イエスの喜びと満足のために☆

2008/12/05(金)06:53

第4章 火の炎・・その2

ジェシー・ペン-ルイス(29)

神はモーセを取り扱われました。そしてついに、神の目的が達成される時がやって来ました。神の器と民の用意が整いました。  青年時代のモーセを知っていたエジプトの王が死にました。イスラエルの民は束縛の下でうめいていました。「神は彼らの嘆きを聞かれ、アブラハム・イサク・ヤコブとの契約を思い起こされた」(出エジプト記2:24)。神が忘れることはありません。しかし、神が働くのに必要な条件が整わなければならないのです。  神聖な力が現されるには人の協力が必要です。有限な被造物にとって、この奥義は常に不思議です。それはおもに、私たちの意志の自由と関わりがあります。もし私たちが束縛からの解放を望まないなら、神は私たちを解放することができません。そのため神は、何らかの形で私たちに圧迫が臨むことを、容認しなくてはなりません。それによって、私たちは御業を求めて神に嘆願するようになります。神には御業をなす用意があり、いつでも御業をなすことができます。  神がイスラエルを解放する前に、彼らは解放を求めてうめく必要がありました。神は、彼らの縄目と苦難が重くなるのを容認することによって、彼らをその状態にもたらされました。ついに、彼らはうめいて神に叫び求めました。神は彼らを救うことをひたすら待っておられました。神の器の用意は整いました。解放者の準備は済みました。しかし、イスラエルはそのことを少しも知りませんでした!彼らは苦悩と悲しみの中にあって、神と人から見捨てられたかのようでした。  今日も同じではないでしょうか?私たちの神は同じ神です。神はゆっくりと静かに、イスラエルを解放する計画を遂行されました。私たちは、私たちに啓示された神の働きの美しさに驚きます。昔と同じように神は今、彼によって召し出された者たちを天に登録されている長子たちの教会に移す計画を遂行されつつあります。  もし、私たちがいと高き方の秘密の場所に住み、彼と共に「頂上から」眺めるなら、私たちは彼の御計画の中に立ち、主の現れを示す時のしるしを見分けることができるでしょう。  イスラエルの準備は整いました。そこで神は、ご自分の計画を完成する機が熟したことを、モーセに告げることができました。モーセを取り扱う神の方法は実に意義深いです。神がモーセに会われたのは、羊を山の牧場に連れて行くいつもの仕事の途上においてでした。もし神に用いられることを願うのなら、日常生活の中で「なすべきことをなす」ことこそ、奉仕のための最善の訓練であることを確信しなければなりません。そうするなら、神が私たちを用いる用意ができた時、私たちも神の召しに応じる用意ができているでしょう。  神は、ごくふつうの小さな柴の中で燃える火の炎によって、モーセの注意を引き付けられました。不思議なことに、柴は火で燃えていたのに燃え尽きませんでした。  モーセは言いました。「なぜ柴が燃えていかないのか、あちらへ行ってこの大いなる光景を見ることにしよう」(出エジプト記3:3)。燃える柴は人の手がたきつけているのでも、燃料が燃やしているのでもありませんでした。それは、神がモーセと共に何をなすことが出来るのかを彼に示す絵図であり、神の恵みを彼の民に永遠に示す絵図でもありました。神は、ご自分をホレブ山の小さな茨やぶのように低く空しくして、人の中に住まうことを喜ばれます。  神はその柴の中からモーセに語られました。それと同じように、神は私たちの多くにも語られました。神は名指しで人を召されます。なぜなら、神の語りかけは常に個人的で直接的だからです。ですから、私たちは他の誰かから「あなたがその人です」と教えてもらう必要はありません。神が語られる時、私たちは自分の隣人を忘れて、彼が誰のことを言っておられるのかを知ります。  しかし、モーセは神とまみえることの厳粛さを知る必要があります!それはまだ「顔と顔を合わせて」ではありませんでしたが、神とまみえることはとても厳粛な事です。「モーセよ、あなたの立っている場所は、聖なる地である」。聖なる地!その場所は、つい先ほどまでは俗な地にすぎませんでした。ところが、栄光の主の聖なる臨在によって、そこは聖なる地になりました。  「もし、だれかが神の神殿をこわすなら、神がその人を滅ぼされます。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたがその神殿です。」(1コリント3:17)。おお、私たちはなんと深く、このことを心にとめる必要があることでしょう!私たちは「あれやこれは有害だろうか?」と問うかわりに、「それは神の神殿にふさわしいだろうか?」と問うべきです。もし、神が柴の中に宿られたように、私たちの中にも宿っておられるのなら、彼の聖なる臨在は俗な事柄さえも天の栄光で輝かせるに違いありません。  「私は、あなたの父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」(出エジプト記3:6)。それはアブラハムが知っていた神でした(アブラハムは、神が語られた時、顔をふせました)。それはイサクやヤコブが知っていた神でした。「私は.........神である」。「モーセは神を仰ぎ見ることを恐れて、顔を隠した」。その時はまだ、「顔と顔を合わせた」交友の時ではありませんでした!  「主は仰せられた。『私は、エジプトにいるわたしの民の悩みを確かに見、追い使う者の前の彼らの叫びを聞いた。私は彼らの痛みを知っている。私が下って来たのは、彼らを解放するためである。』」(出エジプト記3:7-8)。「私は神である。.........私は解放するために来た」。エホバは、偉大なる「わたしはある(I AM)」方です。なぜなら、神は永遠なる今だからです。苦しみ悩んでいる人々に対する彼の御心は、今も、彼がご自分をモーセに現された時と同じです。彼には移り変わりや、移り行く影はありません。  おお、私たちは何と神とまみえる必要があることでしょう!私たちが神とまみえるなら、神は私たちに心を開いて、この哀れな失われた世界に対する彼の愛と憐れみを私たちに示すことができます。また神は、世を救うために愛するひとり子を送られた愛を、私たちに示すことができます!いったい誰が十字架の愛の深さを伺い知ることができるでしょう?御子を死に渡された御父の愛の深さ、十字架を通して御父から分離されることに同意された御子の愛の深さ、贖われた者たちをねたむほど慕っておられる永遠の霊の愛の深さを、いったい誰が伺い知ることができるでしょう?  「今、行け。私はあなたをパロのもとに遣わそう。私の民イスラエル人をエジプトから連れ出せ」(出エジプト記3:10)。神はモーセに協力を求められたのでしょうか?「私が下って来たのは、彼らを解放するためである」(8節)。エホバはまず、「私は.........神である」と、ご自分をモーセに啓示されました。次に彼は、「私が下って来たのは、彼らを解放するためである」と、ご自分の御心を啓示されました。そして今、神は解放を実現する彼の御計画をモーセに啓示されます。神がモーセの手によって解放します!モーセが神の助けによって解放するのではありません!  神とこのようにまみえることによってのみ、私たちは神のために効果的な奉仕を始めることができます。私たちは神から直接任務を与えられなければなりません。さもないと、私たちは遣わされる前に走ってしまい、後にエホバがイスラエルの預言者たちに語られた御言葉通りになってしまうでしょう。「私はこのような預言者たちを遣わさなかったのに、彼らは走り続け、私は彼らに語らなかったのに、彼らは預言している。.........見よ。私は、自分たちの舌を使って御告げを告げる預言者たちの敵となる。」(エレミヤ23:21-31)。

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