事実と仮説と、仮説の仮説
今年の2月、アメリカのネット調査会社comScoreが、googleの検索連動広告のクリックスルー率が下がっていることを発表し、google株は壊滅な下落に襲われた。 もともと下落傾向にあったgoogle株は最高値の747ドルから412ドルへ下落し、google神話の終焉かとささやかれた。 この記事がくわしい。 ■Google株4%下げ―クリックスルーの低下に市場は過剰反応か? http://jp.techcrunch.com/archives/did-the-market-overreact-to- googles-click-through-woes/ TechCrunchは冷静に 従来から comScoreのクリックスルー推計と現実のGoogleの収入とは相関が非常に低い傾向があった。とにかく1対1に対応していないことは明白である。 と指摘し、comScoreの調査結果とgoogleの業績にはなんら相関性はないと分析した。 事実、googleの第1四半期決算は極めて好調で、株価もその後537ドルへと戻している。 わたしはネットを周回しながら、googleが落ちているという感覚を全く感じていなかったので、これはおかしいと首をかしげた。ネット屋さんであれば、google帝国が衰退どころか拡大の一途をたどっていることはひしひしと感じているし、もう少しgoogleのことを知っている人は、googleはすでにネットの広告屋さんでないことぐらいわかっているはずだと思っていたからだ。 googleの強みは組織であり、テクノロジーではない。 一万人単位のDrを高度に組織化し、そのテクノロジーのレバッジで、圧倒的な高効率をたたき出す新世代のテクノロジー企業である。 高学歴の人材を、効率的に活用できる組織というところが革命的なのである。 なので、べつにテクノロジーのレバッジが利く分野であればコンピュータ分野に限ることはなく、最終的にはすべてがgoogleの活動フィールドになる。 エジソンが現役だった時代のGEみたいな会社と思えば、ほぼ間違いはない。 それが、たかだか広告のクリックが減ったからと言って10%以上も株価が下落するとは何だろう? TechCrunchはこう結ぶ。 これは投資家の参考になるような情報をいっかな公開しようとしないGoogleの秘密主義が裏目に出ている例といってよいだろう。情報の真空状態では、少しでも悪い情報が出ると、今日のように、市場は最悪を予期して行動に走るものだ。 そうだろうか? わたしには見えすぎるぐらいに見えてしまって、どこが秘密主義なのかわからない。 あまりにも異質すぎる企業なので、普通の企業と同じような視点で見ると見えなくなってしまうだけなのであると、わたしは思う。これはgoogleを全く理解していない株主がgoogle株を持っているという、そういうことなのだと思う。 ■仮説はあくまで、仮の説。検証しないかぎり正しくはない。 マーケティング・リサーチの分野では、そのリサーチの際に守る鉄則がある。「事実があり、そこに仮説を立てることにより、意見になる」 というものである。もしくは反対にいえば、「意見は、事実情報と仮説に分解できる」 というもので、これは定性マーケティングの世界では、結構知られた教えだと思う。 例えば、「わたしはこう思う」 と意見を述べた際、必ず上司には、「そのうち事実はどれだろう? そして君はどんな仮説を立てたのだ?」 と聞き返された。 このふたつは全く性質の違うものであり、分けて考えなければならない、という教えなのだ。事実に対してはその観測方法よってどれだけ誤差が出るか、または観測方法が正しかったのかと問われ、仮説に対してはその仮説を検証するにはどのような事実を収集したらよいかを問われた。 なかなかお堅いようだが、これをしないと水掛け論になってしまうのである。 例えば、「OLにヒットする飲みものはどんなものだろう?」 という疑問に答えるのは非常に大変である。 事実を収集して、仮説を立て、そしてその仮説を検証する。 典型的な新製品マーケティングのフローである。 ここで大切なのは、 事実は事実であり、動かしようがない。 仮説は無限に立てることができる。 よって、意見は仮説の数だけ生まれる。 ということだ。 優秀なマーケターであれば、仮説は無尽蔵に生み出せる。 仮説は唯一解ではなく、テストマーケティングよりそれを検証しないかぎり、正しい「説」にはならない。仮説は仮説だ。なので、仮説を戦わせても意味がない、というのが一番厳しいところでの教えだったような気がする。 もちろん、これは、何億円もかける新製品開発の話である。 明日、映画館に行ったらいいか、それとも遊園地へいくべきかにわざわざこれほど厳密な調査をする必要はない。 このやり方はグーグルでも主流のよう。 ■音楽業界を救えるか--グーグル元CIOに聞く http://japan.cnet.com/special/story/0,2000056049,20370791-2,00.htm より具体的には、Merrill氏はGoogleの広告モデルが音楽業界でもうまくいくのか試してみたいと述べた。しかし、Merrill氏はサブスクリプション型音楽サービスと、さらにはISP料金も試してみたいと考えている。確かに、Merrill氏が使う予定の戦略についての筆者の印象について述べると、同氏は1つのアイデアに固執していないということだ。(中略) われわれはそれらすべてを試してみるべきだ。そして、データが何を示すかを見るべきだ。そしてそれがどのような結論であってもわれわれはデータに従うべきだし、ユーザーに従うべきだ。それらを自分たちの指針にするべきなのだ。われわれはアートについて幅広い会話をするべきなのだ」(Merrill氏) これは、仮の説で論を戦わしても正解にはたどり着けないし、それよりもテストして事実を収集したほうがよい、というだけなのだ。 ■事実と向き合うのはつらい。 このやり方は実はとてもきついやり方でもある。 実際のところわたしたちは、自分の意見や仮説に愛着を持つ性質のようで、ときには事実の断片を無視したり、気付かないふりをして、自分の意見や仮説を通そうとする。 事実と向き合えるようになるのは、とてもたくさんの修行が必要で、今のわたしにも充分に事実に向き合えているような気はしない。会社の教えは、どうしたら事実をまっすぐ見つめられるかを書いた教えが多数あり、とても優しい言葉で、事実と向き合う心構えが書いてあった。 なんというか禅の修業みたいな内容なのである。 それがどのような結論であってもわれわれはデータに従うべきだし、ユーザーに従うべきだ これを実践するのは、本当に大変なのだ。 実際のところ、これを完全に行えている人にはあんまり出会ったことがない。 そしてわたしもできているとは思えない。 なので、ほとんどの人は、多かれ少なかれ、事実に向き合うことができずに、仮説をこねくり回したり、実際にはどうとでも言える意見を振りかざしていることになる。 これは効率が悪いのではあるが、悪いことをしているとは思わない。 できなくて普通なのだ。 むしろできる人は超優秀なマーケット・リサーチャーなのである。 冒頭のgoogle株の話で言えば、まず真っ先に調べなければならないのは、comScoreの調査方法は妥当かという部分の検証である。続いて、それが事実だとして、googleの成長戦略に影響があるかを検証しなければならない。 この段階では、仮説の段階だ。 マーケターは、さらにそれを裏付けるデータが出てくるまで判断を保留する。 もちろん、それでは、株を買う/売る機会を逸してしまう。 わたしがギャンブルをしないのは、こういうところにあるかもしれない。 わたしのやり方は、充分に仮説が検証されるまでは、検証し続けるというやり方なのである。もちろん、それはトレーダーの速度ではない。 ■仮説の上に仮説を重ねる 事実情報が不足しているとき、人はどうしても、仮説を立ててそのもっともらしい結論を事実の代わりにして、さらにその上に仮説を立てていく。 検証されていない仮説の上に、さらに仮説を立てるのは、間違っている可能性が非常に高い方法である。 なので、事実情報に基づいていない仮説は、実はほとんど意味がない。 ひとつの仮説でさえ間違っている可能性が高いのに、さらにその上に仮説を立てているからだ。 これは物理学などでもそうである。 例えば相対性理論などはかなりシンプルな仮説の上に成り立っているが、それでもその仮説が正しいという保証はどこにもない。観測値などで、事実を収集してそれがどうも正しいらしいというレベルまでしか行くことができない。 ひも理論などは、検証ができないために仮説に仮説を重ね、厖大な論に分岐してしまっている。このひも理論は、インフレーション理論というなかなか突飛な仮説の上に成り立っている。仮説の上に仮説を重ねている。なので、ひも理論が正しい可能性は、実際のところあんまり大きくない。 また、敢えて言えば、この世に正しい仮説などない、とも言える。 ニュートンの万有引力の法則でさえ、速度が光速に十分に近づくと成り立たなくなる。 厳密にはこの法則は正しくないのである。 仮説とは、今のところ正しいようだという、暫定的な正しさであって、唯一無二の真実ではないのだ。常に仮説は塗り替えられることを前提に、使えているうちは、便利な道具だとでも思って使うぐらいが、たぶんいい。 しかし厄介なことに、かなり訓練された人でないかぎり、この事実と、仮説、もしくは仮説によって導き出されたそれらしいものを、人はごっちゃにしてしまう。わたしも、そういう傾向があったので、上司に何度も何度も、これを分解するように訓練された。かなりつらかった記憶がある。 特に、長い間、仮説を事実と信じきってしまうと、それは事実ではないと指摘しても、それを直すことができない。 例えば、アメリカという国は常に変化している。 なので、事実情報は常に流動的であるのであるが、アメリカとはこういう国だと認識ができてしまうと、そこから離れられなくなってしまう。特に、事実情報が極端に限られた、分野においてはその振れ幅がとても大きくなる。仮説に仮説を重ね、化け物のような妖怪を生み出してしまう。 例えば、軍事機密の世界では、どれほど情報公開をしても、機密があるかもしれないという余地があるというだけで、仮説の仮説が横行し、何が真実かわからなくなってしまう。イラクに大量破壊兵器が存在することになってしまう。 もちろん、それはアメリカの最高の知性でさえそうなってしまうのであるから、人並みな人間であれば、これに太刀打ちするのは困難である。 この仮説偏見というのは、深刻な間違いを起こさせてしまう怖さを持っている。 また、頭のよい人ほど固執してしまう。 量子力学に頑迷に抵抗したアインシュタインがそのいい例だ。 アインシュタインは相対性理論の仮説から、生涯離れることができなかった。 これは誰にでも起こるのである。 そして、これは全く理不尽な結果に陥る。 投資のプロでさえ、不十分な情報を元に、google株を売ってしまうという失態を侵してしまうである。 結局のところ、事実の細かな断片を、丁寧に地道に拾っていくしかない。