2009/03/16(月)08:53
いのちの袋にしまわれて
この人の名はナバルといい、彼の妻の名はアビガイルといった。この女は聡明で美人であったが、夫は頑迷で行状が悪かった。彼はカレブ人であった。 ナバルは大変裕福で、たくさんの家畜を飼っていました。しかし、この富が無くなることなく満喫できていたのは、それらを守っていたダビデによるものでした。しかし、ナバルはそのことを知りもせず、羊の毛を刈り取る祝いにやってきたダビデの使者に対して、 「ダビデとは何者だ。エッサイの子とはいったい何者だ。・・」 と言い放ちます。自分の財産を守ってくれている恩人の存在を知りもせず、認めもしない、この愚かなナバルの姿は、今日の人の姿、神を神として認めようとしない愚かな人間の姿です。 この姿は私のうちにも存在します。「イエスとは、いったい何者だ。」と言うことがないにしろ、依然その生活の多くの場面でこの方を認めようとしない性質が私のうちにあることを日々見、愕然とするのです。 イエスは語りかけられます。 「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」 ・・と。 「あなたは、生ける神の御子キリストです。」 と告白した、ペテロのように、あらゆる生活のシーンの中におられる主を信仰によって認め、受入れてゆく歩みは、ナバルの妻の言葉の中に言い表されている 「あなたの神、主によって、いのちの袋にしまわれて」25:29いることを自分のこととして知るようになります。 彼女はダビデの足もとにひれ伏して言った。「ご主人さま。あの罪は私にあるのです。どうか、このはしためが、あなたにじかに申し上げることをお許しください。このはしためのことばを聞いてください。」 (Iサムエル25:24) アビガイルは夫ナバルの罪を自分の罪として「あの罪は私にあるのです」と告白しました。 イエスご自身が私の罪をご自分の罪として十字架にかかられた愛と同じ、 アビガイルのとりなしとイエスのとりなしが重なって見えてきます。 この御言葉を思い巡らしつつ、さてさて、 今日も透析に行くとします+.(´∀`*).+゚.でわでわ