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むかし、ゲームのライティングを請け負っていたことがあって、非常に過酷な「書く現場」を経験したことがある。
だいたい、十日で原稿用紙二百枚を書かなければならなかった。 なんだ、一日二十枚じゃないかと思うかもしれないが、ブログのように適当に書ける場とはさすがに商売は違って、けっこう多方面へ気配りをしなければならず、物語形式だったから面白さも要求された。 小説家で言えば、志茂田景樹が、月産千枚だったという。 これは自分では口でしゃべるだけで、あとはライターなりなんなりに書かせる口述筆記制をとったから可能だったとのことで、月二冊の長編を書く小説家がいるかと聞けば自明なように、月産千枚というのはかなり異様な光景だ。 わたしに要求されていたのは月産六百枚。 一日二十枚というのはいかに厳しいかが、感覚できるのではないか。 そんな中、とても困ったことに、二ヶ月に一回はスランプがやってくる。 自分の書いているモノが全く面白くなくなり、その後どうやって書いたらいいかが分からなくなる。 これまで書いた百二十枚はことごとく捨ててしまいたくなるし、自分がどうやってそれを書いていたかさえ分からないし、残りの八十枚がどこにあるのかさえ喪失してしまう。まるで真っ暗闇の中にいるようになるし、どうしたらよいのか分からなくなって、わたしはただただテキストエディターの画面を見つめ、好きな音楽をかけ、しまいには酔っぱらい、さいごには途方に暮れて寝てしまう。 それでも、一日を経過したという事実と、八十枚というノルマは残る。 わたしは追いつめられて発熱し、バファリンを五錠も飲んで、追いつめられて食事さえ忘れるひどい状況だから、トイレに立った瞬間、気を失って倒れる。 タオル掛けをつかんだ拍子に手を切り、出血し、ああ、ばかだなと笑う。 もうろうとする意識の中で立ち上がろうと努力する。 倒れたことにショックを受ける。 それでも、一日二十枚書かないといけない。 わたしは、倒れたんだから栄養が足りないんだろうと、リンガーハットでちゃんぽんを食べ、二日酔いがひどいから、そのままみっともない格好で街を自転車で走った。 いくあても、お金もなかったけれど、 「そうだ、映画を観よう」 と映画館のある街まで三十分も自転車をこぐ。 なにがやっているかなんて、ちっとも考えない。 街に着き、全館を回って時間とポスターを見て、これにしようと映画を見た。 初体験は『ヒート』だった。ロバート・デニーロとアル・パチーノの競演。『ツイスター』もすごかった。『ファイト・クラブ』も満足だ。 ほとんど観客のいない平日の昼間の映画館で、わたしは大画面で繰り広げられる、心を鷲掴みにするエンターテイメントを夢中になって見た。 映画館を出て、自転車にまたがって、それから、すごかった、とふるえながら言う。 自転車をこいで帰るうちに自分もおもしろいものを作りたい欲求が溢れだし、止まっていたはずの物語が嵐のように動き出す。それでも一日二十枚は難しい。わたしは泣き言を言いながら自費で締め切り超過分を払い、結果的にわたしの元に残るお金はゼロに近かった。 でもあの高低差の激しいクリエイティブな世界は楽しかった。 バイオリズムのようにやってくるどん底で、わたしは、たくさんの映画を見て勇気づけられ、わたしは、映画で生きていた。だから、映画がわたしの目にでさえ「つまらない」と映ってしまうことがあり得ることが非常に怖い。 わたしの映画好きは、そういう所から来ている。 つい、一ヶ月か、一ヶ月半か前。 わたしは、自分にとどめを刺す一撃を食らい、以来、致命的と思えるほど、心の動揺が大きくなって、いまだに対処が分かっていない。 ここ二ヶ月ぐらいは、非常に荒れているように見られているだろうし、事実としてわたしはその一撃から逃れる方法を、しっちゃかめっちゃかに試している追いつめられた一人にすぎない。 ネットというものがわたしを追いつめることは永遠にあり得ないことは分かっている。なにがあっても冷静に対処できる。経験もあるし、あきらめも早い。パソ通時代に比べれば健全な軽さに満ちているし、非常に分散しているので、トラブルが起こること事態がまれである。 もし、問題が起こっても、実体世界と切り離してあるので、いつでも切ればいい。 もちろん、切るような対処はこれまで一度しか経験したことがない。 これはパソコン通信時代だった。 わたしはガキだったから、飲んだくれるしかなかった。 まるで自分の全人生を否定されたかのように感じ、わたしは三ヶ月近くなにもする事ができなかった。パソコンに触れることさえ怖くて、わたしは本を大量に読み始めた。結局、ラブクラフトとディック・フランシスに救われた。古本屋で本を買い、それを読む日々を続けるうちに、本の世界にのめり込み始めた。 それでも日常的な世界はどん底の中でも続き、あらゆる反論を考慮しながら論理を組み立てるようになり、使いはじめ、それで、ゲームの仕事をやるようになった。その間に二十職種ぐらいのバイトを転々とし、どんな人とでも一緒に仕事ができる自信が(ささやかな自信なのだが)ついてきた。 一番、わたしに社会への扉を開いてくれたのは、交通誘導の警備員の仕事だった。 あらゆる年齢の、あらゆる境遇の人と、ほっと一息して、なんだこいつとは一緒に仕事をできるじゃないか、と安心しあう瞬間の貴重さがこのときよく分かった。 閉じるということと、開くということ。 この微妙なバランス感が、この交通誘導という仕事は必要だった。たぶん、一番長く続いて、一番お金になった。誘導灯を振りながら、わたしは物語を考えていたりしていた。 その後まともな仕事に就いて、Webをやるようになる。 会社に入り、数ヶ月すると、わたしは問題なく社会に適合できることが分かった。 単純なバイトとは違い、無数の問題がわたしを悩ませるようになり、いつしか、強く傷ついた自分が、果てしなく遠い子供のように感じるようになった。ある瞬間、わたしは克服できたことに気づき、泣きそうになった。 もう、遠い過去だ。 単なる、わたしの血肉にすぎない。 そうやってとどめを刺す一撃を食らった自分を振り返って、わたしは今、ついこの間、食らった人生二番目の一撃にどう対処したらいいか、非常に困惑気味に考えている。 極めて冷静な様相であるが、傷は深い。これはよく分かっている。 たぶん、これまでやろうともしなかった大きな事にチャレンジをして、その激動の中で徐々に血肉にしていく手段をとるのであろう。だから今、わたしは壊れたように、あれこれと新しいことに手を出している。 わたしは安定していない。 それは人生の力だと、わたしは想っているし、信仰している。 わたしは、人生の思考の停止を乗り越えるために、一つ、言葉を発明した。 小説を書く際に、自分の経験のしたことのない感情は書くことができないと考えたことから生まれた言葉で、わたしは短く、 「感情の経験」 と呼ぶ。 何かうれしいこと、哀しいことがあると、しかし、これは感情の経験にすぎない、と理解する。わたしは、いつも何かあるとこの言葉を口ずさむ。 とどめを刺されたことをまじめにとらえていない訳ではない。 むしろそれを自虐的に深く深く掘り下げて、その経験の真相を自分の中に探し、理解する事だ。中途半端に手加減をすると、原因不明のまま、感情だけが常に不安定になる。だから逃げようとする自分を全部つかまえて、わたしは容赦がない。 すべては「感情の経験」のために。 懐かしい、つらい。 でも、今はその時期なのだと思う。 この「感情の経験」は著しく無敵な上に、無害である。 ようは、自分の経験を自分の能力が及ぶ限りを尽くして、精密に客観化する、というよくつらい思いをした人にされるアドバイスと同じなのだが。 今日、『ダヴィンチ・コード』を見た。 ストーリーは存在していないも同然の映画であるが(これがカンヌで笑われた原因であろう)、急テンポで進む謎解きのサスペンスは、ネタが非常に大きいこともあって、夢中になってみることができた。 ストーリーの破綻について語っても仕方ないので置いておくが、明るくなったときの、観客の表情(これは非常に重要なマーケティングデータだ)は、おおむね好印象であったようだ。帰りながら、 「中盤がだれたね」 という人の声を聞いた。 わたしは、 「あー、うん。あの辺からストーリーの崩壊がばれ始めるんだよね・・・」 と想いながら帰路に着いた。 エンターテイメントというものは不思議なものである。 素人でも、 「中盤だれない方法」 を理解できるように、うまく解析をしたいものだ。 わたしは映画で生きている。 これは強い信念だ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
July 15, 2006 09:18:10 PM
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