●マガジン(13)
●神の感動 で、どこかの神社へ行くたびに、こう思う。「その原点では、強烈なインパクト(衝撃)があったのだろうな」と。強烈なインパクト・・・天地をひっくり返すようなインパクト。だからこそ、そこから人々の間から信仰心が生まれた。神社が生まれた。それが1000年とか2000年もつづいた。 が、そのインパクトも、年々、薄れてきている。とくに戦後の日本では、それが著しい。50年前には信者の人であふれかえったK寺の彼岸会も、今は昔の話。通りを歩く人もまばら。閑散とした境内では、砂利を踏み歩く音しか聞こえない。 だからこう思う。 神々も、(ETならETでもよいが・・・)、もう人間を見放し始めているのではないか?、と。つまり神の立場で考えても、「人間とのつきあいは、もう疲れた」となる。「これだけやっても、まだわからないのか!」「これだけ教えてやっても、まだわからないのか!」と。 私が神なら、そう考える。また神がそう考えたところで、おかしくない。いくら感動を与えても、1000年も続かない、と。その無力感。神だけではない。私も感じている。その数億分の1。それが私が感じている無力感。 ●失敗作 人間は失敗作なのか?ときどき、そんな恐ろしい思いが、私の胸の中を横切る。人間は宇宙のがん細胞説というのも、ある。 「恐ろしい」というのは、それはそのまま人間の絶滅、もしくは自滅につながる。この私ですらそう思うのだから、いわんや・・・、ということになる。神々が、こういう状態を、見過ごすはずはない。放置するはずはない。そのとき人間は、どうなるのか? ●人間側に立つ神々 一方、今の今も、人間側に立っている神、あるいは神々もいる。いることは、私が経験している。あなたが道路に車を見るように、現実的な存在として、私が経験している。その神は、やさしい。どこまでもやさしい。その神は、そこにいて、私たち人間を見守っている。同時に、人間の未来を心配している。つまり私にコンタクトを繰り返している神は、そういう神である。断言する。そういう神である。 が、そういう神の思いに、私たち人間はどこまで応(こた)えているのか。私という人間は、どこまで応えているのか。 私に残された日々は、少ない。その少ない日々で、私には何ができるというのか。 ああ、時の流れは無情だ。本当に無情だ。ただただ時だけが、無情に流れ去っていく。同時に、世界は何も変わらない。動かない。 が、私はやるしかない。がんばるしかない。私が無力感に負けたら、そのとき人間を支えている神も負ける。ただただがんばるしか、ない。 ●時計 上の人、つまり神の仕事をするのは楽しい。少なくとも、ストレスを感じない。仕事をしていても、苦にならない。お金が入らなくても、苦にならない。 が、貧乏は貧乏。これはどうしようもない。覚悟の上。こうなることは、はじめから、わかっていた。「テレビに出たら?」とアドバイスしてくれた人は多い。しかし私は、断り続けてきた。2018年に入ってからは、ほとんどなくなったが、2017年には、7社からの出演をすべて断った。ワイフにそれを話すと、「あなたがそれでいいなら、それでいい」と。どこかさみしそうだった。 そのため、今年(2018)は研修旅行は、1回だけ。正月にしただけ。「ごめんね」と言うと、「ううん、私はいいけど・・・」と。そんなとき、東京のTプロダクションから仕事の依頼が入った。「子育て動画の監修をしてほしい」と。一本の動画に、1万円の監修料がつくという。悪い話ではない。約20本分の原稿とともに、分厚い企画書が添えてあった。 「この仕事なら、お金儲けに使っていいよね」と私。「そうね。上の人の仕事じゃないから・・・」とワイフ。 そういうわけで来週から忙しくなる。神の仕事と、私の仕事。2本立て。 ●時計 これも貧乏臭い話。時計の話。およそ1か月かけて、腕時計を買った。迷いに迷って、ひとつ、買った。が、誤解しないでほしい。お金がなかったわけではない。私は子どものころから、そうやって自分のほしいものを買った。 たとえば今回は、時計。カタログを集め、毎晩眠る前に検討する。比べる。もちろん店にも足を運ぶ。ネットでも調べる。ねらったのは、カシオのジーショック。 「たった一個の時計を買うために?」と驚く人もいるかもしれない。しかしそれが私のやり方。私の流儀。 ●欲望 「ほしい」という気持ちをなだめる。自分をじらす。ジリジリと心を焦がす。それが楽しい。どこか自虐的だが、その分だけ、手に入れたときの喜びが倍加する。値段の問題ではない。こと、時計についていえば、そうだ。片時も離さず、身につける。それだけに慎重になる。 が、やがて的がしぼられてくる。軽いこと。無駄な機能がないこと。ソーラー充電と電波受信は、MUST(マスト)。曜日と日付表示もマスト。 ・・・こうして選んだ時計が、カシオのウェブ・セプター。定価は2万8000円だが、ネットでは60%引き。1万円(税抜き)で手に入った。うれしかった。子どもの時のように、うれしかった。それが私のやり方。私の流儀。 ●寛大 神はけっして寛大ではない。そのため甘えてはいけない。心が広いとか、狭いとか、そういう問題ではない。あるいは「どんなことをしても許される」と勘違いしてはいけない。そういう意味では、神はきびしい。ついでに言うなら、信仰はきびしい。けっしていい加減な信仰をしてはいけない。神は、容赦なく、私やあなたを切り捨てる。が、それがいやなら、最初から神など信じないこと。信仰など、しないこと。 神と人間の関係も、信頼関係が基本。当然のことだが、神には、ウソやインチキ、ごまかしや飾りは通用しない。しても意味はない。そういう意味では、神は、私やあなたというワクを超えて、人間の心を知り尽くしている。だからありのまま。ありのままの私。その私をさらけ出して生きる。それがよい自分であるとか、悪い自分であるとか、そんなことを考えても意味はない。無駄。そういう私やあなたを判断するのは、神。 (2018年9月23日記) ++++++++++++++++++++++++++++++ 以上、2019年7月28日発表 From English ion, it derives from the Greek ἰόν, present participle of ἰέναι that is "to go"; therefore it means: "that moves (from one side to the other)"; so that A-ion, it means without moves, the A letter in latin is privative, with privative value, in the form of a- or an- in front of words beginning with a vowel, it derives from the Greek privative (ἀ- or ἀν-), and indicates with respect to the term to which it is affixed: 'lack' (a-cephalus) , 'deprivation' (a-moral), 'negation' (an-algesic). It is present in words of Greek origin, but also modern, especially for the productive formation of adjectives and rarely of nouns. Although having the same value, in Latin, of the prefix in-, in the Italian language it is different from this for a slight nuance: a- indicates a more neutral value, that is of indifference and passivity, with respect to the opposite concept! So Aion is the fix immobility of the Buddha! Pls, give a look on my channel on my last video called Dionysus, so that you can see the Aion. ●日曜日発行時刻の変更 以前は、午前1時に発行予約を入れていましたが、現在は午前8時前後に、発行予約を入れるようにしています。スマホの場合、その午前1時に、受信信号が流れることもあるのだそうです。そのためみなさんに迷惑がかからないように、午前8時前後発行にすることにしました。 ●勉強会をもちます。マグプレ会員の方は、無料招待券をお持ちください。なおおいでくださる方は、ホームページのほうからお申し込みください。緊急の連絡先、お名前をどうか、書いてください。急用、急病、会場の変更などが予想されるからです。お手数ですが、よろしくお願いします。 なおいっしょにおいでになる方も、必ず住所、氏名、連絡先を明記してくださるよう、お願いします。 https://6004.teacup.com/bwhayashi/bbs より、お申し込みいただけます。 **********以下、2018年10月20日記****************** ●10月20日 昨日の夕刻。夕刻と言っても、食後の夕刻時であったが、うとうとしていると、ふと、こう思った。「カンピ(Antonio Campi)の絵(キリストの激情の秘密The Secret of the Passion of JesusChrist)の絵の中の惑星は、金星ではないか」と。 というのも、その絵の中には、「81」という数字が隠し込まれていた。「81」は、ユダヤのゲマトリア(秘数学による暗号)によれば、「金星」を意味する・「だとすると、あの絵の中に描かれている惑星は、木星ではなく金星だ」と。昨日まで、私は「木星」説を唱えていた。が、「金星」だった。 時刻は午後6時ごろだった。私はそのまま飛び起きて書斎へ入った。「夕食はあとでいい」と。 ●金星 見た目には、木星と金星はよく似ている。全体をカズ様の雲で覆われ、横筋が走っている。が、それまでは金星とは考えていなかった。というのも、私の記憶にあった金星は、あの赤茶けた岩石がむき出しになった惑星だった。「?」と思ったが、赤茶けた金星は、雲を突き抜けたレーダー写真であることがすぐわかった。肉眼による金星は、やはりガス様の雲で覆われていた。 ●迷い こうした検証では、いつも迷いが生まれる。そのつど生まれる。木星か、金星か?が、「81」という数字が決め手となった。と、同時に、モナリザの絵の中には、「51」という数字が隠し込んであった。「51」は火星。「81」は、そのモナリザと、連続性がある。 軽い綱引きが頭の中で始まった。が、結論はすぐ出た。「金星だ」と。 私はそのまま一本の動画を編集した。時間は2時間と少し。9時までには、UPLOADも終わった。 台所へ行くと、ワイフが笑ってそこに立っていた。「どうだった?」とワイフ。「うまくできたと思う」と私。 ●1500年後のイエス説 「1500年後のイエス説」を唱えて、もう4年になる。あるいはそれ以上か? が、当初は、その説を信じてくれる人はいなかった。今も少ない。が、あのルネッサンスという時代に、1500年後のイエスが再来した。その証拠が、モナリザの「51」であり、カンピの「81」ということになる。でないというのなら、こうした数字と、絵の中の「火星の大地」(モナリザ)と、カンピの金星を、どう説明するのか。 が、否定派の人たちは、こうした私の説を、どこまでも否定する。どこまでも、どこまでも、否定する。つい先日も、「木星の縞模様は、冬至の望遠鏡でも見えたはず」と。そう書いてきた人がいた。 つまりお決まりの「ハズ論」。が、当時のガリレオ式の望遠鏡では、縞模様らしきものは見えたとしても、その程度。カンピの絵の中の金星は、そのレベルをはるかに超えている。・・・というか、そういう反論をするのは、もう疲れた。どうでもよい。 現在の私の心境はこうだ。 「エイリアン(神)が描いたものという証拠がないなら、人間が描いたもの」・・・これが一般的な常識。「人間が描いたものという証拠がないなら、エイリアン(神)が描いたもの」・・・これが私の常識。常識の基盤そのものが、ちがう。逆。 ●アクセス数 昼頃になって、その動画へのアクセス数を見た。70回程度。少しさみしかった。「こんなものかなあ?」と。 まともに考えれば、世界の歴史をひっくり返すほどの威力がある。自分ではそう思っている。が、70回?ふと、こう思った。「いったい、この世の中、どうなっているのか」と。・・・とグチを言っても、しかたない。今までも、ずっとそうだったし、今もそうだ。これから先も、ずっとそうだろう。「神」そのものが、その存在感を失った。今さら、神でもあるまい?信仰心そのものが、薄れてしまった。ほとんどの人にとっては、神など、もうどうでもよい? ●火星と金星 もう一度、繰り返す。ダビンチとカンピの絵の中に、火星と金星が描いてあった。今から500年も前のルネッサンスの時代の絵の中に、である。つまりありえないことが、起きた。その時代としては、ありえないものが、描いてあった。 「どうして不思議に思わないのだろうか」と私。「信じられないのよ」とワイフ。昨日も、そんな会話をした。 ・・・というか、この世界、すでに荒廃している。荒らされるだけ荒らされている。デタラメな人たちが、デタラメなことばかり言っている。つまり信用度、ゼロ。私、はやし浩司もその中のひとりと思われている・・・らしい。私は、そんなとき、いつもふとこう思う。「上の人も、さぞかし、がっかりしているだろうな」と。 ●上の人 私が上の人なら、こう思う。「人間には失望したよ」と。「はやし浩司がこれだけがんばっているのに、まだわからないのか!」とも。 ハハハ。多分に自己弁解がましい。自分で自分をなぐさめている?私自身が、このところ弱気になっているのだから、どうしようもない。限界を感ずることも多い。この一年、アクセス数はフラット状態。チャンネル登録者も低調。ある視聴者のひとりがこう言った。「このところ、いつも同じ話ばかりで、食傷気味です」と。私が似たような動画を繰り返しアップすることについて、そう言った。 本音を言えば、私自身が、上の人にこう聞きたい。「どうしたらよいのか?」と。同時に謝りたい。「力不足で、ごめんなさい」と。 ●飽き たしかに私の動画は飽きられている?あるいは似たような動画が、どんどんとアップされている。全体に、アップ動画数がぐんとふえた。一億、総編集者という時代になってきた。 その分だけ、私の動画が、脇へ押される。が、こればかりは、どうしようもない。この世界も、需要と供給のバランスで成り立っている。フラット状態でも、喜ばなければならないのかもしれない。それに、応援してくれている人も多い。私がここで弱音を吐いたら、そういう人たちに申し訳ない。がんばろう。がんばるしかない。 それにしても・・・?ダビンチの絵の中に火星があった。カンピの絵の中に金星があった。どうしてみな、もっと驚かないのだろう?これは私やあなたの問題ではない。人間、人類全体の問題である。が、ほとんどの人は、「そんなバカな」「私には関係ない」と目をそむけてしまう。そこにある事実すら、見ようとしない。気がつかない。 ●前進 が、前進、あるのみ。ただひたすら前進、あるのみ。すでに神は、手を出した。それが7月と8月に起きた、怪光事件である。勉強会での席で、それが起きた。5人の人が、それを目撃した。神は、私のワク(範囲)を超えて、外へ飛び出した。目的は何か?どうして?なぜ? さまざまな解釈が、そのつど現れては消えた。しかし、肝心の私は見ていない。怪光事件は、私の背後で起きた。一度は、私の顔の左側で起きたというが、私自身は見ていない。見ていないから、記憶からどんどんと遠ざかっていく。薄れていく。ふと油断すると、「本当にそんなことがあったのか?」と。目撃者の方たちを疑ってしまう。 が、起きたことは起きた。直後(その夜と翌日の夜)、証言を集めた。録音した。YOUTUBEで発表した。 ・・・それまでは、上の人とのコンタクトは、私の世界でのできごとだった。私とワイフ。それにそのつど、もう1人。が、そのワクを超えた。 何かあるはず。何かが起こるはず。「ハズ」論を嫌う私が、ここで「はず」という言葉を使っている。ハハハ。 ともあれ、私は待つしかない。何もできない。上の人は、いつも気まぐれ。こちらから会いたいと言っても、会えるような人たちではない。が、会いたくないと思っていても、会いにやってくる。万事、上の人次第。私はただの僕(しもべ)。 (2018年10月20日、記) *************2018年10月21日発表************* 【神の仕事】 ●神の仕事 神の仕事には、見返りはない。何もない。あるはずもない。最初から無私無欲。損得がないから、神の仕事?それは「命」の問題。命には、損得はない。 が、仮に私が今、していることが、「人間」のためだったら、私には今の仕事はできない。バカらしさを覚えてしまうだろう。相手が人間だったら、それこそ、損得勘定が先に立ってしまう。 ●希望 が、そのかわり、得るものがある。それは損得の世界をはるかに超える。尊い。すばらしい。それは「希望」。神の仕事は「希望」。希望へとつづく。 その向こうには、私を超えた私がいる。人間を超えた人間がいる。それが希望。私を支えてくれる希望。私はその希望に向かって、前に進むことができる。 人は希望なしでは、生きられない。が、希望があれば、生きられる。 で、生きている過程でもっともこわいのは、暗闇で自分を見失うこと。希望を失うこと。そこはまさに無間地獄。そんなとき、希望が、希望だけが、私を導いてくれる。 ●不安と心配 生きることには、不安や心配はつきもの。いつも不安や心配がともなう。事故に巻き込まれたり、病気に襲われたら、なおさら。ザワザワとした、いつ腫れるともわからない不安や心配。それが心の壁に、ペッタリと張り付く。はがれることがない。そこはまさしく闇夜の世界。孤独と恐怖。怒りと絶望。それらが渾然一体となって、身を操る。焦(こ)がす。 が、希望があれば、それをもちながら、前に向かって進むことができる。一歩、また一歩、と。苦しい闘いだが、それでも一歩、一歩と前に進むことができる。 ●問いかけ 神の仕事をするときは、私はいつも問いかける。祈る。「あなたは私に、何をしてほしいのですか」と。「私はあなたのために、何をすればよいのですか」と。「どうか、私を意のままに、導いてください」と。 安穏の時。やすらぎの時。それが自分と闘う勇気となって跳ね返ってくる。少なくともそれで、一歩、前に足を踏み出すことができる。 そのあとのこと?それはだれにもわからない。自分にもわからない。わからないが、ともかくも、一歩、前に足を踏み出すことができる。が、もしそのとき、何も見えなかったら、そこはまさに闇夜。一寸先も見えない、闇夜。 ●狂った世界 人間世界は、たしかに狂っている。狂っていることすらわからないほど、狂っている。心を癒(い)やすはずの音楽ですら、「商品」になっている。心を救済するはずの宗教ですら、「商品」になっている。教育も、医療も、ありとあらゆるものが、「商品」になっている。 朝、起きて、新聞を開いたとたん、それがわかる。ドサリと落ちる、新聞の折り込み広告。どれもこれも、「買え」「買え」「買え」の大合唱。金(マネー)、金、金の大合唱。今のこの世界から、金(マネ-)を切り離したら、いったい、何が残るのか。いや、何も残らない。 ●理念 書き忘れたが、理念や、それから生まれる主義にしても、「商品」になっている。それがわからなければ、マスコミを見ればよい。マスコミの世界で発言している人を見ればよい。 カラスがクジャクの羽で身を飾ったような人たち。そんな人たちが、安っぽい哲学を口にする。政治や正義について、語る。まさにポピュリスト。人気取りのための、大衆迎合主義者。大衆の願うことを、先取りしながら、それを口にする。それでいて、いっぱしの文化人気取り。 が、悲しいかな、それすらも今の人たちにはわからない。その判断力もない。操られるまま操られている。つまり今の世界、そこまで狂っている。 ●人間を知る 一方、神を知れば知るほど、つまり神に近づけば近づくほど、視点が高くなる。広くなる。当然のこと。それまで見えていなかった世界が、見えてくる。何が大切で、何がそうでないか、それがわかるようになる。そこはまさしく、無私無欲の世界。 ああ、宇宙から見たら、地球の何と小さいことか。銀河系から見たら、太陽系の何と小さいことか。空想でも、それが簡単にわかるようになる。そのとき、私の、そしてあなたの心は、宇宙に飛躍する。同時に、人間が何であるかが、わかる。 ●生き様(ざま) 話は少しはずれるが、その人の評価は、生き様で決まる。名誉や地位や財産ではない。肩書きや名声でもない。そういうものをすべて取り払った後に残る、生き様。その生き様で、決まる。わかりやすく言えば、一本の理念。 その理念によって、評価が決まる。 ああ、私にはその理念があるのか?あるいは世俗の欲得に、まみれていないか?私自身が、狂っていないか?自分では、それが「ある」と思っている。・・・思いたい。が、それこそ私の思い込みかもしれない。 本当のところ、理念と言えるようなものは、何もない?ただ毎日、ガムシャラに生きているだけ? ●薄い氷の上 私たちは毎日、薄い氷の上を歩いている。薄い、氷。その氷は透き通っていて、上から氷の下が見える。そしてその下から、死に神が、手招きしている。「おいで」「おいで」と。 が、こんなことを若い元気な人に言っても、わからない。わかるはずもない。というのも、私自身もわからなかった。わからないままガムシャラに生きてきた。が、そこはやはり氷の上だった。その恐ろしさは、氷が割れてはじめてわかる。その年齢になってみると、わかる。 つまりそのとき自分を支えてくれるのが、「希望」ということになる。 ●希望 朝、目をさます。ぼんやりした目の向こうから、白い光が見える。とたん、脳みそが動き始める。昨日までの宿題が、どっと顔を出す。 パソコンを開く。メールを読む。コメントを読む。返事を書く。が、それももどかしい・・・。 起きて、ランニング・マシンの上に立つ。30分、走る。そのとき動画のプロット(あらすじ)を考える。つまりこうして私の一日が始まる。それが私の希望。私の仕事。とたん、私は私が薄い氷の上に立っていることを忘れる。 ●見返り 神の仕事には見返りはない。何もない。無私無欲。だからこそ、そこに希望が生まれる。希望があれば、人は生きていくことができる。その希望が生まれる。 相手は神。人間を超えた神。が、これほどすばらしい仕事があるだろうか。これにまさる仕事があるだろうか。そう、あの朝、私はその神に、こう誓った。死線をさまよい歩いた、その翌日のこと。翌日の朝のこと。2018年4月26日。「私は残りの人生を、あなたに捧げます」と。 それが今の私。私の仕事。私がやるべきこと。・・・あとのことはわからない。どうなるかわからない。ただ、私はひたすら前に進むだけ。「希望」という、遠い、遠い、その向こうにある、小さな希望に向かって進むだけ。 ● ++++++++++++++++++++++++++ ●追伸 苦しい闘いがつづいています。が、心は平安です。落ち着いています。毎日が楽しいです。 ・・・もうお気づきの方も多いと思いますが、この3月(2018年)、大病を宣告されました。で、4月に手術。転移もあり、ステージ3A。5月に退院したものの、その一週間後に腸閉塞で再入院。 以後、抗がん剤を服用するも、10日で断念。副作用に敗れました。 それからちょうど6か月。入院中、一日だけ、外出許可をもらいました。うれしかったです。その4時間のうちに、私は、19本の動画を編集、アップロードをしました。私の人生でも、もっとも密度の濃い4時間でした。 で、今は、1~2か月ごとの検査のたびに、こう思います。いえ、診察室を出るたびに、そのつど、こう思います。「1か月(2か月)の外泊許可をもらったぞ」と。 そう今の私にとっては、毎日が、外出許可なのです。「よかったヨ~」「本当によかったヨ~」と。 ●10月末(2018年末) その前後、三度の造影CTスキャン検査を受けましたが、転移、再発は今のところ、ありません。(術後、2カ所、「転移?」という部位はありましたが、一カ所は、摘出済み。もう一カ所は、3回目の造影CTスキャン検査では、3分の1に、縮小していました。)また毎月受けている3種類のがんマーカーテストでも、数値は、現在、正常値の半分以下に低下。月ごとに低下しています。) この先のことはわかりませんが、私は自分の仕事をするのみ。どんなつらいときでも、一日も欠かさず、動画を発表しつづけました。・・・つづけることができました。「希望」があったからです。これからもつづけます。 その希望を与えてくれた、(上の人)に感謝しています。それがなかったら、今の私はなかったと思います。自分を支えることはできなかったと思います。私は残りの人生を、上の人に捧げます。みなさんとともに、その希望を共有できれば、うれしいです。 みんさん、神はいますよ。1000%、いますよ。そこにいますよ。それが「希望」ですよ。(2018年11月3日 記) +++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++以上11月4日、発表 【エイリアン問題の裏にある深刻な話】 ●現実感 UFO問題にせよ、エイリアン問題にせよ、そうした問題の向こうには、危険な落とし穴がある。それが「現実からの遊離」。現実的な社会性を失ってしまう人もいる。そして一般世間の尺度から見て、ふつうでない行為をするようになる。ときにはそれが反社会的行為(=犯罪)につながることもある。 宗教の世界では、よく見られる。たとえば昔、通勤電車の中央の通路に座り、突然、題目を唱え始めた人がいた。よく知られたX教団の信者だった。 ふつうの社会人なら、そこまではしない。またしてはならない。が、人は何かのことで「ハマる」と、そこまでするようになる。自分がわからなくなる。自分が何をしているかも、わからなくなる。 で、ここでは「血統空想」を例にあげて、それを考えてみる。 ●血統空想 心理学の世界には、「血統空想」という言葉がある。「私は~~王家の流れをくむ子孫である」「私の先祖は~~王である」とか思うのが、それ。「私はふつうの人とは違う」「ふつうの人間ではない」「私には特別の使命がある」とか、など。つまり自分の血統に意味づけをし、それでもって、自分を一般民衆から浮かび上がらせる。それを血統空想という。 が、特別な人がそう思うのではない。血統空想というのは、ごくありふれた心理的現象で、私にもある。あなたにもある。どんな人にもある。が、もちろん程度の差というにはある。あるいは反対に空想したくても、何もない人もいる。私もその中のひとり。 ●私の先祖 私の姓は「林」。が、昔からあった名前ではない。明治維新のあと、先祖がそういう姓を選んだ・・・と聞いている。それまでは姓もない、ただの百姓だった(?)。そのため岐阜県の山村では、ごくありふれた姓である。みなが、自分勝手に、そういう姓を決めた・・・らしい(?)。で、私の先祖は「林」となった。その子孫の私は、はやし浩司。 よく知られた例に「森の石松」というのがある。遠州森町出身の石松だったから、「森の石松」になった。その代表的なもの。だから私は、物心つくころから、血統に「夢」を託すことはなかった。 ●矛盾 この血統空想には、大きな矛盾がある。こんな計算をしてみよう。 仮に一人の王がいたとする。妻は、庶民の中から、とくに美しい女性から選んだ。で、王は結婚し、3人の子どもをもうけた。 で、これを30年ごとに繰り返したとする。子孫は、つぎのようにして増えていく。 2代目・・・3人3代目・・・3x3=9人4代目・・・3x3x3=27人5代目・・・3x3x3x3=81人、とふえていく。 ふつう30年を「一世代」と数える。「世界」の「世」はもともと「三十」を意味するという説もある。5代目までは、30年x510代目までは。30年x10=300年!つまり300年で、同じ「血」を受け継ぐ人は、3の10乗で、約6万人となる。が、その30年後には、さらに18万人となる。 こうして三角形の巨大なピラミッドができ、18万人の人たちが、「私の先祖は・・・」と語り始める。「私の先祖は、~~王だった」と。(実際には、こんな単純な計算式にはならないが・・・。) ●逆三角形 が、そこが人間のおめでたいところ。というのも、その三角形を逆さまにしてみると、それがわかる。逆三角形。たとえばあなたという人は、30代前には、逆に考えると、18万人の先祖をもつことになる。18万人!つまり18万人も先祖がいれば、その中には極悪人もいれば、天使のような人もいる。職業も様々。犯罪者もいるはず。が、子孫であるあなたはそうした「悪人」のことは考えない。「私は~~王の子孫だ」ということはあっても、「私は~~犯罪者の子孫だ」とは言わない。つまり自分に都合のよい先祖だけをピックアップして、「子孫だ」という。だからおめでたい。 ●「私は特別」 なぜ私がここで血統空想の話をしたか?理由は別にある。つまりだれしも、「私は特別だ」と思いたい気持ちがある。その一例として、血統空想をあげた。 が、その血統空想は、実はUFO現象と結びつきやすい。「私はエイリアンに選ばれた人間」「私が空に願い事を言えば、UFOがやってくる」「私は、コンタクティーだ」とか、など。 つまりそう思うことによって、自分を特別な人間と位置づける。思い込む。信ずる。ささいなできごとを、大げさにとらえる。意味づける。「のエイリアンからサインにちがいない」とか、など。 外見はちがうかもしれないが、中身は同じ。「私は~~王家の流れをくむ者」と言うのも、「私はエイリアンに選ばれた人間」と言うのも、中身は同じ。 ●特別な人間 が、結論を先に言えば、この世界に、特別な人というのはいない。反対に特別でない人というのも、いない。人は、みな、同じ。どこも違わない。違うはずがない。 「自分は特別」と思うこと自体、危険なことである。えてして血統空想は、一人歩きしやすい。同時に他人に対して、おかしな優位性が生まれ、その返す刀で、他人を下に見やすい。おかしな自尊心が生まれ、一般世間から遊離した尊大性を生みやすくもなる。 そこで教訓。仮にそれが真実であれ、どうであれ、この血統空想にはいつもブレーキをかける。またかけなければならない。が、実は、これは私自身の「闘い」であった。 ●「あなたは選ばれた」 ときどき、こんな書き込みをもらう。「あなたは選ばれた人だ」と。 そうかもしれない。そうでないかもしれない。(上の人)の行動には、予測がつかない。その真意をさぐるのも難しい。それに大きな誤解が蔓延(まんえん)しているが、仮に選ばれたとしても、それは(浮かれ話)ではない。当の本人にしてみれば、大病の宣告にも似た、深刻な問題である。 ●2018年11月6日 実は、またまた事件が起きた。2018年11月6日である。つい先日のことである。夜中、就眠直前。枕元の電灯を消し、目を閉じたとたん、それが起きた。 が、その事件の内容について話すのが、このエッセーの目的ではない。それに今は、その事件については、まだ話せない。話したくない。こと私に関して言えば、いつもそうだが、冷却期間が必要。事件が起きたからといって、それを軽々しく人に話す・・・というようなことはできない。また今までも、したことがない。 私のばあい、まず自分の脳みそを疑う。そこに0・01%の「穴」がある場合には、自分の脳みそを疑う。「ひょっとしたら、夢かもしれない」「幻覚かもしれない」「思い込みかもしれない」と。さらには「脳みそがいよいよ狂ったかもしれない」とも。 が、そう思うことは、恐怖以外の何ものでもない。事実、私はそういう人たちを、自分の職業を通してみてきた。教え子の中も、ざっと数えて、10人はいた。 だから冷却期間が必要。穴が完全に塞(ふさ)がるまで、じっと待つ。 ●疲れ 加えて、そういった事件にも、このところ疲れを覚えるようになった。「何だったのか?」「どうしたのか?」「目的は何?」「どうして?」「なぜ?」と。そのつど息が抜けない緊張感を覚える。具体的には、ワイフと同じ会話を繰り返すようになる。が、いくら繰り返しても、結論が出てこない。いうなれば謎解きの堂々巡り。 今回もそうだ。今日で5日目になるが、答えが何も出てこない。出てこないから、気持ちが投げやりになる。どうでもよくなる。 それに・・・上の人の行動には予測は立たないが、そのつど、必ず2回目を見せてくれる。答えはそのときわかる。それまで待つ。待つしかない。 ●現実 だから私に「あなたは選ばれた人だ」と書いてくる人には、いつもこう返事を書く。「現実はそういうものではありませんよ」と。つまりそうした事件が起きるたびに、身も心も、ズシリと重くなる。大きな責任を与えられたときの気分に似ている。息苦しくなる。心が塞ぐ。それに・・・選ばれたとしても、私には、何もメリットはない。楽しみもない。はっきり言えば、得になることは何もない。 ・・・あるとすれば、上の人の仕事をしているという喜びということになるが、それとて他人に誇るようなものではない。「喜び」といっても、それはどこまでいっても個人的なもの。 ともあれ、現実はちがう。 ●芸術家 話を戻す。 なぜ私たちは、UFO問題を考え、エイリアン問題を考えるか。さらにはなぜ神々の問題を考えるか。それはある意味で、芸術家の心境に似ている。つまり自分自身の中の、真実を探求したいという思いに似ている。 が、そこには他人はいない。まったくいないわけではないが、真理の探究というのは、そういうもの。自分で自分が納得できるまで、それを追求する。つまり相手は「自分」。 芸術家は自分の納得できる作品を完成するまで、前に進む。それと同じ・・・?だからそんな甘いものではない。浮かれて「選ばれました」と喜ぶような話ではない。 ●終わりに この原稿は、実は2018年の11月11日、午後9時に書いている。つまり11月11日号用の、マガジン原稿。まだ書き上げていない。が、もうそろそろマガジンを発行しなければ間に合わなくなる。だから、急いで書いている。言うなれば、原稿の草稿のようなもの。 だからこのまま出すには、気が引ける。が、このまま出す。校正、訂正などは、後日に任す。 ・・・ということで結論。 みなさんの中には、一連の謎解きの中に、ある意味でロマンを覚え、その中で結党空想的な思いをはせている人もいるかもしれない。はっきりとはわからないが、それを感じさせる人はいるにはいる。 しかし大切なことは、現実から足を踏み外してはいけないということ。そこに「現実」がある以上、その現実から遠ざかってはいけないということ。また遠ざかるために、UFO問題やエイリアン問題、さらには神々の問題を利用してはいけないということ。いわんやそれでもって、他人の心を操ってはいけないということ。それこそまさに、エイリアンにせよ、神々がもっとも恐れる問題ということになる。人間が犯しうる犯罪の中でも、最悪の問題ということになる。それだけは、強く戒めながら、自分の軌道を修正していかなければならない。 私も、あなたも、けっして特別な人間ではない。神に選ばれた人間であっても、特別の人間ではない。大切なことは、ただひたすら神の仕事をすること。それがすべて。始まりであって、終わり。あとのことは、すべて(上の人)に任せればよい。人間の私たちが騒ぐべき問題ではない。 が、それはきびしくも、苦しい闘いでしかない・・・。(2018年11月11日記) ++++++++++++以上2018年11月11日、発表+++++++++++++ 【MSさんからのメール】2018年11月15日 MSさんは、今から6年前、私がまったくの孤立無援で闘い、世間から冷笑されていたとき、ただひとり、私を理解し、励ましてくださった方です。 +++++++++++++++++++++++++++++++ お久しぶりでございます。お元気でしょうか。 研究ご苦労様です。 以前月面のクレーターの淵沿いに光点が有りグーグルタイムトンネルや疑似太陽光で時間ごとに変化が無いため私は、画像エラーと判断しましたが、 この光体が人類の想像を超えた建物だったらどうでしょうか?文明が低い人類を無視し自由に周りを照らす為、発光設備が有ると仮定したら。 最近感じた事です。 0811 Video Diary私は音楽人なのでqueenはずっと見てきました。LIVE映像を是非見て聞いてみてくださいませ。素晴らしいです。 +++++++++++++++++++++++ 【はやし浩司よりMSさんへ】 お久しぶりです。お元気ですか?私のほうにはいろいろありましたが、何とか元気でいます。ただ体力の衰えだけは、いかんともしがたいです。同時に気力、集中力、根気の減退も、いかんともしがたいです。だからこそ、「今を生きる」ということになります。時間との勝負かな?残り時間は、それほど長くはありません。つまり言い換えると、「永遠には生きたい」とは思わない。しかし、「今を、生きたい」と。今は、そのように考えています。 で、現在の私のテーマは、やはり「神」です。神イコール、エイリアンということは、もうまちがいありませんが、今は、その先。「なぜ、人間との接触を繰り返しているか」です。そのひとつとして、つまりそのヒントのひとつとして、今朝、こんな書き込みが届きました。 じろワンさんという方からのものです。 『こんにちは、ゼカリア・シッチン著のアヌンナキ種族の地球展開の壮大な歴史を読みました。そこにカインとアベルの話があります。カインがアベルを亡き者にしたあとニンギシュジッタにより生命のエッセンスを変更されて彼の顔には髭が生えないようにしたと書いてあります。 これは先生の髭がないイエス説に通じるのではないでしょうか?』 これはたいへん重要な意味をも書き込みかと思います。「髭」という言葉が出てきたからです。私は「本物のイエスには、髭がない。替え玉で処刑されたイエスには、髭がある」と唱えています。つまりこの書き込みの内容は、私の今までの説を、直接的に裏づける内容であるからです。で、今日は、この問題について考えてみたい・・・動画をまとめてみたいと思っています。 ともあれ、お久しぶりです。お元気ですか?今日も、がんばって生きます。がんばるしかないですしね。 ところでまた一度、お会いしたいですね。一度、機会を作って、埼玉のほうまで行きます。そのときは、また時間を作ってくださいね。今日は、これで失礼します。 なお私方は、(上の人)からのコンタクトを、受けています。現実的な「実在」として受けています。自分でも、こんなことになろうとは夢にも思っていませんでした。が、事実は事実です。いつかすぐ、ゆっくりとその話ができれば、うれしいです。奥様にくれぐれもよろしくお伝えください。 またメールを書きます。 はやし浩司 (追伸) あの月面上の光点は、UFOクラフトの集合体であると判断しています。V字型に並んでいるのもあるからです。私が1975年、2016年に見たクラフトと形が一致しているからです。 以上11月11日発表++++++++++++++++++++++++++++ ●第三回目の画像転送 目を閉じたその瞬間、それは始まった。第1回目(2017年11月13日)のときも、そうだった。第2回目(2017年12月1日)のときも、そうだった。そして今回も。 2018年11月6日の夜のことだった。時刻は11時40~50分くらいだった。枕元の電灯に手を触れて、電灯を消した。(手で触れれば、明かりが消えるようになっている。) 周りが暗くなったのを感じながら、枕に頭を沈めた、その瞬間だった。まぶたの向こうに、広い空間を感じた。目は閉じていた。が、そこに広い空間があった。 第1回目のときは、左目の視野だけで、それが起きた。第2回目のときは、両目の視野で、それが起きた。立体的だった。今回は、第2回目と同じ、両目の視野で、それが見えた。 ●会話 すぐ横でワイフが横になっていた。私より先に、浅い眠りに入っていた・・・と思う。私は構わず、叫んだ。「また、見える!」と。 私はそのまま目の中に映った世界を、そのまま口にした。話した。意識はしっかりとあった。私は絵本か何かを見ながら話すように、そのままそれを声に出して言った。 ●内容 が、今は、まだその内容については、話せない。話したくない。 この原稿を書いているのは、11月17日、土曜日。明日、18日が、電子マガジンの発行日。が、もしそうでなかったら、つまり原稿を書く必要がなかったら、そういう事件があったことすら、ここに書かなかっただろう。事実、そういう事件を経験しながらも、ワイフとの間で話題になったのは、そのあとの数日の間だけ。今日の今まで、ほとんど忘れかかっていた。11月6日という日付そのものも、忘れかかっていた。ワイフが日記にしている手帳を見ながら、こう言った。「(第三回目があったのは)、11月6日よ」と。それで11月6日という日を思い出した。「そうだったね」と。 ●冷却期間 こうした事件が起きるたびに、私は同じことを繰り返す。つまりしばらく冷却期間を置く。他人にそれを話さない。・・・というか、話す気にならない。それがどういう心理作用によるものなのか、私にはわからない。が、いつもそうだが、すぐには人には話さない。・・・というか、話す気にならない。 ひとつには、こうした話は、話せば自分の脳みそが疑われる。へたに「画像転送を経験した」と言おうものなら、そのまま外の世界へはじき飛ばされてしまう。そういうときの、相手の気持ちがよくわかる。よくて「変人」。悪ければ、「精神xx者」。 そう疑われれば、失うものはあっても、得るものは何もない。だから話したくない。冷却期間をおく。それに今回は、3回目。 ●実況中継 それを、つまり画像転送を受け、それを見ている間中、私は詳細にワイフに話した。「今、~~を見ている」「~~がそこにある」と。ワイフはそれに応じて、そのつど、私に質問した。私は答えた。 そのときこんなことも言った。「今度は、朝まで見ていてやる」と。 第1回目のときも、第2回目のときも、途中で目をあけてしまった。あけた瞬間、画像転送は終わってしまった。「終わった」というより、再び目を閉じても、何も見えなかった。だからそのときは、「朝まで見ていてやる」と。記憶の中では、2,3度、そう声に出して言ったと思う。私はともすれば開きそうになる目を必死でこらえた。というのも、視点を上の方に移したようなとき、そのまままぶたが開きそうになった。 ・・・映像(?)は、その間も、ずっと見えていた。私は途切れることなく、そこに見えているものを、ワイフに話した。 ●おかしな人 一方、この世の中には、おかしな人がいる。どういう人がそうとは言えないが、おかしな人である。私自身がそういう人と疑われている状態で、他人の話はできない。が、ときどき私は自分の脳みそを、第三者の目で、ながめてみることがある。前にも書いたが、教師の目で、自分を見る。「私という生徒はだいじょうぶか?」と。 が、私が見たところ、頭のおかしな人で、自分でそう思っている人はまずいない。どの人も、「私はまとも」と言いながら、だれが聞いても、「頭がおかしい」と思われるようなことを、平気で口にする。 となると、私がここで、こう先制したところで意味がない。「神に誓って・・・」とか、「あなたにはウソをつきたくない・・・」とか、など。 ではどうすれば、他人に、それを信じてもらえるか。考えれば考えるほど、思考の迷路の中に入ってしまう。袋小路に迷い込んでしまう。 ・・・とまあ、そういう迷いがある間は、他人に話せない。話したくない。 ●証拠 第2回目については、証拠があるにはある。私は見せてもらったものを、詳細にスケッチしておいた。それがよかった。後日(その2週間後くらい)、同じ画像が別の場所から出てきた。で、その事件については、ワイフが納得してくれた。「(あなたが描いた絵と)同じね」と。 で、それでじゅうぶん。ワイフさえ納得してくれば、それでよい。ただ、第2回目のときもそうだったが、そのスケッチは、第三者には見せていない。見せていれば、もっと多くの人に納得してもらえたかもしれない。が、それはしなかった。私とワイフの間だけで、すませてしまった。 ●新事実 11月6日の翌日から、再度、(その)検証を始めた。役にたった。画像転送のおかげで、その謎をしっかりと解くことができた。「しっかり」というのは、事実として知っていることを、その謎の上に重ねた。それでその謎は、さらに確信的(?)に解くことができた。 ・・・こうしてまた別の、もうひとつの土台ができた。 私は(上の人)に感謝した。感謝して、祈りを捧げた。 (2018年11月17日記) ++++++++++++++++++++++++++++++++ 【使命感】 ●51 2018年の11月22日の夜、ダビンチの描いた『岩窟の聖母』の中に、「51」という数字を発見した。実際、それを発見したのは私のワイフだった。「ぼくの発見ということにするよ」と私が言うと、ワイフは笑った。いつも、そうだ。 51! が、それほどクリアな数字ではない。もしこの「51」だけだったら、「そのようにも見える」で終わってしまっていたかもしれない。しかし『モナリザ』、そして『聖アンナと聖母子』の絵の中にも、「51」があった。こうした事実と並べて考えると、無視できない。しかもモナリザの中の「51」とは、書体まで似ている。モナリザの「51」は、だれが見ても51である。 ・・・51というのは、ユダヤのゲマトリアによれば、「火星」を意味する。 ●ゲマトリア もう4~5年前になるだろうか。ベルギー在住の音楽家、演奏家のスティーブン・セジャーズさんという方から、BGMを送ってもらったことがある。ヨーロッパの情報を、あれこれ届けてくれた。そのとき、その中に、「2255」という曲があった。私の動画のBGMとして、しばしば使わせてもらった曲である。で、その「2255」の意味を聞くと、「LOVE(愛)」という意味だと教えてくれた。が、どうして「2255」が「愛」なのか?そこで再度質問すると、「ゲマトリアだ」と。 そこで私ははじめてゲマトリアという言葉を知った。ちょうどその少し前、「775027」の数字の意味がわからなくて、苦しんでいた。「775027」というのは、ミケランジャロの『カッシナの戦い』の絵の中に隠し込まれていた数字である。で、ユダヤのゲマトリアで解読すると、「775027」は、(77・・・Christキリスト)(50・・・Biblical聖書の)(27・・・Cainカイン)であるとわかった。つまり「救世主は、聖書でいうところのカインである」という意味になる。 そのゲマトリアで読むと、「51」は火星という意味になる。