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カテゴリ:正法誌No39
反省は神の慈愛である
人間は一日のうちに善いこと悪いこと、いろいろなことを思う。 その一つ一つがみな結果として出てくるのであるとしたら、この世に幸福な人は一人もいない ということになる。 如来とか菩薩といわれるような段階の人になれば別として、それ以外の多くの人は善いこと悪 いことなど、いろいろなことを思う。 一つの原因に対しては必ず一つの結果が現われてくるというのであったら、とてもこの人生は たまったものではない。 外面からはどんなに謹厳実直で、聖人だと見られている人でも、きれいな女の人を見て欲心を 起こさなかったという人はないであろう。 高橋信次先生から正法を教えられて、やっと「心に思うこともいけないのである」ということ が実行できるようになったが、それ以前の特に若い頃の私(園頭先生)はそうであった。 常に清浄でありたいとする自分と内心の醜さとの葛藤に悩んだものである。 この善悪二面の自分の人間性に大いに悩む人が真に真理を求める資格のある人であるといえ る。 悪いことを思っても、思った通りの悪いことが必ずしも出てこないのは、人間には反省すると いう心(この心は知性と理性の総合された働きである)が与えられているからである。 反省しない、反省出来ないという人は知性、理性の働きが鈍いか、全くない人である。 そういう人を感情だけで動かされる感情的な人というのである。 「あゝわるかった。すまない」という反省、懺悔があれば悪いことが起こってくるという運命 は修正できるのである。 この、いろいろの人生の出来事を反省することが出来るような目覚めた心を持つようになれば なるほど、心の力で運命を変化改善させる力は拡大されてくるのである。 正法誌N039号 1981年 11月号より抜粋 恐るべし。ゴータマ・ブッダの智慧。最も古い仏典の精読から、ブッダの思索の成り立ちとその核心に切り込む。「ゴータマ・ブッダの仏教」の真実とは何かを明らかにする、画期的論考。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2010.01.06 18:21:18
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