イエスの喜びと満足のために☆

2008/01/15(火)00:07

サンダー・シング・・2

 4時半をすぎてから、突然、大きな光が部屋を照らした。初めは火事かと思い、戸を開け放って外を見渡したが、火はどこにもなかった。ふたたび戸を閉めて、さらに祈り続けていくうちに、驚くべき光景が現れた。輝く光輪が床の上に広がり、そこに求める神の姿が現れたのである。神のようなその人の顔は,慈愛に満ちていた。釈迦かクリシュナ、あるいはその他のインドの神仏かと思い、今しも礼拝しようとした時に、次の言葉が心の耳に響いた。「おまえは、なにゆえわたしを迫害するのか。わたしがお前のために十字架上で、わが命を捨てたことを思い起こせ!」 この言葉はヒンドスタニ語で彼の耳に響き渡った。彼はあまりの驚きに声も出せずにいた。それから、その両手、両足、わき腹に傷の跡があるのを認めた。彼が熱心に待望していた神は、2000年前に死んだ、偉人のひとりのようにしか考えていなかった、イエス・キリストだったのである。それは、自分が訳もわからずに敵視し、迫害に徹していたナザレのイエスその人であった。キリストは3日前に彼が聖書を無残に引き裂き、焼き捨てたにもかかわらず、不愉快な表情一つ見せず、優しく彼に微笑みかけていた。このときに、「イエス・キリストは死んでいない。彼は今も生きている。この方はイエスご本人だ。」という思いが強くこみ上げ、主の足元にひれ伏した。その途端、彼のすべての存在が変えられた。キリストは、聖なる生命で彼の性質を洗い流し、彼の霊魂を言い知れぬ平和と歓喜で満たし、彼の心に天国を招き入れてくださったのである。 少年が起き上がった起き上がったときには、すでにイエスの姿は消えていたが、そのときから、驚くべき平和が彼の内に留まり、それは永遠に消えることはなかった。「ヒンドスタニ語によっても、英語によっても、ウルドゥー語によっても、あの時の至福な気持ちは決して表現する事はできない。」と、彼は述懐している。彼は喜びのあまり、、父を起こしに行って大声で叫んだ。「わたしはクリスチャンになりました!」と。父はあっけに取られてこういった。「お前はどうかしている。つい3日前に聖書を焼いて、今日はクリスチャンになったというのか。いったいどういうことなのか、説明してみろ」サンダーは答えた。「あの方を見たのです。今まで、わたしは、あのかたは2000年前に生きていた人間に過ぎないと、と思ってきました。でも、今日、ご本人をみたのです。生きているキリストを見たのです。私はあの方にお仕えします。あのお方は、誰も与えてくれなかった平和をくださったのです。私は、彼が生けるキリストである事を信じます。キリストにお仕えしなければなりません。」キリストのビジョンはサンダー・シングの人生全体のターニングポイントになった。それは彼が熱心に求めていたシャーンティ、あの驚くべき平和、地上の天国を彼に与えた。サンダーシングは、自分のこのような回心の体験を、直接啓示、言葉の厳密な意味における奇蹟と解釈している。それは、神の恵みの超自然的働きであった。「自分が見たものはけっして想像の所産ではない。そのときまで、私はイエスを憎み、全く崇めてはいなかった。これが釈迦であったなら、想像の所産といえよう。私は釈迦を拝んでいたからだ。また、これは夢でもない。冷たい水で身を清めた直後に夢を見るであろうか。[彼は凍える寒さの中、シク教の定める儀式的沐浴を済ませた次に、救いの道を示した前と熱心に祈っていたから}それは、真実、イエス・キリストだったのである。主はキリストの敵を宣教師に変えることができるのだ。主は私に平和をくださった。たった2,3時間の平和ではなく、永遠に続く平和である。その素晴らしさは、決して言葉に表せない。しかし、その真実は、証できる」「他の宗教が、何年かけてもできなかったことを、イエスは一瞬のうちにされた。無限の平和で、わたしの心を満たされたたのだ。どのような書物も、修業も、変化をもたらすことはなかった。キリスト御自身が私を変えたのだ。自らをわたしにあらわされたとき、私は彼の栄光を見、彼が生けるキリストである事を知った。」サンダーシングは、回心の中で、超越的な神の現れ、生けるキリストの異象を見た。彼はこのキリスト体験が客観的なものであることを強調し、後年、自分が、エクスタシー[脱魂」の中で接したキリストの異象と明確に区別している。かれは、ベルン大学のハルドン教授に「自分は異象を見るようになって、それらを識別する方法を知った。しかし、生身のイエスにお会いしたのは、1度だけである」といっている。彼にとって復活のキリストは客観的、具体的な実在であった。もっとも、このような回心の体験は、インドでは珍しい事ではない。インド・メソジスト教会の指導者、オフィルス・サブラーマナヤンは、やはり、異象によってキリストに導かれ、貧しい人々を救う仕事に自分をなげうった。マータラの有名な伝道師で詩人のナーラヤン・ヴァマン・ティラクは死ぬ数ヶ月前にキリストの異象を見ている。インド人の心は、白人以上に幻視体験に接しやすい。サンダーシングは、神の裁きを受けて恵みに浴するという、典型的な回心の体験を通っている。裁きとは、自力で救いを得る事の空しさを示される事、恵みとは絶対他力による神の救いである。それは自分が罪人である事を自覚する事に始まる。「キリストがご自身を開示されたときに、わたしは自分がただの罪人に過ぎないこと主がわたしの救い手であることを悟ったのである。ヒンドゥー教は天国があることをわたしに教えた。わたしは、自分を罪から解放しよう、どんな事も神の意思に従って最善を尽くした。わたしは自分自身の善行によって自分を救おうとしたが、すべては無駄だった。わたしはインドの宗教哲学に誇りを持っていたが、哲学は罪人を救う力を持たないのである。わたしは絶望のあまり、救いの道を示したまえと神に直訴した。この祈りに答えて、救いの手が現れた。彼はわたしをありのままの姿を示された。このようなものを見ることになろうとは、全く予想もしなかった。」救い主を奇蹟的に発見してから、サンダーシングは数日間、祈りに徹した。回心の3日前に自分が聖書を汚した事を思うとき度、彼の良心は痛みに苛まれた。熱心な祈りの中で、彼は必死に神に赦しを求めた。「神様、どうか許してください。わたしは霊的に盲目でした。あなたの言葉が理解できなかったため、聖書を焼いてしまったのです。」キリストは言われた。「お前は霊的に盲目であったが、今や、わたしがお前の目を開いた。行ってわたしを証言せよ。お前に起きたこの大いなる出来事を証言し、わたしがお前の救い主であることを公に告白せよ」                   イエス・キリスト 封印の聖書より抜粋   

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