ひいちゃんにっき(発達障害とともに・・・)

近頃思う事

私は近頃、仕事で、お年寄りと話す機会が多くあります。いろんな人との出会いは、それだけでとても楽しく、有益に思いますが、中にはとても悲観的な考えをもったお年寄りが、少なからずおられます。

「老い先も短いし、何のいいこともない」
「人の世話にならんと、何にもできん」
「自分なんか、人のお荷物だ。情けないやら、申し訳ないやら・・・」

話していると、相手の方の無力感、惨めな気持ちが伝わってきて、本当にやるせなくなります。

「そんなこと言わないでね。今日おばあちゃんに会えて、私とても嬉しかったよ!」
「何らかの使命があって、必要とされてるから、おじいちゃんは今も生かされてるんだよ!」
なんて、ついつい一生懸命励ましてしまいます。

でも、一方で、自分は果たしてどうだろうか、と思うと、私自身もやっぱりこういうお年寄りと大して変わらない思いを、ぬぐいきれないでいます。
まあ、だからこそお年寄りに共感しちゃうんですけど・・・。

私の心の一番奥深い部分は、それこそ私がひいちゃんぐらいの年頃からずっと、自分の存在を、”異物”、”邪魔者”、”お荷物”、と感じ続けてきました。誰かから嫌われた記憶は多いですが、好かれたという記憶は、あんまりありません。私も、そんな自分の存在をものすごく引け目に感じ、人に対して、かたくなに心を閉ざしたまま成長していきました。

クリスチャンになってから、こんな私の上に、神様の愛の眼差しが暖かく注がれていることが少しずつわかってきて、だんだん心のしこりが取れてきました。神様に愛されている・・・必要とされている・・・。それらは私が、喉から手が出るほどに必要としていた、メッセージでした。

しかし、もともとの極端に低い、水深数千キロメートルあたりに沈んでいるほどの、マイナスの自己イメージが、どうしても足を引っ張ってしまいます。
特に、ADD特有の「問題行動」や、神経過敏のゆえに、子どもたちや、家族の者との間でトラブってしまうと、

「ほうら、やっぱり、私ってただのお荷物。いない方がぜ~ったいマシ!」

と、ついつい確信してしまいます。何だか、我が家における諸悪の根源は、何を隠そう、このワタクシだ!なんて風になってしまいます。

そうすると、中には
「工夫すればいいじゃない」
「問題点を改善していけばいいんだよ」
「やる気がないだけ。やる気があれば、必ず何とかなるものだ」
と言う人たちがいます。
一理はあるのですが、努力ややる気で改善できるものなら、とっくに何とかなってるはずだし、だいいちその程度のものなら、障害ではありません。

ただ、工夫や改善は、確かに大切だし、必要だとは思いますけどね・・・。
それでも、自分の弱いところがモロあらわになってしまってる時って、何とかなるなんてこと、私にはありえないんじゃないか、と思うほど、絶望的な気持ちになってしまいます。

本当は、こんな心境の時こそ、ひいちゃんパパに、心にそっと寄り添ってて欲しいな、なんて切実に思うのですが・・・。それがたぶん、自分で問題解決に向かう力になるだろうし・・・。
でも、こんな時はたいてい、家族の方もおおいにストレスを感じているようで、さすがにひいちゃんパパも、そんな余裕がなくなるみたいです。そうすると、私も、やっぱり私がいない方が、この家族のためなんだ、と例によってついつい思ってしまいます。こうなると、堂々巡りの環状線のごとく、まさに悪循環です。


そんなわけで、最近ちょっとフクザツ・・・です。
お年寄りに向かって言った、同じ言葉を、自分に対しては言えない・・・。
ドーシマショ???


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