「転生」という小説を読んだ。
心臓移植がテーマのミステリー小説だった。
小説というのは本当に今まで読んでこなかった。
でも、読書における思春期みたいなものがきたらしい
本屋で直感で選んでみることにする。
すると小説=読まないもの、とひとくくりにしていたが
その中でもちゃんと興味を持てるものは見つけられることに気がついた。
とても嬉しい発見。
自分が知らなかった人生の楽しみの扉がひとつ開いた感じ。
平日PCばかり見て仕事をしていると
他にやりたいことばかり思い浮かぶのに(笑)
週末になると、それが何だったか忘れてしまう。
予定がない週末自体は嬉しくて大好きなのだが
ふと、何をしたいでもなく、空っぽになって部屋に座るとき
そんな日にも、本を持ってコーヒー店へ行くだけで
こんな日記を1ページ書けるような中身ある午後に早変わりする。
さて、この本の中でさらりと取り上げられているテーマで
私がすごく考えたのは
「その人が、その人であるっていうのは、どこなんだろう」
どこというのは抽象的だけど。
その人らしさ、って何だろう?
自分が自分であるというのは、いったいどの部分がそれだと言えるのだろう。
この小説は、心臓移植を受けた主人公に
ドナーの生前の記憶が受け継がれる、というストーリーで
記憶って、脳かな、心臓ではないんだろうけど。
そもそも、心とは、いったいどこにあるんだろう。
その人らしさって、いったいどの部分なのかな。
私が私であって、本を読んだり人生を生きている間
経験することに対して
絶え間なく湧き上がる感情とかが
まるで支離滅裂ではなくて
やっぱりいつも一貫して「私」という人間らしいんだと思うんだけど
いったいどの部分がそれを作っているんだろうな~って
とても不思議に思った。
「私」と自分のことをさす時
胸のところに手をあてたくなる。
「心」がどこかと言われると、何となく胸のあたりにある気がする。
「脳」っていうのは、何となくアタマ、理屈で考えること、って気はするけど
やっぱり心は、胸のあたりかなぁ、と。
このことは、この小説の中にも書いてあって
これはどの文化的背景をもった人にも共通していることなんだって。
どの人間も、心が何となく胸のあたりにあるという体感を持っているらしい。
これには、正直とてもびっくり。
同時に、自分にもわかる。
もしかしたら、これが「魂」ってやつなのかなぁ。
きっと体のどこか一部とか、ましてや特定の臓器に存在するものではない。
けど、これが私、って言えるその何かのエネルギーみたいなものが
間違いなくこの体に宿っていて
これが私らしさを作っている。
生物としてのこの体はほんと宇宙みたいにすごくって
体の中で起こる消化、免疫、血液が流れ心臓が動いていること
すべてが信じられないくらいの奇跡だと思うけど
じゃぁこの体がなくなったら、私じゃなくなるのだろうか。
「思い」とか「感情」、「記憶」...
ただの脳の作りだす信号とは思えない、
もっと形がなくて、でももっと確かにどこかに蓄積されているような気がする。
もしかしてこれが「魂」なのかなぁ。
なんて考えたりした。
科学的に説明なんて、きっとできないんだろう。
不思議だなぁ。
でも自分探し、とか小さいことを考えてた昔の私が
本当に何だか目先のことしか見てない小さな自分に見えた。
探す必要なんかなくて
今この瞬間も、私はいろんなことを感じている。
胸に手をあてると、それが理屈でなく
私はここだなぁって、そういう感じ。
不思議だなぁ。