2011年11月14日

2/4

カテゴリ:カテゴリ未分類


●性欲からの解放

 話を戻す。

 私の脳の中に、別の「私」がいる。
それが裏から、私を操っている。
そのことは、60歳を過ぎると、よくわかるようになる。

 ・・・というか、私は、55歳前後に、それがわかった。
その前後に、私は「男の更年期」というのを経験した。
医学的に実証されたものではないが、そのころ、急速に性欲の衰えを覚えた。
いや、性欲はあったが、「女体」への関心が、ほとんどゼロになった。

 たとえば週刊誌に載っているようなヌード写真を見ても、どれも肉塊にしか見えなかっ
た。
ときに豚の脂身(あぶらみ)のように感じたこともある。
そのときのこと。
それまでの私が、いかに性欲の奴隷であったかが、わかった。
だから私はある日、ワイフにこう言った。

「今のぼくならね、女湯にだって平気で入れるよ。裸の女の人と、湯船につかって、平気
で世間話ができるよ」と。

 が、それはすがすがしいほどまでに気持のよい、解放感だった。

●性的エネルギー(リビドー)

 若い人たちに、いくらこんなことを言っても、理解されないだろう。
その渦中にある。
が、男性にしても、24時間、頭の中は「女」でいっぱいという人がいる。
そういう人にしても、自分が性欲に操られているだけとは思っていない。
自分の意思で、そうしていると思い込んでいる。
が、実際には、どの人もみな、別の脳で操られているだけ。
ついでに言えば、男がスポーツで目立ちたいと思うのも、女が化粧をするのも、別の脳に
操られているだけ。

 その原点にあるのが、性的エネルギー(フロイト)ということになる。
そのエネルギーが、脳の奥深くから、・・・最近の研究によれば、視床下部あたりから、パ
ルス信号として発信されているらしいが、そこから発信されている。

 このことは、ほかの動物を見れば、わかる。
動物だけではない。
植物にしても、そうだ。
どの生物も、生きる目的を、種族の存続に置いている。
種族の存続にはじまり、種族の存続に終わる。
残りのもろもろの行動は、言うなれば、「雑務」のようなもの。

●ドラマ

 が、だからといって、それが無駄とか、無意味とか言っているのではない。
それがあるから、人生も、また楽しい。
あの映画『タイタニック』にしても、もしジャックとローズがいなければ、ただの船の沈
没映画。
沈没再現映画。
ジャックとローズがいたから、人々を感動させ、涙を誘った。

 人生も、また同じ。
私たちがもし、無機質なまま、種族の保存だけを考えて生きていたとしたら、そこからは
ドラマは何も生まれない。
もちろん感動も、生まれない。

 言い換えると、その「ドラマ」にこそ、生きる意味がある。

●予期せぬ変化

 先に、私は、私たちは別の脳に操られていると書いた。
それはその通りだが、その別の脳が、混乱するときがある。
たとえば別の脳が、その人の方向性を決めていたとする。
が、その方向性が、乱されたようなとき。

 それが他人との接触ということになる。

 「そろそろ喉が渇いてきた。台所へ行って、水を飲んでこい」と。
別の脳がそう決めていたところへ、突然、電話がかかってきた。
友人からの電話である。
「今、近くに来ているから、ちょっとそちらに寄るよ」と。

 とたんあなたは、行動計画を変更する。
「あと10分で、仕事の準備を終え、居間を片づけなければならない」と。
つまりそう考えたとき、あなたは別の脳の支配から、抜け出る。
あなたはあなたとして、行動を開始する。

 それを「ドラマ」という。

 やがて友人がやってきて、居間のソファに座る。
友人にお茶を出し、自分もお茶を飲む。
渇いたのどを、お茶でうるおす・・・。
ついでに友人のおもしろい話を聞いて、笑う。
それが「私」ということになる。

●生きる意味

 私はEメールの署名のところに、こう書いている。
「Life is full of Dramas」と。
だれかの言葉だったが、だれの言葉だったかは、忘れた。
「人生はドラマでいっぱい」と。

 で、「なぜ生きているか」と聞かれれば、私は迷わず、こう答えるようにしている。
「ドラマを残すため」と。

 言い換えると、私がなぜ「私」であるかと言えば、そのドラマを残すからということに
なる。
別の脳に操られるままでは、ドラマは生まれない。
そこに「私自身の意思」を注入することによって、私は「私」を取り戻すことができる。
それがドラマということになる。

 さらに言い換えると、ドラマのない人生ほど、味気なく、つまらないものはない。
そのことは、10年を1日にして生きる老人、20年を1日にして生きる老人を見れば、
わかる。
意味もなく、また意味を持たせることもなく、毎日同じことを繰り返している。
そういう人生からは、ドラマは何も生まれない。

●感動

 が、ドラマにも、軽重がある。
振幅の大小と言い換えたほうが、正確かもしれない。
さらにわかりやすく言えば、感動のあるなし。
感動の大きさが、ドラマのスケールを決める。

 近所の人に会い、立ち話をするのも、感動。
しかしその一方で、たとえばワールドカップで、ゴールを決めるのも、感動。
さらに言えば、喜怒哀楽の世界で、人を愛するのも、また憎むのも、これまた感動。
日々に葛藤し、もがき、苦しむのも、これまた感動。
そうした無数の感動を通して、私たちは身の回りに、ドラマを築きあげていく。

 それが「私」であり、生きる意味ということになる。

●ザマーミロ

 話が繰り返しになってきたので、この話はここまで。
今もはげしい雨が、外で降っている。
雨どいからこぼれ落ちるボタボタという音は、そのまま。

 気がつくと、ワイフがいつの間にか、私の横で眠っている。
動くものは、何もない。
いや、私がキーボードを叩くたびに、ペットボトルの水面が、かすかに、小刻みに揺れる。
それが蛍光灯の光を受け、チラチラと光を放つ。

 ・・・こうしてものを考え、キーボードで文にしているときだけ、私は私でいられる。
別の脳に支配されない、私。
きっと別の脳は、・・・もともと人間というのは、基本的には怠け者だから、こう叫んでい
るにちがいない。

 「せっかくの土曜日なのだから、横になって休め」と。

 が、私はあえて、それに逆らう。
逆らって、私は自分の意思で、私の文を、こうして書いている。
「ザマーミロ! お前の言いなりになってたまるか!」と。
別の脳に向かって、そう叫ぶ。
それが私にとっては、楽しい。

(はやし浩司 2011-10-22記)


Hiroshi Hayashi++++++++Oct.2011+++++++++はやし浩司





TWITTER

最終更新日  2011年11月14日 08時29分59秒