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それでもなお平穏な日々

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Jan 5, 2006
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カテゴリ:社会

 2006年となりました。(既に5日ですが)
本年も昨年同様よろしくお願いいたします。
(昨年叔父が亡くなっているため、新年の挨拶をこれにて替えさせていただきます)

 さて・・・・

 巷では白りん弾関連の話が話題になっていたようである。(私も幾つかコメントをさせていただいた)
既に大多数の愚論は鎮圧されたようだが一部くすぶっているところもある。そのくすぶりの大半が白りん爆弾だのこれを化学兵器に含むだのという、そもそもの名称や定義自体を理解していない暴論でありこれらには放置プレイでの晒し者がふさわしい。
 しかしその否定の理由が「倫理上問題があるから」という主張、その背景に存在するものの放つ『妖しげな香り』だけは放置しておくには危険すぎる。

今回はこういった類の『倫理の名を隠れ蓑にした危険思想』について少し私見を述べ、併せて2006年の抱負を語ってみたいと思う。

【以下本文】

 倫理-モラルというものは法や条約よりも早い時代から存在していたものである。
言葉、文章として形作られる体系としての『法律』よりも、個人のモラル、人間関係を円滑にするためのマナー、宗教的戒律、小規模な人間集団間の暗黙の了解等といったものから自然形成された『掟』が早くから存在していたのは疑うべくもない。

 ではそういった「掟」がありながら、なぜ『法体系』『条約等』といった明文化されたものが近代社会において生じることになったのか。
最も古い(といわれる)ハムラビ王の法典、「目には目を」はなぜ作られねばならなかったのか。
(このあたりの知識・認識は私にはせいぜいが高校生程度の知識しかないので、誤りがあったらぜひご指摘いただきたい)

 法というものは基本的にそれによって律せられる社会に対して「一定の秩序」をもたらすものである。
その秩序が「社会全体」「権力者個人」「宗教集団」等のどれに対して有利になるかどうかは問題ではない。
社会のあり方に「一定の枠をはめ、一定の秩序をもたらす」ことが法における最低限の共通事項だからだ。

 実際のところ「小規模な地域的集団」だけで社会が構成されているうちは明文化された法は必ずしも必要ではない。(と私は考える)
こういった場合では「モラル」「口伝」「掟」「お告げ」「長老の判断」といったものでも十分にその小規模社会の秩序は保ちうるからだ。
これを乱す者には「村八分」「追放」といった様々な手段をが採られ、それが法と同等以上の強制力を発揮した。それは歴史上の事実に見ることが出来る。
(もしこれが極端に個人や一方に有利になるような方法であれば、そこで反乱や革命等といった秩序の変換が起こる。しかしその場合も秩序自体が失われるわけではなく、旧秩序から新秩序へと基盤となる「もの」が変わるだけである)

 中世以降に時代が移り、地域的小集団(ムラや町)が統廃合されて国家というより大きな集団が構成されることで、地域的小集団の数だけあった千差万別の「モラル」「掟」を共通化する必要が生じることになった。
一つの大きな集団(国家等)の中で「東地方では無罪、西地方では有罪」というような偏り・違いを生じさせては、共通の基盤・認識を維持できず、一つの集団として行動し得ないからである。
歴史の流れの中で数多くの「モラル・掟」といったものが取捨選択により昇華・共通化され、その最大公約数的なもの(中には元になる小規模集団の発言力の違いで押し切られた例も多々あるが)が明文化して出来上がったものが『法』なのである。
(『法』に反しない範囲での『地域的規則』は現代でも認められている。市条例などがそうだ)

 では世界における社会の基本要素が国家(法治国家)となった現代ではどうか。
各国家の法はその国家における「秩序の基本」となっている。「各」と書いた理由は、例えば日本では法に触れないが別の国では死刑に匹敵する、あるいはその逆のようなものが世界には幾つも存在しているからだ。
(イスラムの宗教的戒律と日本の無宗教的社会を比べればわかりやすいかもしれない。飲酒などがその明確な例である)
国家の法(国内法)はそれぞれの国内における「独自の基準」であり、似通った部分はあれど基本的には別のものである。
 中世世界までは各国の国内法は基本的に互いに無関係であり、これに対する干渉は原則として許されるものではなかった。
しかし科学文明の発展により各国家間での交流が頻繁かつ密接になった現代世界においては、複数の国家間の共通的な基盤を(一部でも)作る必要が生じることになる。
これがいわゆる『国際条約』である。

 個人的モラル→地域的掟→法→国際条約、という昇華・拡大のステップを経ていくことで、それの適用される範囲は大きくなっていく。
これに伴いその枠組みに影響される人間の数は増大し、個人の『倫理観』というものが相対的に小さな要素へと変化した。(母集団たる摘要範囲が大きくなるのだから当然である)
ただしこれは個人の倫理自体を排除するものではない。倫理は法体系に内包され、また法体系はそれに反しない倫理を排することはないからである。
倫理を内包し共通化した法体系が『最大多数が納得できる範囲』で秩序を保つには、法(あるいは条約)を逸脱することが許されないことが前提となる。
これは「一個人の倫理」と「法体系」の関係を希薄にすることにもつながっていく。
(その悪しき影響の一面が「法に違反しなければ何をやっても良い」という倫理の崩壊である)

 また特に国際条約に関して言えば、もしその条約が国内の各種規範と合致しないのならばこれを批准しないという選択肢も残されていることは忘れてはならない。(実際にそういった例も多い)
こういった条件から「条約に加盟すること=その条約の提供する秩序に従い条約を遵守する」という法と同等の関係が成り立つ。
この関係は、条約を遵守する制約に付随して通常は何らかの利益(直接的なものから間接的なものまで)を、条約を破れば同様に何らかの不利益もたらすことで保証されることになる。

 話を少し変えよう。
昨今よく見られる白りん弾弾劾や最近話題の無防備地域宣言における論法は概ね次のようなものである。
「法(条約)ではこうなっていて問題はないが、倫理的に問題があり悪であるから断罪する」
この論法と
「倫理的に問題があるならば、法(条約)を変えてこれ以後は悪として断罪すべきである」
という論法の違いが理解できるだろうか。
 前者は「人治」である。
 後者は「法治」である。
断罪する基準が「個人の倫理」なのか「体系化された法(条約等含む)」なのかの違いが極めて大きいことはおわかりになると思う。
(後者の論理に基づいた運動を行う正当な平和団体も存在していることは救いである。平和団体の全てが独善ではないことを証明する貴重な証拠だからである)

 さてこれらの主義の方々の主張する、「多くの人間・小集団のモラルの昇華した末の『法・条約』よりも、個人又は自分を含む小集団の倫理・モラルが優れている」と断言できる根拠はいったい何処にあるのだろうか。
歪んだ選民意識なのか、はたまた想像も付かない何らかの形でその結果から利益を保証されているのか。

 ここで思い出さねばならないのは、一個人(あるいは一部の小集団)の判断・倫理が法よりも優先される社会・国家・集団が日本のすぐ近くにも存在していた、あるいは今現在も存在していることである。
 例えば中華人民共和国、あるいは朝鮮民主主義人民共和国、日本におけるオウム真理教という極めて危険な小集団、これらの存在が及ぼす(及ぼした)幾つもの影響(そして実害)を我々は考えなければならない。
それらを無視して自らの倫理観こそが『絶対にして唯一の正義』と主張して、法を蔑ろにし他者を断罪する行為を行う彼らは果たしてどういった思想者の末裔なのか、そこまで想像しなければならない。

 白りん弾を「倫理」の観点から非難する人々、無防備地域宣言を条約を曲解して主張・推進する人々、ありもしない条約を盾に他者を非難する人々。
彼らの主張する倫理は本当に「正しい」ものなのか?
法を蔑ろにする「個人の倫理」とはいかなるものなのか?

 我々は数多くの歴史的出来事から、一個人の倫理が法を超越して国家を支配した様々な実例を知っている。
そしてそれらが引き起こした「悲惨な歴史」に枚挙の暇がないことも。
もちろん現存する法治が完全なものであると主張することは無茶な話だ。人間の作り出したものに完璧を要求することは傲慢以外の何物でもない。
しかしながら少数の倫理による人治より、多数の倫理の昇華から作られた法による法治のほうが、その中に含まれる誤謬をより少なくしている可能性は高いのである。

 そろそろ結論に移ろうと思う。
 ここ数年、法・条約を軽んじてまでも自らの持つ倫理観の正しさを声高に主張する人々が増えてきた。
彼らが法・条約を軽んじるのではなく自らの倫理観を法自体に反映させるべく働きかけるのならば、もしかしたらその過程でその倫理が法へと取り込まれ昇華されることで、法体系それ自体がより一層優れた高みへとステップアップすることもあるだろう。
しかし白りん弾弾劾・無防備地域運動ともに、それを主張する人々は己の倫理の「絶対的無謬」を全く疑っていない。
ただ疑わないだけであればまだ良いが、疑わないために既存の法を、条約を、事実を歪曲し捏造してまでも主張するのはいったいなぜなのだろうか。

 繰り返して言おう。
自らの倫理観の正しさを全く疑わず、他者の倫理観との整合性を図ることなく国家を運営した歴史、その結末を我々は幾つも知っているはずだ。
彼らは自らの説く人道と倫理の美名の影で、その悲惨な歴史を繰り返す危険性を内在させているのである。


 民主主義国家の「法と倫理」、そして国際社会の「協調と秩序」を守るために、私たちは彼らの歪んだ独善的倫理と主張をうち破るだけの知識を身につける必要がある。
そして発達したネット社会はその手段を容易に提供してくれる。

検証し、思考し、また検証せよ。この一連の過程に労を惜しんではならない。

 私は彼ら主義の方々を反面教師として今年一年また(ゆっくりとではあるが)日記を重ねていきたいと思う。
これが今年の年頭に当たっての抱負である。





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Last updated  Jan 5, 2006 07:35:10 PM
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年が明けても幼いね^^。   ピレネー山脈 さん
子供番組が好きなんだね。

で、返事は???
(Jan 5, 2006 10:01:02 PM)

何故かと言えば   煬帝 さん
カルトだからさ。


ピの字がうざいな。 (Jan 6, 2006 01:30:28 AM)

倫理=個人に疑問です   通りすがり さん
倫理=個人ですか?

ならば昨今叫ばれる企業倫理は個人的な話なのでしょうか?
社会倫理はどうなるのでしょう (Jul 13, 2007 03:58:54 AM)

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