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一昨日、物語解析ページのアクセスログをダウンロードし忘れていたのにはっと気がつき、あわててダウンロードしようとログページにいくと、危うく過去のログファイルが消されるところだったのでほっと一息した。 ロリポップのサーバはApacheの生ログを取得できることがいいことなのだが、わずか一週間分しか残してくれない。 Web屋生活が長かったせいか、アクセスログを確認することがほとんど習慣化してしまい、それを忘れアクセスログが途切れでもしたら、首にでもなるんじゃないかというような心持ちになり、集計し、あれこれ分析するのが、楽しみであるのだ。 ぎりぎり一週間。 ああ、よかった7月21日からあるよとダウンロードして、ログビュアーで眺めてみるとわたしの顔が青ざめた。 なんだこれは。 アクセス数が通常の10倍はある。 Webエクスプローラーかなんかの荒らしでも来たのか、botが徘徊してんのか(この前はなぜか異様なほどinktomiが徘徊していた)と思ったのだか、10倍というのは極めて尋常じゃない。 見ると、小魚の大群のようなアクセスが、あらゆるIPアドレスから。 ユーザエージェントを見ると、一切の偽装をしている余地のない無邪気な物ばかりで(悪質な物に慣れてしまったせいか、そう見える)、サイト内の行動も不審な点はない。 リファラーを見ると、Google、Yahoo、msnからのアクセスがほとんど。どこかで取り上げられた訳でもないし、検索ワードもオリジナリティに富んでいる。 うーん? ページランクが上がったのか? いや、そんな事は断じてない。 わたしは、ここ二ヶ月ぐらいはほったらかしにしていたし、まず間違えなく断言できるが、わたしはこれまで一度としてプラスになるような事をしたことがないし、しかも本人でさえ、ページがあることをたまに忘れる。 うーんとリファラーを眺めていて、やっと気がついた。 「おお、ハウルじゃん。これ全部」 ニュースを思い出し、そういえばゲド戦記直前の恒例ジブリ映画放映があって、ハウルの視聴率が話題になっていたことに気づく。 おーーーー!! 書いている人間の意識なんてこんなもんである。 どうも、ハウルのテレビ放送があり、あのどう考えても説明の付かない物語を見た迷える子羊が、なぜか一本メールマガジンを新たに立てて解析しているらしいメールマガジンのログ置き場まで迷い込み、答えを見つけだそうとしていたようなのである。 あー、そういえば、そんな事もありました。 旧物語解析ばっかり更新していたから新があることを忘れていた。 あー、そういえば、あれも完結していないなあ・・・。 ログを精査した(これも習慣である)後に、電車に乗り、ぼうと考える。 脳裏で原作の筋道をたどり、それから映画の筋道をたどる。 もう二年も過ぎただろうか。 だから、わたしの頭の中では原作と映画がごっちゃになり、原作が平気で映画の雰囲気で映像化されてしまう。わたしの頭には、パーフェクト版とわたしが勝手に妄想しているストーリーがあって、それが容赦なく映像化されて流れる。 「緑のどろどろ」が流れ、その後、「ソフィーの癇癪」が流れる。 身体中を包み込む静かな優しさが唐突にわたしに襲い掛かり、身体中がびりびりと震えて、その周囲に、にぎやかげな物語の歓声が聞こえた。そのすばらしく暖かい物語に不覚にも感動し、わたしは泣きそうになった。 なんてすばらしい物語がこの世から失われたのだろう。 原作とジブリのカップリングにはこれほどまでのポテンシャルがあり、それがあっけなく失われた事に、また悔しい気持ちが溢れてくる。 叫んでも二度と戻らない。 物語とはそういう性質を持っている。 昨今、崩壊した物語が持て囃される傾向があり、非常に強い警戒感を感じる。 ハウルのように、わたしのように、原作と映画をごっちゃにして、妄想エネルギーで新たな自分だけのパーフェクトストーリーを構築できるなら、まあ、よい。 しかし、「崩壊してために、再構築の自由が与えられる」というのは、物語を聴く者としては、自虐的で、末期的な事象であると思わないだろうか。 そこまで、物語というのは落ちぶれてしまったのだろうか。 映画版のゲド戦記の感想を多くのメディアで読む。 わたしは原作も映画も見ていないけど、ありえない評が並ぶのを見て、健全でないと強く感じる。 このエントリーを書く以前よりゲド戦記に対しては、初作無批判の原則を貫き、なんの言及もしないつもりでいた。 だからわたしは厳しく原則を守るけど、成長をすることを望む。 宮崎駿を殺した殺人者があるのなら、わたしもその一人だと感じるときがある。 殺すに値する罪を犯したと感じさせる行為をしてしまったのだから、仕方ないと、言わざるおえない。逆に言えば、あれだけ守られた要塞に住み、ただの一言で殺されてしまう失態を犯したのであれば、それは、一言を発した者の力ではないのではないか。ただの一言で崩壊する構造をしていたのだ。 だから、本当に正しい態度は、成長を望むと述べることなのかもしれない。 初作は許される。 しかし、第二作、第三作は許されない。 要塞はない。 それをしっかりと認識してほしい。 物語解析を読んでもあんまり参考にならないかもしれないが、シェイクスピアを読むことは多分勉強になる。シェイクスピアでさえ、初作は駄作とされ、研究者でさえ「あれはシェイクスピアでない」というほどだ。 シェイクスピアの神がかり的な出世作は、第九作にあたる「ロミオとジュリエット」。 よく噛み締めるべきことではないか。 シェイクスピアの全作を並べて終わりにしよう。 (「執筆年は、ドーバー・ウィルソンの推定による」らしい。wikipediaより) (ちなみに丸がついているのは、一般に傑作とされている作品。) (夏の夜の夢の特異性が非常に良く分かる。) (タイトルを眺めるだけでも、ちょっと気が狂いそうになるので、この辺で終わりにしよう。読んでよく分かっている人にとって見ると、すさまじいプレッシャーですね・・・^_^;) * ヘンリー六世(Henry VI、1590-92年) * 間違いの喜劇(Comedy of Errors、1592-93年) * リチャード三世(Richard III、1592-93年) * タイタス・アンドロニカス(Titus Andronicus、1593年) * じゃじゃ馬ならし(Taming of the Shrew、1592-94年) * ジョン王(King John、1594年) * ヴェローナの二紳士(The Two Gentlemen of Verona、1594-95年) * 恋の骨折り損( Love's Labour's Lost、1594-95年) ○ * ロミオとジュリエット(Romeo and Juliet、1595年) * リチャード二世(Richard II、1595-96年) * エドワード三世(Edward III、1596年) ○ * 夏の夜の夢(A Midsummer Night's Dream 、1592-98年) ○ * ヴェニスの商人(The Merchant of Venice 、1596-97年) * ヘンリー四世(Henry IV、1597年) * ヘンリー五世(Henry V、1598-99年) ○ * ジュリアス・シーザー(Julius Caesar、1599年) * 空騒ぎ(Much Ado About Nothing、1598-99年) * お気に召すまま(As You Like It、1593-1600年) * ウィンザーの陽気な女房(The Merry Wives of Windsor、1600-01年) ○ * ハムレット(Hamlet、1600-01年) * トロイラスとクレシダ(Troilus and Cressida、1601-02年) * ヘンリー八世(Henry VIII、1602年) ○ * マクベス(Macbeth、1601-06年) ○ * オセロ(Othello、1602年) ○ * 十二夜(Twelfth Night, or What You Will、1602-06年) * 終わりよければ全てよし(All's Well That Ends Well、1602-03年) ○ * リア王(King Lear、1604-06年) * 尺には尺を(Measure for Measure、1604-06年) ○ * アントニーとクレオパトラ(Antony and Cleopatra、1606-07年) * コリオレイナス(Coriolanus、1607-08年) * アテネのタイモン(Timon of Athens、1607-08年) * ペリクリーズ(Pericles, Prince of Tyre、1608-09年) * シンベリン(Cymbeline、1609-10年) * 冬物語(The Winter's Tale、1610-11年) ○ * テンペスト(The Tempest 、1611-12年) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
July 30, 2006 01:56:08 AM
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