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楽天・日記 by はやし浩司

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教育問題

2009年08月22日
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カテゴリ:教育問題
●メタ認知能力(Metacognitive Ability)とは、何か

++++++++++++++++++++++

メタ認知能力とは何か。
川島真一郎氏(高知工科大学大学院)の修士学位論文より、
一部を抜粋引用させてもらう。
(出典:メタ認知能力の向上を指向した
高校数学における問題解決方略の体系化
Systematization of Problem Solving Strategy in High
School Mathematics for Improving Metacognitive
Ability(平成19年))

++++++++++++++++++++++

●メタ認知

メタ認知(metacognition)とは、認知活動についての認知のことである。メタ認知概念
は、ブラウン(A。 Brown)やフラベル(J。 H。 Flavell)によって1970 年代に提唱された。

メタ認知は、まずメタ認知的知識(meta-cognitive knowledge)とメタ認知的活動(metacognitiveactivity)に分かれ、それぞれがさらに細かく分かれる。メタ認知的知識とは、メタ認知の中の知識成分を指す。メタ認知的知識は、人間の認知特性についての知識、課題についての知識、課題解決の方略についての知識の3 つに分けて考えることができる。メタ認知的活動とは、メタ認知の中の活動成分を指す。メタ認知的活動は、メタ認知的モニタリング、メタ認知的コントロールの2 つに分かれる。メタ認知的モニタリングとは、認知状態をモニタすることである、認知についての気づき(awareness)、認知についての感覚(feeling)、認知についての予想(prediction)、認知の点検(checking)などが含まれる。メタ認知的コントロールとは、認知状態をコントロールすることである。認知の目標設定(goal setting)、認知の計画(planning)、認知の修正(revision)などが含まれる。

困難な場面に遭遇したとき、タ認知はその事態を打開すべく、関係のありそうな経験や
知識を想起する。似たような困難を克服した経験があれば、それは大きな手掛かりとなる。

過去の経験がそのままでは使えないときでも、見方を変えたりすることで使えることもあ
る、直面している問題が極めて困難なときは、条件の一部を解き易い形にした問題をまず解いてみることが手掛かりになることがある。また、問題の解決に使えそうな法則なども思い出し、解決に向けた道筋を描く。解決に向けた一番確かそうな方針が決まれば、実行してみる。間違いを犯しそうな場面では注意深く実行し、時々方針が間違っていないか検討を加える。このようにして、メタ認知はルーティンワークでない困難な問題を解決するときに、力を発揮すると考えられる。

そして、メタ認知能力は使うことで訓練をしなければ、その能力は向上しないと考えられ
る。訓練するための問題は、メタ認知が働かなくても解決できるような平易過ぎる問題は役に立たない。適度な難易度の問題を解決することが必要である。従って、パターン暗記に終始するような学習では、メタ認知能力は向上しないと考えられる。その意味で、生徒が試行錯誤しながら自力で問題の解決を図る問題解決学習は、その狙いが実現できれば、メタ認知能力の育成に大いに効果を発揮すると考えられる。
(以上、川島真一郎氏の論文より)

+++++++++++++++++++++

●メタ認知能力(Metacognitive Ability)

 私は「メタ認知能力」なるものについては、すでに10年ほど前から、原稿を書いて
きた。
が、ここ数年、この言葉をあちこちで聞くようになった。
しかし本当のところ、メタ認知能力とは何か、私もよくわかっていない。

 そこでまず私がとった手段は、メタ認知能力、つまりMetacognitive Abilityについて、
できるだけ原文に近い文献をさがすことだった。
最初は、直接アメリカの文献(英文)から調べようとしたが、先に、ひとつの文献を
さがしだすことに成功した。
ここに紹介した川島真一郎氏の修士学位論文が、それである。
わかりやすく書いてあるので、そのまま引用させてもらった。

 つまり私は、(メタ認知能力)とは何か知るために、つまりその壁を打開するため、
今までの経験を総動員して、(おおげさかな?)、あちこちを調べた。
その結果が、先にあげた論文の一部ということになる。

●メタ認知能力

 が、これだけをさっと読んだだけでは、意味がよくわからない。
内容を、もう少し整理してみる。

メタ認知

(1) メタ認知的知識(meta-cognitive knowledge)
メタ認知の中の知識成分を指す。
(1) 人間の認知特性についての知識、
(2) 課題についての知識、
(3) 課題解決の方略についての知識の、33つに分けて考えることができる。


(2) メタ認知的活動(metacognitive activity)
メタ認知的活動とは、メタ認知の中の活動成分を指す。メタ認知的活動は、
(1) メタ認知的モニタリング、
(2) メタ認知的コントロールの2つに分かれる。

 これでだいぶ頭の中がすっきりしてきた。

 さらに、

(1) メタ認知的モニタリングとは、認知状態をモニタすることである。
認知についての気づき(awareness)、認知についての感覚(feeling)、認知についての予想(prediction)、認知の点検(checking)などが含まれる。

(2) メタ認知的コントロールとは、認知状態をコントロールすることである。
認知の目標設定(goal setting)、認知の計画(planning)、認知の修正(revision)などが含まれる、と。

●実益

 先にメタ認知能力の実益について、引用させてもらう。
川島真一郎氏は、こう書いている。

『メタ認知はルーティンワークでない困難な問題を解決するときに、力を発揮すると考えられる。そして、メタ認知能力は使うことで訓練をしなければ、その能力は向上しないと考えられる』と。

 日常的な行動を同じように繰り返すようなときには、メタ認知能力は、力を発揮しない。
つまり難解で、より高度な知識と経験を必要とするような問題に直面したとき、メタ認知
能力は力を発揮する、と。

 そしてそのメタ認知能力は、訓練しなければ、向上しない、ともある。






最終更新日  2009年08月22日 07時14分24秒

カテゴリ:教育問題
●因数分解

 川島真一郎氏は、因数分解を例にあげて、メタ認知能力がどういうものであるかを
説明している。
そのまま印象させてもらう。

++++++++++以下、川島真一郎氏の論文より+++++++++++++

7。 <題>求めるもの(答え)と、与えられた条件の関係を発見せよ。[関係は直接的に見
えるときもあれば、仲介物を通して初めて見えて来るときもある。例えば、中間的な目標を設定せよ。(例)(a + b + c)(bc + ca + ab) +abc を因数分解せよ。]
8。 <眼><針>関係の有りそうな公式は何か。
9。 <経><予>似た問題を思い出せ。
10。 <経><眼><針>似た問題の方法や結論を利用できないか。[(例)x、 y の対称式
はx + y とxy で表せる。]
11。 <眼><針>求めるもの(答え)の形を考え、それを具体的に(例えば式に)できな
いか。[また、その形のどの部分を求めればよいか。それを求めるのに、条件をどのように
使えるか。]
12。 <眼><針>与えられた条件や式を、解答で使い易いように変形できないか。[場合
によっては、結論の式から解答を進めて、後で比較するのが有効なときも有る。]
13。 <助><検>(方針の選択や解答の進め方について)解法の大筋を捉える。[大まか
な見通しを持つことが、解答への着手を促し、右往左往したり、袋小路に入ったりするのを防ぐ。(例)増減表を書けば解けそう。判別式を利用できそう。等々]
14。 <経><眼><針>前に使った方法が直接使えないとき、補助的な工夫を加えること
で使えるようにならないか。[(例)角度の問題で、補助線を引く事で三角形の問題と捉
える。]
15。 <眼><針>求める結果が得られたと仮定して、逆向きに解けないか。[求める結果
を明確にイメージすることで、必要となる道筋が見えてくることが有る。]
16。 <眼><針>定義に帰ることで、手掛かりが得られることが有る。[2 次関数関連の
問題と判別式の関係。微分係数の定義。等々]
17。 <困><眼><針>問題を言い換えることで、容易になったり、既習の解法が使えた
りしないか。(そのとき、与えられた条件はどう変わるか。)[問題を違った視点から見る。
(例)sin θ+ cos θ の最大値を求めるのに、単位円周上の点P(x、 y) を利用する。]
18。 <困><眼><針>問題を一般化することで、容易になることがある。[(例)具体的
な数値の問題を、一般的な文字に置き換えることで見通しが良くなることが有る。]
19。 <困><眼><針>問題を特殊化することで、解決の糸口がつかめるときがある。
[(例)直方体の対角線の長さを求める問題で、高さが0 の場合を解いてみる。]
20。 <困><分><眼><針>条件の一部からどんなことが分かるか。[条件を幾つかの
部分に分けられないか。全体の解答とどう関係するか。]
21。 <困><眼><針>解き易い類題を考えることが、元の問題の手掛かりになることが
ある。[問題の一部は解けるか。どういう条件が付加されていれば解き易いか。等々]
22。 <補><検><助>条件の使い忘れはないか。
(CP)
23。 <題><検>方針に従い解答を進め、適当な段階で検討を加え、必要に応じて方針を
見直す。
24。 <補>自信の持てるる解き方から試みよ。[大抵の問題は、何通りか解き方がある。
(例)基本的な公式だけを使う。図形を利用する。微分を利用する。等々]
(LB)
25。 <題>結果の検討。[少しの検討が、長い目で見ると大きな効果をもたらす。]
26。 <検><眼>別の解法はないか。得られた答えが別の簡単な解法や、答えの意味を示
しているときが有る。
4。4 体系化された問題解決方略の適用
27。 <検><眼>使った方法や結果を総括する。他の問題に応用できないか。

++++++++++以上、川島真一郎氏の論文より+++++++++++++

●因数分解(例)

 高校生たちに因数分解を教えるとき、私自身は、半ばルーティンワーク的に解いて
みせている。
(因数分解そのものは、解法公式はほぼ確立していて、簡単な問題に属する。)

しかしこのように内容を秩序だてて分析されると、「なるほど、そうだったのか」と、
改めて、驚かされる。
私はそれほど意識せず、メタ認知能力を、応用かつ利用していたことになる。
率直に言えば、「メタ認知能力というのは、こういうものだったのか」と納得する
と同時に、「奥が深いぞ」と驚く部分が、頭の中で交錯する。

 ちなみに、先の(a + b + c)(bc + ca + ab) + abcを、別の紙で、因数分解してみた。
因数分解の問題としては、見慣れない問題である。

(1)見ただけでは、瞬間、頭の中で公式が浮かんでこない。
(2)直感的に、「いつものやり方ではできない」ということがわかる。

 が、こういうときの鉄則は、(3)「ひとつの文字に着目しろ」である。
この問題では、(a)なら(a)に着目し、(a)について式をまとめる。

 しかしこの場合、一度、式をバラバラにしなければならない。
結構、めんどうな作業である。
が、ここで「こんなめんどうな問題を出題者が出すはずがないぞ」というブレーキが働く。
「時間さえかければ、だれでもできる」というような問題は、数学本来の問題ではない。
ただの作業問題ということになる。

 そこで私は、(4)もっと簡単な方法はないかをさがす。
(bc + ca + ab)という部分に着目する。
(a)でくくれば、(b+c)という因数を導くことができる。
(b+c)を、(B)と一度置き換えてから、因数分解できないかを考える。
しかしもう一つの項、(abc)が残る。
つぎの瞬間、「この方法ではだめだ」と直感する……。

 ……というように、認知の目標設定(goal setting)、認知の計画(planning)、認知の
修正(revision)を繰り返す。

●高度な知的活動

 小学1年生が訓練するような、足し算の練習のような問題は、ただの訓練。
メタ認知能力など、必要としない。

 そこで昨日(8月21日)、メタ認知能力を確かめるため、私は小学2、3年生クラス
で、ツルカメ算の問題を出してみた。
あらかじめ、「ツルが2羽、カメが4匹で、足は合計で何本?」というような練習
問題を5~6問、練習させる。
そのとき「できるだけ掛け算を使って、答を出すように」と指示する。

 それが一通りすんだところで、「ツルとカメが、合わせて、10匹います。
足の数は、全部で、28本です。
ツルとカメは、それぞれ何匹ずついますか?」という問題を出す。

 で、このとき子どもたちを観察してみると、いろいろな反応を示すのがわかる。
(私の教室の子供たちは、幼児期から訓練を受けている子どもたちだから、こうした
問題を出すと、みな「やってやる!」「やりたい!」と言って、食いついてくる。)

 絵を描き始める子ども。
足を描き始める子ども。
意味のわからない記号を書き始める子ども。
2+2+2……と、式を書き始める子どもなどなど。

 こうした指導で大切なことは、(解き方)を教えることではない。
(子ども自身に考えさせること)である。
だから私は、待つ。
ただひたすら、静かに待つ。

 が、やがて1人、表を書き始める子どもが出てきた。
私はすかさず、「ほう、表で解くのか。それはすばらしい」と声をかける。
するとみな、いっせいに、表を描き始める。
表の形などは、みな、ちがう。
しかしそれは構わない……。

 (こうした様子は、YOUTUBEのほうに動画として、収録済み。)

●メタ認知能力の応用

 こうして書いたことからもわかるように、メタ認知能力というのは、もともとは、
数学の問題を解法技法のひとつとして、発見された能力ということになる。
しかしその奥は、先にも書いたように、「深い」。
日常的な思考の、あらゆる分野にそのまま応用できる。
ひとつの例で考えてみよう。






最終更新日  2009年08月22日 07時13分58秒
カテゴリ:教育問題


●パソコンショップの店員

 こういう書き方ができるようになったのは、私もその年齢に達したから、ということ
になる。
パソコンショップの店員には、たいへん失礼な言い方になるかもしれないが、そういう
店員を見ていると、ときどき、こう考える。

「だから、どうなの?」
「この人たちは、自分の老後をどう考えているんだろ?」
「もったいないな」と。

 つまりパソコンショップの店員の目的は、パソコンを客に売ること。
しかしそんな仕事を、仮に10年つづけていても、身につくものは何もない。
店が大きくなり、支店がふえれば、支店長ぐらいにはなれるが、そこまで。
だから「だから、どうなの?」となる。

 つぎにパソコンショップの店員たちは、よく勉強している。
その道のプロである。
しかしプロといっても、一般ユーザーの目から見てのプロに過ぎない。
パソコンを自由に操ることはできるが、その先、たとえばプログラミングの仕事とか、
さらには、スーパーコンピュータの操作となると、それはできない。

 そこで私はこう考える。
「こうした知識と経験を使って、別の仕事をしたら、すばらしいのに」と。
たとえばデザインのような、クリエイティブな仕事でもよい。
それが「もったにないな」という気持ちに変わる。

 そこでメタ認知能力の登場!

(1) 自分の置かれた職場環境の把握
(2) その職業を長くつづけたときの、メリット、デメリットの計算
(3) 老後が近づいたときの、将来設計
(4) 収入の具体的な使い道などなど。
 
 そうしたことを順に考え、自分の生活の場で、位置づけていく。
中には、「お金を稼いで、高級車を買う」という人もいるかもしれない。
しかしそれについても、メタ認知能力が関係してくる。
「だから、それがどうしたの?」と。

 高級車を乗り回したからといって、一時的な享楽的幸福感を味わうことは
できる。
が、できても、そこまで。
4~5年もすれば、車は中古化して、当初の喜びも、半減する。

 ……つまりこうしてパソコンショップの店員は、メタ認知能力が少しでもあれば、
「もったいないな」を自覚するようになる。
また自覚すれば、生きざまも変わってくる。
同じ店員をしながらも、ただの店員で終わるか、あるいはつぎのステップに進むか、
そのちがいとなって、現れてくる。

 が、このことは、家庭に主婦(母親)として入った女性についても、言える。

●生きざまの問題に直結

 日常的な作業(=ルーティンワーク)だけをし、またそれだけで終わっていたら、
その女性の知的能力は、(高度)とは、ほど遠いものになってしまう。
電車やバスの中で、たわいもない愚痴話に花を咲かせているオバチャンや、オジチャン
たちを見れば、それがわかる。

 そこで重要なことは、あくまでもメタ認知能力の訓練のためということになるが、
つねに問題意識をもち、(問題)そのものを、身の回りから見つけていくということ。
問題あっての、メタ認知能力である。

 社会問題、政治問題、経済問題、さらには教育問題などなど。
あえてその中に、首をつっこんでいく。
ワーワーと声をあげて、自分で騒いでみる。
私はそのとき、そのつど文章を書くことを提唱するが、これはあまりにも手前みそ過ぎる。
が、(書く)ということは、そのまま(考える)ことに直結する。
ほかによい方法を私は知らないので、やはり書くことを提唱する。

 で、こうして書くことによって、たとえば今、「メタ認知能力」についての理解を
深め、問題点を知ることができる。
同時に、応用分野についても、知ることができる。
こうして自分がもつ知的能力を高めることができる。
そしてそれがその人の生きざまへと直結していく……。

 簡単に言えば、「自分の意識を意識化すること」。
それがメタ認知能力ということになる。
オックスフォード英英辞典によれば、「Meta」は、「higher(より高度の)」「beyond
(超えた)」という意味である。
「より高度の認知能力」とも解釈できるし、「認知能力を超えた認知能力」とも解釈
できる。

 私はこのメタ認知能力の先に、(ヒト)と(動物)を分ける、重大なヒントが隠されて
いるように感ずるが、それは私の思いすごしだろうか?
つまりメタ認知能力をもつことによって、ヒトは、自らをより高いステージへと、自分を
もちあげることができる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 メタ メタ認知能力 metacognitive ability 高度な知的活動)


Hiroshi Hayashi++++++++AUG.09+++++++++はやし浩司

【メタ認知能力】(追記)(Metacognitive Ability)

+++++++++++++++

この数日間、「メタ認知能力」という
言葉に、たいへん興味をもっている。
以前にも何度か、それについて書いた
ことがある。
が、そのときは、それほど
重要視していなかった。
しかしその後、知れば知るほど、
なるほどと思う場面に遭遇した。

「メタ認知能力」……まさに人間だけが
もちうる、最高度の認知能力という
ことになる。

+++++++++++++++++

●食欲とメタ認知能力

 食欲中枢は、脳の中でも視床下部というところにあることがわかっている。
そこにあるセンサーが、血糖値の変動を感知して、食欲を増進させたり、反対に
食欲を減退させたりする。

 しかしこれら2つの働き、つまり(食欲増進)を促す中枢部と、(食欲抑制)を
促す中枢部が、最近の研究によれば、別々のものというところまでわかってきている。
これら2つの中枢部がたがいに連携をとりながら、もう少し具体的には、絶妙なバランス
をとりながら、私たちの(食欲)を、コントロールしている。

●意識を意識する

 もちろん私たちは、こうした知識を、本という(文字)を通して知るしかない。
頭を開いて、その中を見て知るわけではない。
が、想像することはできる。
たとえば空腹感を覚えたようなとき、「血糖値がさがってきたぞ」とか、など。

 血糖値がさがると、胃や腸が収縮し始める。
空腹になると、おなかがグーグーと鳴るのはそのためだが、そうした変化に合わせて、
空腹感がどういうものであるかを知る。

 このとき、「ああ、腹が減ったなあ」だけでは、メタ認知能力はないということに
なる。
が、このとき、自分の脳みその中の変化を、想像してみる。
「ああ、今、食欲増進中枢部が働いているぞ」
「今度は、食欲抑制中枢部が働いているぞ」と。

 こうして自分の意識を、別の意識で客観的に評価する。
それをする能力が「メタ認知能力」ということになる。






最終更新日  2009年08月22日 07時11分38秒
カテゴリ:教育問題


●2つの働き

 これもひとつのメタ認知能力ということになるのか。
たとえば講演などをしているとき、自分の脳の中で、2つの働きが同時に起きている
のがわかる。
ひとつは、講演の話の内容そのものを考えること。
「この話には、異説があるので、注意しよう」とか、「この話は、もう少し噛み砕いて
話そう」とか、考える。

 もうひとつは、話しながらも、「残り時間があと20分しかないから、少し結論を
急ごう」とか、「つぎにつづく話は、途中で端折ろう」とか、時間を意識すること。
この両者が、交互というよりは、同時進行の形で働く。

 つまり講演している私を、別の意識が客観的にそれをみて、私にあれこれと命令を
くだす。

●知的能力

 教育の世界の話になると、ぐんと具体性を帯びてくる。
たとえば今、掛け算の九九練習している子ども(小2)を、頭の中で想像してみてほしい。
その子どもは懸命に、「二二が4、二三が6……」と暗記している。
そのとき子どもは、「なぜそれを学習しているのか」「なぜそれを学習しなければならな
いのか」「学習したら、それがどう、どのように役立っていくのか」ということについては、
知る由もない。

 「掛け算は覚えなければならない」という意識もない。
ないから、先生や親に言われるまま、暗記する……。

 これは子どもの世界での話だが、似たような話は、おとなの世界にも、いくらでもある。
またその程度の(差)となると、個人によってみなちがう。
言い換えると、メタ認知能力の(差)こそが、その人の知的能力の(差)ということにな
る。

●自己管理能力とメタ認知能力

 たとえば若い男性の前に、裸の女性が立ったとする。
かなり魅力的な、美しい女性である。
そのとき若い男性が、それを見てどのように反応し、つぎにどのような行動に出るかは、
容易に察しがつく。

 が、そのときその若い男性が、自分の中で起きつつある意識を、客観的にながめる
能力をもっていたとしたら、どうだろうか。
「今、視床下部にある性欲本能が、攻撃的な反応を示し始めた」
「ムラムラと湧き起きてくる反応は、食欲増進反応と同じだ」
「今、ここでその女性と関係をもてば、妻への背信行為となる」など。
いろいろに考えるだろう。

 こうしてメタ認知能力をもつことによって、結果的に、大脳の前頭連合野が分担する、
自己管理能力を、より強固なものにすることができる。

●スーパーバイザー

 「意識を意識する」。
それがメタ認知能力ということになるが、もう少し正確には、「意識を意識化する」という
ことになる。

 もちろんその日、その日を、ただぼんやりと過ごしている人には、(意識)そのものが
ない。
「おなかがすいたら、飯を食べる」
「眠くなったら、横になって寝る」
「性欲を覚えたら、女房を引き寄せる」と。

 が、そうした意識を、一歩退いた視点から、客観的に意識化する。
言うなれば、「私」の上に、スーパーバイザー(監督)としての「私」を、もう1人、置く。
置くことによって、自分をより客観的に判断する。
たとえば……。

 「今日は寒いから、ジョギングに行くのをやめよう」と思う。
そのときそれを上から見ている「私」が、「ジョギングをさぼってはだめだ」
「このところ運動不足で、体重がふえてきている」「ジョギングは必要」と判断する。
そこでジョギングをいやがっている「私」に対して、「行け」という命令をくだす。
言うなれば、会社の部長が、なまけている社員に向かって、はっぱをかけるようなもの。
部長は、社員の心理状態を知り尽くしている。

●うつを知る

 メタ認知能力は、訓練によって、伸ばすことができる。
私なりに、いくつかの訓練法を考えてみた。

(1) そのつど、心(意識)の動きをさぐる。
(2) それが脳の中のどういう反応によるものなのかを知る。
(3) つぎにその反応が、どのように他の部分の影響しているかを想像する。
(4) 心(意識)の動きを、客観的に評価する。

 この方法は、たとえば(うつ病の人)、もしくは(うつ病的な人)には、とくに
効果的と思われる。
(私自身も、その、「うつ病的な人」である。)

 というのも、私のようなタイプの人間は、ひとつのことにこだわり始めると、そのこと
ばかりをずっと考えるようになる。
それが引き金となって、悶々とした気分を引き起こす。

 そのときメタ認知能力が役に立つ。
「ああ、これは本来の私の意識ではないぞ」
「こういうときは結論を出してはいけない」
「気分転換をしよう」と。

 すると不思議なことに、それまで悶々としていた気分が、その瞬間、とてもつまらない
ものに思えてくる。
と、同時に、心をふさいでいた重い気分が、霧散する。

●メタ認知能力

 メタ認知能力を養うことは、要するに「自分で自分を知る」ことにつながる。
ほとんどの人は、「私は私」と思っている。
「私のことは、私がいちばんよく知っている」と思っている。
が、実のところ、そう思い込んでいるだけで、自分のことを知っている人は、ほとんど
いない。
(私が断言しているのではない。
あのソクラテスがそう言っている。)

 が、メタ認知能力を養うことによって、より自分のことを客観的に知ることができる。
「私は私」と思っていた大部分が、実は「私」ではなく、別の「私」に操られていた
ことを知る。
それこそが、まさに『無知の知』ということにもつながる。

 もちろん有益性も高い。
その(有益性が高い)という点で、たいへん関心がある。
応用の仕方によっては、今までの私の考え方に、大変革をもたらすかもしれない。
またその可能性は高い。

 しばらくはこの問題に取り組んでみたい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 メタ認知能力 Metacognitive Ability)


Hiroshi Hayashi++++++++AUG.09+++++++++はやし浩司






最終更新日  2009年08月22日 07時11分02秒
2009年08月05日
カテゴリ:教育問題
【年収と学力】(Parent’ s Income and their Children’s Ability of Studying)

+++++++++++++++++++++

予想されてはいたことだが、平たく言えば、
金持ちの親の子どもほど、成績は総じてよいということ。

文科省は、全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)
をもとに、このほど、そのような調査結果を公表した。

+++++++++++++++++++++

●年収200万円層

 時事通信(8月5日)は、以下のように伝える。

 『年収が多い世帯ほど子供の学力も高い傾向にあることが、2008年度の小学6年生を対象にした全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)を基に行われた文部科学省の委託研究で4日、分かった。学力テストの結果を各家庭の経済力と結び付けて分析したのは初めて。

 委託研究では、5政令市にある公立小、100校を通じて、6年生約5800人の保護者から家庭環境などのデータを新たに収集。個人名が分からないよう配慮した上で、学力テストの結果と照合した。

 学力テストには、国語、算数ともに知識を問うA問題と活用力を試すB問題があるが、世帯年収ごとに子供を分類すると、いずれも200万未満の平均正答率(%)が、最低だった。

 正答率は年収が多くなるにつれておおむね上昇し、1200万円以上1500万円未満だと、200万円未満より20ポイント程度高まった。ただ、1500万円以上では正答率が微減に転じた』(以上、原文のまま)と。

●数字の整理

 数字を整理してみる。

(1) 年収200万円未満の平均正答率が、最低だった。
(2) 年収が1200万円~1500万円の層は、200万円未満の層より、20ポイント、高かった。
(3) ただ1500万円以上では、正答率は、微減に転じた。

 つまり金持ちの子どもほど、成績はよいということ。
しかし年収が1500万円を超えた層では、正答率が微減に転じた、と。

 が、この調査ほど、納得がいくというか、矛盾を感じない調査はない。
年収1500万円以上の子どもたちの正答率が微減したということについても、
妙に納得がいく。
その分だけ、子どもがドラ息子しているとも解釈できる。

 しかし親の年収で、子どもの学力に(差)が出るということは、本来は、あってならないこと。
しかし現実には、ある。
「金持ちの親の子どもほど、学力が高い」と。
が、ここで新たな疑問が生まれる。
親の年収と、子どもの学力を、そのまま関連づけてよいかという疑問である。

●学歴と親の年収

 それ以前の問題として、親の学歴と、親の年収との間には、明らかな相関関係がある。
学歴が高ければ高いほど、年収も高い。
言い換えると、このことから、親の学歴が高ければ高いほど、子どもの正答率も高くなると言えなくもない。

(親の学歴が高い)→(年収が多い)→(子どもの正答率が高くなる)、と。

子どもは、いつも親の影響を受けながら、成長する。
つまり年収だけをみて、「親の年収が子どもの学力に影響を与える」と考えるのは、少し、
短絡的すぎるのではないのか?
(もちろん今回の調査では、そんなことは一言も述べていないが……。)

 つまりもっと正確には、(親の学歴が低い)→(その分だけ、家庭における知的環境レベルが低い)→(子どもの知的学習能力も低くなる)→(正答率が低くなる)、ということではないのか。

 もし親の年収が子どもの学力に直接的に影響を与えるものがあるとするなら、塾などの学外教育費用、あるいは学外教材費用の面である。
年収に余裕があればあるほど、子どもの学外教育に、親はお金をかけることができる。

●親の知的レベル

 「知的レベル」という言葉を使ったので、それについて補足。

 親の知的レベルが、子どもの知的レベルに大きな影響を与えるということは、常識と
考えてよい。
(ただし親の学歴が高いから、親の知的レベルが高いということにはならない。
反対に、親の学歴が低いから、親の知的レベルが低いというこにもならない。)

 「知的レベル」というのは、日々の生活の場で鍛錬されて、決まるもの。
学歴のあるなしは、それに影響を与えるという程度のものでしかない。
要するに、親のものの考え方次第ということ。
それが子どもに知的好奇心、問題の解決能力に大きな影響を与える。

●知的レベルの怖ろしく低い親

3、4年前のことだが、私はこんな場面に遭遇したことがある。
その家の長男(当時、35歳)に愛人ができ、離婚騒動がもちあがった。
そのときのこと。
その長男の父親は、一方的にどなり散らすだけ。
「テメエ、コノヤロー、オメーモ、男だろがア!」と。
 
 が、これでは会話にならない。
話し合いにもならない。
もちろん騒動は解決しない。
私はその父親の言葉を横で聞きながら、その父親のもつ知的レベルのあまりの
低さに驚いた。

 別のところで話を聞くと、その父親の趣味は、テレビで野球中継を見ること。
雨の日はパチンコ。
晴れの日は海釣り。
本や雑誌など、買ったこともなければ、読んだこともないという。

 子どもに直接的に影響を与えるのは、親の知的レベルである。
学歴ではない。
年収ではない。

●ともあれ……

 ともあれ、(親の年収)と、(子どもの学力)との間に、相関関係があることは、
これで確認できた。
しかしこんなことは、何もあえて調査しなくても、わかりきったこと。
ゆいいつ意味があるとするなら、「20%」という数字が出されたこと。
要するに、平均点が20点ほど、低いということか。

 年収が1200~1500万円の親の子どもの平均点が、80点とするなら、
200万円以下の親の子どもの平均点は、60点ということになる。
そうまで単純であるとは思わないが、かみくだいて言えば、そういうことになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 親の年収と子供の学力 親の知的レベルと子供の学力 子どもの学力調査 はやし浩司 全国学力調査)



(付記)

 都会地域へ大学生を1人送ると、平均して、月額17万円前後の費用がかかる。
それを12倍すると、年額204万円。
つまり年収200万円以下の親の子どもが大学へ通うのは、事実上、不可能。
文科省の今回の調査では、「年収200万円以下」を問題にしているが、この数字そのものが、少し極端すぎるのでは?
仮に年収100万円以下ということになれば、「家庭」そのものが、成り立たない。



Hiroshi Hayashi++++++++AUG.09+++++++++はやし浩司







最終更新日  2009年08月05日 07時29分04秒
2009年07月20日
カテゴリ:教育問題
●スパイ・テスト

+++++++++++++++++++++

私は、幼児を教えて40年になるが、たとえば、
幼児のもっているバッグの中に、手を入れたことは、
ただの一度もない。
ほんとうに、ない。

たとえばその日のレッスンが終わると、出席表にシール
を張ることにしている。
そのとき、バッグから出席表を出さない子どもがいる。
何か、ほかのことに気をとられて、隣の子どもと、
ふざけて遊んでいたりする。

そういうとき、私はその子どもに向かって、「出席表を
出してください」と、何度も促す。

バッグの口は開き、そこに出席表が見えている。
手でつかめば、さっと取りだすことができる。
それでも私は待つ。
子どもが自分で出席表を取りだすまで、待つ。

+++++++++++++++++++++

●スパイ・テスト

 こうしたテスト方法(入学試験方法)は、今では、全国のあちこちの小学校で
行われている。
あえて名前をつければ、「スパイ・テスト」ということになる。
もちろん学校によって、呼び方はちがう。
浜松市のある小学校では、「遊びの部屋」と呼んでいる。
しかたは、こうである。

 まず(1)7~8人、1グループの子どもたち(園児)を、ひとつの部屋に集める。
そこで(2)教師が、あれこれと指示をする。

 「青い線から外へ出てはいけません。青い線の中にあるおもちゃでは遊んではいいです。
しかし青い線の外にある、ピアノやパソコンには、さわってはいけません。
タンバリンの音が聞こえたら、遊びをやめて、後片づけをしてください」と。

 こうして指示をしたあと、(3)教師は、外へ出ていく。
言い忘れたが、子どもたちは胸に、大きなぜっけん(番号)をつけている。

●モニター

 「遊びの部屋」には、テレビカメラが設置してある。
教師は子どもたちの様子を、外(職員室)から監視し、子どもたちの様子を見る。
どの子どもが言いつけどおりに遊んでいるか、あるいは遊んでいないか、など。

 時間にすれば、20~30分ほど。

 このテスト方法は、子どもたちのありのままの様子を見るテスト方法としては、
たいへんすぐれている。
というのも、この時期の子どもには、現実検証能力というか、自己評価力が、
まだほとんどない。
自分の姿を、第三者的な視点から、客観的に見ることができるようになるのは、
小学3年生~以上である。
それまでは、自分がどういう立場にあった、他人にどう思われているか、それを判断
することはできない。
子どもたちは先生がいないことをよいことに、ありのままの自分を、さらけ出してしまう。

 だから親たちが、「そういうテストがあるから、先生の言いつけをよく守って遊ぶのよ」
と言っても、意味はない。

●だから、それがどうなの?

 このテスト方法が、親たちとの懇談会の場で話題になった。
「子どものありのままの姿を知るには、よいテスト方法かもしれませんね」と、
私が話すと、親たちは、みな、笑った。

 しかし具体的な話になると、みな、「それはおかしい」と言いだした。
たとえば教室の天井の隅に、テレビカメラを設置する。
私や親は、そのまま廊下に出る。
廊下に設置してあるテレビを見ながら、子どもたちの様子をさぐる……。

 そこで問題!
このテスト方法には、「だからどうなの?」という部分がない。
たとえば私の指導に従わず、勝手にパソコンやピアノに触って遊んだ子どもがいたとする。
そういうとき、どうするのか?

 あとで、その子どもを叱るということもできない。
まさか「外から、スパイしていました」とは、とても言えない。
もしそんなことを言えば、私とその子どもとの信頼関係は、そのまま破壊される。
いくら相手が幼児だからといっても、信頼関係なくして、教育は成り立たない。

●人間性の問題

 学校という集団教育の場では、監視カメラは必要かもしれない。
不審者による犯罪も、心配される。
しかしそのカメラが、子どもの方を向いたとき、監視カメラは、別の意味をもつ
ようになる。

 それは必要なのか。
そこまでしてよいのか。
またそれは許される行為なのか。

 いろいろ議論はあるだろう。
あるだろうが、現実に今、しかしそれがそのままテスト方法として採用されている。
ありのままの子どもの姿を知るためには、よいテスト方法かもしれない。
しかし私はどうしても、こうしたテスト方法には、生理的な嫌悪感を覚える。
……覚えてしまう。
それがわからなければ、冒頭に書いたバッグの話を思い浮かべてみてほしい。

 つまりあえて言うなら、このテスト方法は、子どものバッグの中に手を入れ、
バッグの中身を調べるのと、どこか似ている(?)。

 さらに言えば、子ども部屋に親が勝手に入って、(あるいは教師もいっしょに
入って)、子どもの机の中を調べる行為にも通ずる。
こうした方法は、何度も書くが、ありのままの子どもの様子を知るためには、
よい(?)方法かもしれない。
が、このテスト方法には、それをする人たちの人間性の問題がからんでくる。

 それができる人は、できる。
しかしできない人には、できない。
そういうテスト方法である。

●人権の無視

 どこかでこっそりと監視しながら、子どもの様子をさぐる……。
いくら相手が幼児だからといっても、本来なら、許されるテスト方法ではない。
それがわからなければ、あなた自身のこととして、考えてみたらよい。

 あなたが家庭の主婦なら、こうだ。
あなたの家庭での様子を知りたいと思ったあなたの夫が、家のどこかに監視カメラを
設置する。
それをあなたの夫が、携帯電話に転送して、ずっと見ている……。

 想像するだけで、ぞっとするような話ではないか。
あなたにまともな神経があるなら、あなたはきっとこう叫ぶはず。

 「そういういやらしいことは、やめて!」と。

 そう、こういうテスト方法は、いやらしい。
子どもというより、人間としての人権を無視している。
子どもにも人格があり、人権がある。
そうしたものを、無視している。

 ……といっても、今ではこのテスト方法は、全国の小学校で、広く採用されている。
何もこの浜松市の小学校だけが、しているわけではない。
しかしもし学校側に、少しでも子どもへの人権意識があるなら、どこかで抵抗感を覚える
はず。
それとも、今では、学校の先生たちは、子どもの持ち物などを、平気で調べているとでも
いうのだろうか。
子どものバッグの中に、勝手に手を入れて……!

 10年ほど前に、こんな原稿を書いたことがある(中日新聞発表済み)。

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ついでに、子どものプライバシーは、どのように
考えたらよいか。それについて書いたのが、つぎ
の原稿である。
この原稿は、中日新聞に掲載して
もらったが、かなり反響のあった原稿である。

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最終更新日  2009年07月20日 07時30分37秒
カテゴリ:教育問題

●逃げ場を大切に

 どんな動物にも最後の逃げ場というものがある。動物はこの逃げ場に逃げ込むことによって、身の安全を確保し、そして心をいやす。人間の子どもも、同じ。

親がこの逃げ場を平気で侵すようになると、子どもの情緒は不安定になる。最悪のばあいには、家出ということにもなりかねない。

そんなわけで子どもにとって逃げ場は、神聖不可侵な場所と心得て、子どもが逃げ場へ逃げたら、追いかけてそこを荒らすようなことはしてはならない。説教をしたり、叱ったりしてもいけない。

子どもにとって逃げ場は、たいていは自分の部屋だが、そこで安全を確保できないとわかると、子どもは別の場所に、逃げ場を求めるようになる。A君(小2)は、親に叱られると、トイレに逃げ込んでいた。B君(小4)は、近くの公園に隠れていた。C君(年長児)は、犬小屋の中に入って、時間を過ごしていた。電話ボックスの中や、屋根の上に逃げた子どももいた。

 さらに親がこの逃げ場を荒らすようになると、先ほども書いたように、「家出」ということになる。

このタイプの子どもは、もてるものをすべてもって、家から一方向に、どんどん遠ざかっていくという特徴がある。カバン、人形、おもちゃなど。D君(小1)は、おさげの中に、野菜まで入れて、家出した。

これに対して、目的のある家出は、必要なものだけをもって家出するので、区別できる。が、もし目的のわからない家出を繰り返すというようであれば、家庭環境のあり方を猛省しなければならない。過干渉、過関心、威圧的な子育て、無理、強制などがないかを反省する。激しい家庭騒動が原因になることもある。

 が、中には、子どもの部屋は言うに及ばず、机の中、さらにはバッグの中まで、無断で調べる人がいる。しかしこういう行為は、子どものプライバシーを踏みにじることになるから注意する。

できれば、子どもの部屋へ入るときでも、子どもの許可を求めてからにする。たとえ相手が幼児でも、そうする。そういう姿勢が、子どもの中に、「私は私。あなたはあなた」というものの考え方を育てる。

 話は変わるが、98年の春、ナイフによる殺傷事件が続いたとき、「生徒(中学生)の持ちものを検査せよ」という意見があった。しかしいやしくも教育者を名乗る教師が、子どものカバンの中など、のぞけるものではない。

私など結婚して以来、女房のバッグの中すらのぞいたことがない。たとえ許可があっても、サイフを取り出すこともできない。私はそういうことをするのが、ゾッとするほど、いやだ。

 もしこのことがわからなければ、反対の立場で考えてみればよい。あるいはあなたが子どものころを思い出してみればよい。あなたにも最後の逃げ場というものがあったはずだ。またプライバシーを侵されて、不愉快な思いをしたこともあったはずだ。それはもう、理屈を超えた、人間的な不快感と言ってもよい。自分自身の魂をキズつけられるかのような不快感だ。

それがわかったら、あなたは子どもに対して、それをしてはいけない。たとえ親子でも、それをしてはいけない。子どもの尊厳を守るために。

(はやし浩司 家の間取り 子ども部屋 プライバシー 子どもの尊厳 家出 
はやし浩司 ナイフによる殺傷事件 子どもの持ち物 スパイテスト スパイ・テスト)
(040401)


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そう言えば、「子どもにはナイフを与えろ」と説いていた教育評論家がいた。
最後は、麻薬所持で逮捕され、しばらくこの世界から姿を消したが、またその名で、
原稿を書き始めているという。
いいのかなあ?

それについて書いた原稿が、つぎのもの。

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●ニセ科学(pseudo science)

In Japan very strangely most of the young people believe that each man’s personal character is decided by the blood type. It is only one of pseudo science, which widely spread throughout Japan.

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家具屋の店員に、重い家具を搬入してもらった。
そのとき、私が「こんな家具、地震で倒れたら、たいへんだなア」と、ふと漏らすと、その店員は、こう言った。
「重いから、倒れません」と。

私は、その言葉を聞いて、あっけに取られた。

血液型による性格判定についても、しかり。
つまり科学性、ゼロ!

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「Imidas、時事トレンド」の中に、こんな記事が載っていた。同志社大学教授の左巻健男氏の書いたものだが、「人はなぜ、ニセ科学を信ずるのか?」というのが、それ。

 左巻氏は、ニセ科学として、いくつかの例をあげている。そのひとつが、マイナスイオン。

(1) マイナスイオンとは、化学で学ぶ「陰イオン」ではなく、これに近いのが、大気科学の「負イオン」である。「滝にマイナスイオンが発生している」と言うばあいには、負イオンだが、これが健康によいという根拠はない。

プラスイオンは「吸うと心身の状態が悪くなる」のに対して、マイナスイオンは空気を浄化し、吸うと気持ちのイライラが解消し、ドロドロ血はサラサラに、アトピーや高血圧症にも効き、健康にもいい」というのである。

これは「納豆ダイエット」でねつ造が発覚したテレビ番組「発掘、あるある大辞典」(フジテレビ系)が火付け役で、1999年から2002年にかけて、特集番組で驚くべき効能がうたわれた。

そこから有名企業までが、マイナスイオン類似の効果をうたう商品を製品化し、エアコン、冷蔵庫、パソコン、マッサージ機、ドライヤーや衣類、タオルなど、広範囲の商品が市場に出されるに至った(以上、P162)、と。

 ニセ科学は、血液型による性格判定だけではなかったというわけである。電気店へ行くと、たしかにその種のうたい文句を並べた商品は多い。私はマイナスイオンにとくにこだわっていたわけではないが、今度、新しく購入した冷蔵庫にも、それがあった。

 しかし左巻氏に言わせると、それもニセ科学だったとは! しかも火付け役が、あの「発掘、あるある大辞典」だったとは! 

 左巻氏は、こうつづける。「マイナスイオン測定器でこれらを測定すると、1ccあたり、数10万個との数値を示すが、空気の分子数とくらべると、微々たる数値にすぎないことに注意を要する」(同書)と。

 だからといって、つまりImidasにそう書いてあったからといって、左巻氏の意見を全面的に信ずるのもどうか、ということにもなる。しかしここは、やはり科学者である左巻氏の意見を尊重したい。相手が、「発掘、あるある大辞典」では、話にならない。

 左巻氏も書いているが、本当の問題は、こうしたニセ科学にあるのではなく、「人はなぜ、
ニセ科学を信ずるのか?」という部分。

 もうひとつ、こんな例をあげている。

(2) 容器に入った水に向けて、「ありがとう」と「ばかやろう」の「言葉」(文字)を書いた紙を張り、その水を凍らせる。

すると「ありがとう」の水は、対称形の美しい六角形の結晶に成長し、「ばかやろう」の水は、崩れた汚い形の結晶になるか、ならない。

ゆえに「水が言葉を理解する」と主張する『水からの伝言』(江本勝著)という本が話題になった。

水という物質が、言葉によって影響を受けるということはない(同書)、と。

 こんなアホなことは、だれにでもわかる。何も、左巻氏の説明を借りるまでもない。しかし、だ。こんなアホな説を根拠に、教育界でも、「きれいな言葉を使いましょう」運動が広まったという。

 理由は、「人間の体の6~7割は水だから」と。が、批判が高まると、「それに加担した教育団体は、ホームページからその授業案を削除したが、いまもどこかで、こうした(道徳)の授業が行われている」(同書)と。

 しかし、『水からの伝言』とは何か? 江本勝という人物は、どんな人物なのか? 少し前、麻薬を所持していて逮捕された教育評論家がいた。彼は以前、「子どもにはナイフを持たせろ」「親が子どもを信頼している証になる」と説いていた。

 その教育評論家は、都会で子どもたちによるナイフ殺傷事件がつづくと、いつの間にか、自説をひっこめてしまった。私は、左巻氏の意見を読みながら、その教育評論家のことを思い浮かべていた。

 で、さっそくヤフーの検索エンジンを使って調べてみると、それは、そこにあった。

いわく、「私たちは、水の結晶写真技術に基づいて、愛・感謝の気持ちが水を美しく変化させるということを、実証してきました。水をきれいにすることにより、私たちの心身もきれいになり、健康を取り戻し、本来持っている才能を開花することができるのです。水が変われば世界が変わります。いっしょに波動と水の可能性を探究しましょう」(「水からの伝言」HPより)と。

 どうやら、本気らしい。

 しかし……? 「?」マークを、1ccあたりに存在する水の分子の数ほど、つけたい。その数は、約3x10の22乗!(ヤフー・知恵袋参照)

 数字で表してみると、こうなる。

300,0000,0000,0000,0000,0000個!

 しかし、左巻氏ではないが、どうして人は、こんな珍説を信ずるのだろう。あの占星術にしても、そうだ。科学性は、さらに低い! ゼロどころか、ゼロにもならない!

 これも教育の欠陥といえば、それまでだが、その先には宗教があり、カルトもある。けっして、軽く考えてはいけない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist ニセ科学 非科学 納豆ダイエット マイナスイオン マイナス・イオン 水からの伝言 水の結晶)







最終更新日  2009年07月20日 07時30分12秒
2009年06月14日
カテゴリ:教育問題
●中国の教育の現状

++++++++++++++++++

中国の教育の現状を知ると、そのまま
それが40年前、30年前の日本であることを知る。

中国は日本を追いかけているのか。
それとも日本とは別の道を進みつつあるのか。
あるいは日本も中国も、同じなのか。

Record Chinaは、中国の教育にかけるのは、
「議論」と「消化」であると看破している。

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Record Chinaは、中国の教育の現状について、『中国では、哲学者は育たない』と出して、つぎのように伝える(ヤフー・ニュース・09・06・14日より転載)

『2009年6月、米紙ボストングローブは記事「米国人学生の目から見た中国の教育」を掲載した。米国の私立小学校、公立中学校を卒業した学生が、中国の教育について語った。12日、鳳凰鋭評が伝えた。

米国の教室では子どもたちはいつもわいわいと騒いでいた。一方、北京の学校は厳粛な空気に包まれて息苦しいほど。しかしボストンの学校で学んだことは北京の学校で学んだことよりも多かったように思う。

中国の勉強方法といえば、教科書の暗唱、黙って問題を解く、あるいは声をそろえての発話練習など。すべては受験の準備にあてられている。それも仕方がないところだろうか、中国の高校や大学は点数だけで計られるからだ。中国の学生が必死に勉強するさまは、名門ハーバード大学を目指す米国学生ですらもかなわないだろう。

ただし自由討論や自分なりの解決方法の模索に慣れた米国人学生にとって中国の授業はあまりにも空虚で制約されたもののように思える。中国では1クラスには平均45人の学生がいる(ボストンでは28人)。学生の数も教師が一人一人に気をかけることを難しくしている。

中国の教育課程は自由度が少なく、数学もコンピューターの授業もただ一つの解決方法しかない。作文の機会も少なく、読む本といえば歴史や古典、漢詩ばかりで小説を読むことは少ない。しかしこうしたなか、学生は議論の機会を持てず、学んだ知識を消化することができない。米国人にとっては深く思索すること、決断することこそが教育の重要な一部であるが、中国の中高生にはほとんどこうした経験がない。中国の学校にも多くの長所があろうが、しかし哲学者を育てるものではないようだ』(以上、翻訳・編集KT)。

 この記事の中で、とくに気になったのは、「学生は議論の機会を持てず、学んだ知識を消化することができない」という部分。
「議論」と「消化」。
さすがアメリカの学生。
鋭いことを指摘している。

(1)議論

 日本の教育の最大の欠陥といえば、「議論しない」という点にある。
「議論を許したら、教育がバラバラになってしまう」と考える風潮すらある。
明治の昔から、さらに江戸時代の寺子屋の昔から、この日本では、「もの言わぬ従順な民づくり」が基本だった。
「教育」という言葉にしても、「教え育てる」(田丸謙二先生指摘)。
さらに「学ぶ」という言葉も、「マネブ」、つまり「まねる」に由来するという(同)。

 つまり上意下達方式が、日本の教育の(柱)になっている。

(2)消化

 知識や情報は、脳の中で一度加工されて、はじめて意味をもつ。
加工されない知識や情報は、ただの知識であり情報。
田丸先生は、「そんなものは、今ではインターネットで自由に手に入れることができる」と言っている。
つまり無価値。
そういう無価値なものを、価値あるものと錯覚しているところに、日本の教育の最大の悲劇がある。
(ちょっと言いすぎかな?)

 もちろん、だからといって情報や知識を否定しているのではない。
大切なことは、情報や知識を得たら、それを頭の中で加工すること。
わかりやすく言えば、「自ら考えること」。
田丸先生は、「Independent Thinker」(自分で考える人)という言葉を使って、それを説明している。
「教育では、自分の頭で考えさせることが、何よりも大切」と。

 1971年にペキン大学に留学したことのあるD・キシア君(現在、私の親友)は、こう話してくれた。
「みな、中国の学生はテープレコーダーみたいだった」と。
つまりみな、同じようなことしか、言わなかった、と。
同じようなことを田丸先生も、私に話してくれたことがある(YOUTUBEに収録)。
それから40年。
中国はいまだに、その流れの中にあるらしい。

 では、この日本はどうなのか?
だいじょうぶなのか?
その一例として、私はテレビ番組の、あのバラエティ番組をあげる。
何もバラエティ番組が、日本人の脳みそに影響を与えていると思っているわけではない。
ああいう番組が無数にあり、つぎからつぎへと同じような番組が生まれているというところに、日本人の思考能力の貧弱性が集約されている。
視聴率を稼げるから、テレビ局もそういった番組を作りたがる。
つまり日本人が総バラエティ番組化しているのではなく、日本人自身が、そういう番組を下から支えている。

 脳に飛来した情報を、ペラペラと口にしているだけ。
だれも考えない。
何も考えない。
だからいくら話をしても、その話は、そのままどこかへ消えていく。
ただの雑談。
もちろん哲学を生み出すなどということは、夢のまた夢。
言うなれば、情報のゴミ。
そのゴミの中に埋もれながら、私たちは生きている(?)。
(これも、ちょっと言いすぎかな?)

 ともあれ、「議論」と「消化」。
この記事を読んで、私はこの2つの言葉に、ドキッとした。
つづいて、「米国人にとっては深く思索すること、決断することこそが教育の重要な一部であるが、中国の中高生にはほとんどこうした経験がない」とまで言い切っている。
「さすが、アメリカの学生!」と、私は感心した。
と同時に、「いつになったら、日本の学生も、そういうことを言うことができるようになるのか」と、不安になった。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 中国の教育の現状 中国の教育 情報と知識 議論 debate)






最終更新日  2009年06月14日 08時53分50秒
2009年05月17日
カテゴリ:教育問題
●田丸謙二先生

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今度、恩師の田丸謙二先生が、化学会の化学遺産委員会の
ほうで、インタビューを受けました。
田丸謙二先生の生涯の履歴書のようなものです。
先生から原稿を送ってもらいましたので、そのまま紹介
させてもらいます。

+++++++++++++++++++++++

林様:

例の「名士インタビュー」の最終原稿です。 どうせ文部科学省の連中は読んでくれないと思いますので、「要約」をつけました。 私は大変に大事な教育改革だと思いますが、最近の様子を知らせてください。 日本人は自分の意見を自立して考えて外国人と討論でき、debate ができるようになれるにはどうしたらいいのでしょうか。特に外務省の役人の人たちなど、矢張り小学校の頃から訓練しないといけないのではないでしょうか。
率直なご意見お待ちしています。

田丸謙二

この原稿に写真がつきます。どんなのがつくか分かりませんが。
(2009年5月16日)

*****************************

【田丸謙二先生へ】

おはようございます!
ひざの関節のぐあいは、いかがですか?
たった今、送っていただいた原稿を、再度、読ませていただきました。
(先日、プロトタイプの原稿を送っていただきましたので、今回が、2回目という
ことになります。)

Independent Thinkerについてですが、まず第一に、日本の社会のしくみそのものが、
独立してdebateできるようなしくみになっていないということです。
「もの言わぬ従順な民づくり」が、今でも、教育の基本です。
それではいけないと考えている教師も多いようですが、結局は押さえこまれてしまって
います。
あるいは限られたワクの中に、安住してしまっている(?)。
ワーワーと自己主張するような子どもは、集団教育の場では、やりにくいというわけ
です。

これについては、江戸時代の寺子屋教育、さらには明治に入ってからの国策教育が
原点になっていますから、改めるのは容易なことではないでしょうね。
「もの言わぬ従順な民」に教育させられながら、またそういう教育を繰り返しながら、
当の本人たちが、それに気づいていないのですから。

第二に、私自身が、そういう世界に生きてみて実感しているのですが、この日本では、
(力のある子ども)(力のある人)を、どんどんと登用していくというシステム、
そのものが、できていません。
先生がいつもおっしゃっているように、トコロテンのように(流れ)に乗った人は、
それなりのコースを歩くことができますが、そうでない人は、そうでない。

たとえば私の息子たちですが、二男は、現在、インディアナ大学(IU)で、スーパー
コンピュータの技師として働いています。
キャンパスを車で行くだけで、2時間もかかるという広大な大学です。
(多分、先生もご存知かと思いますが……。)

二男はそれを操って、世界中のスパコンをリンクさせるというような仕事をしています。
で、今は、EUが開発した量子加速器(映画『天国と地獄』にも一部、出てきましたが)、
そこから衛星を使って送られてくるデータの分析をしているそうです。

浜松のランクの低い高校を出て、アメリカへ渡り、ワチェタ大学→ヘンダーソン州立大学、
コンピュータ・ソフトウェア会社を経て、IUに移りました。
私はこういうことが自由にできるアメリカのものすごさに、驚いています。

一方、二男の嫁は、ヘンダーソン大学のアメリカ文学部を、主席で卒業したこともあり、
2年前、日本でいう司法試験に合格。
全額奨学金を得て、同じIUに通っています。
2児の母親が受験勉強をして、です。
これもまた日本では考えられないしくみです。

で、三男はどうかというと、横浜国大をセンター試験2位の成績で入学しながら、中退。
オーストラリアのフリンダース大学の語学校を卒業、(つまり卒業ということは、大学の
専門学部への入学資格を取得したという意味です。たいはんの留学生は、入学資格を
取得できないまま、帰国しています。)
そのあと航空大学に入学、現在は、J社で、B-777の最終操縦訓練を受けています。

で、この三男でおもしろいのは、学生時代に、世界的規模のアマチュアビデオコンテスト
(英語名:Fish-eye)で、グランプリ(第一位)を獲得したという点です。
表彰式はロシアのモスクワでありました。

しかし、です。
ここからが日本です。
三男は自分で制作したビデオ類を、昨年、すべてYOUTUBEから取り下げて
しまいました。
詳しくは書けませんが、そういった圧力を、どこかで感じたのでしょう。
つまりこの日本では、(力のある人)が伸びることもできず、「型」にはめられ、
押し殺されてしまうのです。
で、今は、ビデオ制作から、完全に遠ざかってしまっています。

こうした(しくみ)は、私も自分の人生を通して、いやというほど、思い知らされて
います。
なんせ、そこらの出版社の編集部員ですら、そういう(しくみ)に迎合しているのです
からおかしいですね。
(東京の出版社からときどき、客がきますが、みな、手ぶら。
駅からの送り迎えにあわせて、食事の接待などを、平気で私たちにさせたりします。
「ああ、この男は、私をそういうふうに見ているのだな」ということが、それでよく
わかります。)

こういった(しくみ)を変えていくのは、たいへんなことです。
それこそ教育のしくみ、そのものを、根底から変えていかねばなりません。
端的に言えば、現在のように、学校しか道がなく、学校を離れて道がないという(しくみ)
を変えていかねばなりません。

ご存知のように、大学では、EUのように単位の共通化をするという方法もありますが、
たとえば小中学校レベルでは、ドイツやフランス、イタリアのように、「クラブ制」を
もっと導入していきます。
日本でも、あちこちで始まりつつありますが、官製クラブでは、意味がありません。
学校教育そのものが、現在、教育機関として満足に機能できない状態にあります。
教師たちが忙しすぎるというのも、深刻な問題です。
どうしてその上、「クラブ」?、ということになります。
民間に委譲できる部分は、思いきって移譲すればよいのです。

そのEUでは、クラブ制を活用し、その費用は国が負担しています。
(額は、国によってちがいますが、同じくクラブの費用も国によってちがいます。)
もっとも現在のままクラブ制を日本で導入したら、進学に有利なクラブのみが繁盛する
という結果になってしまうと思いますが……。

つまりこの日本では、debateできる国民は求められていないということです。
自分の意見を、自分の名前で発表していく……。
何でもないことのようですが、それができません。
この私についても、「あの林は、共産党員だ」と書いているBLOGもあります。
政治を批判したら、共産党員というわけです。
(最近では、「北朝鮮のミサイル迎撃反対」という意見を書いたら、即刻、「売国奴
BLOG」なるもののリストに、私の名前が載ってしまいました。)

まるで日本全体が、歌舞伎か相撲、茶道、華道、さらには、能の世界みたいです。
が、もちろんこれではdebateなど、求むべくもありません。
Debateしたくても、相手が逃げてしまいます。
毛嫌いされてしまいます。

……とまあ、愚痴ぽくなってしまいました。
で、自分の人生を振り返ってみて、こうも思います。
「私はたしかに自由を求めて生きてきたが、本当にこれでよかったのか?」とです。
あのままどこかの大学に入り、研究者としての道を歩んだほうがよかったかもしれない、
とです。
ワイフもときどき、そう言います。
そのほうがこの日本では、生きやすかったのかもしれません。






最終更新日  2009年05月17日 10時23分22秒
カテゴリ:教育問題


しかし悪いことばかりではありません。
この40年間だけをみても、日本は大きく変わりました。
今の今も、変わりつつあります。
不十分かもしれませんが、やっと日本も、民主主義に向けて産声をあげつつあるという
ところではないでしょうか。
(その一方で、復古主義的な動きもありますが……。)

その私も満61歳。
先生が東京理大へ移られた年齢です。
で、もう遠慮はしない。
言いたいことを言い、書きたいことを書く。
そういう姿勢に変わってきました。
「自由」を満喫できるのは、これからだと思っています。

最後になりますが、先生にはいつも、本当に励まされます。
私の知人の中には、(そのほとんどがそうですが……)、定年退職と同時に、
ジジ臭くなってしまい、隠居だの、旅行だの、畑作だの、そんなことばかりして
いる人がいます。
そういう人たちを見るにつけ、「どうしてこの人たちは、もっと天下国家を論じ
ないのだろう」と不思議でなりません。
残り少ない人生を、若い人たちに還元していく。
それこそが私たちの世代の者の使命だと私は思うのですが……。

言いかえると、長い人生の中で、日本という組織の中で、そのように(飼い殺されて
しまった)ということにもなりますね。
「牙を抜かれてしまった」と言い換えてもよいかもしれません。
そしてなお悪いことに、今度はそういう人たちが、保守主義、あるいは保身主義に
陥ってしまっている!
過去を踏襲しながら、踏襲しているという意識そのものがない。

もっともそれをしないと、自己否定の世界に陥ってしまいますから……。
だから私のような人間は、嫌われるのです。
私のような人間に、成功(?)してもらっては、困るのです。
そういう一般のサラリーマンたちがもっている潜在的な意識は、あちこちで、
よく感じます。

またまた愚痴ぽくなってきました。
実のところ、この2週間ほど、スランプ状態で、脳みそが思考停止状態にありました。
思考停止というより、「もうどうでもよくなってしまった」という感じでした。
「どうしてこの私が、日本や、人間や、地球の心配をしなければならないのだ」と、です。
「どうせ私は、だれにも相手にされていないではないか」と、です。

しかしまたまた先生からのメールをもらって、元気100倍!
一気に、ここまで(計6ページ)も書いてしまいました。
今朝は指の動きも軽快です。
久しぶりです。
ありがとうございました。

なおいただいたインタビュー記事ですが、先生のおもしろさが、まったくなく、
私はつまらないと思います。
先生がいつか話してくださった、紅衛兵時代の中国や、東大紛争時代の理学部の話
のほうが、ずっとおもしろいです。
プリンストン大学のアインシュタイン博士の話でもよいです。
先生の父親が、理学研究所でシャワールームを作った話でもおもしろいです。
あるいは東京理大の入試問題の話とか、不合格になった学生の親から抗議を受けた
話とか……など。

私が先生なら、そういう話をまとめて自伝にします。
あらいざらい、この際、世界を蹴とばすようなつもりで書きます。
(私も、現在、そういう心境になりつつあります。)
つまりこの記事は、たしかに「遺産」ですが、(まだ生きている人に向って、
「遺産編集」というのも失敬な話だと思いますが……)、先生はまだ遺産ではない。
「現役」です。
その現役であることに感動しています。

実のところ、先生が数年前、アメリカの化学の教科書を翻訳出版したと聞いたとき、
あるいは50歳を超えて、中国語を勉強し始め、中国科学院で中国語で講演をした
と聞いたとき、そのつど、私は心底、励まされました。
「人間は、やる気になれば、できるのだ」と、です。

先生と私とでは、月とスッポンですが、いつも月をながめてがんばっています。
(実のところ、今のこの日本で認められるということは、あきらめています。
だいたい、この日本を相手にしていないのですから……。)

どうかお体を大切に!
関節の具合はいかがですか?
血栓も無事防げたということは、メールを読んでわかりました。
よかったですね。

では……。

先生からいただいたインタビュー記事は、そのままBLOGなどに収録しますが、
よろしいですか。
不都合な点があれば、知らせてください。

なおたびたびですみませんが、先生から預かっている原稿が、山のようになっています。
こうした原稿も、随時、私のHPやBLOGなどで掲載してもよろしいでしょうか。
(現在、掲載しているのは、許可をいただいた分のみです。)

また気分のよいとき、返事をください。
待っています。

林 浩司






最終更新日  2009年05月17日 10時22分53秒

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