2008/10/10(金)22:07
交わりにおいても無力さの中にとどまる
「人を変えたり、その行ないに影響を与えたり、新しいことをさせたり、新しい考えをもたせるような方法や技術を山ほど持っている時、お互いがそこに一緒にいるという、簡単そうに見えて実はたいへんな賜物を失う場合が多いのです。自分がそこにいる以上、何か役に立たなければと信じ込んだばかりに、この賜物を失う羽目になるのです。 私たちはよく言います。「なぜこの人を訪ねなければならないのか。わたしは何もしてあげられないのに、何一つ話もできないのに。それで、わたしが何の役に立つの」と。ところが、わたしたちが慰めや安らぎを感じるのは、往々にしてお互いにとって「役に立たず」控え目で、つつしましくそこにいることなのだということを忘れています。 ただ誰かのそばにいるということは難しいことです。というのは、それは他者の弱みを分かち、その人の弱点や無力さから生ずる体験に与り、その頼りなさを自分のものとし、自分で支配したり、決定することを放棄するように求めるからです。それにもかかわらず、共にいることを体験するたびに新しい力と新しい希望が生まれてくるのです。 ☆彡*ー*ー*★彡*ー*ー*☆彡*ー*ー*★彡*ー* このメッセージは、とても衝撃ではないだろうか。人を変えたり、影響を与えたり、新しい方法や考えを持たせるために、あらゆる方法、技術を用いて・・・自分がそこにいる以上何か役に立たなければと信じ込んでいる・・。 まるで痛いところを突かれたような言葉だと思わないだろうか。 これをお読みくださった皆様は、この言葉の意味をどのように捉えたでしょうか。 私自身、このような考えの中につい最近までいました。ある方との交わりの中で、とても教えられたことをお分かちできればと思います。その方は心を病んでおられました。初めてその方との交わりの中で、自分が感じていたことは、「自分がいることで、何かお役に立てれば・・。」と感じていたことも本当のことです。しかし、その方にお役に立ちたいと、思えば思うほど、何か重い気持ちになっていくことを感じていました。 何か役に立てば、とか、相手に影響を与えようとか、そのような思いを手放すようにと、主はその方との出会いを通して示してくださったように感じました。もう自分が何か役に立てればとか、自分が用いられて相手が変わるきっかけになればとか、それらすべての思いを主の御前に捨て去り、すべてを主に委ね、ただ、主が共におられるように共にいること、そして、交わりの中におられる主にのみ、目を注ぐことだけを求めました。 それ以来、その方との交わりが全く変わったことに驚きを感じました。相手の方がどうということではなく、私自身の内側が変えられたのです。それだけではないのです。その方との交わりを通して、私自身が大いに励まされ、祝福されたのです。何気ない交わりの中で、言葉を越えたいのちが流れてきて、とても麗しい気持ちにさえなっていました。ただ共にいて交わっていることが嬉しくて、思わず手を握り締めたくなる気持ちで、「ありがとう」と伝えることが精一杯でした。何かお役に立てばという考えは、何か謙遜に聞こえますが、中心に主ではなく、自分がいることに、ふと気がついたのです。そして、何より、その人よりも自分を高く置いていることに気づかされました。高く置いていれば、流れてくるものも流れては来ないのは当然ですね。なにか人を変えたり、影響を及ぼそうとしたり、何か新しいこと、方法など、あの手この手を使って人を説得しようと試みたりすることによって、失うものがある。その損失はなんて大きなものだったのでしょう。それはあの御言葉、「自分を救おうと思うものはそれを失い・・」の意味をあらためてかみ締めました。自分で支配したり、決定したり(これは何か自分は持っていると思っている人にとって大きな誘惑になります)・・することを放棄することによって、新しい力、新しい希望を得る、これは手放さなければ決して味わうことがない祝福です。「貧しい者は幸いです。」と主は言われましたが、何も与えるものがない、この貧しさの中にある、これは本当に幸いです。「わたしたちが慰めや安らぎを感じるのは、往々にしてお互いにとって役に立たず、控え目でつつしましく、そこにいることなのだということを忘れていると」 無力さの中にとどまるとき、十字架と復活が交わりをも真に祝されたものとしてくださるのです。 ますます手放し、ますます放棄するたびに、無力さの中に秘められている恵みを発見するのです! ハレルヤ!