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ヒデタカ・ダ・タカサキの日記

ヒデタカ・ダ・タカサキの日記

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2009.06.06
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カテゴリ:雑学
 地図で北海道の北を見ると、不思議なことに気がつきます。
 サハリンの北半分は色で塗られているのに、サハリンの南部は真っ白な地図になっているのです。
 地図が白いというのは、その土地がどこの国のものか決まっていないという意味。
 つまり、サハリンの半分は、どこの国のものなのか帰属が決まっていないのです。
 今回の記事では、どうしてそのようなことが起こってしまったのかを書こうと思います。
 
 1808年、江戸幕府は間宮林蔵を稚内の宗谷岬から北に向けて出発させ、サハリンの探検を行わせました。
 当時サハリンは半島であると考えられていましたが、間宮の探検で島と判明したのです。
 間宮はサハリンの最北端に「大日本国国境」という国境標を立て、「サハリンは日本国」と宣言しました。
 しかし、ロシアがサハリンを狙っていたので、小競り合いが何度か発生しました。
 
 1874年、日本はロシアと「千島・樺太交換条約」を調印し、千島を手に入れる代わりにサハリンをロシアにあげたのです。
 こうして、サハリンはロシアのものになりました。
 
 しかし、1904年の日露戦争で日本軍はサハリンに進攻して、サハリンの半分を領有したのです。
 1905年の「ポーツマス条約」で、日本はサハリンをロシアから正式に割譲されて、「樺太」に名前を変えました。
 
 しかし、1945年8月9日にソ連が「日ソ不可侵条約」を破棄して、南樺太へ侵入してきたのです。
 この攻撃は終戦後も続き、多くの犠牲者を出しました。
 以前取り上げた「真岡電信局事件」は、このときの話です。
 そして、ソ連は南樺太をハバロフスク州に編入し、日本から奪い返したのです。

 1952年の「サンフランシスコ講和条約」で、日本は「サハリン南部の領有権」を放棄しました。 
 これで、サハリンはみんなソ連領になるはずでした。
 ところが、当のソ連は「中国が参加していない」という理由で、サンフランシスコ講和会議(1951年)の議決を「無効」としたのです。
 その結果、サハリンの南半分は「どこの国のものなのか未定の土地」となりました。





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最終更新日  2009.06.06 22:44:26
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