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というか、わたしは変だ。 小説が書けて、デザインができて、プログラムができて、歴史に厚い知識があって、美術品を取り扱う仕事を昔していて、ネゴシエイター役ばかりやっていて、物語の研究をしていて、サッカーが好きで、ゲームも好きで、リサーチマーケターで、いろいろな事を分析することが大好き。 現在は知財系の仕事で、親の仕事を継ぐ準備をしている。 文字にしてみると、はちゃめちゃすぎて、ヨクワカラナイ。 正直言うと、わたしも、なんだこいつはと、首を傾げてしまう。 変なやつだと。 わたしはとびきりに変なやつかも知れないけれど、人というのはたいてい変なやつで、ヨクワカラナイ。 真夏の品川で、上司と歩きながら大学時代の話をする。わたしはその上司は馬が合わず、たぶんこの人に潰されるだろうなと漠然と感じていたのだけど(実際そうなった)、エレベータの制御方法の話を聞いたり、難航したプロジェクトの話を聞く。 たぶん、わたしはその人の心や境遇から何光年も離れていたのだろう。 ただ、それでも感じるところはあって、わたしは言った。 「そういう勉強をしている人は尊敬します。すごいですね」 ただ、わたしは現場のスペシャリストとしての訓練ばかり受けていて、学際的な方向からの指向とは水が合わない性質だったし、性格的にも、学問を振りかざして現場に介入されるのは嫌っただろう。 わたしはすぐに分析して、その理論が事実と異なる事を突きつけて、崩壊させる道を選ぶだろう。現場でうまく回っているのを勝手な言説で壊して欲しくないのだ。そして、これはまったくそうなのだが99.9%の言説は精度を欠いてまったく役に立たない、単なるなまくらなのだ。 どうやったら、そんなにも馬の合わない上司と息を合わせられるのか、ヨクワカラナイ。 それは機能しない事を、目の前で見せつけられても、考えを変えない人は切り捨てるしかない。 これが今の社会の、根本的な不幸だと思う。 議論を機能させることができる人は、ほとんどいない、とわたしは思う。 有効なのは、交渉であって、ネゴシエーションで議論に陥ったら、完全に失敗であると、ネゴばっかりやってきたわたしは思う。 ネゴは簡単。 お互いが利益になる地点を見つければいいだけだ。 やることは、相手をみて、自分をみて、どの地点に着地するのが一番いいだろうかをみつけるだけなのだ。お互いが笑える場所を常に柔軟に探し続ける。その努力がネゴシエーションと言ってよいと思う。 敵対は無意味。協調がすべて。 ゼロサムは機能しない。プラスサムが機能する。 ゲーム理論は役に立たない。誰か、それ以上のノーベル賞ものの理論を作って! それが今の世界で、そう動いていることが分からない人がいるのが、ヨクワカラナイ。 ネゴシエイトする世界なのだ。 今は。 世界中が、協調の仕方を模索している時代なのだ。 そのとき、ヨクワカラナイ人は不利なのである。 なぜなら、相手がわたしにとってのネゴポイントを見つけてくれないので。 そのために、ヨクワカラナイ自分を発掘して、どう説明すれば、わたしにとってはそれは利益になっているし、わたしはとても楽しいし、とても嬉しくて仕方ないかを、理解してもらえるのだろう? 物凄く遠いところにやり投げの選手のように投じなければならない。 それが当たってはじめて伝わる。 どれほどの精度が要求されるのだろう。 ヨクワカラナイ人の苦労はなんとなく伝わるだろうか。 まあ、いいや、この辺で投げておく。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
June 25, 2009 11:59:47 PM
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