東京都電6000形 荒川線・最後の華
昭和40年代、モータリゼーションの隆盛と高度経済成長の陰で、一気に路線縮小に向かった東京都電。1967年から始まった路線の廃止は、わずか5年の間、7次に及ぶ「撤去」で事実上全廃ともいえるような、ものすごい勢いで進められました。都電撤去の推移第1次 1967年12月 第2次 1968年2・3月 第3次 1968年 9月 第4次 1969年10月 第5次 1970年 3月 第6次 1971年 3月第7次 1972年11月昭和47年の撤去後に残ったのは、27系統の一部 王子駅ー三ノ輪橋32系統 荒川車庫ー早稲田でした。27系統は、もともと 赤羽ー王子駅前ー三ノ輪橋 でしたが、第7次撤去で、王子駅前ー赤羽の区間が廃止されたため、実質的に 早稲田ー大塚駅前ー王子駅前ー荒川車庫ー三ノ輪橋 という、単一の路線といえる「行って来い」での運行となりました。これが、のち(1974年)に系統番号から「荒川線」に改称されたゆえんともなったわけですね。都電荒川線の車両たちその後、東京都が、都電(荒川線)の恒久存続を打ち出し、路線の多くの区間が専用軌道(自動車が乗り入れない、見た目普通の鉄道路線と変わらない)であって、路線中に、大塚、王子、町屋という鉄道路線に接続するという好条件を背景にして、今も「唯一の都電」として、城北地区の「都民の足」として走り続けています。第7次撤去後、唯一の都電の「ネグラ」となった荒川車庫(電車営業所)には、3形式62両の車がいました。もともと荒川車庫にいたもののほか、廃止された都内各所の電車営業所から比較的経年が浅い車両たちが集められたものも加わったものです。6000形 (13両)6063,6080,6086,6152,6181,6189,6191,6209,6210,6211,6212,6213,62197000形(31両)7055,7056,7057,7058,7059,7060,7061,7062,7063,70647065,7066,7067,7068,7069,7070,7071,7072,7073,70747075,7076,7077,7078,7081,7082,7083,7084,7086,708770897500形(18両)7501,7502,7503,7504,7505,7506,7507,7508,7509,75107511,7512,7513,7514,7515,7516,7518,75206000形 7000形 7500形 荒川車庫前 1977●6212 1951,8,1 交通局工場製造 1981,8,13 廃車 三田車庫ー青山―三ノ輪ー神明町ー荒川(1970,3)~乙6212に改造(1977)このうち6000形は終戦直後に製造されたものだけに、当時すでに製造後30年近く経過していたため、所要両数が少なくなるデイタイムには7000、7500形が主に運用に就いていて、平日朝夕のラッシュアワーの時間帯のみ6000形も運用につくというパターンが長く続いていました。車庫で昼寝をしている6000形 1976 荒川車庫(敷地外から撮影)手前のレールはトラバーサーのもの●6063 1949,3,19 富士産業製 1978,4,27 廃車 青山車庫ー大久保ー南千住ー神明町ー荒川(1970,12,28)●6080 1949,3,19 新日国工業製 1978,4,27 廃車 青山車庫ー大久保ー駒込ー荒川(1971,3,18)向かって左の6080は1962年の更新修繕によって行先表示が大型化されています。こうした中、荒川線が、バスと同様、「ワンマン運転」化されることになった際、既存の7000形31両全車と、7500形の18両中16両がワンマン対応のために改造されることなって、順次これらの改造工事のため、通常運行に必要となる(所要)両数が一時的に不足することから。経年による老朽化と構造上の問題から改造工事の対象から外され、完全ワンマン化後に廃車されることとされた6000形が、「つなぎ役」として起用されることとなったのです。6000形にとっては、まさに「最後のご奉公」で、戦後の経済復興とともに増大した旅客に対応して、名実ともに路面電車全盛時代の支えてきた彼らが、大車輪の活躍をするステージが用意されました。 荒川車庫から三ノ輪に向け出庫起伏の多い山の手の専用軌道から、城北、併用起動の飛鳥山を経て下町の風情が残る町屋、三ノ輪までを快走する6000形が、休日の日中でさえ多く見られるようになったわけです。 雑司ヶ谷の坂を下る6000形目当ての乗車でしょうか・・・結構な乗車率です。冷房がなくても、前面窓の開閉ができるのでここちよい自然の風が入ってきます。 飛鳥山の併用軌道を快走 荒川車庫前●6086 1949,3,8 日本鉄道自動車工業製 1978,4,27 廃車 青山車庫ー南千住ー青山ー三田ー巣鴨―神明町ー -大久保ー三ノ輪ー駒込―荒川(1970,12,24)1966年の更新修繕では、側窓のアルミサッシ化、行先表示の大型化とともに、黄色と赤の「都電カラー」に変更された車です。9つの車庫を渡り歩いたという最多記録(?)保持車です。当時、SLロス、旧型電機ロス状態に陥っていた、高校生だったひきこもりテツは、とりわけ路面電車マニアってわけではなかったのですが、カメラとカセットデンスケ(死語)を抱えて、お手軽な「近場テツ」(ひきこもりの前兆?)として、通うようになったのも、ごく自然な成り行きだったように思います。無論、ひきこもりテツ は、世代的には、銀座通りを走る都電を知らない世代ですが、無骨ともいえる3枚窓の重厚な6000系は戦後の「都電の顔」として、軽快なイメージの7000形、バスみたいな7500形とは明らかに異なった、風格さえ感じさせる外観で、とても魅力的に感じたものです。 首都高が頭上を跨ぐ「東池袋四丁目」王電時代は「水久保」、都電池袋線の電停名に合わせ「日出町二丁目」そして1972年に現在の停留所名になりました。あの、忌まわしき「新住居表示」による弊害といえる名称変更ですね。●6211 1951,8,4 交通局工場製造 1981,8,13 廃車 三田車庫ー青山―三ノ輪ー荒川(1970,3)~乙6211に改造(1977) 学習院下 西に傾きかけた陽光に6181とサンシャイン60が映えます●6181 1950,9,9 日本車輛本店製 1978,4,27 廃車 南千住ー大久保ー荒川(1967,9,26)アルミサッシ化されておらず、客用扉と窓桟が直線で好ましいスタイル 飛鳥山●6219 1950,12,27 帝国車輛製 1978,4,27 廃車 三田ー青山ー三田ー荒川ー柳島ーー荒川(1967?)ワンマン化は1977年10月と1978年4月の2回に分けて段階的に実施されました。ガタンゴトーン・・・1372mm軌間とどっしりとした6000形で安定性抜群の快走ぶり?車歴引用:江本廣一 東京都電6000系(ネコ・パブリッシング)