イエスの喜びと満足のために☆

2008/09/24(水)22:57

赦すことによって突然の死を受入れる

                        ゴードン・ウィルソンは、瓦礫の山の下に閉じ込められながら、娘の手を握っていた。1987年、ゴードンとマリーは北アイルランドのエニスキリンで静かな追悼式に出席していた。そこをテロリストの爆弾が襲ったのだ。その日のうちに、マリーと9人の市民が死亡し、63人が負傷して入院した。 驚くべきことにゴードンは、怒りの言葉が娘を生き返らせるわけでも、国に平和をもたらすわけでもないと言って、報復を求めることを拒絶した。爆破から数時間しか経っていないというのに、彼はBBCのリポーターにこう語ったのだった。 「私は娘を失いました。これからどんなに寂しいことか。でも敵意は持ちません。憎むこともしません。それで娘が帰ってくるわけではないからです。理由を聞かないでください。私にもよく分からないのです。しかし、これは何か意味があるはずだと信じています。そう思わなければ、自殺してしまいそうだ。これも大いなるご計画の一部なのでしょう。そして私と娘は必ず再会できるでしょう。」 ゴードンは後になって、これらの言葉を、娘を殺されたことに対する神学的な答えとして言ったわけではないと話している。心の奥にある思いが口をついて出ただけだった。事件後何ヶ月もの間、彼は自分の言葉に従って行動するために苦闘した。それは簡単な事ではなかったが、暗黒の日々に沈まないようにするためには必要なことだった。 彼はテロリストが娘の命を奪ったことを後悔していないと知っていたので、テロリストを処罰し、投獄するように主張していた。それでもなお、報復を求めなかったという理由で、多くの人々の誤解とあざけりを受けた。 「この行為に責任を負う者は、必ず神の審判を受けることになるだろう。これは私の許しをこえたことだ。わたしが、銃や爆弾をもったテロリストが街を自由に闊歩したままでいいとか案が得ているような印象を与えているなら、それは間違いだ。しかし、彼らが地上の裁判で裁かれようが裁かれまいが、私は生きている間、できいる限りの方法で赦すことを示してゆきたい。最終的な決定は神に委ねる。」  ゴードンは、赦すことによって娘の突然の死を受入れることができた。また彼の意思表明は,彼自身の問題を超える広がりを見せた。少なくとも、一時的には、彼の言葉は、殺人と報復の連鎖を崩壊させた。地元のプロテスタント武装組織のリーダーたちは、彼の勇気に敬服し、報復を行わなかった。   *☆*――*☆*――*☆*――*☆*――*☆*――*☆*――*☆*――*☆*   自分の娘を殺害された・・・・・。経験した者でなければ、それがどんな悲しみであるのか、その悲しみの深さを知ることができない。にもかかわらず、殺害されて数時間しか経っていない中で、そのことを受け止めている。これを読んだ時、この決断の中に主がおらる。そのように感じさせられた。御手を持って強めてくださっているのでなければ、どうして耐え得ることができましょう。 深い悲しみと、絶望の中に置かれるとき、胸が引き裂かれるような・・自分の内側にあるものすべてが崩れ去っていくようにさえ感じる。同じ所に立たされたこともないのに、そんなことが言えるのかと、お叱りを受けるかもしれないけど、 私自身、主人の病を知ったときもそうだったが、主人が移植のために無菌室に入っている最中に、母の危篤、死、という中に置かれたとき、なぜだか分からないけど、心は静まり、人知を超えた神の平安・・という言葉を体験した。ゴードンが、娘を亡くして数時間しか経っていないのに、リポーターに対して敵意も憎むこともしない、理由は聞かないで欲しい・・なぜだか分からない・・と答えているが、なぜだか分からないが・・という言葉、少し分かるような気がした。普通なら半狂乱になっていてもおかしくない・・泣き叫んで答えることもできないでいても不思議ではない。「主はその舌に答えを下さる」という御言葉があるが、彼があのような状況の中で、赦しを伝えることができたのは、内におられるお方が語らせてくださったのではないかと思うのです。そして、もうひとつ。 私たちは突然のように困難に巻き込まれたかのように思うのですが、このことを大いなるご計画を持って許されている主は、ことが起こるその前に、「わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。」主の祈りの中に、置かれている、そう感じるのです。なぜこのようなことが起こることを許されるのか、私にも分かりません。しかし、その真っ只中、主の臨在が深い平安と共にあり、その中でどうのように受け止めるべきか、その舌に答えをくださる方。 「彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない」方が内側から人知を超えた神の平安をもって、支えられる。彼は赦す事によって、娘の死を受入れることができた。とあった。突然の死を受入れる、どう受け止めたらいいか分からない苦しみに対して、向かうべき光の方向を示されたように思った。 私の友人のご主人が3年ほど前、突然自殺した。彼女は、受け止めることができない苦しみがあることを話してくれた。なぜ?という思いもそうだが、死にたいと思うほど辛いことをかかえておきながら、なぜひと言も言ってくれなかったのか。私はいったい何だったのだろうか・・・勝手に逝ってしまった、そのことに対する憎しみ、多くを解決できない思い。親戚からも悪く言われ、ぶつけることができない悲しみを、ただ聞いてあげることしかできなかった。「私は一生こんな思いを抱えたまま生きていかなきゃならないのか・・・」そうつぶやいた彼女の言葉が、今も心に残っている。  ただ赦すことが、真の癒しにつながっている、それは難しく見え、困難なことかもしれない。しかし、「人にはできないことが、神にはできるのです」ルカ18:27この御言葉が、光である。光に向かって、踏み出す道、それが赦しである。ゴードンの証はそのことを示してくれたように思った。    

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