イエスの喜びと満足のために☆

2008/01/11(金)07:47

まことの賛美の生贄

 「それでイエスも、自分の血で民を聖とするため、門の外で苦難を受けた。だから、{私たちも}彼の{受けた}侮辱を{身に}負い、宿営の外、彼のもとに出て行こう。私たちはここには{いつまでも}存続する都をもっておらず、来るべき{都}を熱望しているのだから。{それで}彼を通して、賛美の生贄、つまり彼の名を告白する唇の実を、いつも神に捧げていよう。善行と分かち合いを忘れるな。このような生贄が神に喜ばれるのだから。」            へブル13:12~16   賛美したくない時に賛美する事が、生贄だ、とよく聞きます。信仰によって賛美する、ダビデが、自分の魂に向かって、「わがたましいよ、主をほめたたえよ」と歌っているのを見るとき、自分の思いは脇において、主を賛美する事を選び取る事は、私たちに力を与えます。しかし、ここに書かれたまことの賛美とは、・・それはイエスが門の外で苦難を受けたように、・・そのように私たちも彼の侮辱を身に負い、宿営の外、彼のもとに出て行くことです。キリストのために負う苦難、あざけり、嘲笑を身に負い、私たちはキリストのもとへと出て行き、さらに彼を通して、彼の名を告白する、それがまことの賛美の生贄。確かに、中国のような迫害は日本では考えられない。しかし、真理は人々を切り分け、光を投じるのです。「事実、神の言葉は生きていて活力があり、あらゆる諸刃の剣にまさって切れ味があり、・霊と魂を、関節と骨髄を切り分けるほどに刺し貫くものであり、心の思いと考えを見分けることができる」 へブル4:12 イエスが語る言葉、まさに、この言葉とおりのものでした。真理、まさに御言葉が人を切り分け、思いが判別されます。真理が語られるところでは、まるで篩いにかけられたように、人々の反応は分かれます。いのちに至る人にとっては解放であるのに対し、そうでない人々にとっては、明るみに出される事を恐れて、光の方に決してこようとはしません。もちろん、そのような自覚さえ感じる事はありません。今日、このような真理が一体どれほどの教会で語られているでしょうか人受けすることに心を配られたり、何でも受容することが理想の教会?、それが福音なのでしょうか?そのままのあなたでいい、ありのままのあなたでいい、というキャッチフレーズがキリスト教の合言葉のようになっています。そのままのあなたではいけないので、キリストは十字架にかかられたのです。そのままのあなたでいい、ありのままのあなたでいいという言葉は、いつの間にか一人歩きし、それが福音かのように語られています。そのままのあなた、ありのままのあなたでいいという言葉は、キリストの死に継ぎ合わされながら、福音によって変えられていく歩みを阻害してしまいます。真理の言葉は、罪について、義について、さばきについて世にその誤りを認めさせるのです。 真理は信じる者にとっては、自由を得させる力ですが、それを拒絶するものにとっては、聞くに堪えない言葉なのです。なぜなら、「自然的{地上的な}な人間は、神の霊のことがらを受け容れない。なぜなら、それはその人には愚かさだからであり、それをその人は認識する事ができないからである」    コリント第一2:14パウロは「私たちはすべてにおいて苦しめられながらも、窮地に追い込まれてはおらず、途方にくれながらも、絶望してはおらず、迫害されながらも、見棄てられてはおらず、投げ倒されながらも、滅ぼされてはおらず、常に、イエスの殺害をこのからだに負って歩き回っている。それはイエスのいのちもまた、わたしたちのこのからだにおいて、明らかにされるためである。」  コリント第二4:8~パウロは真理である方を信じて語ったがゆえに、このようにキリストの十字架を身に負っている事を証しています。そのような、まさに、生きることはキリスト、死ぬ事もまた益です。と語ったパウロのあゆみそのものが、まことの賛美の生贄なのではないかと感じさせられるのです。         

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