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楽天・日記 by はやし浩司

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人生論

2009年08月08日
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カテゴリ:人生論
【人生論】(What is the Life for us?)

●今日の言葉(イギリスのBLOGより)

Life is an unfoldment, and the further we travel the more truth we can comprehend. To understand the things that are at our door is the best preparation for understanding those that lie beyond
- Hypatia,  In Religion

人生というのは、開いていくもの。先へ行けば行くほど、より多くの真理を理解できるようになる。ドアの近くにあるものを理解することは、遠くにあるものを理解するのに、もっとも役立つ。

●真理

 同じようなことを、私も以前、書いたことがある。
その原稿を探してみた。
「03年」とあるから、6年前の原稿ということになる。

++++++++++++++++++++++

●豊かさとは、何か?

 生活の豊かさを測る尺度は、決して、一つではない。

 もちろん収入は、多ければ、多いほどよい。お金の嫌いな人はいない。私も嫌いではない。

 しかし収入だけで、豊かさは、測れない。

 自由な時間は、どれだけあるか?
 家族と過ごせる時間は、どれだけあるか?
 住んでいる環境は、どうだ?
 友だちの数はどうだ?
 人間関係は、どうだ、など。

 健康の度合いも、豊かさの一つということになる。しかし本当の豊かさは、「心」で決まる。

 心が平穏であるか。満足しているか。やさしく、思いやりがあるか。過去を悔やむこともなければ、未来を不安に思うこともない。夢や希望があり、目標もある。毎日、前向きに生き生きと、過ごすことができる。そういった状態を、心の豊かさという。

 もちろん、心の貧しい人もいる。このときも、収入とは、関係ない。億万長者でも、心の貧しい人は、いくらでもいる。もちろんお金がなければ、苦労する。不幸になることもある。しかしお金で、豊かさは買えない。

 中学生たちに聞いてみた。「君たちの夢は何か?」と。多くの中学生は、「お金持ちになりたい」「有名になりたい」と言う。

 しかしそのお金で、何をするか。その未来像が、見えてこない。また有名になるとしても、それはあくまでも結果。そこに至る、現実が見えてこない。

 手っ取り早く、豊かになるためには、自分の住む世界を、ぐんと小さくすればよい。あるいは何かの宗教に身を寄せ、その世界に安住するという方法もある。この世界、広く生きようと思えば思うほど、人との摩擦(まさつ)も大きくなる。ひとりで生きようと思えば思うほど、障害も大きくなる。

そこで私は、気がついた。豊かさは、求めるものではなく、その人の生きザマの中から、結果として生まれるもの、と。少し話が、飛躍してしまったかもしれないが、こういうことだ。

 私の知人に、長野県の山奥で、床屋を営んでいる人がいる。今年、六〇歳を超えた。彼は父親の仕事を引き継いで、床屋を始めたわけだが、もし人生の成功者という人がいるとするなら、彼のような人をいうのではないか。

 釣り名人で、そのあたりでは、「釣り聖」と呼ばれている。床屋という職業もあって、村長も、助役も、村の有力者たちも、みな、彼の前では、頭をさげる。もちろん村一番の情報通。もし彼を敵に回したら、村議会の議員にすら、なれない。

 今は、その人は、日本画にこっていて、毎日、その日本画に没頭している。「個展を開いたら……」とすすめると、うれしそうに笑っていた。

 一方、過去の肩書きや地位にぶらさがり、その亡霊から、逃れられない人もいる。退職したあとも、プリプリといばっている。「仕事がない」と言うから、「貿易の知識を利用して、中国の物産でも売ってみたら」と提案すると、こう言った。「そんな恥ずかしいことは、できない」と。(商売することを、「恥ずかしい」と言うのだ!)

 私のまわりには、いろいろな人がいる。みな、違った方法で、豊かさを求め、幸福になろうとしている。もちろん、私も、そうだ。しかし豊かさというのは、求めたところで、向こうからやってくるものではない。しかし生きザマさえ、しっかりしていれば、向こうからやってくる。

 大切なことは、その生きザマを、どう確立するかということ。が、ここで誤解してはいけないのは、その豊かさというのは、虹のかなたの、その向こうにあるのではないということ。あなたのすぐそばにあって、あなたに見つけてもらうのを、息をひそめて待っている。

 土地を売って大金を手に入れたからとか、あるいは大企業の部長になったからとか、著名なタレントになったからとか、そういうことで、ここでいう「豊かさ」を手に入れることは、ない。豊かさというのは、あくまでも、「心」の問題。名誉、地位、財産、肩書きとは、まったく、関係がない。

 大切なことは、できるだけ早い時期にそれに気づき、そうしたものに、心が毒されないようにすること。毒されれば毒されるほど、心の豊かさは、あなたから遠ざかる。

 ……と、大上段に構えて、「豊かさ」について、書いてみた。「何を偉そうに……」と思う人も、いるかもしれない。もしそうなら、許してほしい。私自身も、こうして自分なりに、結論らしきものを出しておかないと、前に進めない。頭のてっぺんから、足の爪の先まで、現代社会がもつ矛盾に、毒されている。

このつづきは、一度頭を冷やしたあとに、考えてみたい。
(031030)

+++++++++++++++++++++

同じような内容だが、こんなことを書いたこともある。

+++++++++++++++++++++

●生きる哲学

 生きる哲学にせよ、倫理にせよ、そんなむずかしいものではない。もっともっと簡単なことだ。人にウソをつかないとか、人がいやがることをしないとか、自分に誠実であるとか、そういうことだ。もっと言えば、自分の心に静かに耳を傾けてみる。

そのとき、ここちよい響きがすれば、それが「善」。不愉快な響きがすれば、それが「悪」。あとはその善悪の判断に従って行動すればよい。人間には生まれながらにして、そういう力がすでに備わっている。それを「常識」というが、決してむずかしいことではない。もしあなたが何かのことで迷ったら、あなた自身のその「常識」に問いかけてみればよい。

 人間は過去数10万年ものあいだ、この常識にしたがって生きてきた。むずかしい哲学や倫理が先にあって生きてきたわけではない。宗教が先にあって生きてきたわけでもない。たとえば鳥は水の中にはもぐらない。魚は陸にあがらない。そんなことをすれば死んでしまうこと、みんな知っている。そういうのを常識という。この常識があるから、人間は過去数10万もの間、生きるのびることができた。またこの常識にしたがえば、これからもずっとみんな、仲よく生きていくことができる。

 そこで大切なことは、いかにして自分自身の中の常識をみがくかということ。あるいはいかにして自分自身の中の常識に耳を傾けるかということ。たいていの人は、自分自身の中にそういう常識があることにすら気づかない。気づいても、それを無視する。粗末にする。そして常識に反したことをしながら、それが「正しい道」と思い込む。あえて不愉快なことしながら、自分をごまかし、相手をキズつける。そして結果として、自分の人生そのものをムダにする。

 人生の真理などというものは、そんなに遠くにあるのではない。あなたのすぐそばにあって、あなたに見つけてもらうのを、息をひそめて静かに待っている。遠いと思うから遠いだけ。しかもその真理というのは、みんなが平等にもっている。賢い人もそうでない人も、老人も若い人も、学問のある人もない人も、みんなが平等にもっている。子どもだって、幼児だってもっている。赤子だってもっている。あとはそれを自らが発見するだけ。方法は簡単。何かあったら、静かに、静かに、自分の心に問いかけてみればよい。答はいつもそこにある。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●常識をみがく

 常識をみがくことは、身のまわりの、ほんのささいなことから始まる。花が美しいと思えば、美しいと思えばよい。青い空が気持ちよいと思えば、気持ちよいと思えばよい。そういう自分に静かに耳を傾けていくと、何が自分にとってここちよく、また何が自分にとって不愉快かがわかるようになる。無理をすることは、ない。道ばたに散ったゴミやポリ袋を美しいと思う人はいない。排気ガスで汚れた空を気持ちよいと思う人はいない。あなたはすでにそれを知っている。それが「常識」だ。

 ためしに他人に親切にしてみるとよい。やさしくしてあげるのもよい。あるいは正直になってみるのもよい。先日、あるレストランへ入ったら、店員が計算をまちがえた。まちがえて50円、余計に私につり銭をくれた。道路へ出てからまたレストランへもどり、私がその50円を返すと、店員さんはうれしそうに笑った。まわりにいた客も、うれしそうに笑った。そのここちよさは、みんなが知っている。

 反対に、相手を裏切ったり、相手にウソを言ったりするのは、不愉快だ。そのときはそうでなくても、しばらく時間がたつと、人生をムダにしたような嫌悪感に襲われる。実のところ、私は若いとき、そして今でも、平気で人を裏切ったり、ウソをついている。自分では「いけないことだ」と思いつつ、どうしてもそういう自分にブレーキをかけることができない。

私の中には、私であって私でない部分が、無数にある。ひねくれたり、いじけたり、つっぱったり……。先日も女房と口論をして、家を飛び出した。で、私はそのあと、電車に飛び乗った。「家になんか帰るか」とそのときはそう思った。で、その夜は隣町の豊橋のホテルに泊まるつもりでいた。が、そのとき、私はふと自分の心に耳を傾けてみた。「私は本当に、ホテルに泊まりたいのか」と。答は「ノー」だった。私は自分の家で、自分のふとんの中で、女房の横で寝たかった。だから私は、最終列車で家に帰ってきた。

 今から思うと、家を飛び出し、「女房にさみしい思いをさせてやる」と思ったのは、私であって、私でない部分だ。私には自分にすなおになれない、そういういじけた部分がある。いつ、なぜそういう部分ができたかということは別にしても、私とて、ときおり、そういう私であって私でない部分に振りまわされる。しかしそういう自分とは戦わねばならない。

 あとはこの繰りかえし。ここちよいことをして、「善」を知り、不愉快なことをして、「悪」を知る。いや、知るだけでは足りない。「善」を追求するにも、「悪」を排斥するにも、それなりに戦わねばならない。それは決して楽なことではないが、その戦いこそが、「常識」をみがくことと言ってもよい。

 「常識」はすべての哲学、倫理、そして宗教をも超える力をもっている。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 常識論 常識とは 常識について わかりやすい生き方 シンプルライフ)


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

常識といっても、安易な常識論には
警戒したほうがよいですね。

それについて書いた原稿をいくつか、
集めてみました。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司






最終更新日  2009年08月08日 10時51分47秒

カテゴリ:人生論


●安易な常識論で苦しむ人

 日本にはいろいろな常識(?)がある。「親だから子どもを愛しているはず」「子どもだから故郷(古里)を思い慕っているはず」「親子の縁は絶対に切れない」「子どもが親のめんどうをみるのはあたりまえ」など。

しかしそういう常識が、すべてまちがっているから、おそろしい。あるいはそういう常識にしばられて、人知れず苦しんでいる人はいくらでもいる。たとえば今、自分の子どもを気が合わないと感じている母親は、7%もいることがわかっている(東京都精神医学総合研究所の調査・00年)。「どうしても上の子を好きになれない」「弟はかわいいと思うが、兄と接していると苦痛でならない」とか。

 故郷についても、「実家へ帰るだけで心臓が踊る」「父を前にすると不安でならない」「正月に帰るのが苦痛でならない」という人はいくらでもいる。そういう母親に向かって、「どうして自分の子どもをかわいいと思わないのですか」「あなたも親でしょう」とか、さらに「自分の故郷でしょう」「親を嫌うとはどういうことですか」と言うことは、その人を苦しめることになる。

たまたまあなたが心豊かで、幸福な子ども時代を過ごしたからといって、それを基準にして、他人の過去をみてはいけない。他人の心を判断してはいけない。それぞれの人は、それぞれに過去を引きずって生きている。中には、重く、苦しい過去を、悩みながら引きずっている人もいる。またそういう人のほうが、多い。

 K市に住むYさん(38歳女性)のケースは、まさに悲惨なものだ。母親は再婚して、Yさんをもうけた。が、その直後、父親は自殺。Yさんは親戚の叔母の家に預けられたが、そこで虐待を受け、別の親戚に。そこでもYさんは叔父に性的暴行を受け、中学生のときに家出。そのころには母の居場所もわからなかったという。

Yさんは、「今はすばらしい夫に恵まれ、何とか幸福な生活を送っています」(手紙)ということだが、Yさんが受けた心のキズの深さは、私たちが想像できる、その範囲をはるかに超えている。Yさんから手紙を受け取ったとき、私は何と返事をしてよいかわからなかった。

 ここでいうような「常識」というのは、一見妥当性があるようで、その実、まったくない。そこで大切なことは、日本のこうした「常識」というのは、一度は疑ってみる必要があるということ。そしてその上で、何が本当に大切なのか。あるいは大切でないのかを考えてみる必要がある。

安易に、つまり何も考えないで、そうした常識を、他人に押しつけるのは、かえって危険なことでもある。とくにこの日本では、子育てにも「流儀(?)」を求め、その「形」を親や子どもに押しつける傾向が強い。こうした方法は、一見便利なようだが、それに頼ると、その実、ものの本質を見失うことにもなりかねない。

 「親である」とか「子であるとか」とかいう「形」ではなく、人間そのものをみる。また人間そのものをみながら、それを原点として、家庭を考え、家族を考える。それがこれからの子育ての基本である。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 安易な常識論 常識論)

Hiroshi Hayashi++++はやし浩司

●類は友を呼ぶ

 おととい、東京に住む友人(64歳・女性)と、電話でこんな話をした。
その友人が、こう教えてくれた。

 「奥さんがずるい人ということは、ダンナもずるい人と考えていいのよ。
だから夫婦でいられるのよ」と。

 『類は友を呼ぶ』というが、『似たもの夫婦』という言葉もある。
どちらか一方がずるくて、他方が、誠実ということは、ありえない。
友人は、こう言った。

 「たとえば奥さんがずるいことをしようとしてもね、ダンナが誠実な人だったら、
それをやめさせるはずよ」と。
つまりたがいに教えあいながら、夫婦というのは成長もするし、反対に堕落もする、と。

で、話がはずみ、私たちの結論は、こうだった。
「その人を知りたければ、その人の周囲の人たちを見ればいい」と。
たとえば兄弟にせよ、友人にせよ、つねに人は類を求めて集まる。
その人の周囲の人たちが不誠実なら、その人自身も、不誠実な人と考えてよい、と。

●縁を切る

 若いころ、1人、たいへんずるい人がいた。
インチキのかたまりのような人だった。
そのためいつも、何かにつけて、小細工ばかりしていた。

 結構、金払いもよく、それなりにおもしろい人だった。
が、あるときから、金銭面で対立するようになった。
そのときのこと。

 気がつくと、私自身も、その人に対して、ずるい人間になっているのを知った。
誠実になれないというか、誠実であることに、ある種のバカらしさを感じた。
つまりそういう人に対して、誠実であっても、意味はない。
誠実そのものが通じない。
こちらが誠実であろうとすればするほど、お人好しで終わってしまう。
そう感じた。

 そのときのことを今、思い出してみると、こういうことが言える。
「不誠実な人とは、勇気をもって、縁を切れ」と。
つきあってよいことは、何もない。
が、それだけではない。
つきあえばつきあうほど、その人の不誠実さに染まってしまう。

 そういう点では、人間の心というのは、それほどタフにはできていない。
何かにつけて、染まりやすい。
とくにこの私は、生まれも育ちも、あまりよくない。
もともとガードが弱い。

●終わりに……

 要するに人生は、短い。
回り道している暇は、ない。
そのためにも、正道を急ぐ。

 最後に、3人の賢人の言葉を引用する。

To live is so startling it leaves little time for anything else.
- Emily Dickinson

生きることはすばらしいことだが、そのほかのための時間は、ほとんど残されていない。

People's whole lives do pass in front of their eyes before they die. The process is called 'living'.
- Terry Pratchet, "The Last Continent"

人生とは、その人が死ぬまで、その人の目の前を通り過ぎるだけ。そのプロセスを、「生きている」という。

 そしてあのアインシュタインの言葉。

Life is a mystery, not a problem to be solved.

人生(生命)は、ミステリー(謎)だ。そのミステリーは、解けるような問題ではない。


Hiroshi Hayashi++++++++AUG.09+++++++++はやし浩司

●K国の金xx

++++++++++++++++++

昨日(09年8月5日)、K国に抑留されていた
2人のアメリカ人記者が、金xxの「特赦」(?)に
よって、解放された。
5か月ぶりの解放である。

K国は、「(ゴア元副大統領ではだめだ)、クリントン元大統領をよこせ。
よこしたら、解放してやる」と、アメリカに迫った。
その結果、クリントン大統領自身が、K国まで、出かけていった。

++++++++++++++++++

●現実検証能力

あれほどまでに現実検証能力のない人間は、そうはいない。
まるで自分のことがわかっていない。
K国に金xxを見ていると、そう思う。
 どこかの政治評論家たちは、「金xxの国際政治感覚は一級だ」とか何とかもちあげて
いるが、基本的には、ノーブレイン。
その一例が、今回発表された、一枚の写真。

 金xxが右側に座り、むっつり、上機嫌(?)。
クリントン元大統領が左側に座り、同じくむっつり、無表情(?)。
うしろには、立ったままの、5、6人のアメリカ人。
(韓国紙の報道によれば、金xxは、始終、上機嫌であったという。)

 アメリカ側、つまりクリントン元大統領は、ノーコメントを繰り返しているが、
こうした状況を、アメリカ国民はもちろん、クリントン元大統領自身も、不愉快に
思っていることは明らか。
その(不愉快さ)も理解できないほど、金xxは、ノーブレイン。

 金xxは、アメリカに謝罪させ、(アメリカ側は、謝罪したことを否定)、勝ったつもり
でいるかもしれない。
国内でも、「元大統領が謝罪に来た」と、大々的に報道ししている。
しかし今回の一連の事件は、基本的な部分で、おかしい。
狂っている。

●ノーブレイン

 ありもしない外国の脅威を理由に、自国民を締め上げる。
核兵器やミサイルを開発する。
自国民が飢えて苦しもうが、国を捨てる人が続出しようが、知らぬ顔。
その上で、取材のため、インタビューを試みた記者を、逮捕、抑留。
報道によれば、一度、川を渡ってK国側に入ったのは事実だが、拉致されたのは、
中国領土側のほうであったという。

 で、お飾りの裁判。
判決は12年の懲役刑。
その上で、「2人の記者を返してほしかったら……」と。

 アメリカ側はプライドを捨てて、2人の記者の救出を図ったわけだが、アメリカ人が
怒るのは、これから。
日本の一部の報道機関は、「米朝関係が、これをきっかけに好転する」と書いている。
しかしそんなことは、常識で考えても、ありえない。
もしそうなら、アメリカも、ノーブレイン。

●わかりやすく言えば……

 わかりやすく言えば、誘拐犯に子どもを誘拐された親が、誘拐犯に頭をさげて、
子どもを返しにもらいに行ったようなもの。
ところが誘拐犯のほうは、事情がどうなっているかもわからず、「相手が頭をさげて、
頼みにきた」と、喜んでいる(?)。
だいたい、記念撮影すること自体、バカげている。
どうして、記念撮影?
こんなバカげた構図が、ほかのどの世界にある?
つまりその(バカさかげん)がわからないほどまで、金xxは、現実検証能力を
失っている。

 日本の拉致事件についても、そうだ。
誘拐した側のほうが、一国の首相を呼びつけて、いばっている。
謝罪するのは当たり前のことなのに、「謝罪してやった」と、いばっている。
こんなバカげた国を相手に、これから先、日本はどうやって外交交渉を進めていく
つもりなのか。
考えれば考えるほど、気が重くなる。
ホント!






最終更新日  2009年08月08日 10時51分22秒
2009年08月06日
カテゴリ:人生論
【人生論】(What is the Life for us?)

●今日の言葉(イギリスのBLOGより)

Life is an unfoldment, and the further we travel the more truth we can comprehend. To understand the things that are at our door is the best preparation for understanding those that lie beyond
- Hypatia,  In Religion

人生というのは、開いていくもの。先へ行けば行くほど、より多くの真理を理解できるようになる。ドアの近くにあるものを理解することは、遠くにあるものを理解するのに、もっとも役立つ。

●真理

 同じようなことを、私も以前、書いたことがある。
その原稿を探してみた。
「03年」とあるから、6年前の原稿ということになる。

++++++++++++++++++++++

●豊かさとは、何か?

 生活の豊かさを測る尺度は、決して、一つではない。

 もちろん収入は、多ければ、多いほどよい。お金の嫌いな人はいない。私も嫌いではない。

 しかし収入だけで、豊かさは、測れない。

 自由な時間は、どれだけあるか?
 家族と過ごせる時間は、どれだけあるか?
 住んでいる環境は、どうだ?
 友だちの数はどうだ?
 人間関係は、どうだ、など。

 健康の度合いも、豊かさの一つということになる。しかし本当の豊かさは、「心」で決まる。

 心が平穏であるか。満足しているか。やさしく、思いやりがあるか。過去を悔やむこともなければ、未来を不安に思うこともない。夢や希望があり、目標もある。毎日、前向きに生き生きと、過ごすことができる。そういった状態を、心の豊かさという。

 もちろん、心の貧しい人もいる。このときも、収入とは、関係ない。億万長者でも、心の貧しい人は、いくらでもいる。もちろんお金がなければ、苦労する。不幸になることもある。しかしお金で、豊かさは買えない。

 中学生たちに聞いてみた。「君たちの夢は何か?」と。多くの中学生は、「お金持ちになりたい」「有名になりたい」と言う。

 しかしそのお金で、何をするか。その未来像が、見えてこない。また有名になるとしても、それはあくまでも結果。そこに至る、現実が見えてこない。

 手っ取り早く、豊かになるためには、自分の住む世界を、ぐんと小さくすればよい。あるいは何かの宗教に身を寄せ、その世界に安住するという方法もある。この世界、広く生きようと思えば思うほど、人との摩擦(まさつ)も大きくなる。ひとりで生きようと思えば思うほど、障害も大きくなる。

そこで私は、気がついた。豊かさは、求めるものではなく、その人の生きザマの中から、結果として生まれるもの、と。少し話が、飛躍してしまったかもしれないが、こういうことだ。

 私の知人に、長野県の山奥で、床屋を営んでいる人がいる。今年、六〇歳を超えた。彼は父親の仕事を引き継いで、床屋を始めたわけだが、もし人生の成功者という人がいるとするなら、彼のような人をいうのではないか。

 釣り名人で、そのあたりでは、「釣り聖」と呼ばれている。床屋という職業もあって、村長も、助役も、村の有力者たちも、みな、彼の前では、頭をさげる。もちろん村一番の情報通。もし彼を敵に回したら、村議会の議員にすら、なれない。

 今は、その人は、日本画にこっていて、毎日、その日本画に没頭している。「個展を開いたら……」とすすめると、うれしそうに笑っていた。

 一方、過去の肩書きや地位にぶらさがり、その亡霊から、逃れられない人もいる。退職したあとも、プリプリといばっている。「仕事がない」と言うから、「貿易の知識を利用して、中国の物産でも売ってみたら」と提案すると、こう言った。「そんな恥ずかしいことは、できない」と。(商売することを、「恥ずかしい」と言うのだ!)

 私のまわりには、いろいろな人がいる。みな、違った方法で、豊かさを求め、幸福になろうとしている。もちろん、私も、そうだ。しかし豊かさというのは、求めたところで、向こうからやってくるものではない。しかし生きザマさえ、しっかりしていれば、向こうからやってくる。

 大切なことは、その生きザマを、どう確立するかということ。が、ここで誤解してはいけないのは、その豊かさというのは、虹のかなたの、その向こうにあるのではないということ。あなたのすぐそばにあって、あなたに見つけてもらうのを、息をひそめて待っている。

 土地を売って大金を手に入れたからとか、あるいは大企業の部長になったからとか、著名なタレントになったからとか、そういうことで、ここでいう「豊かさ」を手に入れることは、ない。豊かさというのは、あくまでも、「心」の問題。名誉、地位、財産、肩書きとは、まったく、関係がない。

 大切なことは、できるだけ早い時期にそれに気づき、そうしたものに、心が毒されないようにすること。毒されれば毒されるほど、心の豊かさは、あなたから遠ざかる。

 ……と、大上段に構えて、「豊かさ」について、書いてみた。「何を偉そうに……」と思う人も、いるかもしれない。もしそうなら、許してほしい。私自身も、こうして自分なりに、結論らしきものを出しておかないと、前に進めない。頭のてっぺんから、足の爪の先まで、現代社会がもつ矛盾に、毒されている。

このつづきは、一度頭を冷やしたあとに、考えてみたい。
(031030)

+++++++++++++++++++++

同じような内容だが、こんなことを書いたこともある。

+++++++++++++++++++++

●生きる哲学

 生きる哲学にせよ、倫理にせよ、そんなむずかしいものではない。もっともっと簡単なことだ。人にウソをつかないとか、人がいやがることをしないとか、自分に誠実であるとか、そういうことだ。もっと言えば、自分の心に静かに耳を傾けてみる。

そのとき、ここちよい響きがすれば、それが「善」。不愉快な響きがすれば、それが「悪」。あとはその善悪の判断に従って行動すればよい。人間には生まれながらにして、そういう力がすでに備わっている。それを「常識」というが、決してむずかしいことではない。もしあなたが何かのことで迷ったら、あなた自身のその「常識」に問いかけてみればよい。

 人間は過去数10万年ものあいだ、この常識にしたがって生きてきた。むずかしい哲学や倫理が先にあって生きてきたわけではない。宗教が先にあって生きてきたわけでもない。たとえば鳥は水の中にはもぐらない。魚は陸にあがらない。そんなことをすれば死んでしまうこと、みんな知っている。そういうのを常識という。この常識があるから、人間は過去数10万もの間、生きるのびることができた。またこの常識にしたがえば、これからもずっとみんな、仲よく生きていくことができる。

 そこで大切なことは、いかにして自分自身の中の常識をみがくかということ。あるいはいかにして自分自身の中の常識に耳を傾けるかということ。たいていの人は、自分自身の中にそういう常識があることにすら気づかない。気づいても、それを無視する。粗末にする。そして常識に反したことをしながら、それが「正しい道」と思い込む。あえて不愉快なことしながら、自分をごまかし、相手をキズつける。そして結果として、自分の人生そのものをムダにする。

 人生の真理などというものは、そんなに遠くにあるのではない。あなたのすぐそばにあって、あなたに見つけてもらうのを、息をひそめて静かに待っている。遠いと思うから遠いだけ。しかもその真理というのは、みんなが平等にもっている。賢い人もそうでない人も、老人も若い人も、学問のある人もない人も、みんなが平等にもっている。子どもだって、幼児だってもっている。赤子だってもっている。あとはそれを自らが発見するだけ。方法は簡単。何かあったら、静かに、静かに、自分の心に問いかけてみればよい。答はいつもそこにある。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●常識をみがく

 常識をみがくことは、身のまわりの、ほんのささいなことから始まる。花が美しいと思えば、美しいと思えばよい。青い空が気持ちよいと思えば、気持ちよいと思えばよい。そういう自分に静かに耳を傾けていくと、何が自分にとってここちよく、また何が自分にとって不愉快かがわかるようになる。無理をすることは、ない。道ばたに散ったゴミやポリ袋を美しいと思う人はいない。排気ガスで汚れた空を気持ちよいと思う人はいない。あなたはすでにそれを知っている。それが「常識」だ。

 ためしに他人に親切にしてみるとよい。やさしくしてあげるのもよい。あるいは正直になってみるのもよい。先日、あるレストランへ入ったら、店員が計算をまちがえた。まちがえて50円、余計に私につり銭をくれた。道路へ出てからまたレストランへもどり、私がその50円を返すと、店員さんはうれしそうに笑った。まわりにいた客も、うれしそうに笑った。そのここちよさは、みんなが知っている。

 反対に、相手を裏切ったり、相手にウソを言ったりするのは、不愉快だ。そのときはそうでなくても、しばらく時間がたつと、人生をムダにしたような嫌悪感に襲われる。実のところ、私は若いとき、そして今でも、平気で人を裏切ったり、ウソをついている。自分では「いけないことだ」と思いつつ、どうしてもそういう自分にブレーキをかけることができない。

私の中には、私であって私でない部分が、無数にある。ひねくれたり、いじけたり、つっぱったり……。先日も女房と口論をして、家を飛び出した。で、私はそのあと、電車に飛び乗った。「家になんか帰るか」とそのときはそう思った。で、その夜は隣町の豊橋のホテルに泊まるつもりでいた。が、そのとき、私はふと自分の心に耳を傾けてみた。「私は本当に、ホテルに泊まりたいのか」と。答は「ノー」だった。私は自分の家で、自分のふとんの中で、女房の横で寝たかった。だから私は、最終列車で家に帰ってきた。

 今から思うと、家を飛び出し、「女房にさみしい思いをさせてやる」と思ったのは、私であって、私でない部分だ。私には自分にすなおになれない、そういういじけた部分がある。いつ、なぜそういう部分ができたかということは別にしても、私とて、ときおり、そういう私であって私でない部分に振りまわされる。しかしそういう自分とは戦わねばならない。

 あとはこの繰りかえし。ここちよいことをして、「善」を知り、不愉快なことをして、「悪」を知る。いや、知るだけでは足りない。「善」を追求するにも、「悪」を排斥するにも、それなりに戦わねばならない。それは決して楽なことではないが、その戦いこそが、「常識」をみがくことと言ってもよい。

 「常識」はすべての哲学、倫理、そして宗教をも超える力をもっている。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 常識論 常識とは 常識について わかりやすい生き方 シンプルライフ)






最終更新日  2009年08月06日 08時24分37秒
カテゴリ:人生論



Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

常識といっても、安易な常識論には
警戒したほうがよいですね。

それについて書いた原稿をいくつか、
集めてみました。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●安易な常識論で苦しむ人

 日本にはいろいろな常識(?)がある。「親だから子どもを愛しているはず」「子どもだから故郷(古里)を思い慕っているはず」「親子の縁は絶対に切れない」「子どもが親のめんどうをみるのはあたりまえ」など。

しかしそういう常識が、すべてまちがっているから、おそろしい。あるいはそういう常識にしばられて、人知れず苦しんでいる人はいくらでもいる。たとえば今、自分の子どもを気が合わないと感じている母親は、7%もいることがわかっている(東京都精神医学総合研究所の調査・00年)。「どうしても上の子を好きになれない」「弟はかわいいと思うが、兄と接していると苦痛でならない」とか。

 故郷についても、「実家へ帰るだけで心臓が踊る」「父を前にすると不安でならない」「正月に帰るのが苦痛でならない」という人はいくらでもいる。そういう母親に向かって、「どうして自分の子どもをかわいいと思わないのですか」「あなたも親でしょう」とか、さらに「自分の故郷でしょう」「親を嫌うとはどういうことですか」と言うことは、その人を苦しめることになる。

たまたまあなたが心豊かで、幸福な子ども時代を過ごしたからといって、それを基準にして、他人の過去をみてはいけない。他人の心を判断してはいけない。それぞれの人は、それぞれに過去を引きずって生きている。中には、重く、苦しい過去を、悩みながら引きずっている人もいる。またそういう人のほうが、多い。

 K市に住むYさん(38歳女性)のケースは、まさに悲惨なものだ。母親は再婚して、Yさんをもうけた。が、その直後、父親は自殺。Yさんは親戚の叔母の家に預けられたが、そこで虐待を受け、別の親戚に。そこでもYさんは叔父に性的暴行を受け、中学生のときに家出。そのころには母の居場所もわからなかったという。

Yさんは、「今はすばらしい夫に恵まれ、何とか幸福な生活を送っています」(手紙)ということだが、Yさんが受けた心のキズの深さは、私たちが想像できる、その範囲をはるかに超えている。Yさんから手紙を受け取ったとき、私は何と返事をしてよいかわからなかった。

 ここでいうような「常識」というのは、一見妥当性があるようで、その実、まったくない。そこで大切なことは、日本のこうした「常識」というのは、一度は疑ってみる必要があるということ。そしてその上で、何が本当に大切なのか。あるいは大切でないのかを考えてみる必要がある。

安易に、つまり何も考えないで、そうした常識を、他人に押しつけるのは、かえって危険なことでもある。とくにこの日本では、子育てにも「流儀(?)」を求め、その「形」を親や子どもに押しつける傾向が強い。こうした方法は、一見便利なようだが、それに頼ると、その実、ものの本質を見失うことにもなりかねない。

 「親である」とか「子であるとか」とかいう「形」ではなく、人間そのものをみる。また人間そのものをみながら、それを原点として、家庭を考え、家族を考える。それがこれからの子育ての基本である。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 安易な常識論 常識論)

Hiroshi Hayashi++++はやし浩司

●類は友を呼ぶ

 おととい、東京に住む友人(64歳・女性)と、電話でこんな話をした。
その友人が、こう教えてくれた。

 「奥さんがずるい人ということは、ダンナもずるい人と考えていいのよ。
だから夫婦でいられるのよ」と。

 『類は友を呼ぶ』というが、『似たもの夫婦』という言葉もある。
どちらか一方がずるくて、他方が、誠実ということは、ありえない。
友人は、こう言った。

 「たとえば奥さんがずるいことをしようとしてもね、ダンナが誠実な人だったら、
それをやめさせるはずよ」と。
つまりたがいに教えあいながら、夫婦というのは成長もするし、反対に堕落もする、と。

で、話がはずみ、私たちの結論は、こうだった。
「その人を知りたければ、その人の周囲の人たちを見ればいい」と。
たとえば兄弟にせよ、友人にせよ、つねに人は類を求めて集まる。
その人の周囲の人たちが不誠実なら、その人自身も、不誠実な人と考えてよい、と。

●縁を切る

 若いころ、1人、たいへんずるい人がいた。
インチキのかたまりのような人だった。
そのためいつも、何かにつけて、小細工ばかりしていた。

 結構、金払いもよく、それなりにおもしろい人だった。
が、あるときから、金銭面で対立するようになった。
そのときのこと。

 気がつくと、私自身も、その人に対して、ずるい人間になっているのを知った。
誠実になれないというか、誠実であることに、ある種のバカらしさを感じた。
つまりそういう人に対して、誠実であっても、意味はない。
誠実そのものが通じない。
こちらが誠実であろうとすればするほど、お人好しで終わってしまう。
そう感じた。

 そのときのことを今、思い出してみると、こういうことが言える。
「不誠実な人とは、勇気をもって、縁を切れ」と。
つきあってよいことは、何もない。
が、それだけではない。
つきあえばつきあうほど、その人の不誠実さに染まってしまう。

 そういう点では、人間の心というのは、それほどタフにはできていない。
何かにつけて、染まりやすい。
とくにこの私は、生まれも育ちも、あまりよくない。
もともとガードが弱い。

●終わりに……

 要するに人生は、短い。
回り道している暇は、ない。
そのためにも、正道を急ぐ。

 最後に、3人の賢人の言葉を引用する。

To live is so startling it leaves little time for anything else.
- Emily Dickinson

生きることはすばらしいことだが、そのほかのための時間は、ほとんど残されていない。

People's whole lives do pass in front of their eyes before they die. The process is called 'living'.
- Terry Pratchet, "The Last Continent"

人生とは、その人が死ぬまで、その人の目の前を通り過ぎるだけ。そのプロセスを、「生きている」という。

 そしてあのアインシュタインの言葉。

Life is a mystery, not a problem to be solved.

人生(生命)は、ミステリー(謎)だ。そのミステリーは、解けるような問題ではない。


Hiroshi Hayashi++++++++AUG.09+++++++++はやし浩司






最終更新日  2009年08月06日 08時24分12秒
2009年08月04日
カテゴリ:人生論
●即、実行!

+++++++++++++++++

最近、とくに心がけていることが、ひとつある。
何かと忘れっぽくなったこともある。
あるいは年々、気力が弱くなるのを、感じていることもある。

……ということもあって、「即、実行!」。

今できることは、(あと)に回さない。
明日に回さない。
来週や、来月に回さない。
即、実行!

+++++++++++++++++++++

●気力

 庭をながめていて、木々の枝が伸びたのがわかる。
即、ハサミをもって、庭に飛び出る。
 腹がはれぼったく、重い。
即、センナ(便秘薬)を煎じて、飲む。
 C県に住むKさん夫婦のことを思う。
即、近くの店に行って、届け物を買うなど、など。

 遊ぶときも、そうだ。
今できることは、今、する。
「明日、行こう」とか、「来週にしよう」などとは、考えない。
映画でも、思い立ったら、その夜にでも行く。
午後10時~の深夜劇場は、いつもがらがら。

 余裕のない生き方に思う人もいるかもしれない。
しかし私は本気。
というのも気力が弱くなっているのが、自分でもよくわかる。
ときに、投げやりになる。

しかし気力というのは、一度弱気になると、そのままずるずると、ますます
弱くなってしまう。
だから自分をあえて奮い立たせながら、今できることは、今する。
それが「即、実行!」。

●出鼻

 が、反対に、出鼻をくじかれることもある。
「やろう!」と覚悟していても、横槍が入ったりする。
相手との日程が合わなかったりする。
そういうとき、とたんに調子が狂う。

 これはたぶんに、私のわがままな性格によるものかもしれない。
そういうとき、自分を納得させるのが、むずかしい。
迷う。
戸惑う。
時に、相手に対して、憎悪の念を覚えることもある。
最近でも、こんなことがあった。

 法務局へ届ける書類があった。
自分でしようと思えば、自分でできた。
が、時間がなかった。
だから近くの司法書士に、それを頼んだ。
が、その司法書士は、その書類を、何と10日も、ほうっておいた!
当然、手続きはすんでいるものと思って電話をすると、「これからします!」と。

 こういう場面に出くわすと、自分をどうコントロールしてよいか、わからなくなる。
怒りを抑えるだけで、一苦労。

●ボケ防止

この「即、実行」には、もうひとつの意味がある。
実の話、このところ、何かにつけて、忘れっぽくなった。
2つ、3つくらいのことなら、何とかなるが、4つ、5つと重なると、そのうち
1つや2つは、忘れてしまう。

 ボケの始まりか?
その一例が、アイディア。

 こうして文章を書いていると、ときにつぎつぎと、アイディアがわいてくることがある。
で、そのときは、「覚えておこう」と思う。
「メモなど必要ない」と思う。
が、しばらくすると、それが何だったか忘れてしまう。

 そういうことが、最近、ふえてきた。
つまり自分に自信がもてなくなってきた。
しかしそれは、恐怖そのもの。
得体がつかめないだけに、不気味。
一時的なものであればよいが、もしそれがボケの前兆であるとしたら……?
ゾーッ!

 だから、ますます即、実行ということになる。
思いついたら、その場で、文章にしていく。
が、今のところ、メモにして残すということは、あまりしていない。
しかし、それも時間の問題か。
できるだけ頭の中に記憶しておこうと思っているが、そのうち、メモ用紙は
常備品になるかもしれない。

 (実際には、一度、小型ボイスレコーダーを買って、持ち歩いたこともある。
しかし長つづきしなかった。)

 ……だから、即、実行。
何かにつけて、即、実行。
即、実行、あるのみ。






最終更新日  2009年08月04日 21時36分04秒
2009年07月24日
カテゴリ:人生論
【命のうまみ】(The Beauty of Life)

●歳は取るものではなく、受け入れるもの

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数日前、近くの温泉で……。
だらりと下がった、胸、尻の皮。
それを鏡に映して、「ああ、ボクも歳を取ったナ」と思う。
が、ふと横を見ると、80歳くらいの男性。
私の体より、さらに、だらりと下がっている。
太ももも、鳥のガラのよう。
それを見て、「ボクは、まだよいほう」とか、
「近々、ボクもああなるナ」とか、思う。

歳は取るものでない。
受け入れるもの。
少しずつだが、人は、こうして自分の歳を受け入れていく。
その男性と自分を比較しながら、ふと、そう思った。

++++++++++++++++++++

●絶対寿命

 人間には、「絶対寿命」というものがあるという。
いまだかって、130歳を超えて生きた人はいないという。
だから「130歳」という年齢が、その絶対寿命ということになる。
が、実際には、90歳から100歳前後か?

その年齢になると、いくらがんばっても、DNAレベルで、細胞がバラバラになるらしい。
つまり一個ごとに、DNAは、時計のようなものをもっている。
「時計」というより、正確には、細胞の分裂回数に、制限があるということらしい。
だからたとえば、80歳の男性の細胞を使って、クローン人間を作ったとしても、
そのクローン人間の寿命は、80歳を起点にして始まる。
見た目にはいくら、子どもでも、寿命は、せいぜいあと10~20年程度ということに
なる。

 「老い」はだれにでもやってくる。
「死」もやってくる。
避けることはできない。
わかりきったことだが、しかしその(事実)を受け入れるのは、なかなか難しい。
人はだれしも、「ひょっとしたら、私だけは……」という甘い期待をもって、生きている。
さらに積極的には、あの世に、希望を託す人もいるかもしれない。
「私だけは、天国に入れる」と。

●人生の(深み)

 しかし(衰え)は、日々に、だれしも感ずる。
肉体の衰え、体力、気力の衰え。
それに知力の衰えもある。
何かの持病をかかえていたら、なおさらである。

 先日も、朝早く目を覚ましてみると、そこにワイフが眠っていた。
その寝顔を見たとき、「この人もバーさんになったな」と感じた。
しかし悪いことばかりではない。
その分だけ、そこに(深み)を感ずる。
(味)を感ずる。

 たとえはあまりよくないかもしれないが、それはスルメのようなもの。
かめばかむほど、味が出る。
うまくなる。
最後は溶けてなくなってしまうが、その直前、あのうまみが口の中に充満する。
もし寿命というものがなかったら、その(うまみ)を感ずることもないかもしれない。

 私は思わずワイフの額を手で撫でてやった。
撫でながら、「あと10年かナ?」と思った。
ワイフの寿命のことではない。
「こうして共に、幸福なときが過ごせるのは、あと10年かナ」と

●(衰え)

 思わず深刻で、暗い話になってしまったが、こうして人は、歳を受け入れていく。
若い人には、(私もそうだったが)、「死」は恐怖そのものかもしれない。
しかし死は何も、突然、やってくるわけではない。
徐々に、少しずつ、こうしてやってくる。

 だからといって、死に対して覚悟ができるということではない。
死への恐怖が和らぐということでもない。
しかしそこに(死)を感ずることによって、今のこの(命)の密度を、何十倍にも
することができる。

 だらだらと生きるのも1年かもしれないが、その1年を、何十倍も濃く生きることも
できる。
それができれば、死がやってきたとき、「思い残すことはありません」と言って、
この世を去ることができるかもしれない。
もし(希望)というのが何であるかと問われれば、私は、それが希望だと思う。

 またまた暗い話に戻ってしまったが、歳は受け入れていくしかない。
ただ誤解してほしくないことは、(歳)といっても、(年齢)という(数字)の
ことを指すのではない。
年齢という数字など、意味はない。
60歳だろうが、70歳だろうが、そのときはそのとき。
そのとき、できることをすればよい。
年齢という数字に遠慮する必要はない。

 私がここでいう(歳)というのは、(衰え)という限界状況をいう。
(死)という限界状況をいう。
たとえばおとといも、5キロ近く、ジョギングをしてみた。
が、いまだに赤色筋肉の中にたまった乳酸が消えない。
つまり太ももが痛い!

 こうした(衰え)は、自分ではいかんともしがたい。
が、それは受け入れるしかない。

●勝手に、たれ下がれ!

 言うなれば、「もう、逃げ隠れはしない」ということ。
いくら逃げようとしても、逃げられるものではない。
私だけ例外ということは、ありえない。
運がよければ、あと10年は健康寿命を保てるかもしれない。
あるいは明日の命かもしれない。

 どうであるにせよ、私は私。
今は今。
胸や尻の皮は、だらりとたれ下がり始めている。
だからといって、それを嘆き悲しんだところで、どうしようもない。
嘆き悲しむ必要もない。
そのかわり、私は、別の新しい世界を見ることができる。
むしろそちらのほうに、興味がひかれる。
何がそこにあるかはわからないが、今までの私が知らなかった、(命のうまみ)と
表現してよいかもしれない。
それがそこにある。

 が、もしここで、今、私が、「いやだ」「いやだ」と思って逃げていたら、どうだろうか。
「私だけ若くみられたい」と、へんにがんばったら、どうだろうか。
私はその分だけ、回り道をすることになる。
だったら、受け入れる。
受け入れてしまう。

 それが「歳を受け入れる」ということ。

 ……で、あとは、最後の最後まで、がんばる。
がんばるだけ。
50歳から60歳までの人生があっという間に過ぎたように、これからの10年も
あという間に過ぎるだろう。
考えてみれば、今の私には(歳)を気にする暇などない。

 胸よ尻よ、勝手にたれ下がれ!
私の知ったことではない!
温泉に入っても、もう気にしないぞ!

 ……ということで、今朝もはじまった。
みなさん、おはようございます!

2009年7月24日


Hiroshi Hayashi++++++++July.09+++++++++はやし浩司






最終更新日  2009年07月24日 09時30分20秒
カテゴリ:人生論
●近況(日記風に……)(7月23日)

++++++++++++++++++++++

昨日(7月22日)、この浜松でも、部分日蝕が観察
できるはずだった。
しかしあいにくの雨模様。
私はちょうどその時間、寝室でうたた寝をしていた。
多少、空が暗くなったかな……というところまでは
覚えているが、あとは、そのまま眠りの世界へ。

で、昨日は、仕事の合間を縫って、パソコンショップへ
2度も足を運んだ。
秋には、WINDOW7が発売になる。
それに合わせて、プリンターとか周辺機器も、
買い換えようと計画している。
モニターも、現在は、22インチのものを使用しているが、
24インチ~以上のものが、ほしい。
……などなど。
だから2度も足を運んだ。

そのパソコンショップでのこと。
店員さんが寄ってきて、「何か……?」と言った。
そのとき私は、L社(旧IBM社)のパソコンの
キーボードを指でいじっていた。
とっさに、私は、「L社のキーボードはいいですね」
と答えた。

そう、たしかにL社のキーボードは、すばらしい。
指で触れていても、気持ちがよい。
好き好きもあるのだろうが、私にはいちばん合って
いる。

「ぼくは、パソコンは、キーボードの感触で選んで
います」と答えると、店員さんも、「そうですね」と、
同意してくれた。

あとは、日常的な仕事。
夜、仕事のあと、BSで、洋画を見た。
以前、見たことのある映画だった。
たしか『エニグマ何とか』という映画ではなかったか?
ドイツのUボート(潜水艦)を奪取して、暗号解読機
を手に入れるという映画だった。

先日見た、『真夏のオリオン』(邦画)そっくりのシーン
が、何か所も出てきた。
新旧を問題にするなら、『真夏のオリオン』のほうが、
模倣したということになる。
(もっとも潜水艦映画というのは、どれも似たような
ものになりやすいが……。)
ただ迫力が、ちがった。
緊張感が、ちがった。
潜水艦映画は、その緊張感が売り物。
緊張感なくして、潜水艦映画はないと断言してもよい。

言い忘れたが、『真夏のオリオン』が、頭の中で、
ますます色あせていくのを感じた。
日本の俳優たちは、顔や声で、ただ力(りき)むだけ。
心底、その人物になりきっていない。
それが迫力や緊張感のちがいとなって、表れる。

+++++++++++++++++++++

●笑い話(「世界、面白ジョーク集」(PHP)より)

 いつもトイレの中で、「世界、面白ジョーク集」を読んでいる。
そのため書斎のほうで、そのまま紹介することができない。
(その本は、トイレ専用の本ということになっている。ごめん!)
その中に、こんな話が載っていた。
(記憶によるものなので、私のほうで、勝手に編集する。)
「ジョーク集」とはいえ、いろいろと考えさせられる。
つまり、おもしろい!

++++++++++++++++

☆神に見捨てられた男

 たいへん熱心な信者がいた。
その信者が、海で遭難にあった。
ボートで漂流した。
そこへ救助隊がやってきて、その信者を助けようとすると、その信者、つまり
男は、涼しい顔をして、こう言った。
「私は、神に守られている。助けなど、必要ない」と。

 救助隊はそのまま去った。
が、今度は、通りがかった船があった。
その船長が救助を申し出ると、その信者、つまり男は、再び、涼しい顔をして、
こう言った。
「私は、神に守られている。助けなど、必要ない」と。

 船はそのまま去った。
で、3度目に、連絡を受けた別の救助隊のヘリコプターがやってきた。
「このままでは嵐に巻き込まれて、命を落とすことになる」と。
しかしそのときも、その信者は、こう言った。
「私は、神に守られている。助けなど、必要ない」と。
が、そのあと本当に嵐がやってきて、その信者、つまり男は死んでしまった。

 ……天国へやってきた男は、神を前にして、こう言った。
「どうして私を殺したのか。
私はあなたを今まで、ずっと信じてきたではないか」と。
すると、神はこう答えた。

 「だから3度も、助けを送ってやっただろうが……」と。


☆観光ビザ

 ある男が死んだ。
そして天国と地獄の分かれ道のところへやってきた。
天使が、その男に、こう言った。
「あなたは善人だ。天国でも地獄でも、どちらでも好きな方に行けばいい」と。

 するとその男は、こう言った。
「一度、天国と地獄の両方を、自分の目で確かめてみてから、決めたい」と。

 天使は同意した。
で、男はまず天国へ行った。
が、そこは真っ白な世界。
老人たちが、本を読んだり、音楽を聴いていたりした。
のんびりとした、かったるい世界だった。

 つぎに男は地獄へ行った。
無数の酒場が並び、男や女が、遊んでいた。
けばけばしいネオンサインも並んでいた。
裸の女が踊っているのも見えた。

 もとの場所へ戻ってきた男は、天使にこう言った。
「地獄の方がいい。地獄へ行く」と。
そこでその男は、地獄へ行くことになった。

 が、地獄へ着くやいなや、そこで待っていたのは、拷問だった。
台に鎖でしばりつけられ、溶けた鉛を頭からかぶせられた。
で、男は、こう叫んだ。

 「話がちがう! 天使に見せてもらった世界は、こんなところではなかった!」と。

 するとそれを聞いた悪魔が、こう答えた。
「お前は、この前は、観光ビザで来たやろが。元役人のくせに、そんなことも
わからないのか!」と。

+++++++++以上、「面白ジョーク集」からの話を、編集++++++++++

 先の「神に見捨てられた男」の話は、信仰の根幹にも触れる問題を秘めている。
以前、この話と正反対の話を聞いたことがある。
実話である。
こんな話である。

 ある教団に、たいへん熱心な信者(女性)がいた。
その信者の夫が、何かの病気で急死した。
そのとき、何かの保険金で、3000万円も手に入った。
その信者は、「それほど多額の保険金が入ったのは、この信心をしていたおかげ」と、
そのうちの1000万円を、教団に寄付してしまった。

 その教団では、1000万円以上の寄付をする信者のことを、「4桁会員」と呼んで、
ほかの信者とは区別していた。

 が、この話は矛盾している。
もし「信心のおかげ」と言うくらいなら、神は、(仏でもよいが)、夫を殺さなかった
はず。

 で、先の「神に見捨てられた男」の話。
「だから3度も、助けを送ってやっただろうが……」という神の言い分に、
恐ろしいほどの説得力がある。
つまり「3度も助けを出してやったのに、すなおに助けに応じなかった、お前が悪い」と。

 この男の話と、1000万円も寄付金を提供した女性は、水面下でともにつながって
いる。
「妄信」という糸で、ともにつながっている。

 で、つぎの「観光ビザ」という話も、おもしろかった。
笑った。
みなさんは、どうであっただろうか。
つまり「観光ビザ」で見る世界と、たとえば、「就労ビザ」で見る世界は、ちがう。
まるでちがう。
そんなことは、世界の常識。
だから悪魔は、こう言った。

 「元役人のくせに、そんなこともわからないのか!」と。

 そう、外国というところは、その国に住んでみないと、わからない。
「わからない」というのは、観光ビザは、観光ビザ。
見せるほうも、表面的な部分しか、見せない。
はっきり言えば、本気で、相手にしない。
笑顔だけ振りまいて、それでおしまい。

 最初、観光ビザで地獄へ行った男は、地獄のよい面だけを見て、「地獄とは、そういう
ところ」と思ってしまった。
しかしこうした経験は、だれしも、一度や二度はする。
よい例が、「田舎暮らし」。

 それまで都会でサラリーマンなどをしていた人が、定年後、あるいはその前に、
思い立って田舎暮らしを始める。
しかしたいてい、失敗する。
それもそのはず。
村の人たちが、受け入れてくれない。
(「村」という自治体が、いくら振興策を練ったところで、それで現地の村の隣人たちが
動くわけではない。)

 私も、浜松市という(都会)と、山の中の(山荘)と、2つの世界で生活するように
なって、もう15年近くになる。
幸いにも村の人たちは、暖かく私を迎え入れてくれた。
が、しかし実際に「住む」となると、二の足を踏んでしまう。
田舎生活には、外から見えない、無数の問題がある。

 だからよく客人が、こう言ったりすると、私は、「よしなさい!」と思ってしまう。
「いいところですね。私もこんなところに住んでみようかな」と。
先のジョークを読みながら、別の頭で、そんなことを考えた。


Hiroshi Hayashi++++++++July.09+++++++++はやし浩司







最終更新日  2009年07月24日 08時06分47秒
2009年07月22日
カテゴリ:人生論
●近況・あれこれ(090722)

●私は「男」ではない?

 若いころほどではない。
ないが、今でも若い女性の胸元が見えたりすると、ドキッとする。
が、最近の若い女性、それに母親たちは、無防備と言えば、無防備。
それに大胆。

 話はそれるが、学生時代、金沢で外人相手の観光ガイドのアルバイトをしていた
ことがある。
そのときのこと。
カナダ人夫婦が、女子高校生を連れてやってきた。
その女子高校生が、今で言うタンクトップというのを着ていた。
当時、ああいう服装をしている日本の女性は、いなかった。
若い女性でもいなかった。
そのため、私は金沢の街の中をいっしょに歩きながら、しばしば歩けなくなってしまった。
どうして歩けなくなってしまったについては、今更、ここに書くまでもない。

 が、今では、タンクトップなど、珍しくも何ともない。
とくにこの浜松市には、南米からの労働者たちがたくさん住んでいる。
一番多いときで、3万人前後になった。

 その人たち。
これまた大胆というか、ノーブラの上に、胸元を大きく開けた、薄いシャツ一枚。
店の中で通り過ぎたときなど、目のやり場がない。
どうしたらいいか、そのつど迷う。

 そうした影響もあるのだろう。
このところ日本の若い女性たちも、大胆になってきた。
若い母親たちも、大胆になってきた。
平気で(?)、胸元を見せたりする。
が、私はそういうとき、別のことを考える。
「私だって、まだ男だ!」と。

 若い母親たちから見れば、私は、彼女たちの世代からはるか離れた
ジー様ということになる。
私自身の若いころを思い出してみると、若い母親たちがどう思っているか、よくわかる。
20代、30代のころ、50歳、60歳の人は、別世界の人のように思えた。
はっきり言えば、どうでもよい世界の人たちに思えた。
それはわかる。
しかし私は、今でも「男」である。
「男」を棄てたわけではない。
だから、ドキッとする。
と、同時に、「ああ、私は男に思われていないのだ」と知り、がっかりする。

 何年か前のことだが、こんなこともあった。
ある母親が私に、こう言って相談してきた。

 「兄(小3)と妹(幼稚園児)が、私のおっぱいを取りあって、喧嘩をします。
どうしたらいいでしょうか」と。

 話を聞くと、「兄が左、妹が右と決めているのですが、それでも喧嘩になります」と。
で、私は、思わず、「どうして?」と聞いてしまった。
「どうして兄が左で、妹が右?」と。
するとその母親は、私の目の前で、両方の胸を両手で下からもちあげて見せ、
「ほら、先生、左のほうが大きいでしょう」と。

 そのとき気がついたが、その母親はノーブラだった。
そしてそのときも、こう思った。
「私だって、男だ」と。

 その母親は、美しい人だった。
それでよけいに印象に残った。

 で、この話をそのあとワイフにすると、ワイフもこう言った。
「かわいそうね。あなたは、男と見られていないのよ。
牧師さんか、まあ、そんな人のように思われているのよ」と。

 しかし結びに、もう一言。
私だって、まだ「男」だア!


●人間性の壊れた人

 今日、ドライブをしながら、ワイフとこんな会話をした。
先日、私の庭に、マムシが出た。
その話をすると、ワイフの義兄の家にも、一度、マムシが出たことがあるという。
しかもそのマムシというのは、どうやら義兄の隣人が投げ込んだものらしい、と。

私「それって、殺人未遂だよ」
ワ「そうね、それでかまれて死ねば、殺人罪よね」
私「そうだよ」と。

 しかしマムシに名前があるわけではない。
つまり隣人が投げ込んだという証拠もない。

 そこで話が進んだ。
私「じゃあさあ、今度そういうことがあったら、マムシを隣へ投げ返してやればいい」
ワ「そんなこと、できないわよ」
私「それもそうだね。そういうことをすると、気分が悪くなるよね」
ワ「そうよ。……でも、そういうことが平気でできる人というのは、すでに
人間性が破壊されている人とみていいわね」

私「そう、まともな人なら、そういう隣人とは関わりたくない。そう思うよ」
ワ「でもね、そういう人は多いわよ。そういうことが平気でできる人……」
私「そう言えば、それに似たような話を、A君(学生時代の友人)から、
聞いたことがあるよ」と。

 それはこんな話だ。

 数年前、その友人の父親が死んだ。
90歳だったという。
それまで父親は、実家に、ひとり住まい。
友人の姉が訪れてみたときには、すでに死後、2、3日もたっていたという。

 で、連絡を受け、あわてて友人が実家へかけつけてみると、1、2通の通帳類を
残して、現金など、財産的価値のあるものは、きれいに消えていたという。
ついでにA君が子どものころ集めていた、古銭や切手も!
その直前に、友人の姉が、すべて持ち出していた。

 が、友人にすれば、それどころではない。
こうした不審死のばあい、警察が介入してくる。
友人は、取り調べも受けた。

 で、葬儀も無事済み、1か月ほどがたったときのこと。
姉から手紙が送られてきた。
中身を見ると、古い株券が10枚ほど入っていたという。
「価値のあるものか、どうか、調べてほしい」と、手紙にはそうあった。

 そこでその友人が、市内の証券会社にもちこみ、調べてもらうと、数千円分の
価値しかないことがわかった。
で、友人は、姉にそのことを連絡した。

 が、この話には裏がある。
実は、A君の姉は、その株券がその程度の価値しかないことを、すでに知っていた。
知っていた上で、A君に送り届けてきた。
よくある『小悪を暴露して、大悪を隠す』という手法である。
小ずるい人間が、よく使う手である。

 つまり小悪を、わざと暴露する。
そうして自分は正直な人間ですということを、相手に印象づけながら、一方で、
大悪を隠す。

ワ「その姉さんという人も、相当の悪ね」
私「そうなんだよな。だれでも頭の中では、いろいろ考える。ときには、悪いことも
考える。しかしそれを実際に実行する人となると、そうはいない」
ワ「そうね、そういうことが平気でできる人というのは、人間性が壊れていると
みるべきね」
私「そうだよ。友人もそう言っていた。『姉とは縁を切った』とね」と。

●善人と悪人

 善人と悪人の(差)は、(距離)の問題と考えてよい。
だれしも、悪いことを考える。
考えるが、実行するとなると、別の覚悟が必要である。
その(考えること)と、(実行)の間には、(距離)がある。
それが善人と悪人の(差)ということになる。

 善人は、その(差)が、大きい。
悪人は、その(差)が小さい。

 たとえば、だれしも、「こうすればいい」というようなことまでは、考える。
その中には、悪いことも含まれる。

私も、若いころは、銀行強盗の仕方を、毎晩のように考えた。
(一度もそれについて書いたことはないが……。というのも、真似をする人が
出てくると困る。しかし私が考えた方法は、完璧なものである。ワイフにそれを
話すと、ワイフは、「ハリウッドへ原稿を送ってみたら」と言った。
つまりそれほどまでに、斬新で(?)、確実性のあるものだった。)

ほかにアメリカ映画のような、現金輸送車の強盗も考えた。
当時、そういう映画がよくはやった。
しかし考えても、私は実行しない。
それが(距離)となる。

 で、話を戻す。
ここに書いた、『小悪を暴露して、大悪を隠す』というのも、その一例である。
それができる人は、できる。
できない人は、できない。

たとえば小悪を暴露することは、それほど難しいことではない。
それによって、自分を善人に仕立てることもできる。
しかしその一方で、大悪を隠すとなると、心は大きく揺れ動く。
人間の心というのは、自己矛盾に対しては、それほどタフにできていない。
精神は緊張状態に置かれ、ついで、不安定になる。

 それがいやだから、つまり心が不安定になるのがいやだから、ふつうの人なら、
それをしない。
(考え)と(実行)の間に、(遠い距離)を覚える。
しかし人間性が壊れている人は、そうでない。
平気でそれができる。
したところで、罪の意識を覚えない。
ごく日常的な行為として、それができる。

ワ「周囲の人たちは、その姉さんのことを、どう思っているのかしら?」
私「そう、ぼくも、それをA君に聞いたことがある。
そしたらA君が言うには、A君の周囲の人たちは、みな、そういう人たちばかり
と言っていた」
ワ「類は友を呼ぶ……だったかしら?」
私「そう。友は類を呼ぶでもいいよ。そういう人たちは、そういう人たちどうしで集まり、
居心地のいい世界を作るもんだよ」
ワ「いや~ネ」
私「ホント」と。

 A君の姉もそうなら、姉のダンナも似たような人という。
一見まじめそうだが、小ずるくて、いつもセコセコしている、と。
さらに姉がいちばん親しく行き来している、伯父にあたる人もそうだという。
まさに『類は、友を呼ぶ』ということか。

●では、どうするか?

 人生も長ければ、それでもよい。
しかし10年など、あっという間に過ぎてしまう。
とくに60歳を過ぎると、人生も秒読み段階に入る。
そうなると、無駄な人と、無駄な時間を過ごすこと自体が、苦痛となる。

 さらに人間性に欠ける人たちとつきあっていると、こちらの人間性まで、
変調してしまう。
つまりその分だけ、時間を無駄にする。
そこで教訓。

(1) 小数の人たちと、より深く交際する。
(2) より高次元の人を選んで、交際する。
(3) 低次元の人たちとは、勇気をもって、縁を切る。

 原稿をさがしてみたら、昨年(08年)の3月に、同じようなことを書いたのを
知った。

それをそのままここに、転載する。
ここに書いたことが、ひとつの結論になるのではないだろうか。

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最終更新日  2009年07月22日 21時21分23秒
カテゴリ:人生論


●私らしく生きる(I live as I am.)

If someone speak ill of you behind you, what will you do? In may case I cope with such a
problem, just ignoring him or her. We don’t have to be a good friend for all the people.
There is a saying in England, that we can’t be a good man to two people together. In
Japan we say that those who wish to be a good man to everyone are called “8-direction
good man”. We rather despise this sort of man. This means to be a good man to someone
means to be a bad man to another man. We are often forced to choose one of them.
Moreover the older we get, the less time we have. We don’t have time to waste but to go
forward with good people around us. Our life itself is so limited. This is an article I write
about it.

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ときとして人との交わりは、わずらわしい。
こちらが望まなくても、災いは、向こうからやってくる。

あなたを悪く言ったり、非難したり、
中傷したりする人がいたとする。

そういう人と、こちら側から、あえて
仲よくする必要はない。

弁解したり、反論したり、言い争う必要もない。
「必要もない」というより、
そういうことをしても、意味はない。

サルはサルと喧嘩する。
イヌはイヌと喧嘩する。
(ちょっと言いすぎかな?)

その相手が気になるということは、
あなた自身も、そのレベルの人間ということ。
あなたが相手を超えてしまえば、
その相手が気にならなくなる。

無視すればよい。
相手が近づいてきたら、それなりに
適当にあしらっておけばよい。

やがて相手は、自らを追いこんでいく。
あなた以上に、苦しんだり、悩んだりする。
いやな思いをする。

つまりは、「根くらべ」ということになる。

その根くらべのできる人を、「丸い人」という。
「賢い人」という。

私のばあいも、あるときから、八方美人で
あることをやめた。
英語の格言にも、「2人の人にいい顔はできない」
というのがある。
年を重ねれば重ねるほど、そうで、人は人を
選んで生きるようになる。

言いかえると、「去る人は追わず」ということか。
そのため友人の数もぐんと減るが、その分だけ、
残り少ない友人たちとの関係が、濃密になる。

・・・というものの考え方に、当初は、自信がなかった。
「広く浅くつきあうことこそ大切ではないか」と
迷ったことも、しばしばある。

たしかにビジネスの世界では、そうかもしれない。
知人の輪は、それが広ければ広いほど、利益につながる。
「名刺の数が多ければ多いほど、金が入る」と説く人もいる。

が、私は、エイズを発症した一人の青年の
手記を読んだとき、私は、自分の考え方が
正しいと確信をもった。その青年は、こう書いていた。

「私の人生は残り少ない」「無駄にできる時間はない」
「だから無駄な人と無駄な時を過ごす時間は、もうない」と。

それを書いたのはアメリカ人の青年だった。
で、それを読んだとき、私もこう思った。
「私にも無駄にできる時間は、もうない」と。

その後、その青年は、半年足らずで亡くなったそうだ。
しかしその青年の半年と、私がまだもっているであろう
10年と、どこがどうちがうというのか。
20年でもよい。
半年を短いといい、20年を長いと、どうして言う
ことができるのか。

この広い宇宙を基準にして考えれば、半年であろうと、
20年であろうと、ともに星がまばたきする瞬間に
過ぎない。どこもちがわない。

しかも20年あるとはかぎらない。明日、交通事故
か何かにあうかもしれない。あさって、不治の病を宣告
されるかもしれない。

だったらなおさら、私には、無駄にできる時間はない。
さらに言えば、無駄な人と無駄に過ごす時間は、ない。

・・・と考えていくと、自と結論が出てくる。

私たちは人を選びながら、生きていく。
当然のことながら、相手も、私という人間を選びながら
生きていくだろう。「あの林はいやなヤツだ」
「あの林とは、もうつきあわない」と。

しかしそれはそれで、かまわない。
かまわないから、私は私で生きていく。
人は、人、それぞれ。

あなたを悪く言ったり、非難したり、
中傷したりする人がいたとしても、気にしない。
言いたいように、言わせておけばよい。

そういう人と、こちら側から、あえて
仲よくする必要はない。ないから、別れる。
古い言い方をするなら、「縁を切る」。
縁を切って、そのまま忘れる。
時の流れに任せる。

どうせ私にしても、あなたにしても、
50年を超えて、生き残ることはない。
100年を超えることは、ぜったいに、ない。

そう考えて、私は私で生きていけばよい。
あなたはあなたで生きていけばよい。

やがて相手は、自らの愚かさの中で、
自らクビをしめていくだろう。
不愉快な思いをするのは、その相手自身ということになる。

(追記)

 私のまわりにも、口だけ出してくる人は多い。しかし口を出すくらいなら、だれにだっ
て、できる。しかもこちら事情も知らないで、そう言ってくるから、たまらない。あるい
は、どこからか一方的な情報だけを聞いて、そう言ってくるから、たまらない。

 さらに権威主義というか、1、2歳、年上というだけで、そう言ってくる。私は内心で
は、「ごちそうさま」と思うが、しかしそれは言わない。言っても無駄。それなりの人物な
ていない。

 だから相手にしない・・・ということになる。が、相手にしないでおくと、その相手は
ますます墓穴を掘り始める。騒げば騒ぐほど、だれからも相手にされなくなる。

 大切なことは、そういう相手はもちろん、そういうことも忘れて、私は私、あなたはあ
なたで、サバサバと生きていくということ。「無視する」というのは、そういう意味。

(追記2)

 この原稿をたまたま横にいたワイフに読み聞かせると、ワイフはこう言った。「冠婚葬祭
がそうね」と。

 ワイフの姉(=私の義理の姉)は、いつもこう言っているという。「もう何十年もつきあ
いはないのに、冠婚葬祭の連絡を受けたりすることがある。うちは本家(ほんや)だから、
顔を出さないわけにはいかない。しかし出るたびに、どうしてこんなつきあいをしなけれ
ばならないのかと疑問に思う」と。

 「田舎」と呼ばれる地方では、こうした風習を断ち切るのは容易ではないかもしれない。
「親戚づきあい」という言葉が、いまだに色濃く残っている。しかしみなが、声を合わせ
ていっせいに断ち切れば、この日本も変わる。

ワ「でも、私たちが断ち切るということは、私たちも相手の人から、断ち切られるという
ことになるのじゃない?」
私「そうだね。だからぼくは、たとえばお前の葬式やぼくの葬式には、だれも来なくても
かまわない。息子の結婚式だって、ほんとうに祝ってくれる人だけが集まってくれた。ぼ
くはそれでいいと思う」
ワ「孤独にならないかしら?」

私「みんな、ほんとうは、孤独なんだよ。みんなその孤独を、ごまかしながら生きている
だけなんだよ。しかしいくらごまかしても、孤独から逃れることはできない」
ワ「冠婚葬祭に、みなが集まってくれるからといって、孤独がいやされるというものでは
ないわね」
私「そう。孤独というのは、もっと別のところにある。だからもっと別の戦い方をしなけ
ればならない。孤独と戦うということは、そんな簡単なことではないんだよ」と。

 私が臨終のときは、ワイフと、もしできれば息子たちがそこにいてくれれば、それでよ
い。葬式も、そうだ。派手な葬式など、望むべくもないが、そんなものをしてくれる必要
はまったくない。

ワ「でも、叔父や叔母の葬儀などは、どうしたらいいの?」
私「そのときの気持ちに、すなおに従えばいい。参列したいと思えば、参列すればいい。
そうでなければ、参列しなければいい。義理にしばられる必要はない」
ワ「でも、相手が、不愉快に思うわよ」
私「そう思うなら思わせておけばいい。どうせその程度の人間関係なんだよ」
ワ「でも反対に、うちの葬式には、だれも来なくなるわよ」
私「ハハハ、それも結構。いいじゃない、それで。どうせその程度の人間関係。うるさい
連中は、こちらから願い下げだよ」と。

(追記3)

 「親戚づきあい」とは言うが、私自身の人生を振りかえってみたとき、たとえばこの私
をその家に一泊させてくれたことがある親戚と言えば、母の実家の1軒しかない。金銭的
な援助を受けた親戚といえば、1軒もない。

 (反対に我が家に泊めてやった親戚となると、何十人もいるぞ!)

 こうした事情は、いまでは、たいていどこの家庭でも似たようなもの。親戚といっても
形だけ(?)。そんな親戚も、少なくない。が、なぜか、日本人は、「親戚」というだけで、
その言葉にしばられる。

 私たちは今、「親戚づきあい」そのものを考えなおす時期に来ているのではないだろうか。
江戸時代の昔ならいざ知らず、今は、もう「血筋」にしばられる時代ではない。こだわる
時代でもない。またそうであってはいけない。

 親戚であっても、また親戚でなくても、そこにあるのは、純然たる人間関係。その人間
関係は、中身を見て判断する。形や外見ではない。中身だ。

 (今日の私の意見は、少し、過激かな?)


Hiroshi Hayashi++++++++July.09+++++++++はやし浩司






最終更新日  2009年07月22日 21時16分51秒
2009年07月17日
カテゴリ:人生論
【世界おもしろジョーク集(PHP)】より

●「糞の世界」……考えさせられた!

+++++++++++++++++++++

いつもトイレの中で、「世界おもしろジョーク集」
(PHP版)を読んでいる。
おもしろい。

その中にこんなのがあった。
(あらすじで、ゴメン!)

+++++++++++++++++++++

●善人vs悪人

 ある日、牛車にのった農夫が通りかかると、道端で一羽の小鳥が、寒さで今にも
死にそうなのがわかった。
そこでその農夫は、まだ温もりの残る牛の糞で、小鳥の周りを包んでやった。
小鳥はそれで元気になった。
元気になって、歌を歌い始めた。

 しばらくすると、別の農夫がそこを通りがかった。
歌声に誘われてそこを見ると、一羽の小鳥が牛の糞の中に埋もれているのがわかった。
そこでその農夫は、小鳥の周りから牛の糞を取り除くと、その糞を遠くへ投げ捨ててやった。

 そのあとまもなくして、小鳥は寒さで、死んでしまった。

 この物語には、3つの教訓がある。
一つ目は、あなたを糞の世界に閉じ込める人が、悪人とはかぎらないということ。
二つ目は、あなたを糞の世界から助け出してくれる人が、善人とはかぎらないということ。
そして三つ目は、糞の世界では、けっして歌を歌わないということ。

●糞の世界

 ここでいう「糞の世界」とは、どういう世界をさすのか?
私はこのジョークを読んで、すぐさま、「裏社会」のような世界を連想した。
暴力と犯罪、女とカネ、それに麻薬が飛びうような世界である。

 「小鳥」とは、純粋無垢な、若者?
つまり農夫は、今にも死にそうな小鳥を助けるため、その小鳥を、温かい牛の糞で、包んでやった。
おかげで小鳥の命は助かった。
だから教訓のようになる。
「あなたを糞の世界に閉じ込める人が、悪人とはかぎらないということ」と。

 二つ目の教訓も、同じよう考えて、理解できる。

 が、問題は三つ目である。
どうして「糞の世界では、歌を歌ってはいけないのか」。

●歌を歌う

 私はこのジョークを読んで、しばらく考え込んでしまった。
トイレから出てからも、ずっと考えた。
が、どうも意味が、よくわからない。
そこでワイフに相談すると、ワイフは、あっさりと、こう教えてくれた。

 「要するにね、目立ってはだめということじゃ、ナア~イ」と。

 さすが裏社会を生きてきたワイフ。
ズバリと言い当てた。
つまり裏社会で生きる人間は、目立たず、静かに生きろということか。
たとえばマフィアの親分が、自伝を書いたら、どうなる?
自伝でなくても、たとえばBLOGのようなものを出したらどうなる?
たちまち警察の目にとまり、ああでもない、こうでもないと文句をつけられ、その
親分は、たちまち刑務所送りになるかもしれない。

 だから「静かにしていろ」と。

 ほかのジョークのようには笑えなかったが、発想そのものが、おもしろい。
日本人の私たちにはない発想である。
「農夫と小鳥と糞」という取り合わせが、おもしろい。

●静かに生きる

 糞にもいろいろある。
私が今、住んでいるこの世界も、(現代社会)という観点から見ると、「糞のような世界」
ということになる。
アウト・ローの世界とまではいかないが、それに近い。
フリーターの世界というのは、そういう世界である。

 私ははからずも、その糞の世界に入ってしまった。
ずっとその世界で生きてきた。
今も、糞の温もりを感じながら、生きている。
結構、居心地もよい。

 が、その世界で、こうしてモノを書いている。
先のジョークでいう、歌を歌っていることになる。
過去において、そういう私を、糞の世界から取りだそうしてくれた人も、いない
わけではない。
が、私は自ら、断ってきた。
そして今、満61歳。
今では、糞の世界から出たとしても、出たあと、行く場所すらない。
だから今の世界に、このままいるしかない。

 そういう私は、静かに生きたほうがよいのか。
そのほうが身の安全のためには、よいのか。
そこまで深く考える必要はないのかもしれないが、しかしこのジョークには、
いろいろと考えさせられた。
(プラス、おもしろかった!)








最終更新日  2009年07月17日 07時53分58秒

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