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日本最南端の有人島「波照間島」には、「学童慰霊の碑」が建っています。
この碑は、沖縄戦の最中に西表島に疎開して、そこで亡くなった波照間国民学校66名の慰霊のために建てられた物です。 この悲劇の原因は、西表島にあった「マラリア」という風土病でした。 注 国民学校・・・戦時中に使われていた「小学校」の呼び名です。 ことの発端は、1945年2月にこの島に「教師」として赴任した「山下虎雄」という人物です。 彼は陸軍中野学校からスパイ(当時は「特殊工作員」と言いました)として送り込まれた人物でした。 陸軍中野学校では「酒井喜代輔」という名前でしたが、本名は「酒井清」だったようです。 なお、本文では歴史を語り継ぐため、「山下虎雄」という名前で統一します。 彼は島民(この文章では特に断りがない限り、「島民」とは「波照間島民」を指します。)に対して優しい青年(25歳くらいだったと言われています)を演じつつ、スパイやゲリラ活動をしていたのです。 その頃米軍は日本軍を負かしつつ、沖縄に向けて進軍をしていました。 3月下旬、突然山下は島民に「米軍が来るから西表島の南風見田(はえみだ)に避難せよ」と命令しました。 そして、「米軍の食糧になるおそれがあるから家畜を殺すように」と命令してしまいました。(ちなみに家畜は石垣島に送られて、日本軍の食糧になったと言われています) しかし、島民は反発しました。 理由はまず、「米軍が南に向かうなんて考えられない」ということでした。 当時アメリカ軍は、すでに慶良間から沖縄本島に向けて進んでいたのです。 さらに、当時の南見はマラリアの有病地帯(1920年に廃村になっていました)なので、避難すれば感染してたくさんの死者が出る可能性が考えられたのです。 すると、山下は本性を現し、日本刀を島民に見せて「逆らう者は叩き斬る」と言ったのです。 これで島民は彼の命令に従わざるを得なくなりました。 4月8日から下旬にかけて、島民は対岸の西表島に船で避難し、南風見に向かったのです。 その1週間前にはもう、米軍は沖縄本島に上陸していて、わざわざ波照間島まで来るようなことは考えられませんでした。 この疎開は無駄なものだったのです。(一説には日本軍の食糧を供給するためだったといわれています) 5月から6月頃、西表島に避難した島民の間では蚊(マラリアは蚊を媒介として感染する病気です)が原因でマラリアが感染しました。 薬がなかったので、感染者は次々と倒れ死んでいきました。 この状況を見かねた国民学校の識名校長は山下に対して、「波照間島に帰してください」と頼みましたが、山下は完全に無視しました。 そうこうしている間にマラリアの感染者は増え、どうにもならない状態に陥ったのです。 7月30日、校長は石垣島の旅団に「波照間島に島民を返してほしい」と交渉し、承諾をもらいました。 そして、島民は波照間島に帰還しました。 このとき識名校長は帰還時に「この悲劇を忘れないように」という意味で、「忘勿石(わするないし)シキナ」と石に書きました。(今でも西表島にあります) なお、識名校長は波照間島民の惨状を見て、「もし自分がもう1人いたら、山下を海に叩き落としていたのに」と述べています。 山下に対する島民の感情を表すエピソードの1つです。 しかし、本当の島民たちの悲劇はここからでした。 島では家畜はほぼ全滅し、食糧もありませんでした。 さらに西表島からマラリアを持ち帰ったので、島民のほぼ全員(98%以上)が感染していました。 全島民のうち、30%がマラリアで死亡したといわれています。 中には、一家全員がかかったので死んでも葬式もできず、働き手がいなくて苦労した家族もいたほどでした。 翌年1月に石垣島旅団司令部から食糧や薬が届きましたが、終戦後すぐのことなのであまり量はありませんでした。 そんな中で島民を救ったのは、ソテツと少数の家畜でした。 ソテツは毒があったのですが、島民はそれさえも沖縄伝統の調理法で食べました。 ところで、島民たちが苦しんでいる間山下はどこでどうしていたでしょう。 彼は当初住民たちと一緒に避難していたのですが、すぐにマラリアの少ない由布島へ避難していったのです。(西表でも山下の体罰によって、何人かの人が死んだといわれています。) しかも彼には、住民には支給されていなかった薬が軍から大量に支給されていたので、マラリアにもかからずにすんだのです。 ひどい話だと思うでしょう。 しかし、当時の日本軍では住民や部下を危険な場所に追いやりながら自分だけ安全なところに逃げることがまかり通っていました。 例えば神風特攻隊の富永恭次が部下たちに「お前たちが全員死んだら俺も死ぬ」と言っておきながら、自分の番が回ると台湾に敵前逃亡していたことは有名な話です。 満州でソ連が攻めて来たときも、民間人を犠牲にして軍人が真っ先に逃げ出したことがその後の被害を大きくした原因だと言われています。 旧日本軍は特攻隊に限らず、人命軽視の組織でしたが、それはこの波照間島のエピソードでも同じでした。 戦後山下は処罰されることもなく1997年まで生き続けました。 そして3回も島を訪問したのです。 彼によって被害を受けた島民は当然歓迎しせず、3回目のときは抗議文を送りました。
Last updated
2008.01.19 14:35:09
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