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カテゴリ:雑学
1973年3月13日。
国鉄(当時)高崎線の上尾駅では、3000人もの通勤客たちが駅のホームを埋め尽くしていました。 当時の高崎線は、沿線の人口増加によって定員の2倍を超える混雑が日常的になり、列車に乗ることもままならない状態でした。 注 「列車の定員」というのは「これ以上乗るとサービスが行き届かない人数」のことです。 さらに、当時国鉄労働組合の行っていた「遵法闘争」が乗客の不満の原因になっていました。 当時、国鉄では「合理化反対」を叫ぶ労働組合が、法律で禁止された「労働争議」の代わりとして、「鉄道の規定を厳密に守る」という形の闘争をしていました。 その影響で、列車の遅れは日常茶飯事になり、ダイヤはあってないような状態になりました。 学校はストライキが発生すると休みになりましたが、会社は列車が走っている限りは出社しないといけませんでした。 サラリーマンの怒りは頂点に達し、いつどんな事件が発生したとしてもおかしくない状態になったのです。 午前7時20分、籠原発上野行きの普通列車が、20分の遅れで上尾駅1番ホームに進入してきました。 この列車も満員状態で、そこにホームから乗客が無理やり乗ろうとしたのです。 その直後、前橋発上野行きの列車も隣の番線に進入しましたが、こちらも大混雑で乗ることが出来ませんでした。 この事態を恐れた駅当局は、「両列車とも、大宮駅より先は運休します」とアナウンスしました。 このアナウンスが、乗客たちの怒りに火をつけたのです。 乗客たちは、運転席になだれ込んで運転手に詰め寄りましたが、運転手は逃げ出して一時姿を消してしまいました。 乗客は運転席を破壊してしまったのです。 ホームから線路に降りた客が、運転席の窓ガラスを割った瞬間、他の人たちの理性は完全に吹き飛びました。 駅員はこの異常事態に恐れをなして、多くが近くの民家に逃げ出してしまいました。 乗客は駅の事務室になだれ込んで、駅員に暴力を振るい、駅の施設を破壊して回ったのです。 そして、事件のどさくさに20万円の現金を持ち出しました。 一方、下りホームには上野発新潟行きの「とき2号」が近づいていましたが、上尾駅の混乱の影響で300メートル手前で停止していました。 乗客は、なんとこの列車にまで投石を開始したのです。 午前10時には、この暴動に参加した人数は10000人にも達していました。 駅からの通報で、警察の機動隊が駆けつけましたが、当然手を出せるようなものではありません。 駅を占拠した乗客と、機動隊のにらみ合いが続いていました。 一方、上尾駅にいた一部の乗客は、動かない列車をあきらめて8キロ先の大宮駅に向かいました。 宮原駅で助役を捕まえ、大宮まで一緒に歩かせたほどです。 正午には振り替えバスの輸送が軌道に乗り、乗客たちも上尾駅から次々と去っていきました。 国をも揺るがした「上尾事件」は、発生から5時間で終結しました。 10000人の暴徒の中で、逮捕された人数はたったの7人しかいませんでした。 取材に来た朝日新聞の記者に暴力を振るった人や、現金を盗んだ人がこの中にいたのです。 事件が終結したからといって、ダイヤがすぐに復旧したわけではありません。 夕方の午後5時20分まで、高崎線は運休状態になり、通勤とは関係のない人まで影響を受ける結果となりました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2009.01.28 09:44:22
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