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楽天・日記 by はやし浩司

楽天・日記 by はやし浩司

全14件 (14件中 1-10件目)

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●宗教

2009年04月04日
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カテゴリ:●宗教
●神と悪魔

+++++++++++++++++

神が、「善」の集合体であるとするなら、
悪魔は、「悪」の集合体ということになる。

つまり人間の脳の中には、無意識のまま集合化された
部分がある(ユング)。
何10万年という長い年月を経て、進化論的に
集合された部分と考えてよい。
それが「善」の根源であり、「悪」の根源と
考えてよいのでは?

++++++++++++++++++++

が、ただの無意識かというと、そうでもない。
ときにこの無意識が「意識」として、具現化することがある。
幻聴、幻視、幻覚でもよい。
健常な人でも、「夢」という形で、それを見ることがある。
ともかくも、人間がそれを意識的にとらえることがある。
それが「神」であり、「悪魔」ということになる。

たとえば熱心な信仰者は、近くに神や、仏を感じることがあるという。
「祈っていたら、神の気配がした」とか、
「読経をしていたら、仏の慈悲に包まれた」とか、など。

これは無意識下の集合体が、意識の世界で認知されたときに起こる
現象と考えられなくもない。

で、さらに最近では一歩、研究が進み、そうした善悪を司って
いるのが、辺縁系の中の扁桃核(扁桃体)ということもわかってきた。
何かよいことをすると、それが扁桃核に伝えられ、そこでの指令に応じて、
モルヒネ様の物質が脳内に分泌される。
それが脳の中を、甘い陶酔感で満たす。
「いいことをすると、気持ちいい」という感覚は、まさに、それによって生まれる。

●性善説

人間が善か悪かということになれば、(今、ここに存在する)という
事実が、(善)の証(あかし)ということになる。
もし人間が、もともと悪であるなら、人間は、とっくの昔に絶滅していたことになる。
たとえば同類の人間を平気で殺したり、食べたりするなど。

この世では、善なるものだけが、自然淘汰の世界で、生き延びることができる。
動物にせよ、植物にせよ、それには例外はない。
言い換えると、無意識下に集合された部分は、基本的には善ということになる。
が、善だけでは生きていかれない。
種族間での闘争、個々の生存競争などなど。
そこから「悪」が生まれた。
言うなれば、心の闇の部分ということになる。

そのため人間は生きる過程の中で、常に、善と悪を戦わせている。
「よりよい自分でいよう」という欲求と、「他人を蹴落としてでも」という欲望。
この2つの欲望のはざまで、人間は、もがき、苦しむ。
が、結果として、いつも「善」が勝ち、人間は、現在に至るまで生き延びてきた。
繰り返すが、もし人間が悪なる存在であったとするなら、人間はとっくの昔に、
自然淘汰されたはずである。
で、こうした闘争は、そのほとんどは無意識下でなされるため、
人間がそれを意識することはない。

が、ここにきて、人間の性善説に対して、大きな疑問が起きてきた。
「このままでは、人類はもちろん、ありとあらゆる生物が死滅するかもしれない」
という可能性である。

さらに深刻なことに、人間は自らを、(自然)から切り離してしまった。
この地球上のありとあらゆる生物は、単独では生きていかれない。
たがいに依存しあいながら、またたがいに連鎖を保ちながら、生きている。
またそれが「善」の証(あかし)ということにもなる。

たとえばオールマイティ(全能)の動物がいたとしよう。
食物連鎖の頂点に立ち、こわいものがない。
他の動物はもちろん、あらゆる植物ですら餌として、食することができる。
もしそんな動物がいたとしたら、その動物は、やがて地球上すべてに
はびこることになり、今度は、絶滅する。
食物をすべて食べつくしてしまうからである。
人間が、そういった動物になりつつある。

●新しい自然論

「自然を大切にする」ということは、自らを、自然の一部として認め、
その中に身を置くことである。
つまり「大切にする」という(対立的)なものではなく、「自然の中で
謙虚に生きる」という、(同調的)なものである。
もっと言えば、私たちとて、「食べられる存在である」という謙虚さ。
その謙虚さを保つことをいう。

この謙虚さを忘れたとき、人間は、そのまままっしぐらに、絶滅へと向かう。
つまりそれが「悪」ということになる。
「悪魔」でもよい。

結論が飛躍するが、その反対にあるものが、「善」の根源ということになる。

(このつづきは、また別の機会に考えてみたい。)
…to be continued


Hiroshi Hayashi++++++++April. 09+++++++++はやし浩司






最終更新日  2009年04月04日 07時20分06秒


2009年01月13日
カテゴリ:●宗教
●金権教

+++++++++++++++++

お金がすべて……。
お金しか、信じない。
そういう人は、多い。
称して、「金権教」という。

+++++++++++++++++

●戦争の後遺症

あの戦争が残した最大の後遺症と言えば、
金権教と考えてよい。
それまでは天皇が神だった。
その天皇が人間宣言をして、神の座をおりた。
とたん、多くの日本人は、行き場を失ってしまった。
心のより所を失ってしまった。
戦後しばらくの間、放心状態になってしまった人も多い。
戦後、雨後の竹の子のように新興宗教が生まれたのも
そのためと考えてよい。

が、中でも最大の新興宗教といえば、金権教ということになる。
「マネー教」と言ってもよい。
「マネーがすべて」「マネーがあれば幸せ」「マネーがあれば、どんな
夢もかなう」と。
基本的には、現在の日本は、いまだにその(流れ)の中にある。

かなり大ざっぱな書き方をしたが、大筋ではまちがっていない。

●仕事第一主義

ひとつの価値観を妄信すると、他の別の価値観が犠牲になる。
これは私の価値観というよりは、私たちの世代に共通した価値観と言ってもよい。
今でこそ、「仕事より家族のほうが大切」と考える人は多い。
しかし私たちが、20代、30代のころは、そうではなかった。
「仕事か家族か」と問われれば、みな、まちがいなく「仕事」を選んだ。
「仕事あっての家族」と考える人もいた。

だから「仕事」という言葉は、それ自体が、トランプでいえば、ジョーカー
の働きをした。

A「明日、会合に出てくれますか?」
B「私は、仕事がありますから」
A「ああ、それなら結構です」と。

戦前の「お国のため」が、「会社のため」になった。
戦前の「兵士」が、「企業戦士」となった。
仕事第一主義は、そこから生まれた。
「会社人間」という言葉も、そこから生まれた。

しかしそれを裏から支えたのが、金権教ということになる。

●ぜいたくが当たり前

お金がなければ、不幸になる。
それは事実。
しかしお金では、幸福は買えない。
それもまた事実。
お金で私たちは欲望を満足させることはできる。
しかしその欲望には、際限がない。

戦後生まれの私たちと、今の人たちを比較するのもどうかと思うが、
いろいろな場面で、私は、その(ちがい)を強く感ずる。
とくに今の若い人たちの(ぜいたく)を見たりすると、ときに、それに
ついていけないときがある。

もう15年近くも前のことだが、こんなことがあった。
息子たちが、スキーに出かけた。
スキーをするということ自体、私たちの世代には、考えられないことだった。
どこかの金持ちの、最高のぜいたくということになっていた。
が、その息子が、手ぶらでスキーにでかけ、手ぶらで、スキーから帰ってきた。
「荷物はどうした?」と聞くと、息子たちは、平然とこう答えた。
「宅急便で送った」と。

私には、その(ぜいたくさ)が理解できなかった。
そこで息子たちを叱ったのだが、少しあとになって、そのことを友人に話すと、
「今は、みな、そうだ」という返事をもらった。

あとは、この繰り返し。
それが無数に積み重なって、現代という時代になった。

●あるのが当たり前

しかし今はよい。
何とか日本の経済は、持ちこたえている。
しかし日本の経済が、後退期に入ったら、どうなるか。

たとえば今では、子ども部屋といっても、完全冷暖房が常識。
夏は、一晩中、冷房をかけっぱなしにしている。
冬は、一晩中、暖房をかけっぱなしにしている。
今の子どもたちに、ボットン便所で用を足せと言っても、できないだろう。
何でも、「あるのが当たり前」という生活をしている。

これではいくらお金があっても、足りない。
足りないから、その負担は、結局は、親に回ってくる。
ざっと見聞きした範囲でも、現在、親から仕送りしてもらっている若い夫婦は、
約50%はいるとみてよい。
結婚式の費用、新居の費用、出産の費用などなど。
さらには子ども(=孫)のおけいこ代まで。

しかしこうした(ゆがんだ生活観)を支えているのも、金権教ということになる。
「お金を出してやれば、親子の絆(きずな)は深まるはず」
「お金を出してやれば、子どもは、それに感謝するはず」と。

子どもについて言えば、クリスマスのプレゼントにせよ、誕生日のプレゼントにせよ、
より高価なものであればあるほど、よいということになっている。

●金権教と闘う

金権教といっても、まさにカルト。
一度自分の体にしみついたカルトを抜くのは、容易なことではない。
長い時間をかけて、その人の人生観、さらには人生哲学になっている。

「あなたはまちがっていますよ」と言っても、意味はない。
その人は、かえって混乱状態に陥ってしまう。
言うなら言うで、それに代わる別の価値観を容易してやらなければならない。
……と書いたが、それは私たち自身の問題でもある。

金権教と闘うといっても、金権教自体と闘っても、意味はない。
自分の中に新しい価値観を構築し、その結果として、金権教と闘う。
金権教を自分の中で、無意味化する。

が、だからといって、マネーを否定せよとか、マネーには意味がないとか、
そんなことを言っているのではない。
現代社会では、マネーに背を向けては、生きていけない。
しかし毒されすぎるのも、危険と、私は言っている。
へたをすれば、人生そのものを、棒に振ってしまう。
事実、そういう人は多い。

そこでもしあなたに子どもがいるなら、育児の場で、金権教と闘ってみよう。

(1) 子どもには、ぜいたくをさせない。
(2) 子どもには、高価なものを買い与えない。
(3) 子どもには、必要なものだけを買い与える。

少しテーマがちがうが、あのバートランド・ラッセル(一八七二~一九七〇)は、
こう書いている。

「子どもたちに尊敬されると同時に、子どもたちを尊敬し、必要なだけの訓練は施すけれど、決して程度をこえないことを知っている、そんな両親たちのみが、家族の真の喜びを与えられる」と。

要するに、「程度を超えない」ということ。







最終更新日  2009年01月13日 09時48分50秒
2008年09月14日
カテゴリ:●宗教
●和式仏教の終焉(2)

+++++++++++++++++

日本の仏教は、何からなにまで、おかしい。
これについては、このところ毎日のように
考えている。

「葬式仏教」と揶揄(やゆ)されるように
なってから久しいが、さらに最近では、
それが「ビジネス仏教」になっている。
金儲けの道具として、仏教が利用されている。
人の死が、利用されている。

+++++++++++++++++

「私はカルトを信じていない」と豪語する人でも、そのカルトを信じて
いる人は、いくらでもいる。

葬儀に始まって、盆供養にしても、~回忌という法事にしても、カルトそのもの。
「葬儀には僧侶は、必要」
「僧侶の読経がなければ、死者は成仏できない」
「戒名がなければ、成仏できない」などということを信じているのは、
立派なカルト。

最近私も知って驚いたが、同じ宗派でも、別の寺で葬儀をしたら、ほかの寺では、
それを受け入れてくれないそうだ。
たとえば私の母は、現在、静岡県の浜松市にいる。
おそらく最期は、この浜松市で迎えることになるだろう。
で、私は葬儀はこの浜松市で、そして49日の法要は、郷里のG県のM市でと、
考えていた。

が、それができない、と。

どういうしくみになっているのか、私にはよくわからないが、こういうケースのばあい、
郷里の寺は、母の遺骨を受け取ってくれないという。
もちろん郷里にある墓の中へも、入ることができないという。
地元の葬儀社の責任者の人が、そう教えてくれた。

ヘ~~~エ?

これひとつとっても、日本の宗教は、「型」のかたまりということがわかる。
「作法」「作法」「作法」……。
作法ばかり。

どうしてこういう馬鹿げた仏教になってしまったのか?

今朝私は、法要の原点となっている「地蔵十王経」が、鎌倉時代にできた、
偽経であるということについて書いた。
が、寺の住職で、それを教えてくれた人はだれもいない。
おそらくみな、偽経であることを百も承知の上で、過去700年以上にわたって、
信者をだましつづけている。

もちろん、金儲けのためである。
「地蔵十王経」は、寺の金儲けの方便としては、まことにもって、都合がよい。
死者を成仏させるためと言いながら、49日まで、1週間ごとに、信者から布施を
取ることができる。

もしこの日本に、誠意があって、勇気がある僧侶がいたら、こう言ってほしい。
「戒名などというものは、日本だけにある奇習です」
「葬儀に僧侶による読経がなければ、成仏できないというのは、嘘です」
「初七日だの、49日だの、そんなものは、鎌倉時代にできた偽経がもとになっている、
インチキです」
「盆の供養などというのは、アフガニスタンの奇習が伝わっただけです」と。

もしそんなことを言ったら、日本の仏教は、総崩れになってしまうだろう。
しかしそれはそれで仕方のないことではないか。
世界的に見れば、大乗仏教(北伝仏教)がかろうじて残っている国は、
この日本だけ。
アフガニスタンにもない。
中国ではごく一部。
韓国でも、キリスト教が主流。
もちろん本家のインドには、ほとんど何も残っていない。
(仏陀は、クリシュナの弟子というふうに、位置づけられている。)

しかも日本の仏教は、どこかオカルト的。
(教え)によるというよりは、儀式が中心。
が、これでは、日本の仏教に、未来はない。
それともこれから先も、ずっと、僧侶たちは、私たち日本人をだましつづけると
でもいうのだろうか。

今、多くの日本人が、日本の仏教のもつ(おかしさ)に気がつき始めている。
その(おかしさ)を、日本の僧侶たちも、謙虚に反省してほしい。
門構え、建築物だけをいくら立派にとりつくろっても、中身がなければ、
ソッポを向かれるだけ。
あるいは原点にもう一度立ち返って、仏教がどうあるべきか、再構築してほしい。
鎌倉時代の昔ならいざ知らず、現在の庶民は、あなたがたが考えているほど、
馬鹿ではない。
少なくとも、人の(死)を、もっともらしい嘘でくるみながら、もてあそぶことだけは、
もうやめてほしい。

(付記)
もし釈迦が生きていて、この日本の現状を見たら、釈迦だって怒るだろう。
戒名なるものがあるのはまだ許せるとしても、その戒名には値段があって、
その戒名に応じて、葬儀の仕方もちがう?

このひとつをとっても、釈迦が説いた仏法の精神と違背していることは、
明らか。

「葬儀に僧侶を呼ばなければ、成仏できませんよ」とか、「3代先まで、たたりがでますよ」
とか言って、信者を脅す。
その手法は、まさにカルト。
そこらのカルト教団がとっている手法と、どこもちがわない。

もしそこに地獄に落ちるような人を見かけたら、その人のために救済の手を
さしのべてやることこそが、仏道の本来の精神というものではないのか。

(妻へ、息子たちへ)

私が死んでも、ぜったいに僧侶を呼ぶな。
読経などあげさせるな。
みなで、お別れ会をすればよい。
もし晃子がさみしがっているようなら、どうか、晃子を支えてやってほしい。
話し相手になってやってほしい。

2008年9月14日、しかと記す。






最終更新日  2008年09月14日 23時01分09秒
カテゴリ:●宗教
々たる迷信】(初七日、四十九日の法要)

●地蔵十王経

「地蔵十王経」の由来については、ウィキペディア百科事典が、詳しく書いている。
難解な文章がつづくが、そのまま紹介させてもらう。

+++++++++++以下、ウィキペディア百科事典より++++++++++

仏教が中国に渡り、当地の道教と習合していく過程で偽経の『閻羅王授記四衆逆修生七往生浄土経』(略称として『預修十王生七経』)が作られ、晩唐の時期に十王信仰は成立した。また道教経典の中にも、『元始天尊説※都滅罪経』、『地府十王抜度儀』、『太上救苦天尊説消愆滅罪経』という同名で同順の十王を説く経典が存在する。

『預修十王生七経』が、一般的な漢訳仏典と際立って異なっている点は、その巻首に「成都府大聖慈寺沙門蔵川述」と記している点である。漢訳仏典という用語の通り、たとえ偽経であったとしても、建て前として「○○代翻経三蔵△△訳」のように記すのが、漢訳仏典の常識である。

しかし、こと「十王経」に限っては、この当たり前の点を無視しているのである。この点が、「十王経」類の特徴である。と言うのは、後述の日本で撰せられたと考えられる『地蔵十王経』の巻首にも、同様の記述がある。それ故、中国で撰述されたものと、長く信じられてきたという経緯がある。ただ、これは、『地蔵十王経』の撰者が、自作の経典の権威づけをしようとして、先達の『預修十王生七経』の撰述者に仮託したものと考えられている。また、訳経の体裁を借りなかった点に関しては、本来の本経が、経典の体裁をとっておらず、はじめ、礼讃文や儀軌の類として制作された経緯に拠るものと考えられている。

+++++++++++以上、ウィキペディア百科事典より++++++++++

要するに、「地蔵十王経」というのは、中国でできた偽経の上に、さらに日本でできた偽経ということ。

が、この「地蔵十王経」が、日本の葬式仏教の基本になっているから、無視できない。
たとえば私たちが葬儀のあとにする、初七日以下、四十九日の儀式など、この「地蔵十王経」が原点になっている。

+++++++++++以下、ウィキペディア百科事典より++++++++++

死者の審理は通常七回行われる。没して後、七日ごとにそれぞれ秦広王(初七日)、初江王(十四日)、宋帝王(二十一日)、五官王(二十八日)、閻魔王(三十五日)、変成王(四十二日)、泰山王(四十九日)の順番で一回ずつ審理を担当する。

ただし、各審理で問題が無いと判断された場合は次の審理に回る事は無く、抜けて転生していく事になるため、七回すべてやるわけではない。一般には、五七日の閻魔王が最終審判となり、ここで死者の行方が決定される。これを引導(引接)と呼び、「引導を渡す」という慣用句の語源となった。

七回の審理で決まらない場合も考慮されており、追加の審理が三回、平等王(百ヶ日忌)、都市王(一周忌)、五道転輪王(三回忌)となる。ただし、七回で決まらない場合でも六道のいずれかに行く事になっており、追加の審理は実質救済処置である。もしも地獄道・餓鬼道・畜生道の三悪道に落ちていたとしても助け、修羅道・人道・天道に居たならば徳が積まれる仕組みとなっている。

なお、仏事の法要は大抵七日ごとに七回あるのは、審理のたびに十王に対し死者への減罪の嘆願を行うためであり、追加の審理の三回についての追善法要は救い損ないを無くすための受け皿として機能していたようだ。

現在では簡略化され通夜・告別式・初七日の後は四十九日まで法要はしない事が通例化している。

+++++++++++以上、ウィキペディア百科事典より++++++++++

つまり人は死ぬと、7回の裁判を受けるという。

死後、七日ごとにそれぞれ、

(1)秦広王(初七日)
(2)初江王 (十四日)
(3)宋帝王(二十一日)
(4)五官王(二十八日)
(5)閻魔王(三十五日)
(6)変成王(四十二日)
(7)泰山王(四十九日)の順番で一回ずつ審理がされるという。

ただし、各審理で問題が無いと判断された場ばあいは、つぎの審理に回ることはなく、
抜けて転生していくことになるため、七回すべてやるわけではないという。

一般には、五十七日の閻魔王が最終審判となり、ここで死者の行方が決定される。これを引導(引接)と呼び、「引導を渡す」という慣用句の語源となったという(参考、引用、ウィキペディア百科事典より)。

わかりやすく言えば、最終的には、五十七目に、閻魔王が、その死者を極楽へ送るか、地獄へ送るかを決めるという。
私たちも子どものころ、「ウソをつくと、閻魔様に、舌を抜かれるぞ」とよく、脅された。

しかしこんなのは、まさに迷信。
霊感商法でも、ここまでは言わない。
もちろん釈迦自身も、そんなことは一度も述べていない。
いないばかりか、そのルーツは、中国の道教。
道教が混在して、こうした迷信が生まれた。

極楽も地獄も、ない。
あるわけがない。
死んだ人が7回も裁きを受けるという話に至っては、迷信というより、コミック漫画的ですらある。

法の裁きが不備であった昔ならいざ知らず、現在の今、迷信が迷信とも理解されず、葬儀というその人最後の、もっとも重要な儀式の中で、堂々とまかり通っている。
このおかしさに、まず私たち日本人自身が気づべきである。

「法の裁きが不備であった昔」というのは、当時の人たちなら、「悪いことをしたら地獄へ落ちる」と脅されただけで、悪事をやめたかもしれない。
そういう時代をいう。

「死」というのは、どこまでも厳粛なものである。
そういう「死」が、ウソとインチキの上で、儀式化され、僧侶たちの金儲けの道具になっている。
このおかしさ。
そして悲しさ。

仏教を信ずるなら信ずるで、もう一度、私たちは仏教の原点に立ち戻ってみるべきではないだろうか。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 地蔵十王経 初七日 四十九日 法要 偽経)







最終更新日  2008年09月14日 11時00分16秒
2008年09月12日
カテゴリ:●宗教
【戒名】(Buddah’s Name given by Priests)
In Japan we have to pay at least around 300 thousands yen (abt 3000 US dollars) to priests who give us the Buddha’s name when someone dies in your home. The price depends on the name given by them. Some people pay 1 million yen (or more), to one simple name. This is funny and strange!

●「戒名」って、何だ?

+++++++++++++++++

戒名…「僧が死者につける名前。真宗では
『法名(ほうみょう)』、日蓮宗では
『法号』という」(「日本語大辞典」)とある。

しかし、これはウソ!

+++++++++++++++++

●日本だけの奇習

ウィキペディア百科事典には、つぎのようにある。

「戒名(かいみょう)は、仏教において、仏門に入った証し、戒律を守るしるしとして与えられる名前。上座部仏教と大乗仏教の両方で行われており、多くの場合、出家修道者に対して授戒の師僧によって与えられる。上座部では出家後に南伝仏典に残る阿羅漢に変名するため、その意味で法名と呼ぶ。
またそこから転じて、死後に浄土で出家して最終的には仏となる浄土思想にもとづき、死者に戒名を与える風習が生れた。死後の戒名は、特に日本において盛んに行われている」【ウィキペディア百科事典】と。

つまりもともと「戒名」というのは、「出家修道者に対して受戒の師僧によってあたえられる名前」をいう。

話はそれるが、平安時代、鎌倉時代の昔には、「僧」というのは、今で言う、医師、教授をかねた、たいへんな知識階級を構成していた。
最終的には、水戸、奈良(東大寺)、太宰府にあった、国立の三大戒壇の道場のどれかで、認定を受けて、僧は晴れて一人前の僧になることができた。

したがって「当初は、出家・得度し、受戒(仏の定めた戒律を守ると誓うこと)を済ませて、仏道修行の途上にある人だけに与えられるのが戒名であった」(「葬式に坊主は不要と釈迦は言った」・北川絋洋・はまの出版)というのが正しい。

しかもだ、「死者に戒名をつける」という風習、(これはもう「奇習」と呼んでさしつかえないと思うが)、そういった風習があるのは、この日本だけだそうだ(同書)。

北川絋洋氏も、こう書いている。

「事実、日本以外の仏教国、たとえばスリランカ、ミャンマー、タイ、カンボジア、ベトナム、中国、韓国では、戒名というのは存在しない」(同書、P32)とある。

ウィキペディア百科事典にも、つぎのようにある。

「戒名は仏教が中国に伝わった際、号の風習を取入れて生れたものであるといわれる。道教の道号などと同様、号の一種として考えることができるだろう。戒律の規定では、初めて沙弥戒(十戒)を受ける時に、師より戒名(法名)を授かり、それと同時に従前の俗名を捨てるとされる。

現代の日本では、各宗派独自に、法要や儀式を受けたり、ある一定の講習に参加したりした人に対しても授けるようになっている。また、死者に対しても戒名を与える慣習があるため、生前の俗名に対する死者の名前であると誤解されている面もある」と。

わかりやすく言えば、出家者が、それまでの俗名を捨てて、そのかわりに師僧から受け取る名前が、「戒名」ということになる。

ウィキペディア百科事典にもあるように、「生前の俗名に対する死者の名前」というのは、「誤解」なのである。
誤解が誤解とも認識されず、そのまま日本の社会の中に定着してしまった。

●宗派によって異なる戒名

この戒名は、宗派によって、みな違う。

ウィキペディア百科事典を参考に、それをまとめてみると、つぎのようになる。

● 浄土宗鎮西派では、男女の別なく「誉」号をつける。西山派では「空」号を用いる。位号は用いない。

●浄土真宗では、「戒名」ではなく「法名」を用いる。「釋」号を冠して2字の法名が付く。位号は用いない。

●時宗では、古くは「阿弥陀仏」号を付けた。観阿弥、世阿弥はその崩れである。現在では男性にその略である「阿」号、女性には「弌」(いち)号をつけるのが原則である。阿弥陀仏号は重源が「南無阿弥陀仏」と自称したことを起源とし、成仏したことを意味する。女性も当初は阿弥陀仏号であったが、一遍は「一房」号や「仏房」号を与えた。「一仏乗」からとったという。弌号はその名残りである。

● 日蓮宗では、法華経信者は霊鷲山の浄土に生まれるとされるため、「戒名」ではなく「法号」と呼ぶ。「日」号、「妙」号などが使われる。
o 日蓮正宗では、「戒名」。

● 律宗では、戒名の下に「菩薩」の2字が付く。

(注:以上の特徴の説明は、地域・寺院などの慣習によって異なる場合がある。)

こうして並べただけでも、戒名というのが、いかにいいかげんなものかがわかる。
本当にそれだけ重要なものであるなら、宗派ごとに、こうまで考え方やつけ方が、異なるはずがない。

もう少し広い視野で、ものを考えてみよう。
アジア大陸全体を、宇宙から見ている自分を想像してみればよい。

そのアジア大陸の中心に、インドやネパールがある。
釈迦仏教はそこで誕生した。

で、日本は、その右隅にある小さな島国。
その島国には、死者に戒名を授けるというおかしな風習が残っている。
しかも宗派によって、考え方もつけ方も異なる。

そういう視点で見ただけでも、戒名があるから成仏できるとか、ないからできないとか、そんなふうに考えること自体、まちがっていることがわかる。
北川絋洋氏は、同書のどこかで、「霊感商法と同じ」というようなことを書いているが、まさに霊感商法。
無知で、無学な人たちにつけこんだ、霊感商法。

●実名で、なぜ悪い?

死者に戒名なるものが与えられるのが、日本だけにある奇習の一つであるとするなら、仮にあなたが熱心な仏教徒であるとしても、戒名などなくても、恐れることは何もない。
あなたには、あなたの実名がある。
実名のまま、死ねばよい。
実名のまま、あの世へ行けばよい。
どうしてその実名ではいけないのか?

百歩譲って、「戒名がなければ成仏できない」というのなら、それを言うほうがおかしい。
まちがっている。
一度、市内にある、ある寺の住職に、私はこう聞いたことがある。
「どうして戒名が必要なのですか?」と。
それに対して、その住職はピンと背筋を伸ばして、こう言った。

「俗名には、世間のしがらみが、ごみのようにまとわりついています。
そのしがらみを断ち切り、清廉潔白な気持ちで、極楽浄土に行くために必要です」と。

北川絋洋氏も、こう書いている。

「僧侶の中には、戒名についてきちんと説明してくれる人もいる。その場合も『仏の教えに従って生きていこうとする人に与えられる名前』という内容がほとんどである」(同書、P31)と。

だいたい、釈迦のもとに行くのに、「漢字の戒名」ということ自体、おかしい。
サンスクリット語、もしくはせめてヒンズー語でなければならない。
それを僧侶は、葬儀の席で、たとえばこう言って説明したりする。

「釋浩然信士……というのは、広く洋々たる海(=浩)のごとく(=然)、極楽浄土に向かうことができるという意味です」とか?

嘘八百!
まさに言いたい放題!

それを聞いて、信者や遺族は、ハハ~と、ありがたくも、頭をさげる。

●おかしいものは、おかしいと皆で、声をあげよう!

あなたが仏教徒であっても、またなくても、(たいていは名ばかりの仏教徒だが)、おかしいものは、「おかしい」と、皆で、声をあげよう。

葬儀になると、葬儀社のほうから、勝手に遺族と僧侶を仲介しながら、「戒名はどうしますか」と聞いてくる。
もちろん戒名の内容によって、「布施」の額も変わってくる。
下は20~30万円から、上は80~100万円。
寺の格式(?)に応じて、上にはキリなし!
近くには、300万円も払った人がいる。

○○院
○○居士(こじ)
○○釈尼
○○信士
○○大姉
○○信女、ほか。

布施の額もちがえば、読経する僧侶の数も変わる。
読経の仕方も変わる。

そこで遺族が、「戒名は不要です」などと言おうものなら、僧侶のほうが、読経を断ってくる。
葬儀社の担当者も、こう言う。
「戒名なしでは、僧侶は来てくれませんよ」と。
が、日本人は、「葬儀には僧侶による読経は絶対必要」と、骨のズイのズイまで、叩き込まれている。
(実際には、僧侶抜きの葬儀をする人もふえているが……。)
だから否応なしに、遺族は、戒名をつけざるをえないという状態に追い込まれる。
ゆっくりと考えて暇もない。

が、しかし、もしそうなら、僧侶なしの葬儀であっても、何ら、おかしくない。
「戒名なしで葬儀はできない」と言うのなら、僧侶に来てもらう必要はない。
こちらから願いさげればよい。

●葬式仏教からビジネス仏教へ

葬儀そのものが、葬儀社と僧侶によって、形骸化してしまっている。
もっとはっきり言えば、ビジネス化してしまっている。
が、その責任は、「私たち檀徒にもある」と、北川絋洋氏は説く。

私たち自身が、あまりにも無知、無学というわけである。
まったく同感である。

「……つまり、戒名(料)については、どうも一般の人たちの間に、値段が高いほうがいい戒名、安いのは悪い戒名という認識があるようなのである。
どこのだれがそんな妄説(もうせつ)を唱えたのか定かではないが、日本人の心には最近とみに、なんでもお金で解決できるという考え方が根づいてしまっているようなのだ。
それで喜ぶのは、どうやら寺と僧侶だけだということには、まったく気づいていないのである」(同書、P41)と。

しかしあえて一言。

寺の住職たちよ、こんなバカげた奇習を守りつづけて、好き勝手なことをしていると、日本の仏教は、ほんとうに死滅するぞ!
一般庶民にしても、檀徒にしても、君たちが思っているほど、馬鹿ではないし、それに気づき始めている。

すでに都会地域では、「直送(ちょくそう)」「自然葬」という言葉が、日常的な会話の中で語られるようになってきている。
「直送」については、東京都だけでも、約30%の人が、それをしている。

葬儀にせよ、大切なのは、「心」。
日本の仏教は、その「心」を忘れてしまっている。

((はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 葬儀 戒名 戒名論 はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 戒名 戒名論)
参考文献:北川絋洋著「葬式に坊主は不要と釈迦は言った」・はまの出版







最終更新日  2008年09月12日 11時06分54秒
2008年03月30日
カテゴリ:●宗教
●依存宗教(Religion to depend on)

++++++++++++++++

何かの宗教を信仰し、その宗教に
依存する。
それを依存信仰という。
母体となる宗教を、依存宗教という。

たとえば「病気が治りますように」
「お金が儲かりますように」
「子どもが目的の大学に合格しますように」
と祈るのが、それ。

またそれを受け入れる宗教を、
依存宗教という。

++++++++++++++++

日本でいう宗教の多くは、依存宗教と考えてよい。
信仰することによって、信者は、その宗教団体に、絶対的な忠誠を誓う。
彼らの世界で言うところの「熱心な信者」というのは、「従順で、もの言わぬ信者」をいう。
で、その反射的効果として、何らかの利益(りやく)を受け取る。

こんな例で考えてみよう。

現在、私の母は、介護度5で、あるケア・センターに入居している。
そこでのこと。

このところ見るたびに、テーブルをはさんで、別の女性と喧嘩ばかりしている。
よほど相性が合わないらしい。
ときに物を投げあったりする。
私が見たときには、ティッシュペーパーを丸めて、投げあっていた。
ともに耳が悪いので、大声を出して叫びあうこともある。

理由は、ささいなことである。
母は、そういう状態になりながらも、食欲だけは旺盛。
相手の女性が食べようとしている菓子などが、ほしくてたまらない……らしい。

「それは、あんたのじゃない!」「お客さんのだから、食べるんじゃない!」とか言いながら、相手の女性に向かって、ティシュペーパーなど投げつける。

私はそういう光景を見ながら、ふと、こんなことを考えた。

「神は、母を助けるか?」と。
仮に母が敬虔なクリスチャンで、神に熱心に祈ったとする。
「そのとき神なら神がいて、母を助けるか」と。

たとえば母は母なりのレベルで、こう祈ったとする。

「何とか、あの菓子がほしい」「相手の女性から、それを奪ってほしい」と。
ついでに、「何とか、相手の女性をこらしめてほしい」と、祈るかもしれない。

しかし、残念ながら、そんなことに耳を貸す神などいない。
いたら、エセ。インチキ。アホ。バカ。

母にとっては、「地獄のようなところ」(母の言葉)かもしれないが、365日、室温は一定に保たれている。
食事も、それぞれの入居者に合わせて調理されている。
もちろん24時間態勢で、看護してもらっている。
もちろん費用だって、かかる。

今、この瞬間においても、この世界には、飢えで死んでいく人や子どもは、多い。
そういう状況と比較すれば、母が置かれている境遇は、きわめて恵まれていると考えてよい。
母1人に、1か月かける費用だけで、アフリカの貧しい国でなら、数百人が1年間は暮らせるかもしれない。

そんなわけで、もし神の立場で優先順位をつけるなら、母を助けるのは、最後の最後ということになる。

……というふうに考えながら、今度は、私自身を見つめてみる。
「もし、私が神に祈ったら、神は、私の言うことを聞いてくれるか?」と。

答は、「NO!」。
第一、私の方が遠慮する。
私は健康だし、いろいろあったが、とにかくここまで無事に生きてくることができた。
60歳という年齢にしても、江戸時代なら、とっくの昔に死んでいた年齢である。
そんな私が神に祈って、それで私の言うことを聞いてくれたとしたら、その神は、エセ。インチキ。アホ。バカ。

この世界には、私よりもっと神の助けを必要とする人たちがいる。
私よりも、はるかに熱心に、神に祈っている人たちがいる。
私がする信仰など、仮にしたところで、遊びのようなもの。

さらに中には、「この信仰をすれば、アルマゲドン(ヨハネの黙示録による終末)のとき、神によって救われる」と説く宗教団体もある。
しかし日本のような、(アメリカでもよいが)、これほどまでに恵まれた国で、どうして、アルマゲドンなのか?

仮に巨大隕石の衝突や、巨大地震のような天変地異が起きたとしても、それを悪と決めてかかるほうがおかしい。
私やあなたが、今、ここにいるのも、自然現象。
仮に巨大隕石の衝突や、巨大隕石のような天変地異が起きたとしても、それも自然現象。
それをアルマゲドンというのなら、では、いったい、私たちは何かということになってしまう。

ものごとを人間中心に考えてはいけない。
また人間が宇宙の中心にいるわけでもない。

地球温暖化(地球火星化)にしても、そうだ。

神に祈ったところで、どうこうなるような問題ではない。
またどうにもならない。
さらに言えば、ヌクヌクと恵まれた環境の中で生活をしながら、「救われる」も、何もない。

少し話が脱線したが、信仰は、思想でするもの。
もし宗教団体がすべきことがあるとするなら、思想で、信者を指導する。
おかしなパワーや、超自然現象を信じ込ませて、信者を誘導してはならない。
いわんや利益(りやく)を目的として、信者を誘導するとしたら、その宗教団体は、エセ。インチキ。アホ。バカ。

さらに愚劣なバチ論をふりかざし、「この信仰を(途中で)やめた者は、地獄へ堕ちる」と脅すとしたら、その宗教団体は、エセ。インチキ。アホ。バカ。

こんなことは常識で考えれば、だれにだってわかる。
子どもにだって、わかる。

さらに、そのことは、ケアセンターにいる老人たちを見れば、よくわかる。
私たち自身が、地球という巨大なケアセンターの中にいるようなもの。
たしかに私たちから見れば、母たちは、レベルが低い。
しかし神の目から見れば、私たちも、そしてケアセンターにいる老人たちも、同じように見えるはず。

たとえばあのK国は、せっこらせっこらと、核兵器ばかり、作っている。
一方で民を飢えさせて、みじんも、恥じない。
その姿は、菓子を取りあって喧嘩している母たちの姿と、どこもちがわない。
あるいは、どこがどうちがうというのか。

さて、冒頭の話。
それについて、私は、こんな説話を思い出した。

法句経にこんな話がのっている。
ある日釈迦のところへ一人の男がやってきて、こうたずねる。
「釈迦よ、私はもうすぐ死ぬ。死ぬのがこわい。どうすればこの死の恐怖から逃れることができるか」と。
それに答えて釈迦は、こう答える。
「明日のないことを嘆くな。今日まで生きてきたことを喜べ、感謝せよ」と。

私のエッセーで、よく取りあげる説話だが、この説話をもう少していねいに読むと、こういうふうにも、解釈できる。

釈迦のそのときの気持ちになってみると、それがよくわかる。
釈迦は、こう言ったのだ。

「今まで、お前は生かしてもらったではないか。
まず、それに感謝しなさい。
それを忘れて、いつまでも、私に頼ってもらっては困る。
もういいかげんにしなさい」と。

さて、結論。

依存宗教は、どこまでいっても、依存宗教。
それを信仰したからといって、中身は、気休め。
またその程度の意味しかない。

宗教を信ずるのは、それぞれの人の自由。勝手。
しかし宗教に依存してはいけない。

もし祈ることがあるとするなら、自分を離れたところで、他人のために祈る。
宇宙や自然のために、祈る。

どこまでも生きるのは、私であり、あなたである。
それを忘れて信仰をしては、いけない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 依存宗教 依存信仰 宗教とは 宗教論)






最終更新日  2008年03月30日 15時34分17秒
2008年01月05日
カテゴリ:●宗教
●昨日の原稿(An article I wrote yesterday)

Yesterday I wrote about the religion. It was a kind of which I don’t know I am writing. Then I hereby rewrite it again with some comments. In short we love people for the case we need it someday. “Loneliness” is the worst hell we experience, where we have none to love and we have none who love us.

++++++++++++++

昨日、宗教について原稿を書いた。
それが気になっている。

支離滅裂というか、自分の考えて
いることを、書ききれなかった。

そこで今朝、もう一度、書きなおして
みることにした。

++++++++++++++

【まず、昨日(1月4日)に書いた原稿】

●宗教とは何か(What is the religion?)(Original article)

 英語では、こういう言い方をする。「絶壁に立て。突き落とされよ。飛び方は、それから学べ」と。

In English-speaking world they say, “Stand on the cliff. You jump from the cliff. Then you learn how to fly.”

 人は、追いつめられてはじめて、自分の力を発揮することができる。また追いつめられなければ、自分の力を発揮することはできない。中には、追いつめられると、かえってあせってしまい、何もできなくなってしまう人がいる。たとえばこの私が、そうである。大切なことは、その緊張感を忘れないことか。

 しかし緊張感に耐えることは、容易なことではない。頭の中が混乱してしまい、まともにものを考えることすら、できなくなる。たとえば受験勉強に追われたり、借金に追われたりすると、そうなる。

 が、こちらが望まなくとも、絶壁に立たされることがある。しかも想像を絶するほど過酷な絶壁に、である。そういうときは、どうしたらよいのか。

 そこで宗教の登場ということになる。

 宗教に身を寄せる人は、それぞれ、それなりの理由があって、そうする。その理由がわからないまま、その人を責めても意味はない。批判するなどということは、もってのほか。そっとしておいてやることこそ、思いやりというもの。

 ところで世の中には、「?」と思われるような宗教(?)も、ないわけではない。たとえば「合格祈願」や「商売繁盛」を、売り物にする宗教である。それを宗教と言ってよいかどうかは、わからないが、この日本では、「宗教法人」として登録されている。義兄は、こう言った。「そんなことに力を貸すような神様はいない」と。私も、同感である。

 火の中に栗があり、それがほしかったら、自分で取る。火が熱かったら、知恵を働かす。棒か何かで、取る。祈っても、念じても、ムダ。

 そんな話をすると、義兄がこう言った。「強い人は、それでいい」「しかし世の中には、もがいても、もがいても、どうにもならない人がいる」「毎日が、挫折の繰りかえし」「そういう人は、どこに救いを求めればいいのか」と。

 ひとつの例が、「孤独」である。仏教の世界にも、「愛離別苦」というのがある。「四苦八苦」のひとつである。

 愛する人に先立たれた人の苦しみや悲しみは、それを経験したものでないとわからない。いくら渦中の栗は、自分で取れと言われても、どうやって取ったらよいのか。どうやってその孤独と戦えばよいのか。「挫折」というより、それは「絶望」に近い。

 私はまだそれほどまでの挫折を味わったことはない。ないが、薄い氷のすぐ下には、それがあるのを、知っている。毎日、その薄い氷の上を歩いているようなもの。どこかでその氷が割れれば、私も、そのままその下に落ちていく。

 こうした不安感とは、どうやって戦えばよいのか。はたして、自分の力だけで、それと戦うことはできるのか。絶壁というには、あまりにも過酷。飛び方を覚えろとは言うが、飛ぶことさえあきらめてしまうかもしれない。

 そこで自分を支えるために、キリスト教の世界では、「愛」という言葉を使う。仏教の世界では、「慈悲」という言葉を使う。儒教の世界でいう、「仁」も、似たような意味と考えてよい。

 そこで自分を超えたところに、自分をつないでいく。その結果として、「私」という自分を救済する。このことは、その逆の人を想像してみれば、わかる。

 昔、私の近くに、こんな人がいた。ことあるごとに私の家にやってきては、「私は、○○万円儲けた」「私はこの地域でも、最高額の納税をしている」「今度、○○に、土地を買った」と。

 その人は、「だから私は偉い」というようなことを言いたかったのかもしれない。態度は大きく、横柄だった。しかし私は子どもながらに、こう思った。「だからといって、それがどうしたの?」と。

 その人が、いくらかでも、私たちにお金を分けてくれたというのであれば、話は別。しかしそんな自慢話など、腸から出るガスのようなもの。言う方は楽しいかもしれないが、聞く方は、そうではない。私たちには無意味。

 やがてその人は、事業に失敗。破産寸前まで、追い込まれた。が、だれも、助けなかった。あの自慢話を聞かされた人ほど、そうで、そういう人たちは、その人を陰で笑った。

 ……というのは、お金の話だが、私たちの(孤独)についても、同じように考えることはできないだろうか。

 私たちが……というより、この私がなぜ、毎日、氷の上を歩いているような不安感を覚えるかといえば、「取る」ことばかり考えて、「与える」ことを考えないからではないか。つまり自分の範囲の中だけで、「私」を考える。しかしこれではいつまでたっても、自分を超えることはできない。つまり孤独と戦うことはできない。

 そこで最初の話にもどる。「宗教とは何か」と。

 義兄はこう言った。「どこかに合格したいと願っている人がいるなら、合格させてあげる」「どこかにお金がほしいという人がいるなら、お金を分けてあげる」「できればそうしてやりたいが、しかしそれはできない。が、常日ごろから、その人の悲しみや苦しみを、分けもってやる。それならできる」「それが自分を超えることだ」と。

 つまりそれを教えるのが、「宗教」ということになる。わかりやすく言えば、絶壁から飛び降りる前に、自分の体に羽をつける。飛び方を覚える。それが「宗教だ」、と。義兄は、そう言った。私は、同意した。

(注)支離滅裂な文章で、すみません。またいつか、読みなおし、書き改めてみます。今日は、このままマガジンに掲載します。






最終更新日  2008年01月05日 18時54分28秒
カテゴリ:●宗教


【書き改め】(Rewritten article)

●宗教とは何か(What is the religion?)

 英語では、こういう言い方をする。「絶壁に立て。突き落とされよ。飛び方は、それから学べ」と。

In English-speaking world they say, “Stand on the cliff. You jump from the cliff. Then you learn how to fly.”

 義兄との会話は、そんな内容で始まった。つまり生ぬるい生き方をしていたのでは、真理に到達することはできない。真理に到達するためには、絶壁から飛び降りるような覚悟と緊張感が必要だ、と。

 が、これに義兄がすかさず、反論した。

 『浩司君、君はそう言うけど、懸命に生きても、もがいているだけで、どうにもならない人もいるんだよ。そういう人は、どうする?』と。

 そこで(救い)という話になった。たとえば不治の病というのがある。今では、がんといっても、たいていのがんなら、治る。が、それでも、がんは、がん。こわい病気である。「もし、君はがんだ。余命は、あと数か月と言われたら、どうする?」と。

 その人は絶壁に立たされたことになる。絶壁から飛び降りるのも結構なことだが、「それで救われるのか?」と。仮に今、私がそういう状況になったとしたら、どうだろう。私はそういう状況に耐えられるだろうか。ひとりで、自分を支えることができるだろうか。そこで私は、昨日、こう書いた。
 
『人は、追いつめられてはじめて、自分の力を発揮することができる。また追いつめられなければ、自分の力を発揮することはできない。中には、追いつめられると、かえってあせってしまい、何もできなくなってしまう人がいる。たとえばこの私が、そうである。大切なことは、その緊張感を忘れないことか』と。

 不治の病はともかくも、私たちの生活は、こうした不安とは無縁ではいられない。常に、無数の不安が、打ち寄せる波のように襲ってくる。平和なときがあるとすれば、その波と波の間の、つかの間でしかない。だから……。

『しかし緊張感に耐えることは、容易なことではない。頭の中が混乱してしまい、まともにものを考えることすら、できなくなる。たとえば受験勉強に追われたり、借金に追われたりすると、そうなる』と。

 絶壁に立たされたとき、どこに、どう救いを求めたらよいのか。『こちらが望まなくとも、絶壁に立たされることがある。しかも想像を絶するほど過酷な絶壁に、である。そういうときは、どうしたらよいのか……』ということで、少し話題がそれたが、宗教の話になった。

 『宗教に身を寄せる人は、それぞれ、それなりの理由があって、そうする。その理由がわからないまま、その人を責めても意味はない。批判するなどということは、もってのほか。そっとしておいてやることこそ、思いやりというもの』と。

 これは私が今まで書いてきたことだが、宗教があるから、信者がいるのではない。それを求める信者がいるから、宗教がある。Y市でキリスト教会の牧師の助手をしている友人が、こう話してくれたことがある。

 「教会へ来るような人は、みな、何らかの問題をかかえている」と。

 で、やがて「宗教にもいろいろありますからねえ」という話になった。

 『ところで世の中には、「?」と思われるような宗教(?)も、ないわけではない。たとえば「合格祈願」や「商売繁盛」を、売り物にする宗教である。それを宗教と言ってよいかどうかは、わからないが、この日本では、「宗教法人」として登録されている。義兄は、こう言った。「そんなことに力を貸すような神様はいない」と。私も、同感である。

 火の中に栗があり、それがほしかったら、自分で取る。火が熱かったら、知恵を働かす。棒か何かで、取る。祈っても、念じても、ムダ』と。

 しかしこれは私という(強者)の論理でしかない。私は、今のところ、まだ健康だ。ほどほどの幸福感に包まれている。が、強者の論理だけでものを考えてはいけない。それを義兄は指摘した。

 『そんな話をすると、義兄がこう言った。「強い人は、それでいい」「しかし世の中には、もがいても、もがいても、どうにもならない人がいる」「毎日が、挫折の繰りかえし」「そういう人は、どこに救いを求めればいいのか」と。

 ひとつの例が、「孤独」である。仏教の世界にも、「愛離別苦」というのがある。「四苦八苦」のひとつである。

 愛する人に先立たれた人の苦しみや悲しみは、それを経験したものでないとわからない。いくら渦中の栗は、自分で取れと言われても、どうやって取ったらよいのか。どうやってその孤独と戦えばよいのか。「挫折」というより、それは「絶望」に近い』と。

 同じ紙を見ても、表から見た紙と、裏から見た紙が、まるでちがうということは、よくある。何かの印刷がしてあれば、なおさらである。「絶壁」といっても、強者にとっての絶壁と、弱者にとっての絶壁は、まるでちがう。強者は、そのまま飛び降りればよい。が、弱者は、そんなことをすることはできない。その(力)さえない。

 私は強者の論理だけで、ものを考えていた。で、こう書いた。

 『私はまだそれほどまでの挫折を味わったことはない。ないが、薄い氷のすぐ下には、それがあるのを、知っている。毎日、その薄い氷の上を歩いているようなもの。どこかでその氷が割れれば、私も、そのままその下に落ちていく。

 こうした不安感とは、どうやって戦えば、よいのか。はたして、自分の力だけで、それと戦うことはできるのか。絶壁というには、あまりにも過酷。飛び方を覚えろとは言うが、飛ぶことさえあきらめてしまうかもしれない』と。

 ……しかし、このあたりから、自分の考えが、まとまらなくなってきた。将棋にたとえるなら、つぎの一手がわからなくなってきた。文章が支離滅裂になったのは、そのためかもしれない。

 が、こんなことは言える。

 絶壁に立たされる前に、その準備をしておくことは可能である。いきなり絶壁に立たされれば、だれだってとまどう。たとえばある日突然、がんの宣告を受けたら、だれだって、狼狽(ろうばい)する。その心の準備をするために、「愛」があり、「慈悲」があり、「仁」がある。

 『そこで自分を支えるために、キリスト教の世界では、「愛」という言葉を使う。仏教の世界では、「慈悲」という言葉を使う。儒教の世界でいう、「仁」も、似たような意味と考えてよい。

 そこで自分を超えたところに、自分をつないでいく。その結果として、「私」という自分を救済する。このことは、その逆の人を想像してみれば、わかる』と。

 愛にせよ慈悲にせよ、さらに仁にせよ、それは与えられるものではなく、与えるものである。その一例として、1人の男の話を書いた。

 『昔、私の近くに、こんな人がいた。ことあるごとに私の家にやってきては、「私は、○○万円儲けた」「私はこの地域でも、最高額の納税をしている」「今度、○○に、土地を買った」と。

 その人は、「だから私は偉い」というようなことを言いたかったのかもしれない。態度は大きく、横柄だった。しかし私は子どもながらに、こう思った。「だからといって、それがどうした?」と。

 その人が、いくらかでも、私たちにお金を分けてくれたというのであれば、話は別。しかしそんな自慢話など、腸から出るガスのようなもの。言う方は楽しいかもしれないが、聞く方は、そうではない。私たちには無意味。

 やがてその人は、事業に失敗。破産寸前まで、追い込まれた。が、だれも、助けなかった。あの自慢話を聞かされた人ほど、そうで、そういう人たちは、その人を陰で笑った』と。

 わかりやすい例として、ここでは(お金)をあげた。しかし(お金)と、愛や慈悲、仁とは、ちがう。お金では幸福は買えないが、しかしお金がなければ、不幸になる。不幸になるとはかぎらないかもしれないが、いろいろと問題が起きてくる。そこでこう書いた。

 『……というのは、お金の話だが、私たちの(孤独)についても、同じように考えることはできないだろうか。

 私たちが……というより、この私がなぜ、毎日、氷の上を歩いているような気分になるかといえば、「取る」ことばかり考えて、「与える」ことを考えないからではないか。つまり自分の範囲の中だけで、「私」を考える。しかしこれではいつまでたっても、自分を超えることはできない。つまり孤独と戦うことはできない』と。

 私は、人間がかかえる最大の問題は、「孤独」であると考える。あのマザーテレサも、イエスキリストのことを語りながら、そう書いている。「イエス・キリストも、乾き(=孤独)に苦しんだ」と。

 で、その孤独とは何かと言えば、「だれにも愛されず、だれも愛さない」という状態をいう。もしそういう状況、それはまさに絶壁というにふさわしいものだが、そういう状況に置かれたら、どうしたらよいのか。そこで宗教の話に、もどった。

 『そこで最初の話にもどる。「宗教とは何か」と。

 義兄はこう言った。「どこかに合格したいと願っている人がいるなら、合格させてあげる」「どこかにお金がほしいという人がいるなら、お金を分けてあげる」「できればそうしてやりたいが、しかしそれはできない。が、常日ごろから、その人の悲しみや苦しみを、分けもってやる。それならできる」「それが自分を超えることだ」と。

 つまりそれを教えるのが、「宗教」ということになる。わかりやすく言えば、絶壁から飛び降りる前に、自分の体に羽をつける。飛び方を覚える。それが「宗教だ」、と。義兄は、そう言った。私は、同意した』と。

 もともとは「絶壁からとびおりる」というのは、「それだけの覚悟がなければ、真の力を発揮できない」という意味である。

 その「絶壁」から話が飛んで、「宗教」の話になった。たぶんに弁解がましいが、それが支離滅裂になった理由ということになる。






最終更新日  2008年01月05日 18時53分52秒
2007年07月25日
カテゴリ:●宗教
●釈迦が説いた、自由論

++++++++++++++++

釈迦はクシナガラの郊外、シャーラ
(沙羅)樹の林の中で、最後の教え
を説いたという(仏教聖典)。

弟子たちよ、おまえたちは、おのおの、
自らを灯火(ともしび)とし、
自らをよりどころとせよ、
他を頼りとしてはいけない。

この“法”を灯火とし、よりどころと
せよ。他の教えをよりどころとしては
いけない。

++++++++++++++++

●自由

 「自由」という言葉がある。この言葉は、もともとは、「自(みずか)ラニ由(よ)ル」、あるいは「自ラニ由ラセル」という意味である。

 つまり、(自分で考え)、(自分で行動し)、(自分で責任を取る)ことを、「自由」という。

 釈迦は、仏教聖典(仏教伝道協会発行)によれば、最後に、まさにその「自由」について説いたことになる。

 ついでながら、私が知るかぎり、釈迦が、「前世」とか「来世」とか、そんなことを説いた形跡は、どこにもない。あるとすれば、釈迦滅後、数百年を経て書かれた経典の中だけである。そうした経典は、ヒンズー教の影響を、モロに受けている。

 それはともかくも、釈迦は、つぎのようにつづける。

『わが身をみては、その汚れを思って、
貪(むさぼ)らず、苦しみも楽しみも、
ともに苦しみの因(もと)であると思って、
ふけらず、わが心を観(み)ては、その
中に「我」はないと思い、それらに
迷ってはならない。そうすれば、すべての
苦しみを断つことができる。
わたしがこの世を去った後も、このように
教えを守るならば、これこそわたしの
まことの弟子である』と。

●煩悩(ぼんのう)

 釈迦によれば、私たちの心というのは、基本的には、「汚れている」ということになる。だから、その汚れた心のまま、「貪ってはならない」と。つまり貪欲になってはいけない、と。もっとわかりやすく言えば、情欲の命ずるまま、貪欲になってはいけない、と。

 そしてそれを受けて、『苦しみも楽しみも、ともに苦しみの因であると思って、それにふけってはいけない』と。

 同じようなことが、東洋医学のバイブルとも言われる、(黄帝内経・素問・上古天真論篇)の中にも書いてある。「(健康の奥義は)、精神的にも悩みはなく、平静楽観を旨とし、自足を事とする」と。

 つまり「楽しいから」といって、享楽的に、それにふけってはいけないということ。それはそのとおりで、1人の人の(楽しみ)は、どこか別のところで、別の人の(苦しみ)の上に成り立っていることが多い。あるいは享楽的に生きれば生きるほど、その反動は、かならず、自分自身にやってくる。

またつぎの『わが心を観(み)ては、その中に「我」はないと思い、それらに迷ってはならない』の部分は、フロイトのリピドー論を重ねてみると、意味がよくわかる。

 私たちを根源的な部分で動かしているのは、リピドー、つまり性的エネルギーである。さらにつっこんで言えば、「子孫存続本能」ということになる。もちろん私たちはそれだけで生きているわけではないが、しかし私たちの日常的な行動すべては、どこかでその本能と結びついている。

 それがわからなければ、ほかの動物や植物をみればよい。私たち人間も、その一部でしかない。

●どこまでが「私」?

 釈迦は、「私たちの中には、『私』という部分は、本当はないのだ」と説いている。つまり「私は私」と思っている部分にしても、そう思っているだけで、実際には、私ではない、と。

 たとえば若い女性が、化粧をする。身を飾る。その女性は、「私は自分の意思で化粧をしている」「身を飾っている」と思っているかもしれないが、その意思とて、作られたものにすぎない。結婚前の女性であれば、まさに「子孫存続」のための、その準備行動をしているにすぎない。

 実際、私の中の「私」をみつめてみると、どこからどこまでが、「私」で、どこからどこまでが「私」でないか、それがよくわからないときがある。たとえばもうすぐ60歳という、この年齢になっても、性欲は残っている。ときどきエロビデオを見たいという欲求もわいてくる。

 しかしそう思うのは、ここでいう(私であって私でない部分)ということになる。だからそれにつづく行動、たとえばエロビデオ店へ行って、見たいエロビデオを選んだり、買ったりするのも、(私であって私でない部分)ということになる。

 しかしこんなことをおおっぴらに言えば、(すでにおおっぴらに言っているが)、「教育評論家と呼ばれている男が、何を言うか!」と、非難される。だから私は、こういうことは隠そうとする。「私は、そういうエロビデオは見ていません」というフリをする。

 「私」がかろうじてあるとすれば、その(隠そうという)部分、もしくは(フリをしている)部分にでしかない。

●苦しみは煩悩から

要するに、私たちが日常生活でいうところの(苦しみ)などというものは、総じてみれば、(私であって私でない部分)から生じている。だから釈迦はこう言う。『私の中に、「我」はないと思い、それらに迷ってはならない。そうすれば、すべての苦しみを断つことができる』と。

 もう一歩先を言えば、「私は私」と思うから、そこから苦しみが生まれる。「私の財産」「私の名誉」「私の地位」と。ならば、最初から、運命を受け入れ、それに従えばよい。へたに「私」にこだわるから、人は苦しむ。悩む。釈迦もこう言っている。

 『……いたずらに悲しむことはやめて、
 この無常の道理に気がつき、人の世の
 真実のすがたに眼をさまさなければ
 ならない。

 変わるものを変わらせまいとするのは、
 無理な願いである。

 煩悩(ぼんのう)の賊(ぞく)は、
 常におまえたちのすきをうかがって、
 倒そうとしている。

 もしおまえたちの部屋に毒蛇が住んで
 いるのなら、その毒蛇を追い出さない
 かぎり、落ちついてその部屋で、
 眠ることはできないであろう。

 煩悩の賊は追わなければならない。
 煩悩の蛇(へび)は、出さなければ
 ならない。

 おまえたちは慎(つつし)んで、
その心を守るのがよい』(同書)

 あとは、その瞬間、瞬間を、懸命に生きること。ただひたすら懸命に生きること。それがどんな結果で終ろうとも、それも運命。そのときはそのときで、その運命を、静かに受け入れれば、それでよい。

 釈迦が説いた「自由」とは、まさに「私」を求める戦いであったということになる。わかりやすく言えば、「私」を、「私の中の私でない部分から解放させる」。それが真の自由につながる、と。釈迦は、それを説いた。

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黄帝内経・素問・上古天真論篇
について書いた原稿を、添付
します。(中日新聞発表済み)

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●子育ては自然体で

 『子育ては自然体で』とは、よく言われる。しかし自然体とは、何か。それがよくわからない。そこで一つのヒントだが、漢方のバイブルと言われる『黄帝内経・素問』には、こうある。これは健康法の奥義だが、しかし子育てにもそのままあてはまる。

いわく、「八風(自然)の理によく順応し、世俗の習慣にみずからの趣向を無理なく適応させ、恨み怒りの気持ちはさらにない。行動や服飾もすべて俗世間の人と異なることなく、みずからの崇高性を表面にあらわすこともない。身体的には働きすぎず、過労に陥ることもなく、精神的にも悩みはなく、平静楽観を旨とし、自足を事とする」(上古天真論篇)と。難解な文章だが、これを読みかえると、こうなる。

 まず子育ては、ごくふつうであること。子育てをゆがめる三大主義に、極端主義、スパルタ主義、完ぺき主義がある。極端主義というのは、親が「やる」と決めたら、徹底的にさせ、「やめる」と決めたら、パッとやめさせるようなことをいう。

よくあるのは、「成績がさがったから、ゲームは禁止」などと言って、子どもの趣味を奪ってしまうこと。親子の間に大きなミゾをつくることになる。スパルタ主義というのは、暴力や威圧を日常的に繰り返すことをいう。このスパルタ主義は、子どもの心を深くキズつける。また完ぺき主義というのは、何でもかんでも子どもに完ぺきさを求める育て方をいう。子どもの側からみて窮屈な家庭環境が、子どもの心をつぶす。

 次に子育ては、平静楽観を旨とする。いちいち世間の波風に合わせて動揺しない。「私は私」「私の子どもは私の子ども」というように、心のどこかで一線を引く。

あなたの子どものできがよくても、また悪くても、そうする。が、これが難しい。親はそのつど、見え、メンツ、世間体。これに振り回される。そして混乱する。言いかえると、この三つから解放されれば、子育てにまつわるほとんどの悩みは解消する。

要するに子どもへの過剰期待、過関心、過干渉は禁物。ぬか喜びも取り越し苦労もいけない。「平静楽観」というのは、そういう意味だ。やりすぎてもいけない。足りなくてもいけない。必要なことはするが、必要以上にするのもいけない。「自足を事とする」と。実際どんな子どもにも、自ら伸びる力は宿っている。そういう力を信じて、それを引き出す。子育てを一言で言えば、そういうことになる。

さらに黄帝内経には、こうある。「陰陽の大原理に順応して生活すれば生存可能であり、それに背馳すれば死に、順応すれば太平である」(四気調神大論篇)と。おどろおどろしい文章だが、簡単に言えば、「自然体で子育てをすれば、子育てはうまくいくが、そうでなければ、そうでない」ということになる。

子育てもつきつめれば、健康論とどこも違わない。ともに人間が太古の昔から、その目的として、延々と繰り返してきた営みである。不摂生をし、暴飲暴食をすれば、健康は害せられる。精神的に不安定な生活の中で、無理や強制をすれば、子どもの心は害せられる。栄養過多もいけないが、栄養不足もいけない。

子どもを愛することは大切なことだが、溺愛はいけない、など。少しこじつけの感じがしないでもないが、健康論にからめて、教育論を考えてみた。







最終更新日  2007年07月25日 14時55分00秒
2007年07月04日
カテゴリ:●宗教
●煩悩(ぼんのう)

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仏教では、煩悩(ぼんのう)に
2つあると教える。

ひとつは、知性の煩悩。
もうひとつは、感情の煩悩。

そしてその根本はといえば、
「無明」と「愛欲」であると
教える(仏教聖典)。

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仏教では、煩悩(ぼんのう)に2つあると教える。

ひとつは、知性の煩悩。もうひとつは、感情の煩悩。

そしてその根本はといえば、「無明」と「愛欲」であると教える(仏教聖典)。

 ここでいう「無明」は、「無知」という意味である。しかし無知といっても、「知識のなさ」を言うのではない。「ものの道理をわきまえないこと」(「仏教聖典」)をいう。

 この煩悩に支配されると、人は、「むさぼり、怒り、愚かになり、邪見をもち、人を恨んだり、ねたんだり、さらには、へつらったり、たぶらかしたり、おごったり、あなどったり、ふまじめになったりする」(「仏教聖典」)という。つまり、自分を見失ってしまう。

 この中でも、仏教では、とくに(1)むさぼり、(2)怒り(瞋り)、(3)愚かさを、「世の3つの火」と位置づける。これらの「火」が、自ら善良な心を、焼いて殺してしまうという。そういう例は、多い。

 「むさぼり」(仏教聖典・仏教伝道協会編)とは、私たちが日常的に使う「むさぼり」という意味のことか。わかりやすく言えば、欲望のおもむくまま、貪欲になることをいう。貪欲な人は、たしかに見苦しい。

 ある女性は、このところ数日おきに、病院にいる義父を見舞っている。義父を思いやる、やさしい心からそうしているのではない。その財産が目的である。義母がいるが、体も弱く、このところ思考力もかなり低下してきた。

 そんな義母でも、「見舞には来なくていい」とこぼしている。その女性が義父を見舞うたびに、義父は興奮状態になってしまう。そのあと様子がおかしくなるという。しかしその女性は、見舞いをやめる気配はない。

 これも(むさぼり)のひとつと考えてよい。その女性はまさに、義父の心を、むさぼっている。

 つぎに怒り。仏教聖典のほうでは、(瞋り)となっている。私は勝手に「怒り」としたが、研究者がこの文を見たら、吹きだすかもしれない。仏教でいう(瞋り)、つまり(怒り)というのは、感情のおもむくまま、腹を立てたり、どなったり、暴れたりすることをいう。

 ただ、(怒り)そのものを、悪いと決めつけて考えることはできない。たとえば今、私は、社会保険庁のずさんな事務処理に、怒りを感じている。K国の金xxにも、怒りを感じている。元公安調査庁の長官による不正疑惑にも、怒りを感じている。さらには、防衛大臣の失言にも、怒りを感じている。

 その(怒り)が、こうしてものを書く、原動力にもなっている。つまり(怒り)が正義と結びついていれば、(怒り)も善であり、そうでなければ、そうでない。

 3つ目に、(愚かさ)。愚かであるということは、それ自体、罪である。しかし先にも書いたように、「知識がないこと」を、愚かというのではない。ものの道理をわきまえないことを、(愚か)という。
 
 では(道理)とは何か。現代風に言えば、(人格の完成度)をさす。人格の完成度の高い人を、「道理をわきまえている人」という。他者との共鳴性が高く、良好な人間関係があり、より利他的な人を、人格の完成度の高い人という。

 その道理を身につけるためには、自分で考えるしかない。考えて、考えて、考えぬく。パスカルも言っているように、人間は考えるから、人間なのである。中に、「私はものごとを深く考えない」「考えることが嫌い」「考えるのはめんどう」と豪語(?)する人がいる。しかしそういう人は、自らを愚かな人間と、公言しているようなもの。

 恥ずべきことではあっても、自慢すべきようなことではない。

 で、これらの3つは、「火」となって、人間の世界を、ときに焼き尽くすこともあるという。「おのれを焼くばかりでなく、他をも苦しめ、人を、身(しん)、口(く)、意(い)の3つの悪い行為に導くことになる」(「仏教聖典」)と。つまりその人だけの問題では、すまないということ。
 
 が、これにもう一言、つけ足させてもらうなら、こういうことになる。

 悪いことをしないから、善人というわけではない。よいことをするから、善人というわけでもない。私たちが善人になるためには、悪と、積極的に戦っていかなければならない。悪と積極的に戦ってこそ、私たちは、善人になれる。またそういう人を、善人という。

 話が脱線したが、私たちは、その煩悩のかたまりと言ってもよい。この瞬間においてすら、その煩悩が、体中で、渦を巻いている。「どうしたらいいものやら?」と考えたところで、この話は、おしまい。

私自身も、その煩悩の虜(とりこ)になり、いつも道に迷ってばかりいる。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 煩悩論 パーリ 仏教聖典)







最終更新日  2007年07月04日 14時25分29秒
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