イエスの喜びと満足のために☆

2008/10/08(水)23:36

死を通して実を結ぶ

ヘンリーナーウェン(53)

            私の義妹マリナは、まだ48歳です。今、死に瀕しています。5年前、癌であることを医者から宣告されました。そのとき以来、彼女の生涯はこの病と闘う痛みに満ちた時期に入り、それは医学的治療の多くの試みを耐え抜く期間でもありました。3回の大きな手術と放射線治療によって医学の専門家たちは彼女の癌を取り去り、命を伸ばそうと努力しました。私の弟パウロは妻にあらゆる治療を提供し、癌という敵を打ち負かす希望を持たせようとしました。しかし、ついに彼も他の人と同じようにこの闘いは無駄だということを悟りました。これを書いている間も、マリナは着々と自分で死の準備をしています。 最後の数年の間、私は彼女の病気について、また死についてさえも話をする機会をしばしば与えられました。マリナは意志が強く、感情に左右されない女性でした。現実を直視し、見え見えのうそで彼女を慰め、あるいは力づけようとする人は相手にしませんでした。癌と戦うのを助けた看護士や医者に心から協力しながらも、どんな決断も自分が完全に承諾しないと気がすみませんでした。その上、自分の信仰にそぐわない霊的助けは受入れません。たびたび私の霊的な視点を批判し、いのちと死について~自分の死と同時に他人の死について~確固たる意見を持っています。 年が経つにつれてマリナの病状は悪化し、絵や詩をとおしてますます深く自分を表現するようになりました。これらの活動は単に趣味で始まったものの、今では徐々に彼女の一番大切な活動となってきています。肉体が弱くなればなるほど、彼女の芸術的表現はより強く、より直接的で単純化されるようになってきました。特に彼女の詩は、死と親しもうとする葛藤から生まれた実りとなってきました。 マリナは今まで活動的で生産的な生涯を送ってきました。語学校の先生や管理者としてのキャリアを積み、創造的な新しい教育法を紹介してきました。しかし、病気によって残酷にもこの活動はすべて断たれ、彼女が最も愛していた世界を手放さざるをえませんでした。病気に冒されてから、今まで多くの教育活動のかわりに芸術活動を取り上げ、彼女にとって命の新しい源泉となっています。彼女と一緒にいるとき、彼女は自分の書いた詩を暗誦し、その批判を私に頼むのです。その詩の多くは、茶目っ気たっぷりでユーモアに富んだひとひねりある作品ですが、その詩も、彼女がこれから迎えるであろう別れのときを悟り、そして日に日にすべてを手放さなければならないと気づいている証になっています。 マリナが自分の死の準備をしているのを見てだんだんにわかってきたことは、自分の死を他人にとっての贈り物にしようとしていることでした。私の弟パウロのためだけではなく、彼女の家族、友人、看護婦、医師、そして、自分の詩を分かち合った多くの人のための贈り物として、一生を教えることに捧げてきた彼女は、今死を迎える準備をとおして教え続けています。彼女の成功や業績はすぐ忘れ去られるかもしれませんが、彼女の死の実りは長く生き続けるだろうと、私は今深い感銘を受けています。マリナは子供がなく、いつも社会に対して特別な貢献が何であろうかを思索し続けていました。母親としての喜びは味わえなかったものの、死に向かうその生き様を通して、多くの人の親となっていました。最後の5年間は彼女の一生の中で最も実り多い年だったことは明らかです。まったく新しい方法で、他人のために死ぬということはどういうことなのかを私に示してくれました。それは来るべき世代の親になるということです。   イエスの言葉の中で、イエスご自身の死についてもっとも語られた言葉ほど私が個人的に影響を受けたものはありません。イエスは自分の死についてもっとも親しい友に単刀直入に話しています。その死が悲しみや苦痛を伴うものだと認めながらも、それは祝福と希望と約束をもたらす素晴らしいものだと告げました。死ぬ少し前に彼は言いました。「今わたしは、わたしをお遣わしになった方のもとに行こうとしているが、あなたがたはだれも「どこへ行くのか」と尋ねない。むしろ、私がこれらのことを話したので、あなたがたのこころは悲しみで満たされている。しかし、実を言うと、わたしが去っていくことは、あなたがたのためになる。私が去っていかなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。私が行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。・・・・言っておきたい事は、まだたくさんあるが、今、あなた方には理解できない。しかし、その方、すなわち真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなた方に告げるからである。」ヨハネ16:4~7,13) この言葉は何か不思議な、聞きなれないもので、いのちと死との日々の葛藤とはあまり関係ないとさえ思われるかもしれません。しかし、マリナが死に直面しているほかの友人と話した後では、イエスの言葉は新しい方法と表現でこの人たちが経験している現実の最も深い意義を表現してくれていることにが私にはよくわかります。私たちは、とかくイエスが自分の死を友人や自分自身のために準備したその方法は特別であり、人間の「正常」な道から外れていると思いがちです。しかし、実際にイエスは死への準備は私たちに希望に満ちた模範を提供してくれます。私たちもイエスと同じように友人に言えるでしょう「私が行くのは、あなたがたのためになる。私が去っていけば、あなた方に弁護者を送る。弁護者はあなた方に多くのことを告げるからである。」マリナは自分の書いた詩や絵を通して、彼女の死を悼む人々に新しい命が与えられるということを言いたかったのではないでしょうか。「霊を送る」という表現は、愛するものを一人にしておくのではなく、新しい絆、今までの生涯で結ばれた絆よりももっと深いものをその人々に提供しているということを一層よく伝えているのではないでしょうか。「人々のために死ぬ」ということは、死ぬことによって他人が私たちの愛の霊によって強められ、生き続けられるのだということを意味しているのではないでしょうか。 ある人は反論するかもしれません。「父のひとり子イエスは確かに私たちに聖霊を送ってくれました。・・・・でも私たちはイエスではないのですよ、人に送る聖霊をもっていないではありませんか!」しかしイエスの言葉をよく聞いていると、私たちはイエスのように生き、イエスのように死に、イエスのように復活するのだということを悟ります。なぜなら、その霊、父とイエスとをひとつにする聖なる愛は私たちにも与えられたのですから。イエスの死だけでなく、私たちの死も他人にとって益となるように定められています。イエスの死だけでなく、私たちの死も人々の人生に多くの実を結ぶはずです。イエスの死だけでなく、私たちの死も私たちの後に残す人々に神の霊をもたらすもです。偉大な神秘は、神の霊と共に、またその中で生きてきた人々はみんな自分たちの死によって神の霊を送るという御業に与るということです。このようにして、神の愛の霊は私たちに向かって送り続けられr、イエスの死は、彼のように死ぬ~つまり他の人のために死ぬ~すべての人を通して実を結び続けるのです。このようにして死ぬということは永遠の実りへの道となるのです。この真実の中に、死の最大の希望が満ちているのです。私たちの死は、私たちの成功、業績、名誉、人々の間の影響力の終わりになるかもしれませんが、わたしたちの実りの終りではありません。実際にその反対が真実なのです。私たちの人生の実りは、私たちが死んだ後に初めてその完成を見るのです、私たち自身は、自分の実りというものを見ることも経験することもほとんどありません。私たちはたびたび、自分の業績に気を取られ、生き方そのものの実りに目を向けません。しかし、人生の美しさは、人生が終わったずっと後に結ばれるということにあります。イエスは言いました。 「よくよくあなたたちに言います。一粒の麦は地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」(ヨハネ12;24) これがイエスの死および、神の霊によって生かされたすべての人々の死の神秘なのです。その生涯は短く、しばしば限られた地域にしか生活しなかったとしても、彼らの命はその限度をはるかに超えて実りを結ぶのです。わたしの母は死後何年経っても、私に人生に多くの実を結び続けています。彼女がなくなって以来、私は重大な決定の多くは、母が私に送り続けているイエスの霊によって導かれていると私は深く実感しています。

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