イエスの喜びと満足のために☆

2008/12/03(水)18:36

あの方は盛んになりわたしは・・

T. オースチン-スパークス(10)

         生命体は、それ自身を目的としているわけではありませんし、自分自身のために存在しているのでもありません。それはもっと大きな目的のための手段です--もっと大きな目的のための経路です--生命体の目的は、命によって自分自身を再生産することです。この再生産にはつねに犠牲が伴います。つねに代価が必要です。それはつねに、その器が何らかの方法で自分を放棄することによります。つまり、死が増し加わりへの道なのです。再生産には犠牲が伴います。これは私たちを聖書のあの御言葉に導きます。主は、ご自分の者たちとの将来の関係に関する一切のこと、そして彼がこの世に来られた結果を、その御言葉の中に集約されました。「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それは一粒のままです。しかし死ぬなら、多くの実を結びます。自分の命を愛する者はそれを失い、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至ります」(ヨハネ12:24)  もし命が繁殖しないなら、それはいかなる目的も帯びないままです。自分自身が目的となってしまいますが、神の定めではいかなる生命体もそうなるべきではありません。増し加わりという結果を迎えるために、生命体は自分を放棄することによって自分の命を救います。増し加わりの法則は犠牲です--「一粒の麦が地に落ちて死ななければ......」。他のまさった目的のために、個人的なものにすぎないものをすべて放棄しなければ、繁殖、増し加わり、再生産はありません。  これは次に、私たちをいくつかの点に導きます。第一は、内なる命である復活したキリストの意義と真価です。  復活したキリストは内なる表現、内なる経験のための実際でなければならないことが示されています。主の復活の命が私たちの内になければなりません。キリストは彼の命によって、そして彼の命の霊によって、私たちの内に宿らなければなりません。復活したキリストの内なる意義と真価は、彼が内住している者たちの中で彼の命が再生産されることです。それは、彼の復活の命の力により彼を内に住まわせているすべての者たちが、命によるキリストの表現となるためです--命の力により彼を現すためです。これは私たちの内でキリストが再生産されることです。  私たちの内における再生産の法則は、私たち自身は死ななければならない--死の立場を受け入れなければならない、ということです。それは、個人的生活や個人的利益をすべて完全に取り除かれ、捨て去り、それと手を切って、キリストがすべてとなるためです。これが、「私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私の内に生きておられるのです」とパウロが言ったとき、意味していたことです。キリストのものではない命がすべて十字架に渡されて死んだがゆえに、キリストの表現が生み出されます。キリストのものではない命は主イエスの墓の中に落ち、主イエスの墓から彼の表現が出てきます。  死によるキリストとの合一により、私たちは停止し、彼が始まります。そしてこの最初の時から、彼がすべてとなられます。これは基本的なことであるだけでなく、漸進的なことでもあります。これはその意味と意図においてすべてを包括していますが、漸進的でもあります。私たちは行いによって、これを完全に受け入れなければなりません。私たちは、きわめてはっきりと意識的に、この立場を取らなければなりません。それは今、死によるキリストとの合一を受け入れることにより、私たちがもはやまったく地位を占めなくなるためであり、また、自分が現れる時はいつでも、打たれ、脇にやられ、先に進むことを許されなくなるためです。  私たちは断固たる明け渡しの行為により、今から後、自己から出たものはすべてあの十字架によって容赦なく打たれるようになること、また、自己が入り込む時はいつでも、自己が立場を得ることは許されなくなることを、きっぱりと受け入れなければなりません。私たちはこれにきっぱりとかたをつけて、あの包括的であり総括的である完全な土台の上で主と交渉した方がいいでしょう。それは、彼がその真の意味を実際のものとされるためです。問題は、それに関する私たちの認識や把握や理解--「これはあってはならない『私』である」と自分で思うもの--ではなく、「私」であることを主がご存じのものです。問題は、自分に関する自分の知識の量ではなく、私たちに関する主の知識です。自分で考え、想像していた以上に、「私」であるものをおびただしく示されるでしょう。ですから、私たちの知識にしたがってではなく、彼の徹底的な知識にしたがって、自己はあの十字架の力の下にもたらされなければなりません。これを私たちは行いによって受け入れます。  次に、これは漸進的なことになります。自己を否ませる彼の死が毎日働くようになるために日毎に死ぬこと、つねに主イエスの死をこの身に負うことは、私たちが最初にそれを受け入れた結果です。しかし、このこと--十字架へのあの犠牲的明け渡し--が起きるとき、キリストの命が再生産されることになります。彼ご自身の命の力により、私たちが減少している間、彼が増し加わりつつあります。自分を脇にやるよう要求される時はいつでも、その要求を満たしてそれに応じるなら、キリストが増し加わる機会となります。彼の死の意味の新たな領域を受け入れるよう私たちに要求するものはすべて、私たちがそれを受け入れるなら、復活の命により彼の度量を増し加えるものとなります。  ですから、内なる命である復活したキリストの意義と真価は再生産であり、他の道はありません。この道以外に、クリスチャンたちを新約聖書にかなうものとする道はありません。主の民の数が増すことは、外側から何かを付け足すことによるのではありません。十字架に来て死ぬことによります。これが唯一の道です。「自分はキリストと共に死んで、彼と共によみがえらされた」という土台以外の上では、いかなるクリスチャンもありえません。

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