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楽天・日記 by はやし浩司

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自分(はやし浩司)史

2008年11月24日
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●2人の私

++++++++++++++++++

私の中には、たしかに2人の(私)がいる。
その2人が、いつも交互に顔を出す。

先日も、DVDを返しに行ったときのこと、
逆走してきた車に、あやうくぶつけられそうに
なった。

そのとき、「あんな奴は、強制収容所送りだ」
と叫んだ(私)。
実際、ワイフの横で、そう叫んだ。

が、すかさずもう一人の(私)が顔を出し、
「あんな奴、相手にするな。どこの世界にも
バカはいる」と、私をたしなめた。

ここで「強制収容所」という言葉が出てきたのは、
K国の金XXの影響によるもの。
先の(私)は、心のどこかで、金XXというより、
スーパー権力者にあこがれを抱いているのかも
しれない。

ともかくも、そういうわけで、2人、いる。

で、そのことをワイフに話すと、ワイフは、
こう言った。

「私には、そういうことはないわ」と。

私「ほんとうに、ないのか?」
ワ「ないわ。私は、いつも1人よ」
私「じゃあ、ああいうとき、どう考えるの?」
ワ「あぶないとは思うわ。でも、それだけ」
私「ぶっ殺してやるとか、そういうふうには思わないのか?」
ワ「思わないわね」

私「でも、ぼくの中には2人、いる」
ワ「そういうことも、私にはないわ」
私「ほんとうにないのか?」
ワ「あなただけよ、きっと……」
私「じゃあ、ぼくだけがおかしいのかなあ?」
ワ「そうよ、あなたは、おかしいわよ」と。

+++++++++++++++++++

●どうして2人の私が……?

どうして私の中に2人の(私)がいるかについては、いろいろな原因が考えられる。
それについては前にも書いてきたので、ここでは省略する。

しかし時として、その2人の(私)が、頭の中ではげしく葛藤する。
俗にいう「迷う」というのとは、訳がちがう。
(そう言えば、私のワイフは、服などを選ぶとき、よく迷う。
ときに1着の服を決めるのに、1時間ほども時間がかかるときがある。
これはどういう現象と理解してよいのか?)

攻撃的で孤独に強い私。……これを(私A)とする。
弱気でやさしい私。……これを(私B)とする。

全体のバランスでみると、(私A)は、瞬間、もしくは、
何か事件などが起きたときなどに顔を出す。
ふだんは、(私B)が優勢で、(私A)が顔を出すことはない。
ふつう(私A)が顔を出すのは、(怒り)を覚えたとき。
(私A)が優勢になって、(私B)が隅に追いやられることもある。

が、それは私だけの現象で、ワイフには、それがないという。

ウ~~~ン……。

ということは、私は、人格障害者なのか?
しかし教科書で知る多重人格者とも、ちがうようだ。

ウ~~~ン……。

怒ったようなとき、だれでも、別人格者になるような気もするのだが……?
よい例が、酒を飲んで、まったく別の人間になる人もいる。
私の父がそうだった。
ふだんは静かでおとなしい人だった。
学者タイプの人だった。
しかし酒が入ると、そのまま別人になった。
大声を出して暴れたり、ものを破壊したりした。

……ということは、私は父のシャドウを引き継いでしまったのか?

こうした現象は、私が書く文章にも、見られるかもしれない。
とくに時事問題、国際問題、カルト問題について書くときは、私はきわめて攻撃的な
文章を書く。
しかし一方、心の問題、子育ての問題、教育問題について書くときは、控え目で、
穏やかな文章を書く。

そこで一度、ここで実験をしてみる。
(私A)(私B)のそれぞれと、その双方が混在しているときの(私)の、3種類の
(私)になって、文章を書いてみる。

+++++++++++++++
(私A)

何が反日だ!
何が反米だ!
自由主義貿易圏に身を置きながら、反日、反米を唱えれば、自ら自分の首を
絞(し)めるようなもの。
今朝の為替レートは、1ドル=1494ウォンだぞ!
サブプライム問題が起きたとき、君たちは何と書いていた。
「この問題は、韓国には波及しない」と。
さらにウォン安に向かうと、「輸出に有利になる」と喜んでいた。
しかし輸出先そのものが、なくなってしまった。
9月危機は乗り越えた。
しかし11月危機は、どうか?
さらに来年3月は、どうか?
私たち日本人の知ったことではないが、日本あっての韓国。
それをもっと素直に認めろ。

(私B)

大切なのは、相互の理解と友好。
誤解があれば、誤解を解けばよい。
その努力は忘れてはいけない。
それがわからなければ、地球を、宇宙から見てみればよい。
どういがみあったところで、地球は、宇宙のゴミ。
そのゴミの中の小さな国どうしが争って、どうなる?
どうする?

やがてこのアジアも、EUのように、統合される日がやってくる。
またそうでないと、アジアそのものが、総崩れになってしまう。
韓国が困っていたら、助けてやればよい。
裏切られても、裏切られても、じっとがまん。
それ以上のことを、日本は、あの植民地時代にしてしまった。

韓国のデフォルト(債務不履行)は時間の問題だが、今こそ、
日本は暖かい支援の気持ちを伝えておくべきではないのか。

(私A)+(私B)

反日を唱えるのも結構だが、少し冷静になってほしい。
たかが竹島問題程度のことで、軍事衝突するのもバカげている。
私たち日本人は、この問題を、国際裁判所のような場所で、公式に話しあおうと、
何度も提案しているではないか。
どうして君たちは、それに応じようとしないのか?
それとも何か、つごうの悪いことでもあるというのか?
このままでは韓国経済は、崩壊する。
そのことを今、一番強く肌で感じているのは、君たちのほうではないのか。
今、ここで韓国経済が崩壊すれば、そのときこそ、K国は、待ってましたとばかり、
君たちの国に攻撃をしかけてくるだろう。
そうなれば、竹島どころか、韓半島の全部を、あの独裁者に占領されることになる。
「同胞だから、そこまでしない」と考えるのは、どうかな。
すでに相手は、あなたたちのことを、同胞とはみていない。
どうしてそんなことがわからないのか。
君たちが、それでも反日を唱えるなら、日本だって、選択肢がなくなってしまう。
「韓国崩壊、やむなし」と。
反日・嫌韓は、その双方にとっても、悲しむべきことだと思う。
思うが、私たちは、嫌韓を今しばらく、貫くしかない。

+++++++++++++++++

同じ問題でも、(私A)で考えるのと、(私B)で考えるのとでは、雰囲気が
まるで変わってしまう。
考えてみれば、これは恐ろしいことではないか?

私のような(力)のない人間だから問題はないが、もし同じことが権力者の頭の
中で起きているとしたら、そのつど、政治の向きが180度、変わってしまう。
一説によると、あのドイツのヒットラーでさえ、本当は芸術を愛好した、気の弱い、
やさしい人だったという。
私たちが知るヒットラーは、私でいう(私A)のみが、極端に肥大化した人間
だったかもしれない。

ただ幸いなことに、私のばあい、(私A)が顔を出すのは、先にも書いたように、
(怒り)を感じたときだけ。
もしそうでなければ、私の人格はとっくの昔にバラバラになって、崩壊していた
かもしれない。







最終更新日  2008年11月24日 09時25分06秒
2008年10月16日

●愛する人へ

+++++++++++++++++++++++

人は、自分のためだけに生きるのではない。
自分のためだけに生きても、意味はない。
むなしいだけ。

人は、常に、だれかのために生きる。
もし喜びも、悲しみも、すべて自分のためだけの
ものだったら、人はそれから生まれる孤独に
耐えられないだろう。

何をしてもさみしく、何を考えてもつまらなく、
何を食べても、味気ない。

人は愛する人とともに行動したときのみ、
楽しさを覚え、愛する人が笑ったときだけ、
喜びを感ずる。
そこに(あなた)がいない生活は、乾いた砂漠の
ようなもの。
心は、カラカラと、音をたてて空回りする
だけ。

++++++++++++++++++++++

●あなたへ

昨日、ぼくは家を飛び出した。
いつものように「あんなヤツとは、もう離婚だ!」と、息巻いた。
しかし30分も歩くと、その気持ちは薄らぎ、
さらに30分もすると、その気持ちは、完全に消えた。

とたん、(あなた)に会いたくなった。
しかし(あなた)はそこにいない。
ふつうなら、ぼくのことを心配して、追いかけてきてもよい。
あるいは携帯電話に電話してきてもよい。
しかし(あなた)は動かない。
電話もかけてこない。

怒りがムラムラとわいてくる。
まずます意地がわいてくる。
「家になんか、帰ってやるか」と。

ますます前に向かって歩く。
どこかのレストランで、食事をしようか。
映画館で、映画でも見ようか。
本屋で、片っ端から本を買おうか。
超最新型のパソコンを買ってやろうか。

いろいろ考えるが、どれもむなしい。
(あなた)のいない世界は、まるで灯が消えたよう。
その(あなた)は、今ごろ、せんべいでも食べて、
DVDでも見ているのだろうか。

こんな寒い夜に、ぼくは、ひとりでとぼとぼと
通りを歩いているというのに!

すると別の声が聞こえてくる。
「もう、帰ろう」と。
「家に帰って、あいつを無視してやろう」と。

しかしすぐ帰ったのでは、メンツが立たない。
(あなた)に、少しは心配をさせたい。
ぼくがいない、さみしさを味あわせてやりたい。
ぼくがつらい思いをしている分だけ、つらい思いをさせてやりたい。

しかし(あなた)は、ぼくより強い。
性格も安定している。
ぼくには、(あなた)に、勝ち目はない。
その悔しさ。
そのはがゆさ。

いつしか足は、家に、向かっている。
まっすぐ、家に向かっている。
そこには(あなた)のやさしい顔がある。
暖かい言葉がある。

庭から、勝手口へ。
(あなた)は、ソファに座って、下を向いている。
ぼくはだまって、書斎へ入る。
「今さら、ごめんと言いたくもない」。
そう思いながら、パソコンに電源を入れる。

「こんなとき、お茶でももってきてくれたら、どんなにかうれしいことか」と。
しかしその気配はない。
「チクショー」と思う。
だからますます、がんこになる。
がんこになって、二階の窓から、(あなた)のいるあたりに向かって、小便をする。

が、反応はない。

再びがんこになる。
と、そのとき居間から内線。
「ゆうごはん、食べるの?」と。
私は無視する。
何も答えないで、内戦を切る。
「だれが食べてやるかア!」と。

こういうとき私の中で、2人の(私)が葛藤する。
「意地を張ってないで、下へおりていって、食事をしろ」とつぶやく(私)。
「いくら腹がへっても、食べるな」とつぶやく(私)。
グラグラとその間で、(私)が迷う。

が、私は弱い。
しぶしぶと下へおりていく。
おりていって、台所の椅子に座る。
座って、そこにあるものを、口に入れる。

言葉を言えば、けんかになりそう。
だから黙っている。
黙って食事をする。

別の心は、こう言う。
「な、おいしいだろ。おいしかったら、おいしいと言え」と。
と、同時に、(あなた)はこう言う。

「いつまでも突っ張ってないで、すなおになりなさいよ」と

ぼくはそれに答えて、静かにうなずく。

「今夜、いっしょに、寝てくれるか?」
「いいわよ」と。






最終更新日  2008年10月16日 08時00分34秒
2008年08月16日
【トーク番組・趣旨】(RF YOKOHAMA)

●母について語る

Q:「林さんにとって、(親)というのは、どういう存在なのでしょうか。何か、エピソードのようなものを話していただければ、うれしいです。」

A:いきなり汚い話で、恐縮なのですが、下痢で汚れた母の尻をふいてやったとき、それまでのわだかまりや、こだわりが、ウソのように消えました。
いよいよ自分では思うように歩けなくなって、私の家にやってきたのですが、それまでは、いくら説得しても、がんとして郷里の実家を離れようとしませんでした。
で、私の母ですが、他人にはともかくも、子どもの私たちには、過酷なほどまでにきびしい親でした。私の長男が生まれたときでさえ、私の家にやってきて、家といっても、6畳と4畳だけの小さなアパートでしたが、私に貯金を全額おろさせ、それをすべてもって帰っていきました。それまでも、そしてそれ以後も、私は収入の約半分を、毎月母に送金していました。父は私が大学を卒業するとまもなく、心筋梗塞で他界してしまいましたから……。
が、それでも足りなかったのでしょうか。預けておいた私の土地の権利書を、母が勝手に転売してしまったこともあります。世の中には、親をだます子どもはゴマンといますが、子をだます親は、少ないと思います。私がそれに泣いて抗議すると、母は、こう言って、逆に私を叱りました。「親が、先祖を守るために、子の財産を使って、何が悪い!」と。私が47歳のときのことでした。

「親のめんどうは、子がみろ」といいますね。しかしその言葉から受ける、社会的重圧感には、相当なものがあります。そうした重圧感を、心理学の世界でも、「幻惑」と呼んでいます。「家族自我群から生まれる幻惑」と、です。親子であるが故に、その関係は特殊なものです。それがうまく機能しているときは、家庭というのは、それなりに居心地のよい世界です。が、ひとたびどこかで歯車が狂うと、今度はそれが恐ろしいほどの重圧感を伴って、その人を襲います。それは想像を絶する重圧感です。
さらに郷里の地方では、「子が親の悪口を言うとはなにごとか」とか、「どんな親でも親は親だ」「産んでもらったではないか」「育ててもらったではないか」「言葉を教えてもらったではないか」とか言います。そういう言葉を耳にするたびに、私は首どころか、全身を真綿で締め付けられるような思いをしたものです。

Q:「林さんは、お母さんを恨みましたか」

A:もちろんそうです。恨みました。憎みました。毎晩寝る前になると、体中が怒りでほてり、なかなか寝つかれませんでした。土地の権利書を転売されたときのことです。毎晩、ワイフが介抱してくれました。そういう期間が、10か月もつづきました。最後に「お前を、親だろうが何だろうが、訴えてやる」という手紙を書いたとき、母は、それにおびえて、あわててお金を返してきました。

Q:「それで親への恨みは消えたのですか?」

まさに底なしの消耗戦でした。親というのは、何があっても信じられる存在なはずでしょう。それが信じられないというのです。そうなると、もうだれも信じられなくなってしまいます。私のワイフですら、信じられなくなってしまいます。が、事情を知らないノー天気な親類たちは、実家へ帰らないという理由だけで、私を責めました。「親捨て」というレッテルを貼られたこともあります。

Q:「どうしてそういうお母さんを、引き取ることになったのですか」

話せば長くなりますが、実家の近くで母のめんどうをみていた、姉や兄が健康を害したことが理由です。それでいよいよ……ということになって、私がめんどうをみることにしました。が、簡単なことではありませでした。「いやだ」とか、「したくない」とかいうような、生易しい感情ではありませでした。私は悶絶しました。悶絶です。私は現在60歳ですが、そこにはそれまでの58年に及ぶ、私の人生そのものが凝縮されていました。
父は私がもの心つくころから酒を飲んで暴れ、私は家庭の(暖かさ)というものを、ほとんど知らないで育ちました。かろうじて私が私でいられたのは、祖父母が同居していたからにほかありません。私にとって、祖父が、父親でした。もし祖父母が近くにいなかったら、私は今ごろどうなっていたかわかりません。
が、母が私の家に来て、初日のことでした。母は体調を崩し、1週間ほど、下痢を繰りかえしました。便の始末は私がすると心に決めていましたから、私がしました。
そのときのことです。しわくちゃになった母の尻をふいているとき、それまでのわだかまりや、こだわりが、乾いた風のように、スーッと自分の心の中から消えていくのを感じました。「ぼくは、こんな人間を、今まで、本気で恨んだり、憎んだりしていたのか」とです。そこにいたのは、無力で、孤独で、どうしようもないほど、小さく、あわれな人間でした。とたん、そしてそこに残ったのは、私が子どものころの、あのやさしい、慈愛に満ちた母でした。私が、「あのなあ、この先、お前が死ぬまで、ぼくがお前のめんどうをみるよ」と言うと、母は、こう言いました。「おまえにこんなことを、(つまり便の始末のことですが)、してもらうようになるとは、思ってもみなかった」と。

Q:「林さんは、憎しみを乗り越えたということですか」

A:結果的にそうなったというだけです。人を恨んだり、憎んだりするのには、ものすごいエネルギーが必要です。相手が母親なら、なおさらです。だから人を恨みたかったら、とことん恨んだらいい。憎みたかったら、とことん憎んだらいい。いい子ぶることはない。しかしそのうち疲れて、それができなくなる。できなくなったとき、その前に、実におおらかな世界が見えてきます。
それともうひとつ大切なことは、『運命は、受け入れる』です。
だれにでも無数の糸がからんでいます。家族の糸、親類の糸、社会の糸、生い立ちの糸などなど。過去という糸もあります。
そういうものが、その人の体をがんじがらめにして、その人の進むべき道を勝手に決めてしまうことがあります。それを「運命」というなら、運命というのは、たしかにあります。
で、その運命を感じたら、運命は、静かに受け入れる、です。
運命というのは、それに逆らえば、悪魔となって、私たちにキバをむいて襲いかかってきます。しかし運命というのは、それを受け入れてしまえば、相手のほうからシッポを巻いて逃げていきます。悪魔というのは、あくまでも観念的な悪魔ですが、気が小さく、臆病です。何も恐れる必要はありません。
受け入れて、そこを原点として、前向きに生きていけばいいのです。

Q:「私は、親になれるだろうかと悩んでいる若い人たちがいると思います。そういう人たちには、どうアドバイスしてくれますか」

A:何も気負うことはないのです。「あなたは、あなた。私は、私」と居直ることです。どんな家庭にも、またどんな家族にも問題はあります。問題のない家庭など、ない。問題のない家族も、ない。みんなそれぞれ、それぞれの問題をかかえて、懸命に生きている。その懸命に生きている姿こそ、尊いのです。無数のドラマもそこから生まれます。そのドラマに価値があるのです。
が、それでも袋小路に入ってしまったら……。私は、『許して、忘れる』という言葉を思い出してほしいと思います。英語では、「For・give and For・get」と言います。この単語をよく見ると、「フォ・ギブ」つまり、「与えるため」とも訳せます。「フォ・ゲッツ」は、「得るため」とも訳せます。つまり「許して忘れる」というのは、「相手に愛を与えるために許し、相手から愛を得るために忘れる」という意味になります。相手が親であろうが、子どもであろうが、この言葉は、有効です。

Q:「最後に何か、同じような悩みを抱えて苦しんでいる人たちに、役立つ話をお願いします」

A:昔、Tという名前の大作家がいました。その名前を出したら、知らない人がないというほどよく知られた、大作家です。
そのT先生が病気で倒れたとき、私は、T先生を見舞ったことがあります。そのときのことです。T先生がこう言いました。「林君、ぼくは若いころから、無精子症なんだよ」と。つまり精子が先天的にない体質だったのですね。
それを聞いて、私は思わずこう言ってしまいました。「だって、先生には、息子さんが……」と。
するとそのT先生は、ベッドの上で体をこちらに向け、笑いながら、こう言いました。「まあ、いいじゃねえか、いいじゃねえか」と。
「許して忘れる」を一言で言えば、「まあ、いいじゃねえか」となるのですね。
もちろんそうした心境にいたる過程で、そのT先生は悩み苦しんだと思います。相当な苦しみだったと思います。だからこそ、今に名を残す大作家となったわけです。
母は、現在、92歳です。今は、ケア・センターに入っています。私以外の人は、ほとんど区別できませんが、私も似たような心境です。母を見舞うたびに、「まあ、いいじゃねえか」という言葉が、自然と口から出てきます。

最後に一言。
私の母についてですが、母は母で、あの戦後という時代の中で、懸命に生きた。けっして自慢できるような親でありませんでしたが、あの戦争の被害者だったということも言えます。父が酒に溺れるようになったのは、今で言う「PTSD」、つまり心的外傷後ストレス症候群が原因ではなかったのではないでしょうか。父は、戦地の台湾で貫通銃創といって、腹に2発、アメリカ軍の銃弾を受けています。
母は母で、当時の価値観に従って、懸命に「家」を守ろうとしていたのです。郷里のあの地方では、いまだに、江戸時代そのままの、「家制度」が残っています。母はそういう過去の亡霊を引きずり、それに翻弄されただけかもしれません。世間体、見栄、メンツにこだわったのも、そのためです。
そのときはそれがわかりませんでしたが、今になってみると、それがよくわかります。この世の中には、絶対的な善人などいません。同じように、絶対的な悪人というのもいません。
要はバランスの問題です。みんなそのバランスを必死に保ちながら生きているのです。
話が脱線しましたが、何かのことで行き詰まったら、「許して、忘れる」。T先生が言った、「まあ、いいじゃねえか」でもよいかもしれません。その言葉を思い出してみてください。
そこは実に、おおらかで穏やかな世界です。みなさんも恐れないで、そういう世界に向かって進んでみてください。

Q:「ありがとうございました」
A:「こちらこそ、ありがとうございました」

(収録・横浜、ラジオ日本にて)






最終更新日  2008年08月16日 10時35分07秒
2008年01月08日
【マガジン・復刻版】

Feb 4th 2008, I will issue the 1000th celebrated magazine with my honor. I started this magazine on June 6th 2001 and since then I have published my magazines twice and three times (later) per week. It has been a long way to come up here. I just remember one day I thought while I was writing articles like this: “Shall I be on this world when I issu the 1000th magazine?” Yes, I am still alive! I can see, I can think, I can hear and I am alive. What else can I ask the world more? Here on this occasion I would like to express my greatest thanks to all of these readers and people who have supported me in the past. Thank you very much! Here I would like to introduce some of my magazines which I issued more than 6 years ago.

+++++++++++++++++

2008年の2月1日、私の電子
マガジンは、999号を迎えます。

次回、2月4日、1000号を迎えます。

遠い道のりでした。

いつだったか、1000号の発行日を
計算しながら、「それまで生きているだろうか」
と考えたことがあります。

しかし私は、生きています。
こうして元気に生きています。

目も見える。
音も聞こえる。
体も動く。

健康です!

みなさん、ありがとうございました。

第1号~は、Eマガの過去版のほうに
収録されています。興味をもってくださる
人がいれば、どうか、また目を通して
みてください。

今回は、その復刻版を改めて読みなおし
ながら、自分なりのコメントを書き添えて
みたいと思います。

++++++++++++++++++

http://www.emaga.com/bn/list.cgi?code=hhayashi2

++++++++++++++++++

 彡彡人ミミ      彡彡彡彡彡
| ⌒ ⌒ |   MM ⌒ ⌒ MM
q 0―0 MMMMM  ∩ ∩ MM m
(″ ▽ M ⌒ ⌒ M″ v ゛)/ ̄)
凸/Σ▽乃q ・ ・ p ̄Σ▽乃 ̄` /
\   /(″ ▽ ゛)\    厂 ̄
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    子育て最前線の育児論
 ================  
2001年6月6日号
         by はやし浩司(ひろし)

トピックス

● はじめまして! 
● 育児診断ができるぞ
● 子育て定期検診ができるぞ
● はやし浩司、ってどんな人?
● どんなことを考えている……?


●はじめまして!

今回から、E-マガジン、初登場です。よろしくお願いします。
子育ての最前線でがんばっている、お母さん、お父さんのためのマ
ガジンです。

この日本、エラーイ先生も、私のようなエラークない先生もいます。
どこが違う……かって?

エラーイ先生には、実戦経験がない。しかし私はいつも子育ての最
前線で、お母さんたちと戦ってきた。いわば、最前線の現場指揮官
というわけです。経験は豊富です。たいていの問題には、答えられ
ます。お助けできます。そんな私が皆さんのお役に、少しでもたて
ればと思い、このマガジンを発行することにしました。

                    はやし浩司


● 育児診断ができるぞ!
あなたは過保護ママ? 過干渉ママ? それとも溺愛ママ?
 
診断方法 …… http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
   の「子育て診断」→「過保護ママ?」を開いてみてください。
30項目の質問に答えるだけ(少したいへんかな?)。でも一度は診
断してみてください。わかっているようで、意外とわかっていないの
が、自分の子育てです。


● 子育て定期検診もできます!

あなたのお子さんは、園や学校から帰ってきたら、どこで疲れた心
と体を休めていますか。
あなたのいる前で、心と体を休めていればよし。しかし……。そん
な日常的な様子から、あなたの子育てを定期検診します。

検診方法 …… http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
   の「子育て診断」→「定期検診」を開いてみてください。


● はやし浩司って、どんな男?

現在、中日新聞で、子育て論を連載しています。2001年6月
で、もう丸4年になります(東海版、毎週土曜日朝刊)。
Http://www.chunichi-tokai.co.jp/education/child_world/
を開いてみてください。最近のコラム50作が、紹介されていま
す。決してあやしい男(あやしいかな?)ではありません。意外
とオーソドックス、正統派です。

☆ ただいま、会員募集中!(無料です!)

ただいまE-マガジンの会員を募集しています。毎回定期的に、み
なさんのところに、E-マガジンセンターから、このようなマガジ
ンが送られてきます。どうか、ご登録ください。

無料です。一切、負担はありません。かつ、E-マガジンのもろもろ
の子育て情報を、無料で手に入れることができます。

会員登録のしかた ……  
(1)下をクリックする
http://www.emaga.com/
(2)E-マガジンの画面が出てくる。
(3)右上の「検索」で、「最前線」と記入して、検索をクリック!
(4)私のE-マガジンが紹介されていますから、そこで購読を登録!

では、皆さんのご来訪をお待ちしています!


+++++++++++++++++++++

以上が、第1号です。このときは、読者はゼロでした。
つづいて、第4号。このとき読者は、7人になって
いました。






最終更新日  2008年01月08日 21時01分42秒

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 彡彡人ミミ      彡彡彡彡彡
| ⌒ ⌒ |   MM ⌒ ⌒ MM
q 0―0 MMMMM  ∩ ∩ MM m
(″ ▽ M ⌒ ⌒ M″ v ゛)/ ̄)
凸/Σ▽乃q ・ ・ p ̄Σ▽乃 ̄` /
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    子育て最前線の育児論
 ================  
2001年7月6日号(004号)
         by はやし浩司(ひろし)

★★★★★★★★
01-7-6号
★★★★★★★★

*************************

★静岡県教育委員会発行の、「ファミリス」に、9月号から
連載記事が載ります。どうかご覧になってください。
「教育委員会」というと、コワ~イイメージをもって
おられる方も多いと思いますが、私の記事は、きわめて
実用的です。楽しみにしておいてください。

★「別冊PHP」9月号(7・23発売)に特集記事が載ります。
どうかご覧になってください。

★「浜松百撰」で、子育て対談をします。7月24日予定ですので、
記事はそれ以後載ると思います。ご注目ください。

**************************

あなたの子育てをチェックしてみませんか?

お子さんのちょっとした、しぐさの中に、
実は重大な警告が隠されている……というようなことが
よくあります。

たとえば……

(机とお子さんの相性)

● お子さんが好きそうな食べ物や、おもちゃをそっと
机の上に置いてみてあげてください。
そのときお子さんが

(1) そのまま机に座って、食べ物を食べたり、おもちゃ
で遊んだりすれば、だいじょうぶ。

(2) しかしその食べ物やおもちゃを、別の場所に移動して
食べたり、遊んだりするようであれば、お子さんと
机の相性はよくないとみます。

長い間、相性の悪い机を使っていると、勉強嫌い……
ということにもなりかねませんので、ご注意ください。

● 同じように、たとえば親子の断絶なども、ちょっとした様子
から、その初期症状を知ることができます。

 それをまとめたのが、「子育て診断」です。わかりやすい15項目に
 してみましたので、どうかご活用ください。

詳しくは……
  http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
  の中、

  (育児診断)→(子育て危険度早期診断)をご覧になってください。
  7月10日に、新居町教育委員会のほうで、講演をします。その席を
  借りて、結果の集計をし、その結果は、また私のホームページのほうに
  掲載しておきますので、11日以後、結果をお知りになりたい方は、どう
  かまたご覧になってください。

**************************************

親子の断絶が始まるとき

● 最初は小さな亀裂

最初は、それは小さな亀裂で始まる。しかしそれに気づく親は少ない。「まさか……」「ま
だ何とかなる……」と思っているうちに、やがて互いの間の不協和音は大きくなる。そしてそれが、断絶へと進む……。

 今、「父親を尊敬していない」と考えている中高校生は五五%もいる。「父親のようになりたくない」と思っている中高校生は七九%もいる(「青少年白書」平成十年)。が、この程度ならまだよいほうだ。親子といいながら会話もない。廊下ですれ違っても、目と目をそむけあう。まさに一触即発。親が何かを話しかけただけで、子どもは「ウッセー!」と。そこで親は親で、「親に向かって、何だ、その態度は!」となる。あとはいつもの大げんか!

 ……こう書くと、たいていの親はこう言う。「うちはだいじょうぶ」と。「私は子どもに感謝されているはず」と思っている親もいる。しかし本当にそうか。そこでこんなテスト。
あなたの子どもが、学校から帰ってきたら、どこで体を休めているか、それを観察してみてほしい。そのときあなたの子どもが、あなたのいるところで、あなたのことを気にしないで、体を休めているようであれば、それでよし。あなたと子どもの関係は良好とみてよい。しかし好んであなたの姿の見えないところで体を休めたり、あなたの姿を見ると、どこかへ逃げて行くようであれば、要注意。かなり反省したほうがよい。ちなみに中高校生の多くが、心が休まる場所としてあげたのが、(1)風呂の中、(2)トイレの中、それに(3)ふとんの中だそうだ(「学外研」九八年報告)。

● 断絶の三要素

 親子を断絶させるものに、三つある。権威主義、相互不信、それにリズムの乱れ。「私は親だ」というのが権威主義。「子どものことは、私が一番よく知っている」という親ほど、あぶない。

この権威主義が強ければ強いほど、子どもは親の前では、仮面をかぶる。いい子ぶる。その分だけ、子どもの心は離れる。次に相互不信。「うちの子はすばらしい」という自信が、子どもを伸ばす。しかし親が「心配だ」「不安だ」と思っていると、それはそのまま子どもの心となる。人間の心は、鏡のようなもの。

イギリスの格言にも、「相手は、あなたが思っているように、あなたのことを思う」というのがある。つまりあなたが子どものことを「すばらしい子」と思っていると、あなたの子どもも、あなたを「すばらしい親」と思うようになる。そういう相互作用が、親子の間を密にする。が、そうでなければ、そうでなくなる。三つ目にリズム。あなたの子どもがまだヨチヨチ歩きをしていたころを思い出してみてほしい。そのときあなたは子どもの横か、うしろを歩いていただろうか。そうであれば、それでよし。しかしあなたが子どもの前を、子どもの手を引きながら、ぐいぐいと歩いていたとするなら、あなたと子どものリズムは、そのときから狂い始めていたとみる。

おけいこ塾でも何でも、あなたは子どもの意思を無視して、勝手に決めていたはずだ。やがてあなたは子どもと、こんな会話をするようになるかもしれない。親「あんたは誰のおかげでピアノがひけるようになったか、それがわかっているの! お母さんが高い月謝を払って、毎週ピアノ教室へ連れていってあげたからよ!」子「いつ誰が、そんなこと、あんたに頼んだ!」と。

 権威主義は百害あって一利なし。頭ごなしの命令は、タブー。子どもを信じ、今日からでも遅くないから、子どものうしろを歩く。決して前を歩かない。アメリカでは、親子でも、「お前はパパに何をしてほしい」とか、「ママはぼくに何をしてほしい」と聞き合っている。そういう謙虚さが、子どもの心を開く。親子の断絶を防ぐ。
 
************************************
これからも、よろしくご購読ください。
             はやし浩司
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(以下、003号です。)






最終更新日  2008年01月08日 21時01分11秒
2007年12月25日
●ロメオとジュリエット

(音楽↓、クリック)
http://www.youtube.com/watch?v=89BwSqKfpQU

●マダム・バタフライ

(音楽↓、クリック)
http://jp.youtube.com/watch?v=7Z3-yBlDckY

 久しぶりに、「マダム・バタフライ」を聞いた。ジャコモ・プッチーニのオペラである。私はあの曲が好きで、聞き出すと何度も、繰り返し聞く。

「♪ある晴れた日に、
  遠い海の向こうに一筋の煙が見え、
  やがて白い船が港に着く……
  あの人は私をさがすわ、
  でも、私は迎えに行かない
  こんなに私を待たせたから……」

 この曲を聞くと、何とも切ない気持ちになるのは、なぜか。遠い昔、長崎からきた女性に恋をしたことがあるからか。色の白い、美しい人だった。本当に美しい人だった。その人が笑うと、一斉に太陽が輝き、一面に花が咲くようだった。その人はいつも、春の陽光をあびて、まばゆいばかりに輝いていた。

 マダム・バタフライ、つまり蝶々夫人は、もともとは武士の娘だったが、幕末から明治にかけての混乱期に、芸者として長崎へやってくる。そこで海軍士官のピンカートンと知り合い、結婚。そして男児を出産。が、ピンカートンは、アメリカへ帰る。先の歌は、そのピンカートンを待つマダム・バタフライが歌うもの。今さら説明など必要ないかもしれない。

 同じような悲恋物語だが、ウィリアム・シェークスピアの「ロメオとジュリエット」もすばらしい。少しだが若いころ、セリフを一生懸命暗記したこともある。ロメオとジュリエットがはじめてベッドで朝を迎えるとき、どちらかだったかは忘れたが、こう言う。

 「A jocund day stands tip-toe on a misty mountain-top」と。「喜びの日が、モヤのかかった山の頂上で、つま先で立っている」と。本来なら喜びの朝となるはずだが、その朝、見ると山の頂上にモヤにかかっている。モヤがそのあとの二人の運命を象徴しているわけだが、私はやはりそのシーンになると、たまらないほどの切なさを覚える。

そう、オリビア・ハッセーとレナード・ホワイティングが演ずる「ロメオとジュリエット」はすばらしい。私はあの映画を何度も見た。ビデオももっている。サウンドトラック版のCDももっている。その映画の中で、若い男が、こう歌う。ロメオとジュリエットがはじめて顔をあわせたパーティで歌われる歌だ。

 「♪若さって何?
   衝動的な炎。
乙女とは何? 
氷と欲望。
世界がその上でゆり動く……」
 
 この「ロメオとシュリエット」については、以前。「息子が恋をするとき」というエッセーを書いたので、このあとに添付しておく。

 最後にもう一つ映画の話になるが、「マジソン郡の橋」もすばらしい。短い曲だが、映画の最後のシーンに流れる、「Do Live」(生きて)は、何度聞いてもあきない。いつか電撃に打たれるような恋をして、身を焼き尽くすような恋をしてみたいと思う。かなわぬ夢だが、しかしそういうロマンスだけは忘れたくない。いつか……。
(02-10-5)※

++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

●息子が恋をするとき

息子が恋をするとき(人がもっとも人間らしくなれるとき)

 栗の木の葉が、黄色く色づくころ、息子にガールフレンドができた。メールで、「今までの人生の中で、一番楽しい」と書いてきた。それを女房に見せると、女房は「へええ、あの子がねえ」と笑った。その顔を見て、私もつられて笑った。

 私もちょうど同じころ、恋をした。しかし長くは続かなかった。しばらく交際していると、相手の女性の母親から私の母に電話があった。そしてこう言った。「うちの娘は、お宅のような家の息子とつきあうような娘ではない。娘の結婚にキズがつくから、交際をやめさせほしい」と。

相手の女性の家は、従業員30名ほどの製紙工場を経営していた。一方私の家は、自転車屋。「格が違う」というのだ。この電話に母は激怒したが、私も相手の女性も気にしなかった。が、二人には、立ちふさがる障害を乗り越える力はなかった。ちょっとしたつまづきが、そのまま別れになってしまった。

 「♪若さって何? 衝動的な炎。乙女とは何? 氷と欲望。世界がその上でゆり動く……」と。

オリビア・ハッセーとレナード・ホワイティングが演ずる「ロメオとジュリエット」の中で、若い男がそう歌う。たわいもない恋の物語と言えばそれまでだが、なぜその戯曲が私たちの心を打つかと言えば、そこに二人の若者の「純粋さ」を感ずるからではないのか。

私たちおとなの世界は、あまりにも偽善と虚偽にあふれている。年俸が1億円も2億円もあるようなニュースキャスターが、「不況で生活がたいへんです」と顔をしかめてみせる。一着数百万円もするような着物で身を飾ったタレントが、どこかの国の難民の募金を涙ながらに訴える。暴力映画に出演し、暴言ばかり吐いているタレントが、東京都やF国政府から、日本を代表する文化人として表彰される。

もし人がもっとも人間らしくなるときがあるとすれば、電撃に打たれるような衝撃を受け、身も心も焼き尽くすような恋をするときでしかない。それは人が人生の中で唯一つかむことができる、「真実」なのかもしれない。そのときはじめて人は、もっとも人間らしくなれる。もしそれがまちがっているというのなら、生きていることがまちがっていることになる。しかしそんなことはありえない。

ロメオとジュリエットは、自らの生命力に、ただただ打ちのめされる。そしてそれを見る観客は、その二人に心を合わせ、身を焦がす。涙をこぼす。しかしそれは決して、他人の恋をいとおしむ涙ではない。過ぎ去りし私たちの、その若さへの涙だ。あの無限に広く見えた青春時代も、過ぎ去ってみると、まるでうたかたの瞬間でしかない。歌はこう続く。「♪バラは咲き、そして色あせる。若さも同じ。美しき乙女も、また同じ……」と。

 相手の女性が結婚する日。私は一日中、自分の部屋で天井を見つめ、体をこわばらせて寝ていた。6月のむし暑い日だった。ほんの少しでも動けば、そのまま体が爆発して、こなごなになってしまいそうだった。ジリジリと時間が過ぎていくのを感じながら、無力感と切なさで、何度も何度も私は歯をくいしばった。

しかし今から思うと、あのときほど自分が純粋で、美しかったことはない。そしてそれが今、たまらなくなつかしい。私は女房にこう言った。「相手がどんな女性でも温かく迎えてやろうね」と。それに答えて女房は、「当然でしょ」というような顔をして笑った。私も、また笑った。







最終更新日  2007年12月25日 10時42分42秒
2007年11月25日
【私の中学時代】(1)

●OK君

 「中学時代」という言葉を口にして、最初に思い浮かぶのは、OK君のことだ。ザワザワとした記憶の雑踏の中から、まっさきに、彼の顔が飛び出した。色白の、都会的な顔立ちをしていた。1年生のころは、飛び抜けて成績がよく、私は、OK君には、いつも一目、置いていた。

 家は、高校の敷地内の職員宿舎にあった。父親が、高校の教師をしていた。町をはさんで、OK君の家と、中学校は、正反対の位置にあった。私の家は、町の中心部にあった。

 OK君の家には、よく遊びにいった。ついでに高校のプールで泳いだりもした。今で言う、転勤族で、私の知らないことを、たくさん知っていた。

 が、記憶というのは、残酷なものだ。懸命にOK君のことを思い出そうとするのだが、あの顔立ちだけで、それ以上のものがつづかない。私のことを、「林君」「林君」と、慕ってくれた。腕力は、私のほうがあった。

 名前すらも、忘れてしまった。たしか「博士」の「博」という字があったように思う。そのOK君は、中学2年生になると同時に、どこかへ引っ越していった。

 私の印象では、その後、OK君は、どこかの大学の教授になったかもしれない。中学時代のOK君には、すでにその雰囲気が備わっていた。

●クラブ

 私は中学時代、コーラス部と、天文部に属していた。運動部には、入っていなかった。そのかわりというわけではないが、市内の柔道の道場に、週2、3回、通っていた。

 コーラス部といえば、まっさきに思い出すのが、ST君のこと。彼の弟は、その後、野口五郎というタレント名で、日本でも有名な歌手になった。ST君は、私より2年、下だった。美しい声の持ち主だった。「ボーイソプラノ」を担当していた。

 天文部では、太陽の黒点観測が、いちばんのテーマだった。ほかに反射望遠鏡を作るため、毎日、放課後にガラス磨きをした。直径が20センチほどのガラス板を磨いて、レンズを作った。

 そのあとそのレンズがどうなったかは、知らない。たしか、大きな反射望遠鏡になったような気がする。みんなで、披露会のようなものを開いたのを、記憶のどこかで覚えている。よくは覚えていない。

 柔道は、けっこう、いい線までいった。よく対抗試合にでかけていった。私の得意技は、大外刈り「おおそとがり」と読む。相手の体を少し回し、バランスを崩させる。そのとたん、自分の足裏で相手の足を止め、腕をぐいと引いて倒す。そのバランスを崩させるのが、天才的に(?)、うまかった。当時は、白帯の上が、茶色帯で、私は、その茶色帯を腰に巻いていた。黒帯は、高校生以上のものだった。

 が、中学3年の終わりごろ、鎖骨を2度つづけて折って、それで引退。ちょうど受験期に重なったこともある。

 そんなわけで、今でも、合唱は好き。望遠鏡も好き。それに柔道も、大好き。

●小学時代

 私は小学時代には、わんぱく少年で、通った。いつも「お山の大将」だった。学校から帰るときも、まっすぐ家に向かって帰ったことは、ほとんど、ない。毎日、道草の、そのまた道草を食いながら、家に帰った。

 私は今から思うと、帰宅拒否児ではなかったかと思う。家は嫌いだった。自分の居場所すら、なかった。

 だから、近くの山の中に、「小屋」とか、「陣地」とかいう名前の、自分だけの住み処(すみか)をよく作った。少し穴を堀り込んで、その上に棒などをわたして、家をつくった。屋根は、草や葉を使った。

 当時の私は、杉の木でも、平気で登って遊んでいた。身が軽かった。山の下は墓地になっていたが、墓から墓へと、ひょいひょいと、跳んで渡ったのを、よく覚えている。

●繁田晴伸先生

 1年のときの担任が、繁田晴伸先生だった。定年間際の先生で、当時の私から見ると、おじいさん先生だった。

 きびしい先生で、その上、がんこだった。私はこの先生に出会って、始めて、中学校を知った。こんな話は自慢にならないが、私が、繁田先生に叱られた、第一号だった。たしか、外へ出るとき、下駄箱の横にあったスリッパを蹴散らしたのが理由ではないかと思う。そのとき、叱られた。

 あとになって、「お前は、ぼくが叱った、第一号だ」と、先生に、よくからかわれた。

 やせた、小さな先生で、歯が大きく、外へ飛び出していた。私が先生の似顔絵を描くと、「ぼくによく似ているなあ」と、よくほめてくれた。タバコが好きで、教室でも、職員室でも、タバコばかり吸っていた。渡り廊下を歩いているときも、タバコを吸っていた。

 繁田晴伸先生というと、タバコ。タバコ、またタバコ。ほかに思い出すことは、あまりない。私は、繁田先生の家に、よく遊びに行った。いや、遊びに行ったのは、先生が退職してからで、私が高校生のときのことではなかったか。大学生になってからも、ときどき、行った。それで繁田晴伸先生のことは、印象に強く残っている。

 言い忘れたが、すばらしい先生だった! 大好きだった。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 繁田晴伸 先生)


●戸谷成好先生

 中学2年と3年のときの担任が、戸谷成好先生だった。当時、私の中学は、11クラスまであって、どのクラスも、1クラス、53~55人だった。

 ときどきサッカーをしたが、22人で、1チームを編成した。だから私は、ずっとあとになるまで、サッカーというのは、1チーム、22人で、プレーするものだとばかり思っていた。

 だからというわけでもないが、その分だけ、先生と私たちとの関係は、希薄だった。先生の思い出はいろいろあるが、それは私という(生徒)からの一方的な思い出でしかない。

 品格のある、ひょうひょうとした先生だった。性格は温厚で、私は戸谷成好先生が、自分を取り乱して、怒鳴ったり、怒ったりしたのを見たことがない。何かを質問すると、ニコニコと笑いながら、いつまでもていねいに、教えてくれた。

 当時、まだ若い先生だったから、今でも健在なはず。ただインターネットでいくら検索しても、先生の名前は出てこなかった。かわりに、戸谷○○という人の名前が出てきた。東京で、ドクターをしているという。出身地を調べると、戸谷成好先生と同じ郷里になっているので、戸谷成好先生の息子氏ではないかと思っている。(つづく)






最終更新日  2007年11月25日 07時46分59秒
2007年11月11日
【子どものころ】

●テレビ

 テレビをはじめて見たのは、私が、小学3年生か、4年生のときのことである。近所の電気屋に、1台だけ入った。

 ふつう電気製品は、店頭に並ぶものだが、テレビだけは、奥の、どこか薄暗い部屋に置いてあった。映画館のような雰囲気を出すためではなかったか。

 私たちは、ときどき、そのテレビを見せてもらった。

 が、それは同時に、たいへんなことだった。ただで見せてもらう以上、それなりの作法が必要だった。テレビには、カーテンがかけてあったし、テレビの前では、私たちは正座をしなければならなかった。

 祖父もよくいっしょに見に行ったが、アナウンサーが、「こんばんは」などと言ったりすると、ちゃんと、返事をしていた。「浩司、お前もあいさつをしろ!」と。祖父は、こう言った。

 「こちらから見えるということは、向こうからも見えるということだ」と。

 子どもながらに、「?」と思ったが、私は、従った。

 テレビといっても、もちろん白黒。今から思うと信じられないほど、小さな画面で、映りもよくなかった。私たちは、そのテレビで、あちゃことか、エノケンを知った。


●ゴム靴

 つぎに思い出すのは、どういうわけか、ゴム靴である。黒いゴム靴で、はいて歩くと、ゴム独特の音がした。キュッ、キュッ、と。

 当時は、靴下をはく子どもなどいなかったので、しばらくはいていると、すぐ足の皮がめくれた。痛かった。だから私は好きではなかった。(……と思う。よく覚えていないが……。)

 私が小学1年生か2年生のときのことである。


●蛍光灯

 近所の家に、蛍光灯がついたという話を聞いた。「白い電気だ」と。

 そこで、みんなで、その蛍光灯を見にいった。

 当時は、たいへん高価なものだったらしい。小学校で先生をしている人の家だった。一番奥にあった部屋の電気で、見に行くと、わざわざそれをつけて見せてくれた。

 「さわっても熱くないよ」というようなことを言ったので、私たちは恐る恐る、手でさわってみた。当時は、電気というのは、熱いものというのが、常識だった。しかし蛍光灯は熱くなかった。

 みんなで、「不思議だ」と言いあったのを覚えている。私が小学2、3年生のときのことである。


●潜水艦

 当時、木で作った、潜水艦の模型がはやった。私たちは毎日のように、学校から帰ってくると、その潜水艦を作りに夢中になった。

 簡単な模型だった。

 潜水艦の形をした木片の下に、ゴム動力のスクリューと、おもりをつける。甲板には、それらしき艦橋をつける。前後に、金属製の薄いハネをつけて、それを調整して、水の中をもぐらせて遊ぶ。

 勢いよく走ると、潜水艦は、もぐる。しかし動力がなくなると、そのまま水面に……というわけにはいかないことが多かった。もぐったまま、どこかへ行ってしまうということも、よくあった。

 そうなると今度は、潜水艦さがしを始める。

 が、たいてい、見つからなかった。が、かわりに、だれかがなくした潜水艦を見つけることがあった。私たちは、それを戦利品と呼んで、自分のものにすることができた。


●遊び

 私たちは毎日、真っ暗になるまで、近くの寺の境内で遊んだ。暗くなって、遊べなくなると、今度は、道路で遊んだ。

 缶けり(隠れんぼうのこと)や、「草履(ぞうり)隠し」などが、定番だった。私たちは「パンコ」と呼んでいたが、メンコ遊びもよくした。ほかにあのころ、野球版ゲームや、フラフープがはやった。「ダッコちゃん」というのも、はやった。

 今から思うと、かなり危険な遊びもしていたようだ。

 当時、カン鉄砲というのがあった。火薬をつめて、パンパンと鳴らして遊ぶ。そのカン鉄砲に、カサの柄を切ったパイプを取りつける。そしてその中に、自転車で使うベアリングを入れて、火薬を爆発させる。

 わかりやすく言えば、ピストル。原理的には、本物のピストルと、どこも違わない。

 そのピストルで、板や、ビンを打ち抜いて遊んだ。厚さ3~4センチくらいの板なら、簡単に射抜くことができた。

 やがてその遊びは、禁止された。どこかで、その遊びをしていて、失明した子どもがいたからだ。私の友だちの中にも、手の中でピストルを暴発させてしまい、おおけがをしたのがいた。

 私は、そういうヘマはしなかった。


● 川遊び

 夏になれば、毎日のように私たちは、川で泳いだ。当時は、学校にも、まだプールはなかった。が、私たちは、たいへん幸運だった。そのことはずっとあとになってわかったことだが、私たちが泳いだ川は、日本でも、ほかに例がないほど、美しい川だった。

 長良川(ながらがわ)である。

 豊かな水量。澄みきった青い水。真夏でも、冷たかった。30分も水につかっていると、くちびるがまっさおになった。

 そう、あの川で遊んだこととなると、思い出が、まるで怒涛(どとう)のように頭の中に浮かんでくる。どこからどのように書いたらよいのか、わからなくなる。遠い昔のようでもあるし、つい先日のことのようでもある。

 私にとって、夏の日の、あの長良川は、私の一部というより、すべてだった。私の夏は、水遊びで始まり、水遊びで終わった。そう、あのころの夏は、短かった。気温が30度を超えるのは、7月も20日前後を過ぎてから。8月15日の盆が終わると、冷たい風が、川面(かわも)をなで始め、私たちは、もう水の中に入ることができなかった。

 私はそれでも川に行き、川を土手の上からながめた。泳げないことを、心底、うらめしく思った。そんなやるせない気持ちだけが、どういうわけか、強く心の中に残っている。






最終更新日  2007年11月11日 07時32分06秒



● 初恋

 初恋は、幼稚園児のときだったと聞いている。幼稚園から帰ってくるたびに、「ぼくは、Yちゃんが好き」と言っていたという。が、肝心の私は覚えていない。

 それが初恋だとするなら、つぎに好きになったYさんは、二番目の恋人ということになる。背の高い、スラリとした女の子だった。私が小学3年生くらいのときだった。

 そのYさんは、中学生になるころまで好きだった。と、言っても、もちろん密かな片思い。途中で、一度、Aさんという女の子を好きになった。私も、結構、浮気ぽいところがあった。で、そのあとは、高校生のときの、Sさん。

 こうして思い出してみると、私は、そのつど、だれかに恋をしていた。それだけ愛情に飢えていたのかもしれない。あるいは、ただのスケベ?

 しかし電撃に打たれるような恋をしたのは、大学4年生のとき。Nさんという名前の女性だった。しかしあっという間にフラれた。切なくも、悲しい物語。Nさんを忘れるのに、そのあと、10年以上もかかってしまった。

 で、再び話は子ども時代にもどるが、私が子どものころには、女の子といっしょに遊ぶということは、考えられなかった。実際には、私には中学校を卒業するまで、女の子といっしょに遊んだ記憶そのものがない。つまり、一度も、ない。

 そのくせおかしなことだが、本当におかしなことだが、私は小学3年生になるころまで、銭湯でも、平気で女湯のほうへ行って遊んでいた。

 そうそう、その銭湯の話だが、あるとき湯船の中に、ウンチが浮かんでいたことがある。当時は、今のように湯が循環ろ過式になっていなかった。今でも、あのウンチのことを思い出すと、背筋がゾッとする。

 ウンチの浮かんだ風呂。そのウンチをオケでかきわけながら、湯の中に入る……。あなたに、そんな風呂が想像できるだろうか?


●小遣い

 正確ではないが、当時は、うどん屋でうどんを食べると、一杯、70円とか、80円ではなかったか。私が小学2、3年生のときである。

 30円で、肉入の焼きそばが食べられた。が、私たちは、いつも、10円の焼きそばだった。半分の量の、5円という焼きそばもあった。

 画用紙が1枚、50銭(1円の半分)だったのをよく覚えている。ときどき50銭玉をもって、その画用紙を買いに行った。私はそれに絵を描いて遊んだ。そしてそれが終わると、今度は、その画用紙で、いろいろなものを作って遊んだ。

 今でも不思議だと思うのは、卵が1個30円くらいだったこと。それから50年になるが、かえって今のほうが安いのは、どういうわけだろう?

 ラムネは1本、5円だった。当時は、店先で飲んで、ビンは返すしくみになっていた。が、ある日、駄菓子屋の棚を見ると、そこに、バヤリース・オレンジというアメリカ製のジュースが数本、並んでいるのを知った。そのジュースは、子どもたちの手の届かない、高いところに、どこか誇らしげに置いてあった。

 値段は、100円だった。私たちの小遣いの1か月分である。

 それを見ながら、「あんなジュース、だれが飲むんだろ」と思ったのを、よく覚えている。「おとなになったら、いつか、飲んでやる」と思ったのも、よく覚えている。


●食事

 当時は、今の食生活からは想像もつかないほど、質素なものを食べていた。何しろ学校の給食が、毎日、ごちそうに見えるほどだった。

 よくて魚の煮つけと、つけもの。あるいはイモや大根を煮たものに、簡単な酢もの。たいていそんなものばかりだった。

 寿司などは、正月と、風邪をひいて寝たときぐらいしか、食べられなかった。肉にいたっては、食べた記憶が、ほとんど、ない。当時は、肉、とくに牛肉は、最高級の食品だった。

 ときどきコロッケは食べた。ソーセージを、みんなで分けて食べた。そうそうミカンにしても、当時は、1個売りが当たり前。今のように箱売りのミカンなど、想像もつかなかった。

 だから今でも、ときどき、あのころの食事を思い出しながら、「今の人は、ぜいたくなものを食べている」と思うときがある。


●しかし……

 そういう貧しい生活だったにもかかわらず、窮乏感は、まるでなかった。ぜいたくというものが、どういうものか知らなかったので、当然と言えば、当然だったかもしれない。

 このことは、当時の内閣官房審議室の調査によっても、わかる。

 1959年というから、私が12歳のときである。そのときですら、「生活に満足している」と「まあまあ満足している」をあわせると、66%もいた。

 しかしそれから45年後の、2004年。内閣府の調査によると。「満足している」「まあまあ満足している」は、59・8%という。おかしなことだが、45年前とくらべると、少し減っているのがわかる。

 今の人たちは、当時の私たちとはくらべものにならないほど、ぜいたくな生活をしている。豊かになった。楽になった。が、それでも、減っている。考えてみれば、おかしなことではないか。

 ……と考えていくと、そこに、人間の欲望の問題がからんでいることがわかる。欲望には際限がないとはよく言うが、その欲望は、それが満たされたとき、つぎの欲望を求めて、さまよい歩き始める。

 今では、家の中にいて映画(ビデオ)を見るなどというのは、当たり前のことだが、私たちが子どもときは、そうではなかった。

 映画館で見るしかなかったが、その映画館へ、なかなか入れなかった。

 そこで私たちは、映画館の壁の穴を見つけて、そこに目をこらして中の映画を見たりした。あるいはピンホール映画のように、穴の外に、白い紙を置いて、そこに映る映画を見たりした。

 そういう時代だったが、不便ということはなかった。みじめさも、なかった。

 が、もしその逆だったら、どうだろうか? 「今」という時代を頂点に、どんどん生活の質がマイナス方向に、落ちていったとしたら……。

 考えるだけでも、ゾッとする。いや、私のことではない。今の、つまりぜいたくになれきった若い人たちや、子どもたちのことを考えると、ゾッとする。果たして、そういう生活に耐えられるだろうか、と。

 ……こうして考えていくと、文明とは何かということまで、考えてしまう。さらに「豊かさ」とは何か、とまで。あるいはひょっとしたら、私たちは、それほど大切でないものを、大切と思いこまされているだけかもしれない。そしてその一方で、もっと大切なものを、見落としているだけかもしれない。

 自分の子どものころのことを書きながら、私は、そんなことを考えた。
(はやし浩司 子ども時代 子供時代 子どものころ 子供の頃)







最終更新日  2007年11月11日 07時31分26秒
2007年10月28日
●満60歳!

満、60歳。その実感は、ない。まったく、ない。
皆で、鍋料理を食べた。ケーキを食べた。

「(市販の)ショートケーキでいいよ」と私が言うと、
「作るからいい」と、ワイフは言った。

静かな時が流れた。安らいだ時が流れた。
私はパソコンを前にして、眠った。いくつかの夢を見た。

見ると、ワイフが横にいた。「眠ったみたい」と、私。
「もうすぐ、準備ができるから」と、ワイフ。

いつもの夕方。いつもの夕食。そしていつもの誕生日。

長男とワイフが、私の声に合わせて歌ってくれた。

「♪ハッピーバースディ、ツー、ユー」と。

夕食後、みなで、『ロッキー・ザ・ファイナル』を見た。
よい映画だった。なつかしかった。涙があふれた。
60歳の誕生日に、ふさわしい映画だった。

私「あと10年、がんばるよ」
ワ「いつものペースでいいのよ」
私「そうだね」と。

私はここで誓う。

もう1人の邪悪な私とは、決別する。いじけやすく、
ひがみやすく、くじけやすい。そんな私だ。

それにもうひとつ。この先、その10年に、
私の命を賭ける。私の命を燃焼する。燃焼しつくす。

残りの人生は、私のものではない。
私の息子たちのもの。私のワイフのもの。
そして……。

おおげさなことは言えない。書けない。
しかし私の命を、この地球に、宇宙に、
返したい。みなに、捧げたい。

「どんな気分?」と、ワイフは言った。
満60歳になった気分をワイフは聞いた。私は、
「別に……」と答えた。

何も変わらない。その自覚もない。
「60」という数字などに、意味はない。
私は私。どこまでいっても、私は私。

ただこの闘志は何か? 「やるぞ!」という闘志。
今までになかったもの。何かにつけ、負け戦(いくさ)。
あきらめること、引きさがること、そればかりを
考えていた。が、そんな私の中で、何かが燃えだした。

よい映画だった。『ロッキー・ザ・ファイナル』は、
よい映画だった。こんな私にも、生きる勇気を
与えてくれた。希望を与えてくれた。

私にあるのは、過去ではない。未来だ。
その未来に向かって、私は進む。

「どんなに打ちのめされても、前に進み続ける……。
決してあきらめずに。NEVER GIVE UP!」
「自分を信じなきゃ、人生じゃない」と。

見ていて涙がポロポロとこぼれたのは、そのためか。
35年前の、あの感動、つまりあの当時の感動が、
よみがえってきた。

あの時代、私は、無我夢中で生きていた。毎日、
がむしゃらに働いた。その感動が、よみがえってきた。

これからも、私は、無我夢中で、生きていきたい。
生きていく。私、はやし浩司は、まだまだ現役だ。

その日が来るまで……。

はやし浩司、満60歳の誕生日に。

(付記)

 『ロッキー・ザ・ファイナル』の中の、シルヴェスター・スタローンの肉体を見てほしい。彼はこの映画を完成させるために、自分の肉体を鍛えた。そのプロ根性が、スクリーンを通して、私たちに伝わってきた。それが、私たちを感動させた。

シルヴェスター・スタローンは、役者としてではなく、映画を通して、自分の生きざまを、私たちに示してくれた。

 ウソやインチキでは、あの映画はできない。






最終更新日  2007年10月28日 23時05分45秒
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