イエスの喜びと満足のために☆

2008/10/08(水)17:42

死への備え~第二の幼児期

                そこで死に対して私たち自身を準備する最初の課題は、神の子としての自由を表明し、そうすることによって、死がどんな力をも私たちの上にもたらさないようにすることです。子供と言う言葉は、いろいろな問題を秘めています。その言葉は、小ささ、弱さ、無知、そして未熟さを含んでいます。しかし、私が第二の幼児期に成長しなければならないというとき、決して第二の未熟さを意味するのではありません。反対に、神の子として神の国を相続する選ばれた者としての成熟を意味するのです。神の子であるということは、小さく、弱く、無知であることを決して意味していません。事実、神の子としての選びは、私たちの周囲で世界が崩れ去っていく中でも、神の前に頭をもたげて歩き続けさせてくれるのです。神の子として、相続人として自信を持って死の門を通って歩くことができるのです。パウロはふたたび大声でこのことを叫んでいます。  「神の霊によって導かれる者は皆、神の子供なのです。あなたがたは人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によって私たちは「アッバ、父よ」と呼ぶのです。この霊こそは、私たちが神の子供であることを、私たちの霊と一緒になって証してくださいます。もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかも、キリストの共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。」    ローマ8:14~17  これは小さくて臆病な子供の声ではありません。それは霊的に成熟した人、すなわち、神の存在の前で神に完全に依存し、その力、勇気を得て真の内的自由の秘密を知っている人の声なのです。 最近双子が母親の胎内で話し合っている話について友達から聞きました。 妹は兄に言いました。「私はね生まれてからも命があるって信じているわ。」兄は激しく反論しました。「いや、いのちは絶対にここだけしかないよ。ここは暗くて気持ちがいい場所だろう?僕たちに食べ物をくれるへその緒にしがみつくことしかできないんだ。」小さな女の子は言い張りました。「この暗い所のほかに、何かあるに違いないわ。自由に動ける光がいっぱいのところがあるはずよ。」しかし、双子の兄を説得することができませんでした。 しばらく沈黙の後、妹は躊躇して言いました。「ほかに言いたいことがあるけれど、きっと兄さんは信じてくれないでしょうね、でもお母さんが絶対に違いないと思うの。」兄はもっと怒っていいました。「お母さん?!何を言っているんだよ。お前も僕もお母さんを見たことがないじゃないか。誰がそんな考えを頭に入れたんだ?前にも言ったように、ここの場所しかないんだよ。どうしてもっと他の場所が欲しいの?ここはそんなに悪い所じゃないよ。必要なものは何でもあるから、これで満足しよう。」 妹は兄の答えにすっかり圧倒され、しばらくの間それ以上何もいえませんでした。しかし、自分の考えを捨てることができず、双子の兄しか話す人がいなかったので、ついにまたしゃべりだしました。「時々、ぎゅっと締め付けられるような感じがあるでしょう。あまりいい気持ちではないし、時には痛いこともあるけど。」「そうだね、でもそれがどうだって言うの」と彼は答えました。「この締め付けられるような感じは、他の場所で、今よりもっと美しい所へ私たちが出て行く用意をしてくれていて、そこでお母さんを直接見ることができると思うの。ワクワクするじゃないの」 兄は何も答えませんでした。妹のばかばかしい話に辟易して、彼女を無視すればもう何もいわなくなるだろうと思っていました。 この話は、新しい視点から死について考えるのを助けてくれるかもしれません。私たちはこの人生がすべてであり、死は不合理で、それについて話さないほうがいいという生き方もできるでしょう。あるいは、私たちの聖なる幼児期を認め、死というものは私たちが神と顔と顔をあわせて見るために通らなければならない痛みが伴うが、祝福の道だと信じる生き方もあります。 

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