2008/10/06(月)23:31
御言葉の原著者に向かう
「北インドに居た時、わたしはある友人の家で宗教書を読んでいたが、よくわからない点が幾つかあった。神学博士、哲学博士の肩書きを持つ友人がそれに説明を加えてくれたが、その説明は満足のゆくもののように思えた。ところが、後年、わたしは本の原著者本人と出会う機会があり、同じ箇所でまったく違う説明を受けたのであった。これと同じで、学者は聖書を曲解していることが多い。本当の意味を知ろうとすれば、われわれは原著者に向かわなくてはならない。つまり、聖霊と共に生きなくてはならないのである。 聖霊が聖書の真の原著者なのだが、ヘブライ語やギリシャ語で書かれた聖書の一字一句が霊感を受けているという意味ではない。自分の衣服が自分自身ではないように、言葉そのものは人間界の言語に過ぎないのである。霊感を受けているのは言葉ではなく、「内的意味」である。聖書記者の使う言語は、日常生活で使うのと同じ言語であるから、霊的事柄を伝えるには最適なものではない。字面から真の意味を把握することが難しいのはこのためだが、原著者つまり聖霊と交わっている人々にとっては、すべてが明らかになる。「わが言葉は霊である。生命である」とキリストは言われたが、ここで言われているのは文字のことではなく、意味のことである。人に語りかける時、聖霊は人間界の言葉で語ったりはしない。あの心の言語、わたしがエクスタシーのときにきく、霊界の直接的な声なき声で語るのである。 わたしがエクスタシーに入り、諸天使、諸聖人に話しかけるとき、使う言葉はこの世のものではなく、霊界の無言の言語である。それはごく自然に出てくる。唇を動かし言葉を発する前から意味が表に出ている。この同じ言葉が聖書記者たちに真理を伝達したのだ。彼らは、その後で、自分たちに啓示されたことを言葉に移し変えようと試みた。真実適切な言葉が見つからないことも多かっただろう。だが、彼らが伝えようとした意味は吹き込まれた。本来は言葉にならないものをこうして言葉に表現することの難しさを,彼らは痛感したに違いない。こうして、最善を尽くして書き終えたとき、彼らはこう思ったはずである。「ともかく、何も無いよりはあったほうがいい。福音は伝えなければならない」と。 サンダー・シングは、魂が、生命の糧と呼ばれる聖書の言葉をどう消化するかについて面白いたとえを出している。 「人は食物を食べると、その中の栄養価の高い所だけを吸収して、いらない部分は汚物にして排泄してしまう。霊魂も、自分に有益なところは自然に消化吸収し、残りは素通りする。」また自分の回心時に聖書が果たしてくれた役割については、こう述べる。これは1920年、ロンドン聖書協会年次総会の席上で述べられたものである。「あの頃わたしは、聖書を読むときに、神の御言葉の力を感じるときがありました。もちろん、それを嫌ったときのほうが多く、わたしは聖書を批判しては裂き、火にくべていたものです。しかし、そのときでさえ、わたしは聖書の驚くべき力を感じ取っていたと告白しなければなりません。それは、さわやかな涼風のようでもありました。もっとも、このようなたとえは、皆さんには合わないかもしれません。皆さんは涼風よりも火の方がお好きでしょうから。しかし、暑い国に住んでいる者にとって、冷たい風は生命の息吹きの様な清涼感を与えてくれるのです。わたしは真理の探究者として、当初はヒンドゥー教その他目に付くあらゆるものから、平和と喜びを得たい、満ち足りたいと思っていました。しかし、ヒンドゥーの聖典も、その他の宗教の良書も、私を満たすことはありませんでした。聖書を読んでいたときには、それがさわやかなそよ風、生命の息吹きのように感じられました。聖書を破りながらも、その力を感じたのです。 神の言葉の力を感じ取っていた人は他にも多くいて、「聖書なぞ、読んではならない」と彼らは口々に言ったものです。理由を聞くと、こんな答えが返ってきました。「それは魔力を持っているからだ。おまえはクリスチャンになってしまうぞ、聖書を読み始めた多くの者がクリスチャンになっている。だから、読まないほうがいい」と。キリスト教を敵視するこのような未信者の中にも、聖書には力があることを感じている人々がいたのです。この頃、私は神の言葉の驚くべき力と引力を感じ始めていました。わたしは救い主を知りました。神の言葉を通して、自分の救い主に導かれたのであります。聖書を通して、わたしはイエス・キリストを知りました。そして、幻の中に主ご自身が姿を現されたときに、私は回心し、地上における天を知ったのであります。」