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イエスの喜びと満足のために☆

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2009年08月14日
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               ☆ブログお引越しのお知らせ☆

    いつもブログをご覧いただきましてありがとうございます

     このたび Blogのお引越しをいたしました+.(´∀`*).+゚.

             

           ↓新しいブログへはこちらをクリック☆

             「十字架の恵みが溢れて」

           http://toku-sati.jugem.jp/

           お気に入りなどにご登録いただいる方は
            お手数ですが、ご変更をお願いします。

 

 こちらの旧ブログ「イエスの喜びと満足のために☆」は、神様の豊かな恵みの証としてこのまま残しておきたいと思っています。

 このブログを通して出会うことができた多くの方々との交わりは主がお与えくださった大切な贈り物。そしてたくさんの方々に祈って頂き、どれほどの励まされ、支えられたことでしょう。改めて心から感謝いたします。

 引き続き、新しいブログ「十字架の恵みが溢れて」での交わりをどうぞよろしくお願いいたします。

 







最終更新日  2009年08月14日 21時53分03秒
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2009年08月08日
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       DSCN8487.jpg

 

       かつて私は聖き生活を送ることができないと思った。

       なぜなら、自分の力で聖くなろうと努めていたから。

        しかし今は、主が私に聖きを与えてくださった。

        主ご自身、私のうちに全てをなさってくださる。

    
  かつて私は自分で親切になり、愛にあふれ、柔和であろうと努めた。

       しかし今は、主イエスが私のうちに住んでおられ、

    私をご自分の御姿に変えられようとしておられることを知った。


   かつては日々刻々、勝利の生活を送るとは夢にも思わなかった。

        しかし今は、主自らわがうちに住んでおられ、

         私の歩みを勝利に保たれることを知った。

  
  かつて私は主のうちにとどまり、主に喜ばれようと必死に努めた。 

 しかし今は、私は主ご自身、私のうちにみわざを成すままにしている。

      このようにして私は主にあり、主は私のうちにおられる。

 

                          ドイツの歌より







最終更新日  2009年08月09日 01時01分40秒
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        img20090629_t.jpg

         山谷さんのブログより

                   http://majormak.blogspot.com/

 

 先日、温泉で次のような問答をした。備忘のため、以下に書き留めておこう。

某氏「キリスト者にとって、義認がすべて、という考え方がありますね」

小生「そうですね」

某氏「そうしますと、聖潔というのは、義認に付け足す感じになりませんか」

小生「なるほど」

某氏「義認は、それだけで完全なのに、なんで付け足す必要があるのか、と」

小生「義認は、たとえて言えば、プレゼントのようなものでしょう」

某氏「プレゼントですか」

小生「箱に入ったケーキのようなものですね」

某氏「ほう」

小生「プレゼントを受け取った人は、その時点で、すべてを受け取ったのです」

某氏「なるほど」

小生「しかし、包み紙を破り、箱を開け、ケーキを食べない限り、中味をあじわうことはできません」

某氏「すると、プレゼントが義認で、その中味をあじわうことが聖潔ですか」

小生「そう考えたら、どうでしょう」

某氏「そうしますと、義認の中に聖潔が含まれているわけですね」

小生「そうですね。義認が、キリスト者の経験の中に実体化されるのが、聖潔でしょう」

さて、上記の温泉問答の後、小生は、異言を伴う聖霊のバプテスマの体験は、上記のたとえで言えば、どういうふうに位置づけられるのか、ということを、つらつら考えさせられた。

いまのところ、こう考えてみている。

すなわち、ケーキの上にのった苺が、それ、異言を伴う聖霊のバプテスマの体験である。苺がたくさんケーキの上にのっているに、しくはない。

しかし、ケーキの本質は、もとより苺の中には、ない。ケーキの本質は、本体にこそ、あるのだ。

なぜなら、もし、ケーキの本質が苺にあるとしたら、ショートケーキ以外のケーキは、もはやケーキでなくなってしまうからである。

問題は、われらの主は、あるキリスト者にショートケーキをプレゼントなさり、あるキリスト者にはチョコレートケーキをプレゼントなさるらしい、ということである。

さらにこの問題をややこしくしているのは、あるキリスト者は、他のキリスト者を見て「あなたが主からもらったのは、チョコレートケーキですね。それはケーキとして二流です。あなたが主から愛されていない証拠です」と暗示するようなことを、言ったりするためである。

もっとこの問題をややこしくしているのは、あるキリスト者は、他のキリスト者を見て「あなたが主からもらったのは、ショートケーキですね。それはケーキとしては邪道です。あなたが主から見放されている証拠です」と暗示するようなことを、言ったりするためである。

しかし、注意しよう。主の愛が、分割されたり、分配されたり、加減されたり、ということは、ない。

主は、この人に、ご自分の愛のすべてを、あますところなく注ぎ出していたもう。さらに主は、あの人に、ご自分の愛のすべてを、あますところなく注ぎ出していたもう。主の愛は、その意味で、単一である。

しかも、この単一の愛は、単調な愛ではなく、各人に各様に表現される、多彩なものなのだ。

苺の数を誇る(聖霊派)とか、苺がないのを誇る(根本主義)とか、プレゼントに添えられたカードの文法解析にレキシコンと首っ引きで没頭する(福音派)とか、まあ、いろいろな義認の受け取り方があるかもしれないが、重要なことは、わたしが、主から義認を受け取り、その中味であるキリストご自身を味わって食べ、主を喜び楽しむことであろう。

            20050102l.jpg







最終更新日  2009年08月08日 10時19分36秒
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2009年08月07日
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     PHOT0000000000036146_500_0.jpg

 

  今日は透析は夜間に。今日は体調がいい♪これも主の備え☆

 これから息子の進学先2校目の教育相談。電車を乗り継ぎ、ちと遠いぞ;;

 中学の担任の先生同行ということなので、さて、どのような内容になるでしょうか

 受験すべき所へ導いてくださいと祈りつつ、息子にはすでに主の最善が備えられていると信じることができるのは、本当に感謝。

 2学期に向けても、私と息子で二人三脚の勉強の取っ組い?をしつつ

 ウ~~ン、このない頭をひねるのも大変だ・・笑

 進路も、ただ主に聞きながら、主が導いてくださる方向へと踏み出して歩んでいく中で、主がしてくださることに信頼すること。

  主により頼んでいくことができる幸い、そして、主ご自身を味わう恵みをわくわくしながら待ち望む♪ 今日も主の恵みは十分です。

 

 

 お祈りのお願い

 愛するイチゴ姉妹。体調を崩し、寝込んでおられます。重なるようにしていろいろな試練の中におられますので、どうぞ覚えてお祈りください

 

 







最終更新日  2009年08月07日 09時17分40秒
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2009年08月05日
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            DSCN7859.jpg

 

      ジェットコースターのように日々の体調が変わる毎日に

 生きていくって本当に大変だなぁ・・と実感している今日この頃

 横になっていても抜け出すことができないだるさと、時折気持ちが悪くなる

 気分を紛らわすのためにPCに向かいつつも、肉にあって

 弱まっていく自分自身を客観的に見ている

 何も考えられず、ただ無力さの中に

 何が正しいとか、何がいけないとか、何がよいことか、そんなこと、もう

 どうでもよくなる

 キリストとともに、

 「キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっている」

  という御言葉の事実に座り、いのちだけを待ち望む

  私を生かすいのち、これだけで本当に十分

 この方の中に、安心し

 もたれかかって、いつの間にか眠りにつくのです

 

 

 

  







最終更新日  2009年08月06日 00時26分44秒
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2009年08月04日
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    PHOT000000000002F1E0_500_0.jpg

 

  梅雨がようやく明け、太陽の日差しが眩しい。朝から気温が上昇し

  手を伸ばして洗濯物を竿にかけるだけでくらくら(=∀=;)

  透析が終わったあとは、けだるさ、思考力も低下して、本当にぼぉ~となるのだが、そこに夏の暑さ。

 ひと夏を越えることが、本当によっこらしょ・・・という感じ。休み休みの家事をしながらカタツムリのような生活をしています。

 

 弱さの中に置かれるという事が、神の深いご計画の中にある

 弱さの中に、神はいのちの食物を備えていてくださる

 ただ単純に手を伸ばし、その恵みの食卓に与る。真の食べ物は、主そのもの。

 健康であったときには、見えていなかった恵みの世界が

 足を踏み入れるほどに開かれてくる。

 十字架を背負ってついてゆくということが

 いかに人の知恵によってはその歩みは理解することができず、そのコツさえも全く閉ざされているということ

 ただ主ご自身が、はじめて歩きはじめようとする幼子の手をとって、

 「ほら、こうするのだよ」と

 御霊によって直接教えてくださるまでは、本当になにもわからない。そんな感じなのです。

 それでも、まだまだその歩みはよちよちで、何度も立ち止まったり、転んだりしながら、

 それでも手をとって共に歩んでくださる主に導かれながら、なのです。

 でもね、歩き始めた子供が、いろんなことに興味を抱き、転ぼうと、よろめこうと構わないほどに、歩み始めて開かれ、広がる恵みの世界が実に楽しいのです。

 

 十字架を背負ってついてゆく、その歩みのコツを主から学んだ人は幸いです。

 

      「  弱さの中に、いのちの木が植えられている

           その只中で、豊かな実に与る

               その芳醇な果実は

           死を通して結ばれたいのちの実

             その甘さは癒しをもたらし

          その実を食べる者は生きるからである。 」

   

 

 

  「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。

  

               第二コリント12:9

  

   







最終更新日  2009年08月04日 22時17分41秒
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              DSCN8341.jpg

         「わたしは、あなたの住んでいる所を知っている。

                        そこにはサタンの王座がある。]

                                               黙示録2:13

      わたしは、あなたの住んでる所を知っている。そこにはサタンの王座がある。聖書でエジプトと言えば、これはこの世を表わしています。この世は、悪魔の力のもとにある世界です。神から離れてる世界です。
モーセはこのエジプトで生まれ、エジプトで教育を受け、エジプトの環境で生活しました。しかし、いったいだれがモーセをエジプトに導き給うたでしょうか。神ご自身です。

パロのもと、サタンの影響の下に導かれるとは、何という導きでしょう。四十年間、神はエジプトにモーセを留め置いて、訓練しました。そこでモーセは色々な苦しみを通らせられました。それは、まことの神のしもべとなるための、尊い訓練だったのです。

もし、エジプトにおける訓練がモーセに無かったなら、モーセは決して、神に用いられるしもべとはならなかったでしょう。主なる神は、私たちにも、「わたしは、あなたの住んでる所を知っている。そこにはサタンの王座がある。」と、言っておられます。
全世界は悪魔の王座です。ですから私たちがどんなに暗い所を通らされても、不思議ありません。私たちは、サタンの王座のある所に住んでるのですから。

しかし、忘れてはいけないのは、そのような所に導き給もうたのは神である。永遠の愛をもって、私たちを愛しておられる全能の神であるということです。サタンの座の上に光り輝く神の座があるのです。
いったいどうして主なる神は、訳の分からない所を、暗い所を、通らせるのでありましょうか。それは私たちが、悪魔の支配に落ちてる人々を、神の光の中に、導き入れることのできる主イエス様の、満たしにあずかった神のしもべとなるためなんです。

わたしは、あなたの住んでる所を知っている。そこにはサタンの王座があるとありますが、しかしこれは、尊い主の学校です。主なる神は、私たちが示されてる使命にかなう者となることを望んでおられます。
私たちが救われた恵みに留まらず、キリストの満たしに至ることを、主は心から願っておられます

 

                                ベック兄







最終更新日  2009年08月04日 08時14分08秒
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2009年08月03日
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       4323-m.jpg

 

        「主よ、あなたのみこころのままに行ってください。
私は、健康も病気も、命も死もあなた様に願いません。
私の健康と病気、またいのちと死も、あなた様のご栄光と私の救いのためにご支配くださいますように。
私にとって何が益であるか、あなた様だけがご存知です。

あなた様が主であられますから、みこころを行ってください。
与えて下さり、取り去ってください。
私はひとつのことだけを知っています。
あなた様についていくことが最善であることを。

私にとって、あなた様を侮蔑することは損となります。
私にとって、健康か病気か、富か貧困か、そのどちらが益となるのかわかりません。
この世のこと、すべてについてもわかりません。

この決定は人間や御使いの力を超えたものです。
私にとって、何が益で何が損であるか、私には隠されています。
あなた様の秘密なのです。私は、それを解明しようとは思いません。」

      

                              パスカル

 

   「山々の神よ、谷々の神よ、深淵の神よ、天の神よ。
あなた様のお導きは、決して間違っていません。
すべてのことを正しく司られます。

小さき者の神よ、弱き者の神よ、無に等しい者の神よ。
あなた様は悩みの中でも歌えるように助けてくださり、私たちが神の子供であることを知らせてくださいます。

不安の谷間で失望している者に新しい朝を知らせてくださり、足りないものは何もありません。
力と権威の神よ。私の力が無くなり何もできなくなったとき、あなた様の御手が私を支えてくださいます。

永遠の神よ、あなた様は、そのとき、私をあなた様のところに引き上げてくださいます。
私はあなた様を喜びをもって賛美します。私の歩みは祝福されるでしょう。」

                             ある兄弟の詩

     







最終更新日  2009年08月03日 08時10分22秒
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       PHOT000000000002C80A_500_0.jpg

   イエス様の十字架は私たちの持っている問題の根にまで、解決のメスを入れてくださいます。私たちは持っているあらゆる問題をその根まで解決してくれるためには十字架が必要です。

今、ある国の政府が、「酒の害は大変ひどい。以後酒を呑んではいかん。」という法律を設けたとします。そして警察ではあらゆるバーや酒場に行って、酒を没収したとします。これで酒を完全に取り締まることができるのでしょうか。
それだけではいけない。酒を作る工場を閉鎖してしまわなければ、何の役にも立たないでしょう。

  私は工場です。私たちの行ないは酒という製品です。

 
イエス様は十字架の上で血潮を流され、罪をお赦しになりました。製品の取り締まりをなさいました。けれどイエス様はそれだけでは満足されません。工場を潰してしまいたいのです。罪人をどうにかしてしまわなければならないと思っておられるのです。

イエス様の血は全く十分でしたから、私たちは罪の赦しを努力無しにいただきました。同じように私たちは自分の力を用いなくても、罪の力から解放されます。

イエス様は全き救いを成し遂げたとき、製品、すなわち罪ばかりでなく、工場、すなわち罪人自体のことをもお考えになっておられました。

イエス様の血潮は全ての罪、おのおの一つ一つの罪から私たちを聖めてくださいます。それとともにイエス様は私たちの古き人、アダムから受け継いだ罪の性質を十字架につけて死んでくださいました。

どうかこの事実を、この永遠なる事実を啓示によって見ることができますように。そうするなら全ての問題を氷が溶けるように解決してしまいます。

   ローマ6;6

私たちの〔うちの〕古き人問は、この罪のからだが壊されるために〔キリストと〕共に十字架につけられたのだ、ということを私たちは知っている。それは、私たちがもはや罪に隷属することのないためである 

 

 ここに、「私たちは知っています。」とありますが、私たちはこれを実際に知っているのでしょうか。それとも知らないのでしょうか

 それともあなたがたは、キリスト・イエスヘと洗礼を受けた私たちすべては、彼の死へと洗礼を受けたのだ、ということを知らないのか

                   ローマ6:3

 イエス様が私たちの心の目を開いてくださいますように







最終更新日  2009年08月03日 08時49分03秒
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2009年08月02日
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   カラスウリ.jpg

このようにして、あなたがたもまた、一方で自分たちが罪に対して死んだ者[であるということ]、他方でキリスト・イエスにおいて神に対して生きる者[であるということ]を認めなさい

                         ローマ6:11

思いなさい。認めなさい。どうして、こう言われているのでしょうか。もうすでに私たちがイエス様とともに死んでしまったから、認めるべきであるということです。
もしあなたが五万円を持っておられるとすると、金銭出納簿に何と書き入れるのでしょうか。もちろん五万円と書き入れるでしょう。事実、五万円を持っているから、そのように書き入れるのです。
この五万円を持っているという事実に基づいて、それから計算します。買い物に行っても、自分は五万円持っているということをいつも考慮にいれておきます。

同じように、主なる神は、私たちはもうすでに罪については死んだ者であると計算しなさいと言っておられます。それは事実ですからそうしなさいと仰るのです。これは主の命令です。
あなたは五万円を持っていますから、帳面にそのように書き入れました。同じように、もうすでに罪に通じて死んでいますから、そのように計算しなさい。
イエス様が亡くなられたとき、私たちもともに死にました。ですから、もうすでに罪について死んでしまっていることを計算し、信じ込まなければならない。

罪に対して死に、主なる神に対して生きているということを認めるにはどうしたらよいのでしょうか。私たちのうちにあってではなく、主イエス様によってのみ可能です。
イエス様を見上げ、イエス様の成し遂げたみわざを思い見ましょう。それが計算の秘訣です。もちろんこれは信仰の計算でなければならない。

ローマ人への手紙の前半は、多くが信仰について書かれています。罪の赦し、義とされること、主なる神との平和などはみんな信仰によって、主に頼ることによって自分のものとすることができます。
これに対して、ローマ人への手紙の後半は、信じなさいということより、計算しなさいということばが多く書かれています。けれど実際には信仰も計算も似ているものです。
信仰とはいったい何なのでしょうか。信仰とは主の成してくださったみわざを受け取ることです。信仰はいつも過去に行なわれた事実の上に立つものです。信仰の目的を考えますときに、未来をのぞき見ますが、たいていの場合は過去に行なわれた事実に基づいています。

ローマ人への手紙の後半に多く出て来る、計算するということは全部過去の事実に基づいています。ですから信じなさいということばではなく、計算しなさいということばを使っているのです。
またマルコの福音書の11章には、計算せよということばと同じ意味のことをイエス様が言われました。

 「このために、私はあなたたちに言う、あなたたちが祈り、かつ求める一切のことは、〔もう〕受け取ったものと信じよ〔計算せよ〕。そうすれば、あなたたちにそのようになるだろう。」

                      マルコ11:24

                               (あるメッセージより)

   計算するということ、キリストにあって成し遂げられた御言葉、すでに受けたと計算し、その通りに思いの内に書き入れ、それに基づいて行動すること、これは大きいです。 キリストに目を注ぐ、この方の内にすべての宝が隠されている。これはあるかないかの曖昧なことではなく、たしかな事実、真実として見、計算せよ、と主が語られているのです。

 

 

 







最終更新日  2009年08月03日 01時16分45秒
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