そこ)ねるのか、それとも食べなければ損(そん)なのか」と。
たいへん興味深いことに、「損」という感じは、「損(そこ)ねる」とも使う。
「損(そん)」とも使う。
わかりやすく言えば、「体を損(そこ)ねるほど食べたら、かえって損(そん)」
ということになる。
 
 その食欲は、性欲とたいへんよく似ている。
腹がいっぱいになったとたん、食欲はスーッと消える。
性欲もまた同じ。

 回りくどい言い方をしたが、私たちの精神は、常に肉体からの命令によって、
左右される。
食欲にしても、性欲にしても、それらは肉体の反応でしかない。
その肉体の反応が、私たちの精神を操る。
ダイエットをしていると、それがよくわかる。

●肉体の奴隷

 が、もし肉体の反応のまま、精神が操られるとしたら……。
それが『貪(どん)』『瞋(しん)』『痴(ち)』ということになる。
ここでいう『痴』というのは、仏教でいうところの『愚痴(ぐち)』ということになる。
(日本語のグチとは、意味がちがう。
しかしグチを言う人は、基本的に愚かな人とみてよい。)

 操られるなら操られるなで構わないと、思う人も多いかと思う。
そのほうが楽しい、と。
ほしいものは、何でも手に入れる。
食べたいものは、何でも食べる。
したいことをし、行きたいところへ行く。
「それがどうして悪いことなのか」と。

が、しかしそれでは、「真理」に到達することはできない。
菩提心を目覚めさせることはできない。
世親は、それを言った。

●『瞋(しん)』

『瞋(しん)』というのは、「激しい怒り」をいう。
世親がそこまで考えて書いたかどうかは知らないが、怒りといっても、2種類ある。
原子力にたとえるのも、どこか不謹慎な感じがしないでもない。
が、原子力の使い方にも、2種類ある。
原子力発電所として、原子力を利用する方法。
もうひとつは、核爆弾として利用する方法。

 私は(怒り)を否定しない。
たとえば今、私はこうしてモノを書いているが、心の根底にあるのは、(怒り)と
言ってもよい。
社会に対する怒り、国に対する怒り、世界に対する怒り、など。
もちろん自分に対する怒りも、ある。
特定の個人に対する怒りも、ないとは言わない。
(できるだけそうしたことに、モノを書くということを利用したくないが……。)

 そうした(怒り)がなかったら、こうしてモノなど書かないだろう。
つまり私の感じている(怒り)というのは、原子力発電所の中の原子力のようなもの
である。

 これに対して、相手の襟首をつかまえ、「コノヤロー」「バカヤロー」と怒鳴りあうのは、
核爆弾の中の原子力のようなもの、ということになる。

●『痴(ち)』

 賢者からは、愚痴な人がよくわかる。
手に取るように、よくわかる。
しかし愚痴な人からは、賢者がわからない。
「自分と同じくらいだろう」くらいにしか考えない。

 同じように、自分が愚痴な人だったというのは、自分がより賢者になってみて、
はじめてわかる。
それはちょうど山登りに似ている。

 下から見たとき、それほど高くないと思っていても、登ってみると、意外と視野が
広いのに驚く。
また同時に、それまでの自分が、いかに低い位置にいたかを知る。

 さらに言えば、賢者も、愚痴な人も、相対的な(差)でしかない。
賢者の上には、さらなる賢者がいる。
愚痴な人の下には、さらなる愚痴の人がいる。
だから釈迦は、『精進(しょうじん)』という言葉を使った。
「日々に、研鑽あるのみ」「死ぬまで、研鑽あるのみ」と。

 その努力を怠ったとたん、どんな賢者でも、愚痴の世界に向かって、そのまま
まっしぐらに、ころげ落ちていく。

●『時は金なり』

 こうして私たちは、肉体は肉体とし、精神は精神として、分離する。
けっして肉体の奴隷になってはいけない。
奴隷になったとたん、自分を見失う。
見失って、貴重な時間を浪費する。

 『時は金なり』とはいうが、『時(=時間)そのものが、貴重』なのだ。
仮に今、あなたが「あなたの余命は、あと半年です」と宣告されたら、あなたは
どうするだろうか。
あなたは自分の命の短いことをのろい、悶絶するかもしれない。
しかし半年でも、10年でも、20年でも、同じではないか。
人はみな、例外なく、死に向かって、静かな行進をしつづける。
今、病気の人たちだけではない。
健康な人も、だ。

●恐怖心

 これから先については、私は想像で書くしかない。
「生きとし生けるもの、すべてに愛をもつこと」を『菩提心』というが、それが
どういうものなのかは、私にもわからない。
そこがどんな世界かも、知らない。
またそういう世界へ入っていくことに対して、恐怖心もないわけではない。

 そのことは、若いころ、インドのマザーテレサを知ったときにも感じた。
マザーテレサは、私たちのそれとは想像もつかないほど高い境地に達した人だが、
では、それがそのまま私たちの幸福感とつながるのかどうかということに、自信
がもてなかった。

 さらに具体的には、こうも考えた。
「もし私の息子の1人が、マザーテレサの弟子になりたいと言い出したら、それを
親として許すか」「許せるか」と。

 あなたなら、どうするだろうか。
それがここで私がいう、「恐怖心」ということになる。

●『菩提心』

 キリスト教では、愛を説く。
仏教では、慈悲を説く。
イスラム教というと、キリスト教とはまったく異質の宗教と考えている人は多い。
しかしキリスト教とイスラム教は、実際には、兄弟宗教と考えてよい。
この2つは、知れば知るほど、よく似ている。
もちろんイスラム教でも、愛を説く。

 これに対して、『菩提心』というのは、愛に合わせて、「智」も含まれる。
だから世親は、人間の欠陥のひとつとして、『痴』という言葉を使った。
「愛だけでは、人間は完成されない。智が伴って、はじめて人間は完成される」と。
これは私の勝手な判断によるものだが、それほどまちがっていないと思う。

 で、その『智』とは何か。
東洋医学では、(意)→(志)→(思)→(慮)→(智)と順に生み出していくと教える。
日本語にも、「意志」「思慮」という言葉がある。
「智」は、その先にある言葉ということになる。
英語では、sharp(頭が切れる)→clever(頭がよい)→wise(賢い)
というふうに使い分ける。

話はそれたが、簡単に言えば、人間は愛だけではだめ。
知性、理性がともなって、はじめて、愛は愛として光り輝く、というふうにも、
解釈できる。
世親のすごさは、一言で言えば、ここにある。

 要するに、『菩提心』というのは、心の中にある山の中でも、最高峰ということになる。
そこから見える景色は、どんなものか。
そのとき私はどんな境地に包まれるのか。
それは私にもわからないが、死ぬまでに一度は、その山に登ってみたい。
きっとすばらしい世界にちがいない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て 
Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 世親 浄土三部経 菩提心)

(注※……世親、ウィキペディア百科事典より)

『世親(せしん、サンスクリット、vasubandhu ヴァスバンドゥ、音写:婆藪般豆、婆藪
般頭、旧訳名:天親〈てんじん〉)は、古代インドの仏教僧。現在のパキスタン、ペシャワ
ールの人で、無著の弟。浄土真宗七高僧の第二祖。
初め部派仏教の説一切有部を学び、有部一の学者として高名をはせた。ところが、兄の無
着から大乗仏教を勧められ、下らない教義を聞いていたと自らの耳をそいで、瑜伽行唯識
学派に入ったといわれている。その後、唯識思想を学び体系化することに勤めた』『300
~400年ごろの人』とある。






最終更新日  2009年07月27日 06時31分03秒
2009年06月06日
●6月6日(土曜日)(June 6th)

+++++++++++++++++

ここ数日、涼しいというよりは、寒い。
ワイフは、「ダイエットをしているせいよ」とも言うが、
それにしても寒い。
4月に30度を超えた地域もあったというが、この寒さは
何か。

地球寒冷化?
……ということはありえないとしても、コタツを早々と
片づけてしまったのを、少なからず、後悔している。

+++++++++++++++++

●三途の川(フブル川)(メソポタミアの死後の世界観)

 三途の川の起源は、古くメソポタミア文明にまでさかのぼることができる(?)。
メソポタミア文明……紀元前3000~3500年。
今から5500年ほど前ということになる。
また、釈迦が誕生する3000年も前の昔のことである。

 メソポタミア文明といえば、高度に知的であったことで知られる。
同じころ中国の黄河流域では、黄河文明が栄えていた。
ともに周囲の文明(?)とは、かけ離れた文明であったことには、まちがいない。
人間の多くは、まだ火を使って食べ物を調理するいう技術すら、知らなかった。
そういう中にありながら、メソポタミアでは、天文学はもちろん、末端では
メッキ技術も手にしていたという。

 それはともかくも、三途の河に似た話が、メソポタミア文明に中にもあるというのは、
たいへん興味深い。

 学研版『天使と悪魔』によれば、こうある。

『……この地域の世界観では、まず天上には神の世界がある。
人間が住む地表の下には、アプスーと呼ばれる淡水の固まりの神が横たわっており、
その下に「不帰の国」と呼ばれる冥界、すなわち死者の国があるとされた。
つまり現界と冥界の間は、この巨大な川によって隔てられていたわけだ。
いわゆる三途の河で、その原形はすでにこの時代から存在していたのである。

 この不帰の国へ行くには、当時、この三途の川(フブル川という)を渡らねば
ならないわけだが、そのあともさらに死者の旅はつづく。
というのも、それぞれに恐ろしい門番が待機する7つの門をくぐりぬけ、さらに
不帰の国では生前の記録に基づいた審判を受けねばならない。ここまできて、
ようやく冥界に住むことを許されるのだ』(P139)と。

 どこか私たち日本人がもっている(常識?)と似ている。
言いかえると仏教が日本へ伝来する過程で、メソポタミヤ流の世界観が、それに
混入したということは、じゅうぶん考えられる。
こういう例は、たいへん多い。
たとえばあの「盆供養」という儀式にしても、アフガニスタン周辺の「ウラバン」
という儀式がそのまま中国に入り、「盂蘭盆(ウラボン)」となった。
そこから「盂蘭盆経」という偽経が生まれた。
それがそのまま日本へ入り、盆供養という儀式なった、など。
ほかにも中国や日本の仏像が、古代インドの衣服ではなく、古代ギリシャの
衣服をまとっているなども、ある。
だいたい釈迦自身は、(あの世)については、一言も触れていない(法句経)。

 それはともかくも、メソポタミアの世界観をもう一度整理してみると、こうなる。

(天上の神の世界)
   ↓
(人間が住む地表の世界)
   ↓
(アプスーと呼ばれる神の支配する淡水の世界)
   ↓
(冥界)

 人は死ねば、フブル川を渡って、冥界へ入る。
そのとき恐ろしい門番が待機する7つの門をくぐり抜けなければならない。
が、ここで出てくる、「7つ」というもの、心にひかかる。
日本でも、「七七(四九日)の供養」を重要にしている。
「恐ろしい門番」というのは、日本でできた最悪の偽経『地蔵十王経』にも通ずる。
この地蔵十王経によって、「~~回忌」という法要儀式が、日本の中に定着した。

フ~~ン?

 何か臭いぞ。
におうぞ。
おかしいぞ。
メソポタミアでそういう世界観があったとするなら、シルクロードを経て、
その世界観は、当然のことながら中国にも伝わっていたはず。
そのあと数千年を経て入ってきた仏教に、そうした世界観が混入したと考えても、
何もおかしくない。
 
 ここでもう一度、私が書いた原稿(08年9月)を、読んでみてほしい。

+++++++++++++++++++++

【堂々たる迷信】(初七日、四十九日の法要)

●地蔵十王経

「地蔵十王経」の由来については、ウィキペディア百科事典が、詳しく書いている。
難解な文章がつづくが、そのまま紹介させてもらう。

+++++++++++以下、ウィキペディア百科事典より++++++++++

仏教が中国に渡り、当地の道教と習合していく過程で偽経の『閻羅王授記四衆逆修生七往生浄土経』(略称として『預修十王生七経』)が作られ、晩唐の時期に十王信仰は成立した。また道教経典の中にも、『元始天尊説;都滅罪経』、『地府十王抜度儀』、『太上救苦天尊説消愆滅罪経』という同名で同順の十王を説く経典が存在する。

『預修十王生七経』が、一般的な漢訳仏典と際立って異なっている点は、その巻首に「成都府大聖慈寺沙門蔵川述」と記している点である。漢訳仏典という用語の通り、たとえ偽経であったとしても、建て前として「○○代翻経三蔵△△訳」のように記すのが、漢訳仏典の常識である。

しかし、こと「十王経」に限っては、この当たり前の点を無視しているのである。この点が、「十王経」類の特徴である。と言うのは、後述の日本で撰せられたと考えられる『地蔵十王経』の巻首にも、同様の記述がある。それ故、中国で撰述されたものと、長く信じられてきたという経緯がある。ただ、これは、『地蔵十王経』の撰者が、自作の経典の権威づけをしようとして、先達の『預修十王生七経』の撰述者に仮託したものと考えられている。また、訳経の体裁を借りなかった点に関しては、本来の本経が、経典の体裁をとっておらず、はじめ、礼讃文や儀軌の類として制作された経緯に拠るものと考えられている。

+++++++++++以上、ウィキペディア百科事典より++++++++++

要するに、「地蔵十王経」というのは、中国でできた偽経の上に、さらに日本でできた偽経ということ。

が、この「地蔵十王経」が、日本の葬式仏教の基本になっているから、無視できない。
たとえば私たちが葬儀のあとにする、初七日以下、四十九日の儀式など、この「地蔵十王経」が原点になっている。

+++++++++++以下、ウィキペディア百科事典より++++++++++

死者の審理は通常七回行われる。没して後、七日ごとにそれぞれ秦広王(初七日)・初江王(十四日)・宋帝王(二十一日)・五官王(二十八日)・閻魔王(三十五日)・変成王(四十二日)・泰山王(四十九日)の順番で一回ずつ審理を担当する。

ただし、各審理で問題が無いと判断された場合は次の審理に回る事は無く、抜けて転生していく事になるため、七回すべてやるわけではない。一般には、五七日の閻魔王が最終審判となり、ここで死者の行方が決定される。これを引導(引接)と呼び、「引導を渡す」という慣用句の語源となった。

七回の審理で決まらない場合も考慮されており、追加の審理が三回、平等王(百ヶ日忌)・都市王(一周忌)・五道転輪王(三回忌)となる。ただし、七回で決まらない場合でも六道のいずれかに行く事になっており、追加の審理は実質救済処置である。もしも地獄道・餓鬼道・畜生道の三悪道に落ちていたとしても助け、修羅道・人道・天道に居たならば徳が積まれる仕組みとなっている。

なお、仏事の法要は大抵七日ごとに七回あるのは、審理のたびに十王に対し死者への減罪の嘆願を行うためであり、追加の審理の三回についての追善法要は救い損ないを無くすための受け皿として機能していたようだ。

現在では簡略化され通夜・告別式・初七日の後は四十九日まで法要はしない事が通例化している。

+++++++++++以上、ウィキペディア百科事典より++++++++++

つまり人は死ぬと、7回の裁判を受けるという。

死後、七日ごとにそれぞれ、

(1)秦広王(初七日)
(2)初江王 (十四日)
(3)宋帝王(二十一日)
(4)五官王(二十八日)
(5)閻魔王(三十五日)
(6)変成王(四十二日)
(7)泰山王(四十九日)の順番で一回ずつ審理がされるという。

ただし、各審理で問題が無いと判断された場ばあいは、つぎの審理に回ることはなく、
抜けて転生していくことになるため、七回すべてやるわけではないという。

一般には、五十七日の閻魔王が最終審判となり、ここで死者の行方が決定される。これを引導(引接)と呼び、「引導を渡す」という慣用句の語源となったという(参考、引用、ウィキペディア百科事典より)。

わかりやすく言えば、最終的には、五十七目に、閻魔王が、その死者を極楽へ送るか、地獄へ送るかを決めるという。
私たちも子どものころ、「ウソをつくと、閻魔様に、舌を抜かれるぞ」とよく、脅された。

しかしこんなのは、まさに迷信。
霊感商法でも、ここまでは言わない。
もちろん釈迦自身も、そんなことは一度も述べていない。
いないばかりか、そのルーツは、中国の道教。
道教が混在して、こうした迷信が生まれた。

極楽も地獄も、ない。
あるわけがない。
死んだ人が7回も裁きを受けるという話に至っては、迷信というより、コミック漫画的ですらある。

法の裁きが不備であった昔ならいざ知らず、現在の今、迷信が迷信とも理解されず、葬儀というその人最後の、もっとも重要な儀式の中で、堂々とまかり通っている。
このおかしさに、まず私たち日本人自身が気づべきである。

「法の裁きが不備であった昔」というのは、当時の人たちなら、「悪いことをしたら地獄へ落ちる」と脅されただけで、悪事をやめたかもしれない。
そういう時代をいう。

「死」というのは、どこまでも厳粛なものである。
そういう「死」が、ウソとインチキの上で、儀式化され、僧侶たちの金儲けの道具になっているとしたら、これは問題である。
このおかしさ。
そして悲しさ。

仏教を信ずるなら信ずるで、もう一度、私たちは仏教の原点に立ち戻ってみるべきではないだろうか。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 地蔵十王経 初七日 四十九日 法要 偽経)

++++++++++++++++++

 が、さらに調べていくと、メソポタミア文明にまで、そのルーツをたどることが
できる(?)。

 「7つの門(メソポタミア)」と、「7回の審理(地蔵十王経)」。
「7」という数字は、偶然の一致なのだろうか?
私にはストーリーの内容からして、偶然の一致とは、どうしても思えない。
が、ここでは「?」としておく。

 もちろんだからといって、何も日本の仏教や宗教を否定しているのではない。
まちがっていたら、正す。
そういう姿勢こそが私は、日本の仏教がこれから先、生き残る唯一の方法だと
確信している。

 日本の仏教界のみなさん、がんばれ!

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hirosh
i Hayashi 林浩司 BW BW教室 メソポタミア 三途の川 死生観 冥界
あの世論 はやし浩司 地蔵十王経)







最終更新日  2009年06月06日 09時09分14秒
2009年01月17日
【極楽論】

● 私は極楽行き? 

ときどきこんなことを考える。
私は死んだら、極楽へ行くのだろうか。
それとも地獄へ行くのだろうか、と。

仏教の教えによれば、それを最終的に判断(ジャッジ)するのは、
あの閻魔(えんま)大王だそうだ。
中国でできたニセ経の上に、さらに日本でニセ経を塗り重ね、そういう話ができた。
今では、子どもですら、そんな話は信じない。
幼稚というか、稚拙(ちせつ)。
しかし私は、最近、閻魔大王というのは、ワイフであり、3人の息子たちではないかと
思うようになった。
それには、こんな話がある。

昨年(08年)、実兄と実母が、つづいて他界した。
そのときのこと。
私はこんなことを考えた。
「兄や母は、極楽へ行くのだろうか。それとも地獄へ行くのだろうか」と。
地獄と極楽しかないとなれば、二者択一、ということになる。
地獄と極楽の間には、中間の世界はない。
そこで兄や母のことを、あれこれと思い起こしてみる。

●善人vs悪人

1人の人間を、どう判断するか。
これはたいへん難しい問題である。
というのも、1人の人間には、いろいろな面がある。
相手によっても、印象がちがう。
年代によっても、変化する。

たとえばAさんは、若いころの母をよく知っていて、「勝気な人でした」という。
Bさんは、晩年の母をよく知っていて、「やさしくて、穏やかな人でした」という。
また他人から見た母と、私という子どもから見た母は、まったく違う。
それは善人vs悪人論とも似ている。

善人と悪人とは紙一重。
しかしまったくの善人がいないのと同じように、まったくの悪人もいない。
よく聞く話だが、死刑囚といわれる人の中には、仏様のようになる人もいるという。
さらに私という人間にしても、あるカルト教団の人たちからは、「魔王」と
呼ばれている。
その教団を攻撃する本を、何冊か書いたからである。
さらにあのK国が、日本を支配したら、この私はまっさきに処刑されるだろう。
いつもあの「将軍様」のことを、「金xx」と書いている。
拉致事件に抗議の念をこめて、そうしている。

どこをどのように見て、善人と判断し、悪人と判断するのか。
何しろ、中間がない。
「閻魔大王の仕事も、たいへんだなあ」と思う。

●私であって(私)でない部分

私は自分では、善人とは思っていない。
どちらかというと、悪人かもしれない。
少なくとも、3人の息子たちは、そう思っている。
「パパは仕事ばかりしていた」
「ママを奴隷のように使っていた」
「パパはワンマンで、ぼくたちの話を聞いてくれなかった」と。

ときどきそういう不満を、今になって私にぶつけることがある。
が、私はいつもそういうとき、こう思う。

「私は私で、懸命だったのだ」と。

息子たちに、私が生きた時代の説明をしても意味がない。
「日本は貧しかった」と言っても、その(貧しい時代)そのものを、知らない。
ボットン便所の話をしても、無駄。
息子たちにしてみれば、生まれながらにして、トイレは水洗トイレ。
それしか知らない。
ボットン便所から、水洗トイレになったときのうれしさを知らない。
だからこう言う。
「そんなのは、パパの時代の話で、ぼくたちには関係ない」と。

つまり私という人間にしても、(過去)の無数のしがらみを引きずっている。
私であって、(私)でない部分も多い。
たとえば道路にお金が落ちているのをみると、今でもさっと拾ってしまう……と思う。
(この20~30年、そういう経験がないので、わからない。)
交番へ届けようなどいう気持ちは、まず起きないだろう。
起きないから、そのジレンマの中で、迷う。
「もらってしまうべきか、それとも交番へ届けるべきか」と。
が、これとてあの戦後の、ひもじい時代を生きたからこそ身についた錆(さび)の
ようなもの。

私が悪いと思う前に、私はあの時代に、責任を求める。
あの時代が悪い。
あの戦争が悪い。

さらに私には、私の生い立ちもからんでくる。
いろいろあった。
その(あった)部分の中で、心もゆがんだ。

重罪といわれる罪を犯した犯罪者にしても、そうだ。
そういう人を、本当に悪人と言い切ってよいのか。
あるいはそう言い切れる人は、どれだけいるのか。

●息子たちが判断する

そこで私のこと。
自分で自分のことを判断するのは、難しい。
ワイフにしても、利害関係が一致しているから、難しい。
そこで、どうしても息子たち、ということになる。
私を判断するのは、息子たち。

息子たちは、(私)を、内側から見ている。
私が外の世界で隠している部分すらも、見ている。
それに人格の完成度も、今となっては、私より高い。
私が見た世界とは、比較にならないほど、広くて大きな世界も見ている。
私を、1人の親というよりは、1人の人間として見ている。

私にしても、閻魔大王などよりも、息子たちに判断(ジャッジ)されるほうが、
よほどよい。
安心できる。
仮に「地獄へ行け」と判断されても、それにすなおに従うことができる。
息子たちがそう言うなら、しかたない。
が、そこでもまた問題が起きる。

私が兄や母に地獄へ行けと言えないように、息子たちもまた、私に地獄へ行けとは
言えないだろう。
たとえ悪人であっても、だ。
それにこんなケースもある。

ある女性の話だが、若いころは、たいへん優雅で気品のある人だったという。
その女性が今は、老人施設に入居して、毎日、毎晩、怒鳴り声をあげているという。
「バカヤロー」「コノヤロー」と。
年齢は、現在、80歳を少し過ぎたところという。

こういうケースでは、どう判断したらよいのか。
その女性は、善人なのか、それとも悪人なのか。
悪人ではないとしても、そんな状態で、極楽へ入ったら、ほかの善人たちが迷惑する
だろう。







最終更新日  2009年01月17日 07時33分14秒
●地獄も極楽もない

地獄も極楽もない。
あるはずもない。
だいたい釈迦自身、一言もそんなことを言っていない。
ウソと思うなら、自分で『法句経』を読んでみることだ。
「来世」「前世」にしても、そうだ。

だからそれをもとに、善人論、悪人論を、論じても意味はない。
ただ法体系が未完成だったころなら、地獄論で悪人を脅すこともできたかもしれない。
「悪いことをすると、地獄へ落ちるぞ」と。
それでたいていの人は、黙った。
私が子どものころでさえ、そういう会話を、よく耳にした。

兄は兄として、他界した。
母は母として、他界した。
無数のドラマを残して、他界した。
よいドラマもあれば、悪いドラマもある。
今さら、そんなドラマを問題にしても意味はない。

同じように、今を生きる私たちも、できることと言えば、ただ懸命に生きるだけ。
よいことをしていると思っていても、悪いことをしていることもある。
悪いことをしていると思っていても、よいことをしていることもある。
常に結果は、あとからついてくる。
放っておいても、あとからついてくる。
だからこう思う。

地獄でも極楽でも、どちらでもよい、と。
こんな無意味なことを考えるのは、今日で最後にしたい、と。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
地獄 極楽 地獄論 極楽論 善人 悪人)



Hiroshi Hayashi++++++++JAN 09++++++++++はやし浩司

【浄土論】

神や仏も教育者だと思うとき 

●仏壇でサンタクロースに……?

 小学一年生のときのことだった。私はクリスマスのプレゼントに、赤いブルドーザーのおもちゃが、ほしくてほしくてたまらなかった。母に聞くと、「サンタクロースに頼め」と。そこで私は、仏壇の前で手をあわせて祈った。仏壇の前で、サンタクロースに祈るというのもおかしな話だが、私にはそれしか思いつかなかった。

 かく言う私だが、無心論者と言う割には、結構、信仰深いところもあった。年始の初詣は欠かしたことはないし、仏事もそれなりに大切にしてきた。が、それが一転するできごとがあった。ある英語塾で講師をしていたときのこと。高校生の前で『サダコ(禎子)』(広島平和公園の中にある、「原爆の子の像」のモデルとなった少女)という本を、読んで訳していたときのことだ。

私は一行読むごとに涙があふれ、まともにその本を読むことができなかった。そのとき以来、私は神や仏に願い事をするのをやめた。「私より何万倍も、神や仏の力を必要としている人がいる。私より何万倍も真剣に、神や仏に祈った人がいる」と。いや、何かの願い事をしようと思っても、そういう人たちに申し訳なくて、できなくなってしまった。

●身勝手な祈り

 「奇跡」という言葉がある。しかし奇跡などそう起こるはずもないし、いわんや私のような人間に起こることなどありえない。「願いごと」にしてもそうだ。「クジが当たりますように」とか、「商売が繁盛しますように」とか。そんなふうに祈る人は多いが、しかしそんなことにいちいち手を貸す神や仏など、いるはずがない。いたとしたらインチキだ。

一方、今、小学生たちの間で、占いやおまじないが流行している。携帯電話の運勢占いコーナーには、一日一〇〇万件近いアクセスがあるという(テレビ報道)。どうせその程度の人が、でまかせで作っているコーナーなのだろうが、それにしても一日一〇〇万件とは! あの『ドラえもん』の中には、「どこでも電話」というのが登場する。今からたった二五年前には、「ありえない電話」だったのが、今では幼児だって持っている。奇跡といえば、よっぽどこちらのほうが奇跡だ。

その奇跡のような携帯電話を使って、「運勢占い」とは……? 人間の理性というのは、文明が発達すればするほど、退化するものなのか。話はそれたが、こんな子ども(小五男児)がいた。窓の外をじっと見つめていたので、「何をしているのだ」と聞くと、こう言った。「先生、ぼくは超能力がほしい。超能力があれば、あのビルを吹っ飛ばすことができる!」と。






最終更新日  2009年01月17日 07時32分41秒


●難解な仏教論も教育者の目で見ると

 ところで難解な仏教論も、教育にあてはめて考えてみると、突然わかりやすくなることがある。たとえば親鸞の『回向論』。『(善人は浄土へ行ける。)いわんや悪人をや』という、あの回向論である。

これを仏教的に解釈すると、「念仏を唱えるにしても、信心をするにしても、それは仏の命令によってしているにすぎない。だから信心しているものには、真実はなく、悪や虚偽に包まれてはいても、仏から真実を与えられているから、浄土へ行ける……」(大日本百科事典・石田瑞麿氏)となる。

しかしこれでは意味がわからない。こうした解釈を読んでいると、何がなんだかさっぱりわからなくなる。宗教哲学者の悪いクセだ。読んだ人を、言葉の煙で包んでしまう。要するに親鸞が言わんとしていることは、「善人が浄土へ行けるのは当たり前のことではないか。悪人が念仏を唱えるから、そこに信仰の意味がある。つまりそういう人ほど、浄土へ行ける」と。しかしそれでもまだよくわからない。

 そこでこう考えたらどうだろうか。「頭のよい子どもが、テストでよい点をとるのは当たり前のことではないか。頭のよくない子どもが、よい点をとるところに意味がある。つまりそういう子どもこそ、ほめられるべきだ」と。もう少し別のたとえで言えば、こうなる。

「問題のない子どもを教育するのは、簡単なことだ。そういうのは教育とは言わない。問題のある子どもを教育するから、そこに教育の意味がある。またそれを教育という」と。私にはこんな経験がある。

●バカげた地獄論

 ずいぶんと昔のことだが、私はある宗教教団を批判する記事を、ある雑誌に書いた。その教団の指導書に、こんなことが書いてあったからだ。いわく、「この宗教を否定する者は、無間地獄に落ちる。他宗教を信じている者ほど、身体障害者が多いのは、そのためだ」(N宗機関誌)と。こんな文章を、身体に障害のある人が読んだら、どう思うだろうか。あるいはその教団には、身体に障害のある人はいないとでもいうのだろうか。

が、その直後からあやしげな人たちが私の近辺に出没し、私の悪口を言いふらすようになった。「今に、あの家族は、地獄へ落ちる」と。こういうものの考え方は、明らかにまちがっている。他人が地獄へ落ちそうだったら、その人が地獄へ落ちないように祈ってやることこそ、彼らが言うところの慈悲ではないのか。

私だっていつも、批判されている。子どもたちにさえ、批判されている。中には「バカヤロー」と悪態をついて教室を出ていく子どももいる。しかしそういうときでも、私は「この子は苦労するだろうな」とは思っても、「苦労すればいい」とは思わない。神や仏ではない私だって、それくらいのことは考える。いわんや神や仏をや。

批判されたくらいで、いちいちその批判した人を地獄へ落とすようなら、それはもう神や仏ではない。悪魔だ。だいたいにおいて、地獄とは何か? 子育てで失敗したり、問題のある子どもをもつということが地獄なのか。しかしそれは地獄でも何でもない。教育者の目を通して見ると、そんなことまでわかる。

●キリストも釈迦も教育者?

 そこで私は、ときどきこう思う。キリストにせよ釈迦にせよ、もともとは教師ではなかったか、と。ここに書いたように、教師の立場で、聖書を読んだり、経典を読んだりすると、意外とよく理解できる。

さらに一歩進んで、神や仏の気持ちが理解できることがある。たとえば「先生、先生……」と、すり寄ってくる子どもがいる。しかしそういうとき私は、「自分でしなさい」と突き放す。「何とかいい成績をとらせてください」と言ってきたときもそうだ。いちいち子どもの願いごとをかなえてやっていたら、その子どもはドラ息子になるだけ。自分で努力することをやめてしまう。そうなればなったで、かえってその子どものためにならない。人間全体についても同じ。

スーパーパワーで病気を治したり、国を治めたりしたら、人間は自ら努力することをやめてしまう。医学も政治学もそこでストップしてしまう。それはまずい。しかしそう考えるのは、まさに神や仏の心境と言ってもよい。

 そうそうあのクリスマス。朝起きてみると、そこにあったのは、赤いブルドーザーではなく、赤い自動車だった。私は子どもながらに、「神様もいいかげんだな」と思ったのを、今でもはっきりと覚えている。


Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司

●子どもの宗教を考える法(宗教の話は慎重にせよ!)

教師が宗教を語るとき

●宗教論はタブー 

 教育の場で、宗教の話は、タブー中のタブー。こんな失敗をしたことがある。一人の子ども(小三男児)がやってきて、こう言った。「先週、遠足の日に雨が降ったのは、バチが当たったからだ」と。そこで私はこう言った。「バチなんてものは、ないのだよ。それにこのところの水不足で、農家の人は雨が降って喜んだはずだ」と。

翌日、その子どもの祖父が、私のところへ怒鳴り込んできた。「貴様はうちの孫に、何てことを教えるのだ! 余計なこと、言うな!」と。その一家は、ある仏教系の宗教教団の熱心な信者だった。

 また別の日。一人の母親が深刻な顔つきでやってきて、こう言った。「先生、うちの主人には、シンリが理解できないのです」と。私は「真理」のことだと思ってしまった。そこで「真理というのは、そういうものかもしれませんね。実のところ、この私も教えてほしいと思っているところです」と。その母親は喜んで、あれこれ得意気に説明してくれた。が、どうも会話がかみ合わない。そこで確かめてみると、「シンリ」というのは「神理」のことだとわかった。

 さらに別の日。一人の女の子(小五)が、首にひもをぶらさげていた。夏の暑い日で、それが汗にまみれて、半分肩の上に飛び出していた。そこで私が「これは何?」とそのひもに手をかけると、その女の子は、びっくりするような大声で、「ギャアーッ!」と叫んだ。叫んで、「汚れるから、さわらないで!」と、私を押し倒した。その女の子の一家も、ある宗教教団の熱心な信者だった。

●宗教と人間のドラマ

 人はそれぞれの思いをもって、宗教に身を寄せる。そういう人たちを、とやかく言うことは許されない。よく誤解されるが、宗教があるから、信者がいるのではない。宗教を求める信者がいるから、宗教がある。だから宗教を否定しても意味がない。それに仮に、一つの宗教が否定されたとしても、その団体とともに生きてきた人間、なかんずく人間のドラマまで否定されるものではない。

 今、この時点においても、日本だけで二三万団体もの宗教団体がある。その数は、全国の美容院の数(二〇万)より多い(二〇〇〇年)。それだけの宗教団体があるということは、それだけの信者がいるということ。そしてそれぞれの人たちは、何かを求めて懸命に信仰している。その懸命さこそが、まさに人間のドラマなのだ。

●「さあ、ぼくにはわからない」

 子どもたちはよく、こう言って話しかけてくる。「先生、神様って、いるの?」と。私はそういうとき「さあね、ぼくにはわからない。おうちの人に聞いてごらん」と逃げる。あるいは「あの世はあるの?」と聞いてくる。そういうときも、「さあ、ぼくにはわからない」と逃げる。霊魂や幽霊についても、そうだ。ただ念のため申し添えるなら、私自身は、まったくの無神論者。「無神論」という言い方には、少し抵抗があるが、要するに、手相、家相、占い、予言、運命、運勢、姓名判断、さらに心霊、前世来世論、カルト、迷信のたぐいは、一切、信じていない。信じていないというより、もとから考えの中に入っていない。

 私と女房が籍を入れたのは、仏滅の日。「私の誕生日に合わせたほうが忘れないだろう」ということで、その日にした。いや、それとて、つまり籍を入れたその日が仏滅の日だったということも、あとから母に言われて、はじめて知った。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 宗教論 宗教とは 親鸞 回向論 悪人をや)


Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司






最終更新日  2009年01月17日 07時31分59秒
2008年12月27日
●信仰

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世界にはいろいろな信仰がある。
その多くは、(おかしな現象)が起きると、
それを(何かのたたり)と考え、それを
(信仰)へと結びつけていく……という
プロセスを経て生まれる。

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信仰論(宗教論ではない)を考えていて、興味深いのは、
それぞれの国の信仰は、それぞれの文化や、伝統、さらには
風土的特徴と結びついているとうこと。
とくに風土。

どこの国のどの宗教とは、ここには書けないが、ある国では、
ある季節のある時期になると、女性を中心に、おかしな症状が
現れる。

別人格になってしまい、理性のコントロールがきかなくなってしまう、など。
奇妙な動作で踊りだすこともあり、ときに村全体の女性たちが、集団で
踊りだすこともあるという。

そこでその国では、それを悪霊のたたりとして、独特の
悪霊信仰が生まれた。
そのときの動作が、ある動物のそれと似ていることから、
その国でも、その動物を信仰の中心に置いている。
ついで、その信仰から祭りが生まれ、文化や伝統も生まれている。

が、こうした症状は、精神医学の世界では、「ヒステリー」という
言葉を使って説明される。
集団で起これば、「集団ヒステリー」ということになる。
が、それぞれに原因があることが、最近、科学的につきとめられている。
(日本語でいう「ヒステリー」というときの意味とはちがい、またよく
混同されるので、最近では、精神医学の世界では、あまり使われなくなった。
以前は、同じような症状を、転換症状とか解離症状とか呼んでいた。)

たとえばその国では、冬の間、国全体が氷と雪に閉ざされ、その
国の人たちは、極端なカルシウム不足に陥る。
その結果、とくに出産直後の女性たちが、カルシウム不足による
ヒステリー症状を示すようになる。

この話と似たような現象は、日本のみならず、世界中で起きている。

(おかしな現象)が起きると、それを(何かのしわざ)と考え、それを
(信仰)へと結びつけていく。
言うなれば、(思いこみ)の世界ということになる。

こうした信仰には、当然のことながら、(教え)はない。
つまり私たちがいう、「宗教」とは、一線を画すものである。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
宗教 信仰 宗教と信仰 思い込み 迷信 信仰論 ヒステリー 集団ヒステリー)

●ただし「宗教といえども、その99%は、思い込みによるもの」(はやし浩司)。






最終更新日  2008年12月27日 07時25分34秒
●冬休み

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明日から私も冬休みに入る。
そこで決意。
毎年、ほぼ例外なく、私は冬休みが
終わるころには、運動不足が重なって、
体重がふえる。
そして休み明けに自転車に乗るのだが、
そのとき、体がそれについてこない。
ふだんなら何でもない坂道ですら、
降りて歩く。
そこで今年こそは、その愚を繰り返したくない。

……ということで、明日からではなく、
実は昨日から、運動量をふやした。
今日も、とりあえず、片道、7キロを
歩いた。
仕事の帰りはどうしようかと、今の
ところ迷っているが、たぶん、歩くことに
なるだろう。
(12月26日記)

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●映画「ワールド・オブ・ライズ(ウソの世界)」

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デュカプリオ主演の『ワールド・オブ・ライズ(ウソの世界)』を見てきた。
原題は、「Body of Lies」。
久々に迫力のあるスパイ映画を見た。
そんな感じの映画だった。
星は4つの★★★★。

ただ題名の翻訳がおかしい。
「ボデイ・オブ・ライズ」のままでよかったのではないか?
「ワールド・オブ・ライズ」というと、何かしら「ウソの博覧会」というイメージを
もってしまう。

映画は、謀略に謀略を重ねるアメリカCIAを中心に、ストーリーが展開する。
迫力はそれなりにあるが、あちこちで、「?」と思った。
私の友人にこんな人たちがいた。

1人は、メルボルン大学時代の友人で、大学を中退して、イギリスの諜報専門学校
へ転学していった。
そのまま諜報部員になるということだった。
オーストラリアの友人たちは何とも思っていなかったようだが、私は驚いた。
諜報専門学校?
日本では、そういうコースは、さがしても見つからない。

もう1人は、I国のアメリカ大使館直属の諜報部員をしていた。
同じカレッジにいたが、その友人とは、その10数年後、東京で会ったことがある。
そのときホテルに彼を訪ねると、彼は胸のホルスターに拳銃をもっていた。
それを無造作に、ベッドの上に投げ置いた。
私は驚いたが、彼にしてみれば、何でもない行為だったようだ。

現実にワールド・オブ・ライズのような世界はある。
しかし今、諜報活動といっても、スパイどうしが拳銃をバンバンと撃ちあうようなことは、
しない(?)。
諜報活動そのもののやり方が、変わってきた……と、私は思う。
何しろ、私とはまったく無縁の世界の話である。
だからこれ以上のことはわからない。
ただ映画のはじめに、「これはフィクションだが、実際にあったことに基づいている」
というような説明があったような気がする。

ありえない話ではないが、現実にあんなことがあれば、私ならたった数日で、
PTSD(心的外傷後ストレス症候群)になってしまうだろう。
再起不能の精神病患者になってしまうかもしれない。
やはりあれは、映画の世界の話ということにしておこう。


Hiroshi Hayashi++++++++Dec 08++++++++++はやし浩司

●神棚を整理する

++++++++++++++++++

先日、実家に帰って、神棚を整理してきた。
何しろ、それが3つもある。
大黒様、稲荷様、それに八幡神社の神様。
大きな神棚で、その中に神札などが、祖父母の
時代から、3代分、ぎっしりとつまっていた。

ダンボール箱に詰めかえたら、ちょうど1杯分に
なった。

その道に詳しい人に相談すると、○○神社へもっていけとか、
一度お祓(はら)いをしてもらってから、処分したらいいとか言う。

しかし、どうしたらよいものか。

++++++++++++++++++

●信仰論

神であるにせよ、仏であるにせよ、さらにキリスト教でいう神であるにせよ、
信仰は、(教え)でするもの。
モノや形でするものではない。
モノや形に拝んでも意味はない。
あの釈迦だって、「私に似せて偶像を作るな」(法句経)と教えている。

が、か弱き人間たちは、それでは自分を支えることができない。
そこかしこで偶像を立て、それに向かって信仰する。
その結果のひとつが、大黒様であり、稲荷様ということになる。
仏教でいう仏像も、その類(たぐい)かもしれない。

が、だからといって、私は、それを否定しているわけではない。
人はみな、それぞれ。
それぞれの人が、幸福を求めて、それぞれの道を歩む。
その方法はみなちがう。
心の拠(よ)り所として、それぞれの神や仏を信仰する。
それはそれとして、そっとしておいてやることこそ、大切。
「あなたはまちがっている」とか、「あなたがしていることは、おかしい」などとは、
言ってはならない。
言う必要もない。

●バチ論

私は、ずっと無神論で通してきた。
家には仏壇もなければ、神棚もなかった。
よく墓参りもしたし、初詣もした。
全国の神社や仏閣へ行けば、手を合わせて、拝んだ。
しかしそこまで。

が、今度、私の家に仏壇が入った。
それについては、前にも書いた。
が、冒頭に書いた、神棚までは考えていなかった。
そこで、ハタとどうするか、困ってしまった。
「どうしよう?」「どうしたらいい?」と。
で、その道に詳しい人に相談すると、あれこれと教えてくれた。
中には、「それをしないと、バチが当たりますよ」と言った人もいた。

しかし(バチ)などというものは、ない。
そんなことをいちいち考えている神や仏がいるとしたら、その神や仏は、
エセと考えてよい。
インチキでもよい。
よくカルト教団では、「この教団を抜けると、バチが当たる」と教えるが、
もしそうなら、その教団自体が、魔の巣窟と考えてよい。
勇気を出して遠ざかったらよい。

だいたいバチを与えるほどの、パワーがあるなら、そのパワーは、もっと
別のところに使えばよい。
常識で考えれば、そうなる。

こうしてその箱は、私の居間の隅に置かれた。
1か月、2か月と過ぎた。

●処分

で、私は私のやり方で、処分した。
その日は、午後までワイフは家にいなかった。
クラブとその忘年会で、家をあけた。

帰ってきてからワイフが、私にこう聞いた。
「あの箱は、どうしたの?」と。
私は、それに答えて、「知らない」と言った。
ついでに、「お前にはバチは当たらないから……」と。
ワイフもそれ以上のことは聞かなかった。

のどかな、白い日差しがまぶしい午後のことだった。
私は居間で茶を飲みながら、栗の木から枯れ葉が舞い落ちるのを
ぼんやりとながめていた。

祖父母や両親、それに兄には、それぞれの思いがあったことだろう。
それはわかる。
わかるが、こんなことで心を煩(わずら)わすのは、私の代でやめにしたい。
どこまでいっても、私は私。
息子たちは息子たち。
そんな私をまちがって言うというのなら、それを言う神や仏のほうがまちがっている。
先にも書いたように、そんな私にバチを与えるようなパワーがあるなら、
そのパワーを、たとえば、アフリカや中東で、戦争で苦しんでいる人たちのために
使えばよい。

繰り返すが、信仰はモノに向かってするものではない。
形でもない。
信仰は(教え)に従ってするもの。
(教え)に始まって、(教え)で終わる。
もしその(教え)がないとするなら、それこそその信仰は(イワシの頭)。

……それにしても、日本も日本だが、世界へ行くと、珍奇な宗教が多いのには、
驚かされる。
マレーシアのアモック(悪霊)信仰、マレーシアのラタ信仰、アイヌのイム信仰、
北アメリカ先住民のウェンディゴ信仰、アフリカ、ポリネシアのブードー教などなど。
それぞれの国の人たちもまた、それぞれの信仰をしながら、自分を支えている。







最終更新日  2008年12月27日 06時30分09秒
2008年11月23日
●たたり

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こんな事例があったとする。
あくまでも仮定の話だが、似たような事例は、
あなたのまわりにも、いくつかあるはず。

その家には4人の兄弟姉妹がいる。
しかしどの兄弟姉妹も、結婚まではするのだが、
そのあと、みな、離婚してしまった。
みなそれぞれ、子どもがいたが、子どもたちはみな、
相手方に手放してしまった。

(だからといって、離婚するのが悪いと言うのではない。
今どき、離婚など、珍しくも何ともない。)
平均25%の離婚率として、2人の子どもが離婚する確率は、
16分の1。
3人の子どもが離婚する確率は、64分の1。
4人の兄弟姉妹がみんな離婚する確率は、256分の1。

ふつうに生活していても、兄弟姉妹が4人とも離婚する確率は、
256分の1。
しかし実際には、離婚は兄弟姉妹間で連鎖性をもちやすいので、
うち1人が離婚すると、「私も……」「ぼくも……」となる。
離婚家庭の子どもは離婚しやすいという統計上の数字もある。

が、親は、「これは何かのたたりにちがいない」と考えて、近くの
神社の神主に頼んで、「お祓(はら)い」をしてもらった。

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悪いことが重なると、それは自分たちの理解を超えた、何かの(力)によって
そうなったと考えやすい。
これは人間が本来的にもつ、脳の欠陥のようなものと考えてよい。
(たたり)という言葉は、そういう脳の欠陥を埋め合わせるために生まれた。
しかし(たたり)などというものは、ない。
あるわけがない。
わざわざ「科学的に……」という言葉など、つけるまでもない。
バカげている。

似たようなものに、(バチ)がある。
それについても、これだけ人間が多い中で、いちいちそんなことを
気にしている神や仏がいたとしたら、そんな神や仏は、エセと考えてよい。

たとえば北極周辺に住む白熊にしても、あと半世紀足らずのうちに絶滅する
と言われている。
原因は、言わずとしれた、地球の温暖化である。
その白熊が、つぎつぎと死んでいく仲間の姿を見ながら、それを(たたり)
とか(バチ)と考えたとした、あなたはどう思うだろうか。

こんな例もある。

その家には3人の息子と娘がいる。
しかし3人とも高校へ入るころから、非行に走るようになり、3人とも、
みな高校を退学させられた。

こういうケースでは、まず疑ってみるべきは、親の育児姿勢。
(バチ)とか(たたり)に結びつけるほうが、おかしい。

さらに交通事故や大病がつづくこともある。
そうなると人は、ますます(バチ)や(たたり)を信じやすくなる。
そしてひとたびそのワナにかかると、それがずっと頭から離れなくなる。
うつタイプの人なら、そのまま、本当にうつ病になってしまうかもしれない。

ところがそういう言葉が、堂々とテレビの中で使われている。
誤解しないでほしいのは、占星術にしても、スピリチュアル(霊)にしても、
それを信ずるのは、立派なカルトであるということ。
言うなれば天下のテレビ局が、テレビという天下の公器を使って、堂々と
カルトを垂れ流している。
まず、この異常さに、みなが、気がつくべきである。

仮に(たたり)というものがあるとするなら、毎日牛肉を食べている人が、
どうして牛にたたられないのか。
仮に(たたり)というものがあるとするなら、病院の医師たちは、どうして
死んだ患者にたたられないのか。

それに(バチ)にせよ、(たたり)にせよ、常に多面性をもっている。
かなり前、1人の子ども(小5男児)がこう言った。
「昨日、遠足だったけど、雨が降ったのは、バチが当たったからだ」と。
そこで私がすかさず、「そんなのはバチではないよ。
このところの水不足で、農家の人たちは、みな喜んでいるよ」と。

……議論するのも、バカバカしい。
意見を書くのも、バカバカしい。

私も15年ほど前、ある宗教団体を攻撃する本を、何冊か書いたことがある。
そのため、その教団の信者たちが、何組か押しかけてきて、私たち夫婦を
脅かしたことがある。

「お前たちは地獄へ落ちる」とか、なんとか。

しかし結局のところ、なにも起きなかった。
もちろん地獄へ落ちることもなかった。
最初は少なからず、そういうおどしに怯(おび)えたが、
(というのも、中に、頭のおかしい人もいたので、)
今は、もう何を書いても、こわいと思ったことがない。
一連の騒動を経験して、私は、勇気と、それにものを書く
思慮を手に入れることができた。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司






最終更新日  2008年11月23日 17時17分56秒
2008年08月08日
●壮大な思いこみと迷信

++++++++++++++++++H.Hayashi

日本の仏教を、一言で言えば、壮大な思いこみと迷信。
その(かたまり)といってもよい。
もちろん(教え)は、(教え)として、ある。
しかし本当に(教え)を求め、(教え)に従っている
人は、いったいどれだけいるだろうか。

++++++++++++++++++H.Hayashi

これは信者の側の問題かもしれない。
が、(儀式)を仏教の教えと誤解している人も多い。

私の母にしても、寺では、たいへん熱心な信者として
知られていた。
ある時期は、家にいる時間よりも、寺にいる時間の
ほうが長かった。

そんな母でも、今は、信仰の「し」の字もしていない。
私の家に来たときも、そうだった。
まだ自分で何とか歩けるような状態だったが、
仏壇には、目もくれなくなった。
私は昔の母をよく知っていたので、そのときは、
そういう母を見て、本当に驚いた。

その母のばあい、信仰といっても、実にささいなことにこだわった。
仏壇にかかげる戒名札のかけ方が、少しでもおかしいとか、そういうことだった。
位置が少しでもずれていたりすると、文句をつけた。

で、今度は僧侶側の問題だが、宗派によっては、小僧の段階から
修行に修行を重ね、僧職につく僧侶もいる。
しかしそうでない僧侶のほうが、実は多い。

たいはんの僧侶は親の職業を受け継ぎ、それほど修行らしい
修行を、ほとんどしないまま、僧職に就く。
親が僧職にあるという理由だけで、だ。
こういうばあい、「会費」(?)なるものを毎年、本山へ納めれば、
僧籍を失うことはない。

私の友人(当時45歳)は、こう言った。
「俺は、失業したら、寺の坊主にでもなるよ。僧籍だけは残してあるからな」と。
驚いて私が、「おまえが坊主をするのか?」と聞くと、その友人はこう言った。
「おやじが、会費だけは払っていてくれるから」と。

宗教があるから、信者がいるのではない。
それを求める信者がいるから、宗教がある。
だから、現実がそうであるかといって、日本の仏教を
批判しても意味はない。

端的に言えば、僧侶に読経してもらわなければ、成仏できないと、
ほとんどの人は、そう思いこんでいる。
が、これなどは、まさに迷信のきわまり。
そんなことは、釈迦は、一言も言っていない。

だいたい「成仏」とは何か。
この日本では、「死んだ人は、すべて仏になる」と教える。
つまり釈迦という「仏」と、同格になるという。
大乗仏教の教えによれば、そうだ。

……と書いたところで、私は何も日本の仏教を否定しているのではない。
(批判はしているが……。)
「死」は、その人の理性や知性を乗り越えたところで、私たちを襲ってくる。
道理や合理だけで、「死」を処理できる人は少ない。
病気にしてもそうだ。
「あなたはがんです」と宣告されて、平静でいられる人は、いったい、どれだけいるだろうか。
(私も、がんを宣告されたら、かなり狼狽すると思う。)

同じように、肉親や家族、兄弟の死であれば、なおさらだ。

で、私も数日前、実の兄を亡くした。
享年、70歳(数え年)だった。
いろいろ考えるところもあった。
言いたいこともあった。
しかし私は、すべて、その地域のしきたりに、そのまま従った。
具体的には、義兄と姉の指示にすなおに従った。
(おかげでかなり派手な葬儀になってしまったが……。)

私はこう考えた。

あれこれ抵抗して波風たてるくらいなら、静かにしていたほうがよい、と。
ついでに言うなら、「どうせ意味のない儀式なのだから」と。
あのアインシュタイン博士も、そう書き残している。
「宗教というのは、100%の迷信である」(ある人物への私信)と。
しかしそれで遺族の悲しみや苦しみが、多少なりとも癒されるなら、それはそれでよいことではないか。

ただ私の兄のばあい、子どものころからいっしょに遊んだという記憶が、ほとんどない。
年齢も離れていた。
さらに晩年は、病気との闘い。
寝たきりの状態で、半年以上も過ごした。
僧侶による読経の最中、私は、こう感じた。
「兄は、孤独やさみしさ、すべてを背負って逝ってくれた」と。

だとするなら、葬儀のしかたにも、もっと別の方法があってもよいのではないのか。
大切なのは、「形」ではなく、「中身」。
が、現在の葬儀には、大きな疑問が残る。
率直に言えば、僧侶にお金を儲けさせるためだけのもの。
私の家の宗派は、たいへん良心的な宗派で、姉たちの言葉を借りるなら、
「安い」。
が、それでも、戒名に応じて、30~80万円。
寺の格式(?)に応じて、上限はない。

もちろん葬儀社への支払いもある。
その額が、100~120万円。
これとてミニマムな価格だそうだ。
少し派手な葬儀ともなると、300~500万円が相場とか。

一方、香典などによる収入は、おおむね3分の1から2分の1。
残りは、遺族個人の負担ということになる。
ただ私は、こう考えた。

「兄は生涯、健康にも恵まれず、家族や家庭にも恵まれなかった。
葬式くらい、一人前に出してやろう」と。

そのとたん、心が晴れた。
気が楽になった。

が、それにしても……。
現在、都会地域では、約30%の家族が、「直葬(ちょくそう)」という方式で、葬儀を行っているという。
「直葬」というのは、死亡した病院や施設などから、直接火葬場へ運ばれ、そこで火葬に付されることをいう。
そのあと、葬儀は個人の家で行う。
僧侶を呼ぶケースもあるそうだが、呼ばないケースもふえているという。
家族だけで、静かな(お別れ会)をして、それでおしまい。

で、遺骨は、どうするか?
今では、散骨という方法を選ぶ人も、ふえてきた。
故人の思い出の地に、遺骨をまく。

そうでなくても、それまでの介護で疲れ切っている人も多い。
介護費用もかさみ、葬式費用などどこにもないという人も多い。
中には、「親の葬式は、借金をしてでもやれ」と説く人もいる。
しかし私もその「親」だが、そんなことを息子たちには、させたくない。
私の葬式など、どうでもよい。
だから散骨でも、よい。
が、「それでは成仏できない」とは!
しかも戒名の「号」によって、差がつくだと!

もしこれが事実とするなら、日本の仏教は、根底からインチキと断言してよい。
だいたいすべてが、釈迦仏教の精神に反する!

が、(伝統)を踏襲する人たちは、まさにノーブレイン(=思考力ゼロ)。
「あの家は、こうした」
「あの宗派は、ああした」と。
それだけを金科玉条のごとくにふりかざして、それに従わない人を否定する。
攻撃する。

あとは見栄、メンツ、世間体。

つまりこういう人たちが、何も考えることなく、そのまま過去を踏襲していく。
が、これでは何も変わらない。
変わらないばかえりか、ますます仏教を儀式化してしまう。
形骸化してしまう。

どうしてみんな、もっと自分の頭で、考えないのだろう?






最終更新日  2008年08月08日 06時25分44秒
2007年10月05日
●親の悩み

 オーストラリアの別の友人のJJから、こんなメールが届いている。このところ息子(23歳)の婚約のことで悩んでいる。毎日のように、メールを交換している。今朝も、こんなメールが、届いた。

 JJが言うには、息子(SS)の婚約者(LL)と、彼のワイフ(NN)と娘(RR)との折り合いが悪いということらしい。息子の婚約者が、あからさまに、息子に、「私は、あんたのお母さんと、妹が嫌い」と言っているらしい。それで友人のJJは、その調整に苦しんでいる。これは私が何度かアドバイスしたあとの、友人からのメールである。

「Thanks for your reply.

We have essentially taken the view that you have advised.

基本的には、君の忠告に従う。

NN(his wife) in particular has spoken her mind to SS (his son) and LL(his fiancé) in her usual very frank manner. Now the engagement is announced she has decided to "step out of the picture", not interfere any more and give what support is necessary.

私の妻はいつものフランクな言い方で、息子とフィアンセには、話しかけてはいる。しかし婚約が発表されてしまった今、フィアンセは、「写真の中から飛び出した」(いい子ぶるのをやめた)ようだ。で、私は彼らにあまり干渉しないで、必要なことはする。

I don't think LL is a particularly Bad person, just that she lives on her emotions and needs all attention focused on her. Especially SS‘s. NN and RR (his daughter) are a bit more skeptical about her.

フィアンセは、とくに悪い女性ではないと思う。ただ彼女は息子の関心を自分にひきたいため、感情に任せて生きている。それで妻や妹は、彼女に懐疑的になっている。

I find I can't "connect" with LL. There is not much feeling comfortable or communicating easily with her.

フィアンセのLLとよい関係を保つことはできない。彼女といっしょにいても、私は居心地は悪いし、気が休まらない。

Let's hope they both "grow up" and see the world and particularly NN and RR in less black and white terms.

彼らが成長し、彼女がワイフや娘を、あまり白黒はっきりとした目で見ないようにするのを望むしかない。

My job is to keep talking to SS and LL and try to push them gently in the right direction. There is no particular "bust up" between them and me.

私がすべきことは、息子やフィアンセが、ワイフや娘に正しい方向でやさしく接するように、話すこと。彼らと私の間は、とくに悪いというわけではない。

Things are even more complicated though, since RR 's new boyfriend, DD, is partners with SS in a building construction business. Worse than that he is a long time friend and ex-boyfriend of LL's!!!!

が、さらに悪いことに、もっと事情は複雑。というのも、娘の新しいボーイフレンドのDDは、息子のSSの仕事仲間。そのボーイフレンドのDDは、息子のフィアンセのLLの、前のボーイフレンド!!! 長くつきあっていた。

Oh what a tangled web we weave!!!

何とからんだクモの巣を、私たちは編むことか!

JJ

JJより」

 こうしたメールの内容はともかくも、私がいつも不思議に思うのは、つぎのこと。

このJJ君にしても、日本では考えられないほど、すばらしい環境の中に住んでいる。今度新しい二階建ての家を建てたが、周囲には、ほかに家が見当たらない。少し離れたところには、小さな湖がある。もちろんそれも彼の敷地の一部である。奥さんは女医で、自分は、政府の農業指導員をしている。息子はアデレード大学を卒業し、建築技術者。娘は、今、同じ大学の医学部に通っている。そういう彼が、「どうして悩むのか?」と。

「ない人」には、ないことがわかるが、「ある人」には、あることがわからない。私から見れば、その友人は、まさに夢のような生活をしている。いや、私も若いころ、いつかオーストラリアに移住して、そんな生活をしてみたいと何度も思った。しかしその友人にしてみれば、それがふつうの生活であり、何でもない生活ということになる。だから私はこうしたメールを交換しながらも、つい、こう言いそうになる。「君たちはうらやましいような生活をしているのだから、まずそれに感謝しなければいけない。息子が多少、気に入らない女性と結婚することになっても、がまんしなければいけない」と。

  しかし、もちろん、当の本人にとっては、そうではない。深刻な問題である。私にはその「深刻さ」が、不思議でならない。

● 幸福というのは、遠くの未来にあるかぎり光彩を放つが、つかまえてみると、もう何でもない。……幸福を追っかけるなどは、言葉のうえ以外には、不可能なことなのである。(エミール・アラン「幸福語録」、1861-1951、フランスの哲学者)

アランは、「幸福などというものは、手にしたとたん、幸福ではなくなる」と。……となると、これは、そのまま私たちの問題となる。今、私は幸福でないと思っている部分は多い。しかしその中には、人もうらやむような幸福があるかもしれないということ。それについては、老子(中国、道家の根本書物、「老子道徳経」ともいう)は、こんなふうに書いている。

● 不幸は、幸福の上に立ち、幸福は不幸の上に横たわる、と。

つまり不幸があるから、幸福がわかり、幸福があるから、不幸がわかる、と。もう少しわかりやすい例では、他人の不幸を見ながら、自分の幸福を実感する人は、いくらでもいる。そういう点では、人間は残酷な生きものである。ラ・ロシェフーコ(フランス人作家)も、「われわれはみな、他人の不幸を平気で見ていられるほど、強い」(「道徳的反省」)と言っている。

これらは、いわゆる幸福相対論だが、相対論だけではすまされないところが、幸福論の、また深遠なるところである。こう書いている神学者がいる。

● ささいなことで喜びをもちうることは、子どものみではなく、不幸な者の、高貴な特権である。(リチャード・ローテ「箴言(しんげん)」、1799-1867、ドイツの神学者)

少し皮肉的な言い方だが、ローテが言っているのは、こういうことだ。

 子どもはささいなことで喜ぶ。同じように不幸な人は、身のまわりから、ささいな喜びをさがして、それを幸福とすることができる、と。つまり幸福というのは、相対的なものであると同時に、視点の違いによって、どうにでもなるということ。幸福だと思っている人でも、視点を変えてさがせば、不幸なことはいくらでもある。同じように不幸だと思っている人でも、視点を変えてさがせば、幸福なことはいくらでもある。もっと言えば、「幸福」などというものは、得体の知れないもの。さらに言えば、実体のない幻想ということになる。

 友人のメールを読みながら、その内容もさることながら、私は幸福論について、改めて考えてなおしてみた。多くの文人や哲学者たちが、人生最大のテーマとして考え、そして考えてきた「幸福論」。これで結論が出たわけではないが、今日はここまででひとつの区切りとしたい。このつづきは、また別の機会に考えてみる。

 しかしそれにしても、まずい。娘のボーイフレンドが、息子のフィアンセの、元ボーイフレンドというのは! 向こうで「ボーイフレンド」というときは、性的関係のある人をいう。日本では、こういうのを、「腐れ縁」という。こういう腐れ縁は、何かにつけてトラブルのもと。しかしこの問題だけは、親でもフタをすることはできない。言うべきことは言いながらも、あとは様子を見るしかない。まさに「何とからんだクモの巣を、私たちは編むことか!」ということになる。







最終更新日  2007年10月05日 07時47分47秒
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