000000 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【ログイン】

楽天・日記 by はやし浩司

全38件 (38件中 1-10件目)

1 2 3 4 >

幼児・子どもの心理

2009年04月11日
XML
【講演・原稿】(子どもの心の内側)

【自尊教育】

++++++++++++++++

東京都教育委員会は、今度、自尊教育を始めるそうです(09年3月)。
具体的にどのようなものか、まだわかりませんが、しかし自尊教育ほど、
簡単なものはありません。
「ほめる」。
たったそれだけのことで、子どもは、自分に対して肯定的な
評価をくだすようになります。

が、そうでない子どもが多い。
発達心理学的に言えば、「自我の同一性(アイデンティティ)」の
構築に失敗したということになります。

さらに最近では、それが大脳生理学の分野でも、証明されています。
そのカギを握るのが、辺縁系にある、扁桃核(扁桃体)ということに
なります。
「教育」でできる……というよりは、これは「家庭」の問題かな。
さらに言えば、幼児期から少年少女期への移行期(4・5~5・5歳)
における指導が重要ということになります。

それを書く前に、産経新聞の記事から抜粋させてもらいます。

+++++++++++++以下、産経新聞・090310++++++++++

 日本の子供たちは自分が嫌い-。東京都教育委員会が公立の小中学生、都立高校生を対
象に「自尊感情」について調査したところ、中高生の5~6割が「自分」を好意的にとら
えていないことが10日、分かった。日本の子供たちの自尊感情の低さは、これまでも指
摘されてきたが、自治体レベルで大規模な調査が行われたのは初めて。都教委は現状を深
刻に受け止め、「自分の存在や価値を積極的に肯定できる子供を育てる」とし、4月から小
学校で試験的に“自尊教育”を実施する。

 都教委は昨年11~12月、都内の小学生4030人、中学生2855人、高校生58
55人を対象に、自尊感情や自己肯定感をテーマにしたアンケートを行った。 

 調査結果によると、中学生では「自分のことが好きだ」との問いに、「そう思わない」「ど
ちらかというと、そう思わない」と否定的に回答した割合が、中1=57%、中2=61%、
中3=52%に上り、全学年で「そう思う」「どちらかというとそう思う」と肯定的に答え
た割合を上回った。高校生でも否定的な考えが目立ち、高1=56%、高2=53%、高
3=47%だった。

 小学生では、小1の84%が肯定的な回答をしたが、学年が上がるにつれてその割合は
低下し、小6では59%となっている。

 このほか、国内外の青少年の意識などを調査・研究している財団法人「日本青少年研究
所」の国際調査(平成14年)でも「私は他の人々に劣らず価値のある人間である」との
問いに「よくあてはまる」と回答した中学生が、アメリカ51・8%、中国49・3%だ
ったのに比べ、日本は8・8%と極端に低かった。

+++++++++++++以上、産経新聞・090310++++++++++

数字が並んでいるので、整理させてもらう。

中学生
「自分のことが好きだ」
「そう思わない」「どちらかというとそう思わない」と答えた子ども
中1……57%、
中2……61%
中3……52%

高校生でも否定的な考えが目立ち、高1……56%
高2……53%
高3……47%

小学生では、小1……84%が肯定的な回答をしたが、学年が上がるにつれてその割合は
低下し、小6では59%となっている。

++++++++++++++++++

以上の数字をまとめると、こうなります。
小学1年生では、84%が、「肯定的だが」、学年が進むと、小学6年生では、それが
59%に低下する。
さらに中学生になると、50%台、高校生になると、40%台に低下するということ。

しかしこの数字を見て私が驚いたのは、小学1年生で、84%しかいないということ。
「小学1年生で、もう84%!」と。
その入口にいる子どもですら、肯定的に自分をとらえている子どもが、84%しかいない
ということに注目してください。

しかし「自尊教育」ほど、簡単なものはないのです。
順に説明してみましょう。

+++++++++++++++++++

「私はこうありたい」「こうあるべき」という(像)を、
「自己概念」といいます。
おとなだけではなく、子どももみな、この自己概念を
描きながら生きています。

それに対して、そこに(現実の自分)がいます。
これを「現実自己」といいます。

この両者が一致した状態を、「自我の同一性が確立した状態」と
いいます。
このタイプのおとなは、(もちろん子どもも)、
外界からの誘惑に対しても、強い抵抗力を示します。
もちろん、自尊感情も強く、現実感覚もしっかりと
しています。

それについて書いたのが、つぎの原稿です。
少し余計なことも書いていますが、どうか
がまんして読んでください。


++++++++++++++++++++

●自我の同一性(アイデンティティ)の確立

●世間的自己

「自分は、こうあるべきだという私」を(自己概念)といい、「現実の私」を(現実自己)という。

 これら二つが近接していれば、その人は、落ちついた状態で、自分の道を進むことがで
きる。しかしこれら二つが遊離し、さらに、その間に超えがたいほどの距離感が生まれる
と、その人の精神状態は、きわめて不安定になる。劣等感も、そこから生まれる(フロイ
ト)。

 たとえば青年時代というのは、(こうであるべき自分)を描く一方、(そうでない自分)
を知り、その葛藤に(かっとう)に苦しむ時代といってもよい。

 そこで多くの若者は、(そうであるべき自分)に向って、努力する。がんばる。劣等感が
あれば、それを克服しようとする。しかしその(そうであるべき自分)が、あまりにもか
け離れていて、手が届かないとわかると、そこで大きな挫折(ざせつ)感を覚える。

 ……というのは、心理学の世界でも常識だが、しかしこれだけでは、青年時代の若者の
心理を、じゅうぶんに説明できない。

 そこで私は、「世間の人の目から見た私」という意味で、(自己概念)と(現実自己)に
ほかに、3つ目に、(世間的自己)を付け加える。

 「私は世俗的他人からどのように評価されているか」と、自分自身を客観的に判断する
ことを、(世間的自己)という。具体的に考えてみよう。







最終更新日  2009年04月11日 08時02分51秒
●世間的自己

 A子さん(19歳)は、子どものころから、音楽家の家で育ち、持ち前の才能を生かし
て、音楽学校に進学した。いつかは父親のような音楽家になりたいと考えていた。

 しかしこのところ、大きなスランプ状態に、陥(おち)いっている。自分より経験の浅
い後輩より、技術的に、劣っていると感じ始めたからだ。「私がみなに、チヤホヤされるの
は、父親のせいだ。私自身には、それほどの才能がないのではないか?」と。

 ここで、「父親のような音楽家になりたい」というのは、いわば(自己概念)ということ
になる。しかし「それほどの才能がない」というのは、(現実自己)ということになる。

 しかしAさんは、ここでつぎの行動に出る。自分の父親の名前を前面に出し、その娘で
あることを、音楽学校の内外で、誇示し始めた。つまり自分を取り囲む、世間的な評価を
うまく利用して、自分を生かそうと考えた。「私は、あの○○音楽家の娘よ」と。

 これは私がここでいう(世間的自己)である。

●世間体

 少し話がわかりにくくなってきたので、もう少しかみくだいて説明してみよう。

 世の中には、世間体ばかりを気にして生きている人は、少なくない。見栄、メンツに、
異常なまでに、こだわる。名誉や地位、肩書きにこだわる人も、同じように考えてよい。
自分の生きザマがどこにあるかさえわからない。いつも他人の目ばかりを気にしている。

 「私は、世間の人にどう思われているか」「どうすれば、他人に、いい人に思われるか」
と。

 そのためこのタイプの人は、自分がよい人間に見られることだけに、細心の注意を払う
ようになる。表と裏を巧みに使い分け、ついで、仮面をかぶるようになる。(しかし本人自
身は、その仮面をかぶっていることに、気づいていないことが多い。)

 これは極端なケースだが、こういう人のばあい、その人の心理状態は、(自己概念)と(現
実自己)だけは、説明できなくなる。そもそも(自己)がないからである。

●私とは……

 そこで(私)というものを考えてみる。

 (私)には、たしかに、「こうでありたいと願っている私」がいる。しかし「現実の私は
こうだということを知っている私」もいる。で、その一方で、「世間の人の目を意識した私」
もいる。

 これが(自己概念)(現実自己)、そして(世間的自己)ということになる。私たちは、
この三者のはざまで、(私)というものを認識する。もちろん程度の差はある。世間を気に
してばかりしている人もいれば、世間のことなど、まったく気にしない人もいる。

 しかしこの世間体というのは、一度それを気にし始めると、どこまでも気になる。へた
をすれば、底なしの世間体地獄へと落ちていく。世間体には、そういう魔性がある。気が
ついてみたら、自分がどこにもないということにもなりかねない。

 中学生や高校生を見ていると、そういう場面に、よく出あう。

●どちらがかっこいい?

 もう15年ほど前のことだが、ある日、1人の男子高校生が私のところへやってきて、
こう聞いた。

 「先生、東京のM大学(私立)と、H大学(私立)とでは、どっちが、カッコいいでし
ょうかね。(結婚式での)披露宴でのこともありますから」と。

 まだ恋人もいないような高校生が、披露宴での見てくれを心配していた。つまりその高
校生は、「何かを学びたい」と思って、受験勉強をしていたわけではない。実際には、勉強
など、ほとんどしていなかった。その一方で、現実の自分に気がついていたわけでもない。

 学力もなかったから、だれでも入れるような、M大学とH大学を選び、そのどちらにす
るかで悩んでいた。つまりこれが、(世間的自己)である。

●三角関係

 これら(自己概念)(現実自己)(世間的自己)の三者は、ちょうど、三角形の関係にあ
る。

 (自己概念)も(自己評価)も、それほど高くないのに、偶然とチャンスに恵まれ、(世
間的自己)だけが、特異に高くなってしまうということは、よくある。ちょっとしたテレ
ビドラマに出ただけで、超有名人になった人とか、本やCDが、爆発的に売れた人などが、
それにあたる。

 反対に(自己概念)も(自己評価)も、すばらしいのに、不運がつづき、チャンスにも
恵まれず、悶々としている人も、少なくない。大半の人が、そうかもしれない。

 さらにここにも書いたように、(自己概念)も(現実自己)も、ほとんどゼロに等しいの
に、(世間的自己)だけで生きている人も、これまた少なくない。

 理想的な形としては、この三角形が、それぞれ接近しているほうがよい。しかしこの三
角形が肥大化し、ゆがんでくると、そこでさまざまなひずみを引き起こす。ここにも書い
たように、精神は、いつも緊張状態におかれ、ささいなことがきかっけで、不安定になっ
たりする。

●子どもを見る

 そこで大切なことは、つまり親として子どもを見るとき、これら三者が、子どもの心の
中で、どのようなバランスを保っているかを知ることである。

 たとえば親の高望み、過剰期待は、子どものもつ(自己概念)を、(現実自己)から、遊
離させてしまうことに、なりかねない。子ども自身の自尊心が強すぎるのも、考えもので
ある。

 子どもは、現実の自分が、理想の自分とあまりにもかけ離れているのを知って、苦しむ
かもしれない。

 さらに(世間的自己)となると、ことは深刻である。もう20年ほど前のことだが、毎
日、近くの駅まで、母親の自動車で送り迎えしてもらっている女子高校生がいた。「近所の
人に制服を見られるのがいやだから」というのが、その理由だった。

 今でこそ、こういう極端なケースは少なくなったが、しかしなくなったわけではない。
世間体を気にしている子どもは、いくらでもいる。親となると、もっといる。子どもの能
力や方向性など、まったく、おかまいなし。ブランドだけで、学校を選ぶ。

 しかしそれは不幸の始まり。諸悪の根源、ここにありと断言してもよい。もちろん親子
関係も、そこで破壊される。

 ……と話が脱線しそうになったから、この話は、ここまで。


(つづきは、HPで)






最終更新日  2009年04月11日 08時02分24秒
2009年03月10日
【子育て・あれこれ】

●子どもの自己中心性

 子どもは、そもそも自己中心的である。ものごとを、(自分)を中心にして考える。「自分の好きなものは、他人も好き」「自分が嫌いなものは、他人も嫌い」と。

 それがさらに進むと、すべての人やものは、自分と同じ考え方をしているはずと、思いこむ。自然の中の、花や鳥まで、自分の分身と思うこともある。これを「アニミズム」(ピアジェ)という。(心理学の世界では、物活論、実念論、人工論という言葉を使って説明する。)

 しかし年齢とともに、この自己中心性は薄れ、他人の視点から見た自分をとらえることができるようになる。いわゆる(自己概念)が、確立してくる。

 その年齢は、ピアジェによれば、9~10歳以後ということだそうだが、私の経験では、もっと、早い時期ではないかと思う。個人差もあるが、すでに6歳後半には、この自己概念は、かなりはっきりしてくる。

 ところで、その自己中心性について、こんな話を聞いた。

 自分のひとり息子に、恋人ができたときのこと。その恋人について、母親が、息子に、「どうしてあんな女がいいの?」「もっといい女は、いくらでもいるでしょう」と迫ったという。これなども、自己中心性の表れとみてよい。

 その母親は、自分の視点だけで、息子の好みを誘導しようとしている。

 言いかえると、その人が話す、(好き・嫌い談議)で、その人の人格の完成度を知ることができる。

 どんなことでも自分の好みを、相手に押しつけようとする人は、それだけ人格の完成度の低い人と見てよい(EQ論)。自分からみて、いい人は、いい人であり、そうでない人は、そうでない、と。

A「あの人、かっこいいわね」
B「どこが? ぜんぜん、つまらないわよ」
A「でも、すてきよ」
B「あなた、どんな目をもっているの? あなた、おかしいわよ」と。

 この会話の中のBは、かなり自己中心性の強い人ということになる。
(はやし浩司 自己中心性 ピアジェ 物活論 実念論 人工論 自己概念 アニミズム)


●がんこ、わがまま、強引

 その自己中心性は、年齢とともに薄れるものではあるが、人によっては、姿を変えて、その人の中に、居座ることがある。

 たとえば、がんこ(他人の話を聞かない)、わがまま(自分勝手)、強引(自分の思いどおりにする)など。

 こうした性格の人は、それだけ人格の完成度の低い人とみてよい。反対に、人格の完成度の高い人は、いつも、相手の中に自分の視点をおいて、ものを考えようとする。そういうものの考え方が、極限にまで昇華された状態を、「愛」といい、「慈悲」という。

 が、この自己中心性は、そうである人には、わからない。自分が自己中心的であることにすら、気づかない。むしろ、そういう生きザマを、「個性的」と誤解する。

 この自己中心性は、自分が、その自己中心性から脱却したとき。あるいは、より自己中心的な人に出会ったとき、その反射的効果として、それを知ることができる。

 そこで重要なことは、まず自分自身の中の、自己中心性に気づくこと。

 できれば、あなたの子どもの精神的な発達度を、観察してみるとよい。子どもというのは、乳幼児期には、ものの考え方が、自己中心的である。その自己中心性を基本に、「私はどうか?」と自問してみるのがよい。「私は、どうだったか?」でもよい。

 こうして自分の自己中心性に気づく。

 もう一つの方法は、より自己中心的な人を、観察してみるというのがある。あなたのまわりにも、いるはずである。そういう人を観察しながら、「では、私はどうか?」と考えてみる。いろいろな例がある。

 ある女性(60歳くらい)は、80歳を過ぎた母親の介護をしている。要介護度2の母親だが、「デイサービスを受けるのはいやだ」と、がんばっている。

 そこでその女性が、母親にこう言ったという。「お母さん、本当に私のことを思っているなら、どうかデイサービスを受けてください。私も毎日、こうして、お母さんの介護をするのに疲れました」と。

 しかしそれでもその母親は、デイサービスに行かなかったという。行かないばかりか、その女性に対して、「私は、お前のような親孝行のいい娘をもって幸福だ」「お前は神様みたいだ」と言っているという。

 その女性はこう言った。「私の母は、自分のことしか考えていないのですね」と。

 もう一つは、こんな例だ。

 ウソのような話だが、実際にあった話である。

 あるときその夫(45歳くらい)が、自分の愛人を自宅へつれてきて、自分の妻にこう叫んだという。

 「今日から、この女も、この家に住むことになった。めんどうをみてやってくれ」と。

 それに妻が猛反発すると、その夫は、さらにこう言ったという。「ここは、オレの家だ。お前が文句を言う筋あいの話ではない。文句があるなら、この家から出て行け」と。

 まだある。

 息子が30歳そこそこで、家を購入した。その家を見て、その息子の母親は、息子にこう言ったという。「親の家を建てなおすのが、先だろ」と。

 こうした自己中心性の強い人はいくらでもいる。そういう人を見ながら、「自分はどうか」と自問を繰りかえす。そういう形で、自分の中の自己中心性を知る。

 さらに、こんな例がある。ごく最近、私にメールをくれた人である。

 その娘(28歳)が、親の反対を押し切って、駆け落ち同然にして、家を出ることになったときのこと。その母親は、その娘に、こう言ったという。

 「親を捨てて、この家を出て行くなら、裸で出て行け。お前の服も、下着も、みんな、私が買ってやったものだ。出してやった大学の学費も、全部、返せ!」と。

 自己中心的な人、つまり人格の完成度の低い人は、そういうものの考え方をする。そこであなたも、自問してみるとよい。

 あなたは、がんこではないか?
 あなたは、わがままではないか?
 あなたは、強引ではないか、と。

 自己中心性は、あなたがおとなになるために、まずあなたが克服しなければならない問題と考えてよい。
(はやし浩司 自己中心 自己中心性 ガンコ わがまま 強引)

【付記】

● 乳幼児の自己中心性

乳幼児の自己中心性は、よく知られている。

 乳幼児には、(1)物活論、(2)実念論、(3)人工論など、よく知られた心理的特徴がある。

 物活論というのは、ありとあらゆるものが、生きていると考える心理をいう。

 風にそよぐカーテン、電気、テレビなど。乳幼児は、こうしたものが、すべて生きていると考える。……というより、生物と、無生物の区別ができない。

 実念論というのは、心の中で、願いごとを強く念ずれば、すべて思いどおりになると考える心理をいう。

 ほしいものがあるとき、こうなってほしいと願うときなど。乳幼児は、心の中でそれを念ずることで、実現すると考える。……というより、心の中の世界と、外の世界の区別ができない。

 そして人工論。人工論というのは、身のまわりのありとあらゆるものが、親によってつくられたと考える心理である。

 人工論は、それだけ、親を絶対視していることを意味する。ある子どもは、母親に、月を指さしながら、「あのお月様を取って」と泣いたという。そういう感覚は、乳幼児の人工論によって、説明される。

 こうした乳幼児の心理は、成長とともに、修正され、別の考え方によって、補正されていく。しかしばあいによっては、そうした修正や補正が未発達のまま、少年期、さらには青年期を迎えることがある。
(はやし浩司 物活論 実念論 人工論 乳幼児の自己中心性)






最終更新日  2009年03月10日 11時00分51秒
2009年02月05日
【欲望と知覚】

●お金と「知覚」

++++++++++++++++++

こんな興味深い実験がある。
子どもたちにコイン(1、5、10、25、50セント)を見せ、
それを子どもたちに、紙に描かせてみたという。
すると貧しい家庭の子どもたちは、コインを実際よりも大きく描き、
裕福な家庭の子どもたちは、実際よりも小さく描いたという。
(アメリカ・心理学者のブルーナーとグッドマンの研究、出典
「心理学のすべて」(日本実業出版社))

++++++++++++++++++

●「感覚」→「知覚」→「認知」

目から入ってきた情報は、一度、大脳後頭部にある視覚野に映し出される。
言うなれば、ここがモニター画面ということになる。
が、それだけではただの映像。
心理学の世界では、これを「感覚」と呼ぶ。

その映像の中から、意味のあるものと、そうでないものを、まずよりわける。
これを心理学の世界では、「知覚」と呼ぶ。
その知覚がどういうものであるかを知りたかったら、ぼんやりと外の景色を
ながめてみればよい。

庭が見える。
木々が見える。
畑の一部も見える。
全体の景色が意味もなく、目に飛び込んでくる。

が、その庭の中で、今動くものが見えた。
鳥だ。
野生のドバトだ。

つまりこうして私たちは、ぼんやりとした映像の中から、ハトを選び出す。
そしてそれがドバトと知る。
これが「知覚」である。

が、そこで終わるわけではない。
知覚したあと、それにさまざまな思考を加える。
たとえば私はふと我に返り、庭に餌をまいてないことを知る。
2~3月は、野生の鳥たちにとっては、もっともきびしい時期。
昨日までは雨が降っていた。
私はドバトに餌をあげるのを忘れていた。
ドバトはどこか心配そうな顔をして、枝の上から庭を見つめている。
……とまあ、あれこれと考える。
これが「認知」ということになる。

文字で考えると、さらにわかりやすい。

たとえば今、私は自分の書いた文章を、パソコンのモニター上でながめている。
ぼんやりとながめれば、ただの線。
無数の線が、いろいろと交差している。
これが「感覚」。

その中から、私は「文字」を選び、順にそれを目で追っていく。
これが「知覚」。
が、そのままでは意味をもたない。
大脳の側頭部や頭頂部が、それを解読する。
意味のある文として理解しようとする。
これが「認知」。

●知覚は影響を受ける

そこで最初の実験。

同書(「心理学のすべて」)によれば、「貧しい家庭の子どものほうが、コインが大きく
見えるのは、お金に対する欲求が強いためと考えられます」(P43)とある。

知覚は欲求に左右される例として、同書は、ブルーナーとグッドマンによる実験をあげた。

で、同じような経験を、私もしている。

たとえば年中児(4~5歳児)に、「お父さんとお母さんの顔を描いてごらん」と言って、
白い紙を渡す。
私が「お父さんとお母さん」と言ったにもかかわらず、半分以上の子どもたちは、
母親のほうから描き始める。
しかもたいてい母親のほうが、父親よりも大きい。
つまり子どもにとっては、それだけ母親の存在感が大きいということになる。
このばあいは、知覚が、印象に左右されたということになる。

さらにこんなこともある……。

●性欲からの解放

話はぐんと生臭くなるが、許してほしい。

私が55歳前後のときのことだった。
(正確には年齢を覚えていない。)
あとでいろいろな人に話を聞くと、それが男の更年期症候群のひとつと知った。
つまりそのころ、私は、男性と女性の区別がつかなくなってしまった。
だからある日、ふとこう思った。
「今なら、女性と混浴風呂に入っても、平気で入れるだろうな」と。
それをワイフに告げると、ワイフはこう言って笑った。
「相手がいやがるわよ」と。

それを喜んでよいのか悪いのかは、わからない。
が、そのとき生れてはじめて、私は、「性欲からの解放」を味わった。
というのも、フロイト学説を借りるまでもなく、私たち人間は、性欲の奴隷と
いっても過言ではない。
ありとあらゆる行動や心理が、心の奥底で、性欲と結びついている。

つまり感覚として得た情報を、つぎの知覚というレベルで判断するとき、
どうしても(性欲)というものが、そこに混入してくる。
たとえば同じ母親と呼ばれる人たちでも、その美貌や雰囲気、年齢やスタイルで、
おおまかな判断をくだしてしまう。
ときに色気を感ずることもあるし、反対に、「この人は私のタイプではないな」と
思ってしまうこともある。
(居直るわけではないが、健康な男性なら、みなそうだ。)

が、そのとき、つまり性欲からの解放を味わったとき、母親たちを、女性として
ではなく、それぞれを1人の人間として見ることができるようになった。
心理学的に言えば、冷静に感覚を判断し、それを知覚につなげることができる
ようになった。
(少し、大げさかな?)

ともかくも、性欲からの解放は、悪いものではない。
そのころの私は、参観に来ている母親を、女性として意識しなくなった。
子どもたちを教えながらも、好き勝手なことを言ったり、したりすることが
できるようになった。

●体制化

さらに同書(「心理学のすべて」)によれば、感覚で得た情報は、さまざまな形で、
脳の中で処理されるという。
そのひとつが、「体制化」。
つまり「感覚が得た情報の中から、自分にとって重要な意味をもつものと、
さして意味のもたないものに選択する『体制化』も行われています」(P42)
と。

このことも、子どもの世界に当てはめてみると、理解しやすい。

たとえば小学3年生くらいに、角度というものを教えてみる。
しかし大半の子どもは、最初の段階で、すでにほとんど興味を示さない。
分度器の使い方を教えても、どこ吹く風といった感じになる。
つまりこの段階では、子どもにとって、角度などという話は、どうでもよい
ことということになる。

心理学的に言えば、子ども自身が、「さして意味のもたないもの」と判断している
ということになる。

そこで私のばあい、プラスチック(下敷き)で、10~15枚の三角形をつくり、
その三角形を見せながら、子どもたちにこう問いかける。

「この中で、一番角がツクンツクンとして、痛いところはどこかな?」と。
自分のてのひらを、その先で突き刺すしぐさをして見せる。
するととたん、子どもたちの目が輝き始める。
(痛いところ)→(角がとがっているところ)→(角)→(角度)と、頭の中で、
情報をつなげていく。
つまりそれを「自分にとって重要な情報」と位置づける。

●知覚

何気なく見ている情報だが、常に私たちは、それを脳の中で、加工している。
加工しながら、自分というものを、その中でつくりあげている。
が、それは本当に「私」によるものかというと、それは疑わしい。
冒頭にあげた実験を例にあげるまでもなく、私たちはそのつど、欲望という
エネルギーによって影響を受ける。
性欲もそのひとつだし、金銭欲もそのひとつということになる。

さてあなたも、ひとつの実験として、ここで1000万円の札束を、
紙に描いてみてはどうだろうか。
(男性であれば、女体、女性であれば、男体でもよい。)
そしてそのあと、実際の札束よりも大きく描けば、あなたは慢性的に貧困状態にある
ということになる。
そうでなければ、お金に困らない生活をしていることになる。
(男性であれば、その描いた絵で、どこにどのような不満を妻に感じているかが、
わかるかも?)

実験結果については、ブルーナとグッドマンに、責任を取ってもらう。

なお性欲からの解放について、一言。
現在私は満61歳だが、そのあと少しずつだが、再び、性差意識が呼び戻されて
きたように思う。
美しい母親を前にしたりすると、ドキッとすることが、このところよくある。
正常に戻ったというべきか、それとも再び、性の奴隷になったというべきか。
現在の私なら、たとえば混浴風呂などには、とても平然としては入れないだろう。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 感覚 知覚 認知 体制化 ブルーナー グッドマン 性の奴隷)


Hiroshi Hayashi++++++++Feb. 09++++++++++++はやし浩司






最終更新日  2009年02月05日 08時56分30秒
2008年09月05日
【今朝、あれこれ】

+++++++++++++++++

ちょうど10年前に、TOSHIBAの
Dynabook・SS・3010を買った。
値段は、24万円くらいだったと思う。

今で言う「ミニ・パソコン」。
厚さも1~1・5センチ前後しかない。

このパソコン、当初から、トラブルつづき。
画面上の位置を示すポインターが、勝手に
フラフラと動き回り、定まらない。

そこで修理に出すこと数回。
が、そのうち私のほうがあきらめてしまい、
ダマシ、ダマシ使うことに……。

小さいが、使いやすいパソコンだった。
で、今はボロボロ。
側面の塗装もはがれ、人間の年齢にたとえるなら、
60歳。

そのパソコンが、何と、生きがえった!

何の気なしに、光学マウスを接続してみた。
多分ドライバーが、光学マウス自体に組み込まれて
いたのだと思う。
確かなことはわからない。

しばらくドライバーを読み込んだあと、
あれほどトラブルつづきだった3010が、
何と、正常に作動し始めたではないか!

驚いた。
うれしかった。
古い友に再開したような気分だった。

原因は、マウス・ドライバーだった(?)。

……ということで、今日は、その3010で、
いろいろと書くことにした。

++++++++++++++++++

【廊下に落ちていたウンチ】

●妄想の種

A中学校に通う中学生(女子)が、こんな話をしてくれた。
何でも、廊下に、ウンチが落ちていたという。

ゾッ!

私「どんなウンチだったの?」
女「ポタポタと、ふつうのウンチだった」
私「で、そのウンチ、どうなったの?」
女「先生が、何かの道具をもってきて、きれいにしていた」と。

で、そのあと、だれがウンチをしたかが、話題になった。

私「きっと女の子だよ」
子「どうして?」
私「男だったら、そんなにうまく、落せないよ」
子「ハア~……?」
私「スカートだったら、うまく落せる」
子「だって、パンツは……?」
私「勝手に想像したらいい」と。

この話をしたあと、ウンチのイメージが、私の頭に
強烈に焼きついてしまった。
実際にそれを見ていれば、そういうことはなかったと思うが、
頭の中で想像したのが、まずかった。
ウンチのイメージだけが、頭の中でどんどんとふくらんでしまった。
「どんなふうにして、したんだろう?」と考えたのも、まずかった。

で、それから今日にいたるまで、もう1年近くになる。
が、その学校の前を通るたびに、そしてそのあたりで
出入りしている女子中学生を見るたびに、頭の中に、
大きなウンチが思い浮かんでくる。

どの女子中学生を見ても、「あの子かもしれない」「この子かもしれない」と。

今日も、そうだった。

たまたまそのときワイフが横にいた。
車を運転していた。
見ると、1人の女子中学生たちが、その中学校の校門を出てくるところだった。

私「あんなかわいい子が、廊下にウンチを落すのかねエ?」
ワ「あの子とは、かぎらないでしょ」
私「そうじゃないよ。あの学校には、440人の中学生が通っている。
うち、女の子は、220人。だからあのウンチの220分の1は、
あの子のものだ」
ワ「それはおかしいわよ」
私「おかしくないよ。ぼくの頭の中では、そのウンチが、巨大な
ウンチになってしまった。教室いっぱいくらいの大きさだよ」
ワ「……?」
私「220分の1にしても、犬ほどの大きさになる」と。

こういう現象を、心理学の世界では、どう説明するのだろう。
似たような現象に、被害妄想がある。
注察妄想、追跡妄想、披毒妄想、血統妄想、神格妄想……、などなど。
もちろん誇大妄想というのもある。

●妄想

となると、私のは、誇大妄想ということか。

しかしこれには、私自身の個人的な過去が、影響している。
私は子どものころ、自分の家のトイレで用を足すのが、こわくてならなかった。
トイレは、家の中でも、一番奥まったところにあった。
薄ぐらい土間の横にあった。

いつだったか、だれかに理由を聞かれたことがある。
そのときはだれにも言わなかったが、トイレの壁のシミが、私には何かのお化けの
ように見えた。
それでこわくてならなかった。

もちろんボットン便所。

小便はともかくも、大便のときは、土間に新聞紙を敷いたりして、していた。
あるいは伯父の家が近かったので、そこでしたりした。
小学生や中学生のときは、できるだけ学校でした。

つまり私はウンチにたいして、特別な思いがある。
今でも、その思いは強い。

私「だからぼくは、ウンチは苦手なんだよね」
ワ「……」
私「若いころから、ウンチの臭いをかいだだけで、たとえば性欲など、どこかへ
吹き飛んでしまった」
ワ「若い女性のウンチを見て、興奮する男性もいるという話よ」
私「ぼくのばあい、ぜったいに、それはない。相手がどんな美人でも、ウンチ
の臭いがしたら、もうだめ」
ワ「……?」と。

だから……以来、私はA中学校の女子生徒を見るたびに、先に書いたように
なってしまう。
誇大妄想といえば、誇大妄想だが、「妄想」とは、少しちがう。
いや、やっぱり妄想か?

もしそうなら、妄想の心理的メカニズムが、これで説明できる。

つまりまず強い(こだわり)が生まれる。
私のばあい、子どものころの経験がそれにあたる。
これを(妄想の種)とする。
この(妄想の種)は、そのままでは(妄想)にはつながらない。
(妄想の種)が(妄想)になるためには、何かの刺激が必要である。
生徒から聞いた、「廊下のウンチ」が、それにあたる。
その刺激が、(妄想の種)を呼び起こし、(こだわり)を増幅させる。
それがどんどんと大きくふくらんで、(妄想)になる。

そうした(妄想)は、だれでももちやすいものだが、その妄想が原因で、
通常の生活に支障をきたすようになった状態を、「被害妄想」という。

だからたとえば、その話がウンチと関係ないものであれば、私は
笑い話として、それですませたかもしれない。
たとえば10万円が落ちていたとか、あるいは下着が落ちていたとか……。
が、私は「ウンチ」という言葉に、強い関心をもってしまった。
それが妄想につながってしまった。

私「おもしろい現象だね」
ワ「何もおもしろくないわ」
私「臭い話で、ごめん」と。

+++++++++++++

(付記)

この話を教室ですると、ある男子(小5)が、「ぼくの学校でも、
同じようなことがあった」と話してくれた。

その子のばあい、授業中に、突然立って、「トイレへ行ってくる」
と言って、教室を飛び出していったのだそうだ。
が、間に合わなかった。

教室を出たところで、もらしてしまった。

こういう話を聞くと、そのもらしてしまった子どもが気の毒で
ならない。
おそらく一生、そのことを心のキズとするにちがいない。
ほかの生徒たちも、忘れない。
最悪のばあい、それによって、何かのニックネームをつけられて
しまうかもしれない。

子どもにとって(ウンチ)というのは、そういうもの。

そういうときこそ、教師による細心の指導が必要。







最終更新日  2008年09月05日 06時25分00秒
2008年03月26日
●ミラー反応(mirror phenomenon)
When a boy or girl wants to leave a learning center or a Jyuku, he or she would never say straightly “I want to quit it”. Or he or she starts speaking ill of teachers, in order to let their parents think “Stop going there.” This is a common phenomenon but recently I have found a kind of “Mirror Phenomenon” in a boy or a girl. He or she reacts badly against teachers at the same time they start speaking ill of their teachers. So I call it “Mirror Phenomenon”.

++++++++++++++++++

子どもというのは、塾や、おけいこ塾を
やめたくなっても、「やめたい」とは
言わない。

そういうときは、まず塾や、おけいこ塾の先生の
悪口を言い始める。

「教え方が悪い」
「ていねいに教えてくれない」
「先生が、サボっている」など。

親をして、「そんな塾などやめなさい」と
言わせるように、しむける。

こうした現象は、学校教育の場では、顕著に
現れる。

それについては、たびたび書いてきた。

が、最近、これとは別に、もうひとつ、
興味ある現象が起きることを発見した。
称して、「ミラー反応」。

子どもというのは、親をして、そういう
ふうに思わせる一方、今度は、先生当人に
対しては、ぞんざいな態度を示すようになる。

子どもなりに、一貫性を保とうとするわけ
である。

つまり、親には、先生の悪口を言いながら、
その一方で、先生に対しては、「私も親も
怒っている」という様子をして、見せる。

だから、ミラー反応。

先生に対して、反抗的になる。
つっぱったしぐさを、して見せる。
言い方が乱暴になる。
先生の指示に従わなくなる。
すなおさが、消える、など。

つまりこういうプロセスを経て、子どもは、
塾や、おけいこ塾を去っていく。

このタイプの子どもは、(親もそうだが)、
あたかも教室を蹴飛ばすかのようにして
去っていくので、それがわかる。

親は、子どもの言い分のみを、一方的に
信じてしまう。

で、このタイプの子どもが、もっとも
恐れるのは、先生と親が直接対話をすること。

「一度、お母さんと話がしたい」などと
言ってみると、それがわかる。

ああでもない、こうでもないという理由を
並べて、取りあってくれない。

「お母さんは、仕事をしている」(ウソ!)
「夜は、おばあちゃんの家に行っている」(ウソ!)
「携帯電話の番号は知らない」(ウソ!)と。

「電話をかけてもいいか」と言って、受話器を
取ったとたん、それに飛びかかってきた子ども
(小5女児)もいた。

『子どもを信じる』ことは、大切なことだが、
ことこういうケースでは、まず子どもを疑って
みること。

で、私のばあい、こうしたケースを毎年の
ように経験している。
だから、その流れが、おおまかにわかる。

(1) まず私に対して、反抗的になる。理由は、
いろいろあるのだろうが、この時期の子どもの心理は、
かなり複雑。

過負担、親の過剰期待、過干渉などが、子どもの
心をゆがめることもある。
それに家庭事情が、からんでくる。

外からでは、理由は、わからない。

(2) 親に対して悪口を言い始める。
悪口の内容は、さまざま。かなり知的な操作をするので、
親には、それが見抜けない。

反対に、「私は、もっと勉強したい」「あの教室では
勉強できない」などと言うこともある。

親の態度が、ぐんと冷ややかになることもある。

(3) 親から連絡がある。
子どもの言い分だけを聞いているから、いつも
一方的。

先にも書いたように、「蹴飛ばすようにして」やめていく。
たがいの(あいさつ)すら、ないことも多い。
子どもが、そういうふうになるよう、しむけてしまう。

……ということは、何も珍しい現象ではない。
たいへんよくある現象と言っても、よい。

若いころは、それなりに気にしたが、今は、ちがう。
年の功というか、(フン)と笑って、それで
すますことができる。

ときに、「なかなか、やるなあ」と感心することもある。

というのも、この年齢になると、おかしなことだが、
子どもも、親も、同年齢に見えるようになる。
子どもだから、親より劣っているというふうには、
見えない。
親だから、子どもよりすぐれているとも、これまた
見えない。

親に説明して、誤解を解いたところで、どうこうなる
問題ではない。
その時点で、子どもの心は、すでに私から離れて
しまっている。

だからこういうミラー反応を子どもが示し始めた
ときには、私は、こう言うようにしている。

「ここ(=私の教室)をやめたかったら、やめたいと
先生(=私)に話してよ。お父さんとお母さんに、うまく
話してあげるから」と。

ほとんどのばあい、それに応ずる子どもはいない。
いないが、そういうふうに、こちらが一歩、退いて、
話をする。

子どもを追い込むのだけは、私は、避けたい。

++++++++++++++++++++

8年前に書いた原稿を、そのまま載せる。
(中日新聞、発表済み)

++++++++++++++++++++

●単純でない子どもの心

 ある朝、通りでAさんとすれ違ったとき、Aさんはこう言った。「これから学校へ抗議に行くところです」と。話を聞くと、こうだ。「うちの息子(小4)の先生は、点の悪い子どものテストは、投げて返す。そういうことは許せない」と。しかし本当にそうか?

 子どもは塾などをやめたくなっても、決して「やめたい」とは言わない。そういうときはまず、先生の悪口を言い始める。

「まじめに教えてくれない」「えこひいきする」「授業中、居眠りをしている」など。

つまり親をして、「そんな塾ならやめなさい」と思うようにしむける。ほかに、学校の先生に、「今度、君のお母さんに、全部、本当のことを話すぞ」と脅かされたのがきっかけで、学校の先生の悪口を言うようになった子ども(小3女児)もいた。

その子どもはいわば先手を打ったわけだが、こうした手口は、子どもの常套手段。子どもの言い分だけを聞いて真に受けると、とんでもないことになる。こんな例もある。

 たいていの親は「うちの子はやればできるはず」と思っている。それはそうだが、しかし一方で、この言葉ほど子どもを苦しめる言葉はない。B君(中1)も、その言葉で苦しんでいるはずだった。そこである日私は、B君にこうアドバイスした。

「君の力は君が一番よく知っているはずではないか。だったら、お父さんに正直にそう言ったらどうか」と。

しかしB君は、決してそのことを父親に言わなかった。言えば言ったで、自分の立場がなくなってしまう。B君は、親に「やればできるはず」と思わせつつ、いろいろな場面で自分のわがままを通していた。あるいは自分のずるさをごまかすための、逃げ口上にしていた。

 子どもの心だから単純だと考えるのは、正しくない。私の教育観を変えた事件にこんなのがある。幼稚園で教師になったころのことである。

 Kさん(年長児)は静かで目立たない子どもだった。教室の中でも自分から意見を発表するということは、ほとんどなかった。が、その日は違っていた。Kさんの母親が授業参観にきていた。Kさんは、「ハイ!」と言って手をあげて、自分の意見を言った。そこで私は少し大げさにKさんをほめた。ほめてほかの子どもたちに手を叩かせた。

と、そのときである。Kさんがスーッと涙を流したのである。私はてっきりうれし泣きだろうと思ったが、それにしても合点がいかない。そこで教室が終わってから、Kさんにその理由を聞いた。するとKさんはこう言った。「私がほめられたから、お母さんが喜んでいると思った。お母さんが喜んでいると思ったら、涙が出てきちゃった」と。Kさんは、母親の気持ちになって、涙をこぼしていたのだ!

 さて話をもとに戻す。Aさんは、「テストを投げて返すというのは、子どもの心を踏みにじる行為だ」と息巻いていた。が、本当にそうか? 先生とて、時にふざけることもある。その範囲の行為だったかもしれない。子どもを疑えということではないが、やり方をまちがえると、この種の抗議は、教師と子どもの信頼関係をこなごなに砕いてしまう。

私はAさんのうしろ姿を見送りながら、むしろそちらのほうを心配した。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist ミラー反応 ミラー現象 先生の悪口を言う子ども 教師の悪口を言う子ども)






最終更新日  2008年03月26日 07時43分57秒
2008年03月20日
●悲しき子どもの心
There was a child treated by mother cruelly….

母親に虐待されている子どもがいる。で、そういう子どもを母親から切り離し、施設に保護する。しかしほとんどの子どもは、そういう状態でありながらも、「家に帰りたい」とか、「ママのところに戻りたい」と言う。それを話してくれた、K市の小学校の校長は、「子どもの心は悲しいですね」と言った。

 こうした「悲しみ」というのは、子どもだけのものではない。私たちおとなだって、いつもこの悲しみと隣りあわせにして生きている。そういう悲しみと無縁で生きることはできない。家庭でも、職場でも、社会でも。

 私は若いころ、つらいことがあると、いつもひとりで、この歌(藤田俊雄作詞「若者たち」)を歌っていた。

 ♪君の行く道は 果てしなく遠い
  だのになぜ 歯をくいしばり
  君は行くのか そんなにしてまで

 もしそのとき空の上から、神様が私を見ていたら、きっとこう言ったにちがいない。「もう、生きているのをやめなさい。無理することはないよ。死んで早く、私の施設に来なさい」と。しかし私は、神の施設には入らなかった。あるいは入ったら入ったで、私はきっとこう言ったにちがいない。「はやく、もとの世界に戻りたい」「みんなのところに戻りたい」と。それはとりもなおさず、この世界を生きる私たち人間の悲しみでもある。

 今、私は懸命に生きている。あなたも懸命に生きている。が、みながみな、満ち足りた生活の中で、幸福に暮らしているわけではない。中には、生きるのが精一杯という人もいる。あるいは生きているのが、つらいと思っている人もいる。まさに人間社会というワクの中で、虐待を受けている人はいくらでもいる。が、それでも私たちはこう言う。「家に帰りたい」「ママのところに戻りたい」と。

今、苦しい人たちへ、
いっしょに歌いましょう。
いっしょに歌って、助けあいましょう!

 若者たち

             
       君の行く道は 果てしなく遠い
       だのになぜ 歯をくいしばり
       君は行くのか そんなにしてまで

       君のあの人は 今はもういない
       だのになぜ なにを探して
       君は行くのか あてもないのに

       君の行く道は 希望へと続く
       空にまた 陽がのぼるとき
       若者はまた 歩きはじめる

       空にまた 陽がのぼるとき
       若者はまた 歩きはじめる

            作詞:藤田 敏雄

 そうそう、学生時代、NW君という友人がいた。10年ほど前、くも膜下出血で死んだが、円空(えんくう・17世紀、江戸初期の仏師)の研究では、第一人者だった。その彼と、金沢の野田山墓地を歩いているとき、私がふと、「人間は希望をなくしたら、死ぬんだね」と言うと、彼はこう言った。「林君、それは違うよ。死ぬことだって、希望だよ。死ねば楽になれると思うのは、立派な希望だよ」と。

 それから35年。私はNW君の言葉を、何度も何度も頭の中で反復させてみた。しかし今、ここで言えることは、「死ぬことは希望ではない」ということ。今はもうこの世にいないNW君に、こう言うのは失敬なことかもしれないが、彼は正しくない、と。何がどうあるかわからないし、どうなるかわからないが、しかし最後の最後まで、懸命に生きてみる。そこに人間の尊さがある。生きる美しさがある。だから、死ぬことは、決して希望ではない、と。

……いや、本当のところ、そう自分に言い聞かせながら、私とて懸命にふんばっているだけかもしれない……。ときどき「NW君の言ったことのほうが正しかったのかなあ」と思うことがこのところ、多くなった。今も、「若者たち」を歌ってみたが、三番を歌うとき、ふと、心のどこかで、抵抗を覚えた。「♪君の行く道は 希望へと続く……」と歌ったとき、「本当にそうかなあ?」と思ってしまった。
(02-11-20)







最終更新日  2008年03月20日 10時31分41秒
2008年03月17日
●モノで釣る(Tempted by a Thing)
It is a kind of taboo to tempt children by a thing, which he or she wants to get, while we are teaching. But it is sometimes very efficient to make them calm or to educe his or her self-control ability.

++++++++++++++++

ADHD児と呼ばれる子どもは、
たとえばカルタ取りのようなゲームが苦手。
集中力そのものが、つづかない。

一方、こんなこともある。

同じように騒がしい子どもでも、
時と場合によって、静かに落ち着くという
のであれば、ADHD児ではない。

ADHD児は、定例的に騒ぐ。
強く制止しても、その瞬間だけの効果しかない。

簡単な見分け方としては、(モノで釣る)
という方法がある。

この方法は、教育の世界では、邪道という
ことになっている。

私もそれを認める。
しかし子どもによっては、自己管理能力を
引き出すには、たいへん効果的な方法で
あることも事実。

この方法によって、子どもの自己管理能力を
引き出すことができる。

こんなことがあった。

T君(小2)という騒々しい子どもがいた。
父親はADHD児ではないかと、悩んでいた。
しかしADHD児ではなかった。

私たちの世界では、「あなたの子どもはADHD児です」
と、診断するのは、タブー。

しかし「ADHD児ではないと思います」と
言うのは、自由。

私はT君の父親に、こう言った。
「ADHD児ではないと思います」と。
それには、理由がある。

ある日のこと。
T君が、テーブルの上にあるミニカーを目ざとく見つけて、
こう言った。「ほしい!」と。

T君は、ミニカーを集めていた。

しかしこういうとき、子どものほしがるものを、
すぐに与えてはいけない。
しばらく、子どもをじらす。じらしながら、こう
言う。

「じゃあ、今日のレッスンで、一度も注意されなければ、
このミニカーをあげる。どうだ?」と。

T君は、その取り引きに応じた。

いつもならワイワイと騒ぐ。ときに教室中を、
ひっくり返してしまうこともある。

が、その日は、別人のようにまじめに(?)、
私の指示に従った。

つまりADHD児なら、こういうことはありえない。
ADHD児は、先にも書いたように、
自己管理能力を超えたところで、暴れたり、騒いだりする。

だからT君の父親には、こう言った。
「T君は、ADHD児ではないと思います」と。

子どもをモノで釣るのはよくない。
しかし時と場合によっては、効果的である。
さらに言えば、小学2~3年にかけて、
自己管理能力が、急速に発達してくる。

現実検証能力というか、自己認識能力というか、
自分を客観的にながめ、判断する能力が、
急速に発達してくる。

この時期をうまくとらえると、ADHD児であっても、
急速に落ち着いてくる。

その力を引き出すためにも、(モノで釣る)という
方法は、時と場合によっては、有効である。

その一例として、T君のことを記録しておく。

(付記)

この指導には、こんな余談がある。
レッスンのあと、T君にミニカーを渡すと、
ほかの子どもたちが騒いだ。
「どうしてT君にだけ、ミニカーをあげるのか」と。

実は、その数だけ、私はミニカーをほかに用意しておいた。
私は引き出しからミニカーを取り出すと、
それをほしいと言う子ども全員に、ミニカーをあげた。

こういう配慮も、必要である。








最終更新日  2008年03月17日 06時19分37秒
2007年11月23日
【三つ子の魂、百まで】

●乳児の善悪判断

+++++++++++++

乳児にも善悪判断ができると
いう。

そんなおもしろい研究結果が、
ヤフー・ニュースに載って
いた。そのまま紹介させて
もらう。

+++++++++++++

(時事通信・11・23)

生後6か月の赤ちゃんも善悪を区別し、道徳的な判断もできる……。22日付の英紙デーリー・テレグラフによると、アメリカ・エール大学のカイリー・ハムリン氏らの研究チームがこうした実験結果を明らかにした。

3つ子ならぬ「6か月児の魂も、100まで」ということになる。

 同紙によると、実験では12人の6か月の赤ちゃんに、

(1)丸いおもちゃ「クライマー」が丘を上ろうとするが、失敗する。
(2)三角のおもちゃ「ヘルパー」が、クライマーを丘の上まで押し上げる。
(3)四角のおもちゃがクライマーを、丘の下まで押し戻す……という3つの映像を見せた。

その後、赤ちゃんにおもちゃを選ばせると、全員が三角に「好意」を示したという。

+++++++++++

 この中で、「三つ子の魂、百まで」を読んだとき、30年前に、私が書いた記事のことを思い出した。

 当時、『幼児のがくしゅう』(学研)という雑誌があった。その雑誌の付録に小冊子があって、それにコラムを書かせてもらっていた。

 その中で、私は、この『三つ子の魂、百まで』について書いた。内容はともかくも、この『三つ子の魂、百まで』という格言が、「差別にあたる」というのだ。雑誌が発行されたあと、ある団体から、猛烈な抗議を受け取ったのを覚えている。

 いわく、「三つ子までに性格が決まるというなら、3歳まで、不幸にして不幸な乳幼児期を過ごした子どもは、その後、立ちなおることはできないというのか。その後の努力で、立派に更生した人も多い」と。

 抗議の内容はよく覚えていないが、当時は、まだそういう時代だった。雑誌といっても、姉妹紙の『なかよしがくしゅう』と合わせて、月に、40~50万部も売れていた。影響力も大きかった。

 で、しばらく……というより、40代に入って自分の本を書くまで、私は、意識的に、この格言を避けてきた。が、今では、ここで見るまでもなく、同じ格言が、堂々と使われている。

 ……となると、あのときのあの抗議は、いったい、何だったのかということになる。一部の団体の、一部の人たちの過剰反応だったのか?

 この『三つ子の魂、百まで』について書いた原稿を、ここに添付する。

+++++++++++++

●飼い犬考察(「自分」発見のために)

 私は二匹の犬を飼っている。一匹は保健所で処分される寸前のものを、もらってきた犬。これをA犬とする。もう一匹は、親の愛をたっぷり受け、愛情豊かな家庭で生まれた犬。これをB犬とする。これらA犬とB犬は、まったく性格が違う。

 まずA犬。静かでおとなしい。いつも人の顔色ばかりうかがっている。私の家に来て、一二年にもなろうというのに、いまだに私たちの見ているところでは、餌を食べない。愛想はいいが、決して心を許さない。その上、ずる賢く、庭の門をあけておこうものなら、すぐ遊びに行ってしまう。そして腹が減るまで、戻ってこない。もちろん番犬にはならない。見知らぬ人が庭の中に入ってきても、シッポを振ってそれを喜ぶ。

 一方B犬は、態度が大きい。寝そべっているところに近づいても、知らんぷりして、そのまま寝そべっている。庭で放し飼いにしているのだが、一日中、悪さばかりしている。おかげで植木鉢は全滅。小さな木はことごとく、根こそぎ抜かれてしまった。しかしその割には、人間には忠実で、門をあけておいても、外へは出ていかない。見知らぬ人が入ってこようものなら、けたたましく吠える。

 人間も犬と同じと言ったらいいのか、あるいは犬も人間と同じと言ったらいいのか、同じようなことが人間の子どもにも観察される。いろいろ誤解を生ずるので、ここでは詳しく書けないが、性格というのは、一度できあがると、その後、なかなか変わらないということ。

A犬は、人間にたとえるなら、育児拒否、無視、冷淡を経験した犬だ。心に大きなキズを負っている。一方B犬は、愛情豊かな家庭で、ふつうに育った。一見、愛想は悪いが、人間に心を許している。だから、そういうことができる。つまり人間を信頼している。幸福か不幸かということになれば、A犬は不幸な犬だし、B犬は幸福な犬だ。

 人間も成長とともに、自分のことがよくわかってくると、自分という人間が、遠い昔にできあがったということがわかる。高校生や中学生のときではない。もっと前だ。小学生のときでもない。しかし四、五歳を境に急激に記憶が薄れていく。ちょうどモヤのかかった闇に吸い込まれていくように、記憶が薄れていく。

つまりそれから以前は、はっきりしない。「自分」という人間は、どうやらそのあたりで完成したようだ、と。「だから幼児教育は重要だ」と、ここで書けば、私が犬の話を持ちだした意図が、見え見えになってしまう。事実、その通りだと思うが、しかしあまりにもはっきりとそう書くと、この世の中、反発を買う。「三つ子の魂、百まで」と書くだけでも、抗議が殺到する。だからどう書いたらいいのか、わからないが、そういうことだ。

 ただ人間の場合、経験や知識で、自分の姿を客観的に見ることができる。そして自分の努力で、自分自身を変えることができる。私はそういう可能性まで、否定しているのではない。どんな人も幼児期の暗い思い出の一つや二つは背負っている。完ぺきな家庭で愛情豊かに育った人のほうが、少ない。そういうことも考えながら、あなた自分自身の心の中を旅してみてほしい。きっと新しい「あなた」を発見ができると思う。


Hiroshi Hayashi++++++++Nov 07++++++++++はやし浩司

●スパルタ方式への疑問

 スパルタ(古代ギリシアのポリスのひとつ)では、労働はへロットと呼ばれた国有奴隷に任せ、男子は集団生活を営みながら、もっぱら軍事教練、肉体鍛錬にはげんでいた。そのきびしい兵営的な教育はよく知られ、それを「スパルタ教育」という。

 そこで最近、この日本でも、このスパルタ教育を見なおす機運が高まってきた。自己中心的で、利己的な子どもがふえてきたのが、その理由。「甘やかして育てたのが原因」と主張する評論家もいる。しかしきびしく育てれば、それだけ「子どもは鍛えられる」と考えるのは、あまりにも短絡的。あまりにも子どもの心理を知らない人の暴論と考えてよい。やり方をまちがえると、かえって子どもの心にとりかえしのつかないキズをつける。

 むしろこうした子どもがふえたのは、家庭教育の欠陥と考える。(失敗ではない。)その欠陥のひとつは、仕事第一主義のもと、家庭の機能をあまりにも軽視したことによる。たとえばこの日本では、「仕事がある」と言えば、男たちはすべてが免除される。子どもでも、「宿題がある」「勉強する」と言えば、家での手伝いのすべてが免除される。

こうした日本がもつ特異性は、外国の子育てと比較してみると、よくわかる。ニュージラーンドやオーストラリアでは、子どもたちは学校が終わり家に帰ったあとは、夕食がすむまで家事を手伝うのが日課になっている。

こういう国々では、学校の宿題よりも、家事のほうが優先される。が、この日本では、何かにつけて、仕事優先。勉強優先。そしてその一方で、生活は便利になったが、その分、子どものできる仕事が減った。私が「もっと家事を手伝わせなさい」と言ったときのこと、ある母親は、こう言った。「何をさせればいいのですか」と。聞くと、「掃除は掃除機でものの一〇分ですんでしまう。料理も、電子レンジですんでしまう。洗濯は、全自動。さらに食材は、食材屋さんが届けてくれます」と。

こういうスキをついて、子どもはドラ息子、ドラ娘になる。で、ここからが問題だが、ではそういう形でドラ息子、ドラ娘になった子どもを、「なおす」ことができるか、である。

 が、ここ登場するのが、「三つ子の魂、一〇〇まで」論である。実際、一度ドラ息子、ドラ娘になった子どもをなおすのは、容易ではない。不可能に近いとさえ言ってもよい。それはちょうど一度野性化した鳥を、もう一度、カゴに戻すようなものである。戻せば戻したで、子どもはたいへんなストレスをかかえこむ。

本来なら失敗する前に、その失敗に気づかねばならない。が、乳幼児期に、さんざん、目いっぱいのことを子どもにしておき、ある程度大きくなってから、「あなたをなおします」というのは、あまりにも親の身勝手というもの。子どもの問題というより、日本人が全体としてかかえる問題と考えたほうがよい。だから私は「欠陥」という。いわんやスパルタ教育というのは! もしその教育をしたかったら、親は自分自身にしてみることだ。子どもにすべき教育ではない。






最終更新日  2007年11月23日 09時54分24秒


Hiroshi Hayashi++++++++Nov 07++++++++++はやし浩司

●三つ子の魂、百まで

 『三つ子の魂、百まで』というのは、その人の基本的な性格や方向性は、三歳ごろまでに決まるので、それまでの子育てを大切にしろという意味。しかし教育的には、つぎの四つの意味をもつ。

(1) この時期の子どもをていねいに見れば、その後、子どもがどんなふうになっていくかについて、おおよその見当がつくということ。
(2) この時期までに、何か心にキズをつけてしまうと、そのキズは、一生つづくから注意しろという意味。
(3) この時期をすぎたら、その子どもはそういう子どもだと認めたうえで、子どもの性格や方向性はいじってはいけないということ。
(4) そしてもう一つは、子どもが大きくなってから、いろいろな問題が起きたときには、この三歳までの育て方に原因を求めろということ。

 ただ念のために申し添えるなら、この格言は、公式の場(公の雑誌や新聞など)では、使えないことになっている。「差別につながる」ということだそうだ。私も一度、G社から出している雑誌に、この格言を引用して、抗議の電話をもらったことがある。いわく、「三歳までに不幸だった子どもは、おとなになってからも不幸になるということか」と。

 しかしそういった抗議はともかくも、この格言は、たしかに真実を含んでいる。「三歳」と切ることはないが、幼児期の子どものあり方は、その子どもの基礎になることは、もうだれの目にも明らかである。

 さて本題。よく親は、子どもの性格は、変えられるものと思っている。しかし実際には、そうは簡単ではない。子どもの性格は、乳児から幼児期にかけての時期。私は性格形成第一期と呼んでいる。そして幼児期から少年少女期にかけての時期。私は性格形成第二期と呼んでいる。これら二度の時期を経て、形成される。

とくに大切なのは、幼児期から少年少女期(満四・五歳~五・五歳)の時期である。この時期を経るとき、子どもに、人格の「核」ができる。教える側からすると、「この子はこういう子だ」というつかみどころができてくる。それ以前の子どもは、どこか軟弱で、それがはっきりしない。が、この時期をすぎると、急にその形がはっきりとしてくる。言いかえると、この満四・五歳から五・五歳の時期の、幼児教育が、とくに大切ということ。冒頭にも書いたように、この時期にできる基本的な性格は、その子どもの一生を方向づける。

 またこの時期というのは、自意識がそれほど発達していないので、子ども自身が、自分を飾ったり、ごまかしたりできない。その分、その子どもの本来の姿を、正確に判断することができる。「この時期の子どもをていねいに見れば、その後、子どもがどんなふうになっていくかについて、おおよその見当がつく」というのは、そういう意味である。

 が、何よりも大切なことは、この時期をとおして、子どもは、子育てのし方そのものを、親から学ぶ。子育ては本能でできるようになるのではない。学習によってできるようになる。しかし学習だけでは足りない。子どもは自分が親に育てられたという経験があって、もっと言えばそういう体験が体の中にしみこんでいてはじめて、自分が親になったとき、今度は、自分で子育てができるようになる。そういう意味でも、この時期は、心豊かな親の愛情や、心静かで穏やかな家庭環境を大切にする。またそれにまさる家庭教育はない。
(02-11-7)

● 三歳までの家庭環境を、大切にしよう。
● 幼児期をすぎたら、性格をいじってはいけない。あるがままを認め、受け入れてしまおう。

++++++++++++++++++++++++++++++++++
この原稿に関連して書いたのが、つぎの原稿です(中日新聞にて発表済み)
++++++++++++++++++++++++++++++++++

教育を通して自分を発見するとき 

●教育を通して自分を知る

 教育のおもしろさ。それは子どもを通して、自分自身を知るところにある。たとえば、私の家には二匹の犬がいる。一匹は捨て犬で、保健所で処分される寸前のものをもらってきた。これをA犬とする。もう一匹は愛犬家のもとで、ていねいに育てられた。生後二か月くらいしてからもらってきた。これをB犬とする。

 まずA犬。静かでおとなしい。いつも人の顔色ばかりうかがっている。私の家に来て、一二年にもなろうというのに、いまだに私たちの見ているところでは、餌を食べない。愛想はいいが、決して心を許さない。その上、ずる賢く、庭の門をあけておこうものなら、すぐ遊びに行ってしまう。そして腹が減るまで、戻ってこない。もちろん番犬にはならない。見知らぬ人が庭の中に入ってきても、シッポを振ってそれを喜ぶ。

 一方B犬は、態度が大きい。寝そべっているところに近づいても、知らぬフリをして、そのまま寝そべっている。庭で放し飼いにしているのだが、一日中、悪さばかりしている。おかげで植木鉢は全滅。小さな木はことごとく、根こそぎ抜かれてしまった。しかしその割には、人間には忠実で、門をあけておいても、外へは出ていかない。見知らぬ人が入ってこようものなら、けたたましく吠える。

●人間も犬も同じ

 ……と書いて、実は人間も犬と同じと言ったらよいのか、あるいは犬も人間と同じと言ったらよいのか、どちらにせよ同じようなことが、人間の子どもにも言える。いろいろ誤解を生ずるので、ここでは詳しく書けないが、性格というのは、一度できあがると、それ以後、なかなか変わらないということ。A犬は、人間にたとえるなら、育児拒否、無視、親の冷淡を経験した犬。心に大きなキズを負っている。

一方B犬は、愛情豊かな家庭で、ふつうに育った犬。一見、愛想は悪いが、人間に心を許すことを知っている。だから人間に甘えるときは、心底うれしそうな様子でそうする。つまり人間を信頼している。幸福か不幸かということになれば、A犬は不幸な犬だし、B犬は幸福な犬だ。人間の子どもにも同じようなことが言える。

●施設で育てられた子ども

 たとえば施設児と呼ばれる子どもがいる。生後まもなくから施設などに預けられた子どもをいう。このタイプの子どもは愛情不足が原因で、独特の症状を示すことが知られている。感情の動きが平坦になる、心が冷たい、知育の発達が遅れがちになる、貧乏ゆすりなどのクセがつきやすい(長畑正道氏)など。が、何といっても最大の特徴は、愛想がよくなるということ。相手にへつらう、相手に合わせて自分の心を偽る、相手の顔色をうかがって行動する、など。一見、表情は明るく快活だが、そのくせ相手に心を許さない。許さない分だけ、心はさみしい。あるいは「いい人」という仮面をかぶり、無理をする。そのため精神的に疲れやすい。

●施設児的な私

実はこの私も、結構、人に愛想がよい。「あなたは商人の子どもだから」とよく言われるが、どうもそれだけではなさそうだ。相手の心に取り入るのがうまい。相手が喜ぶように、自分をごまかす。茶化す。そのくせ誰かに裏切られそうになると、先に自分のほうから離れてしまう。

つまり私は、かなり不幸な幼児期を過ごしている。当時は戦後の混乱期で、皆、そうだったと言えばそうだった。親は親で、食べていくだけで精一杯。教育の「キ」の字もない時代だった。……と書いて、ここに教育のおもしろさがある。他人の子どもを分析していくと、自分の姿が見えてくる。「私」という人間が、いつどうして今のような私になったか、それがわかってくる。私が私であって、私でない部分だ。私は施設児の問題を考えているとき、それはそのまま私自身の問題であることに気づいた。

●まず自分に気づく

 読者の皆さんの中には、不幸にして不幸な家庭に育った人も多いはずだ。家庭崩壊、家庭不和、育児拒否、親の暴力に虐待、冷淡に無視、放任、親との離別など。しかしそれが問題ではない。問題はそういう不幸な家庭で育ちながら、自分自身の心のキズに気づかないことだ。たいていの人はそれに気づかないまま、自分の中の自分でない部分に振り回されてしまう。そして同じ失敗を繰り返す。それだけではない。同じキズを今度はあなたから、あなたの子どもへと伝えてしまう。心のキズというのはそういうもので、世代から世代へと伝播しやすい。

が、しかしこの問題だけは、それに気づくだけでも、大半は解決する。私のばあいも、ゆがんだ自分自身を、別の目で客観的に見ることによって、自分をコントロールすることができるようになった。「ああ、これは本当の自分ではないぞ」「私は今、無理をしているぞ」「仮面をかぶっているぞ」「もっと相手に心を許そう」と。そのつどいろいろ考える。つまり子どもを指導しながら、結局は自分を指導する。そこに教育の本当のおもしろさがある。あなたも一度自分の心の中を旅してみるとよい。
(02-11-7)

● いつも同じパターンで、同じような失敗を繰り返すというのであれば、勇気を出して、自分の過去をのぞいてみよう。何かがあるはずである。問題はそういう過去があるということではなく、そういう過去があることに気づかないまま、それに引き回されることである。またこの問題は、それに気づくだけでも、問題のほとんどは解決したとみる。あとは時間の問題。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 三つ子の魂、百まで 3つ子の魂 3つ子の魂、100まで)







最終更新日  2007年11月23日 09時53分51秒
このブログでよく読まれている記事

全38件 (38件中 1-10件目)

1 2 3 4 >

Powered By 楽天ブログは国内最大級の無料ブログサービスです。楽天・Infoseekと連動した豊富なコンテンツや簡単アフィリエイト機能、フォトアルバムも使えます。デザインも豊富・簡単カスタマイズが可能!

Copyright (c) 1997-2017 Rakuten, Inc. All Rights Reserved.