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本田勝一が独特のスタンスで、朝日新聞のスポンサーシップで金と時間をかけて、マゼランの世界一周を描いた。『マゼランがやってきた』(朝日新聞社1989年)がそれである。 これによると、マゼランが殺したアメリカ原住民は数百万人に上る。フィリピンに到達する前の1521年の3月にもグアムで大虐殺を行っている。そうして、現在フィリピンといっている諸島は、スペインのフィリップ王にその島を捧げるという意味でPhillilpinesという国名になっている。形は複数形である。4月にセブに上陸するのであるが、セブの王フマボンがどうして、マゼランに屈服したか知るよしもないが、さまざまな推測からフマボンのキリスト教への改宗は、マゼランの兵力におそれをなしたというより、マゼランを通じてヨーロッパとの交易の利益を求めたものだろうとも言われている。 ともかく、マゼランがフィリピン諸島に着いたときは、いわばアメリカ大陸と南太平洋諸島の原住民の血を頭からつま先までどっぷり浴びてどろどろの姿であったのである。フマボンは、マゼラン軍と従軍神父の口から、その「実績」を十分に聞いたことであろう。だからこそ、一戦も交えずに、マゼランに屈服したのである。 では、セブ島から数キロ離れたちっぽけな島のマクタン島のマクタン族のラプラプ王は何故に屈服しなかったか?種々想像できるのであるが、まず第一に ラプラプ王はイスラム教徒であった。キリスト教徒とイスラム教徒との戦争の構図は、最近のブッシュが勝手に始めたイラク戦争の構図と似ている。イスラムは決して屈服していない。 第二に、本多の本を読んで想像するに、ラプラプ王は情報戦ですでにマゼランに勝っていたと思われる。ラプラプ王はセブでのマゼランの勝利をよく知っていた。フマボン王の改宗はずぶずぶぬけぬけの改宗であって、セブ島民の多くを巻き込んだものではなかった。セブ島民は、マクタン島のラプラプ王にさまざまなルートでマゼランの動静と兵力を通報していた。そして、ラプラプ王も注意深くマゼラン軍を分析して、十分に迎え撃つ準備ができていた。 第三に、マゼラン軍の武器は火器が主力をなしていた。ラプラプ軍は幅広の短剣と槍、弓矢である。ラプラプ軍は、この火器を無力化することに全力を注いだ。「種子島銃」の伝来は1543年で、マゼラン軍の火器(搭載大砲と小火器)はそれより20年あまりも前であるが、ラプラプ軍にとって、最大の脅威であったであろう。どう無力化したかというと、マゼラン艦隊の動静を島から注意深く観察して、引き潮の時に、入り江に誘導したのである。珊瑚礁の浅瀬になったため―引き潮でなくとも、マクタン島の周囲は珊瑚礁で囲まれていて、あるところは数キロも歩いて行ける―、マゼランの軍艦が近づけない。艦砲射撃の着弾点にまで陸に接近できない。そこで、マゼラン軍は船から下りて、浅瀬に入り、足場の悪さによたよたしながら行軍した。銃が撃てるわけがにない。必然的に白兵戦になる。白兵戦になれば、ラプラプ軍のものである。彼らはこの珊瑚礁の浅瀬で闘うことは生まれたときからやっている。もうDNAに入っているのである。 第四に、こういちは、これがもっとも大きなマゼラン軍の敗因、ラプラプ軍の勝因だと思うのであるが、マゼランのおごり、油断、なめてかかったことが勝敗を分けた。高校の西洋史の桝本摂郎先生が、まことに卓見にも、このことを授業で指摘していた。 「マゼランはセブ島の王におだてられ 生意気なラプラプ王をあなたの手でやっつけてください なあ~に あなたの兵ならばほんの一ひねりですよ とかなんとか言われて その気になったんです マゼランは」 ぼくは、なぜか桝本先生のこの件りを鮮明に覚えている。じっさいの研究によると、マクタンの戦いの兵力は、ラプラプ軍は2000人、マゼラン軍は50人だったという。ラプラプ王は「おんどりゃ~なめとんのかあ もっと骨のある人数を繰り出さんかい!」ぐらいに怒ったのではないだろうか。これじゃあ、どんな兵器の差があってもマゼランは勝てない。 マゼラン軍のマクタン島攻略部隊は壊滅した。大将のマゼランも致命傷を受けて後死亡した。 【写真:高級魚ラプラプ。マクタンの戦い戦場祉の引き潮】 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
マゼランの野望を打ち砕いた男。世界の被抑圧民族の希望の星だ。西欧資本主義の凋落がここから始まっている。と言っても実際には毛沢東の勝利までは、随分時間がかかったが、、、。
(2014.10.14 10:05:04)
マゼランって、馬鹿なの?ww
って、思いました。 日本以前に、気持ちにおいて負けてなく、実際にも勝ったアジアの人達がいることを知り、嬉しい限りです。 (2016.06.12 09:07:01) |