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2009.10.03
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今、野麦越え2009の文集を編集している。すべての参加者から早々と原稿をいただいているのであるが、多忙により今日まで延び延びになっている。ここでぼくが、野麦峠でも、参加者にお話しした内容をより敷衍したものを書いている。その一部を紹介したい。

じつはこの不朽の名著であり、かつ「工女哀史」という副題を持った『あヽ野麦峠』は岡谷市の現地では、あまり評判がよくない。あたかも岡谷が悪役になっているかのようだからである。ぼく自身は、「かわいそうな女工哀史」などという理解も教育もしたことがないのだが、映画(山本薩夫監督 大竹しのぶ・原田三枝子主演)を見るとそういう印象が強いことは確かである 。実際、山本先生はこのことを気になさって、佐久間象山などの近世日本の技術先駆者を賞賛し、それを引き継いだ技術的先駆性と土着性をもった諏訪式製糸器(大工でも製造可能な木製の骨格をもっていた)を賞賛していたのではあるのだが・・・それはあまり注目されなかった。

ぼくは、岡谷の製糸家の勇気と知恵もともにさらに賞賛されていいのではないかと思う。その諏訪地方の製糸家を賞賛する場合、欠かせない注目点は、この人々が、製品(生糸)を、大菩薩峠を越え、八王子野猿峠を越え、相模原(国道16号沿い)を通って、横浜に運んで、そこからアメリカ・ニューヨーク市場と結びつけた勇気と知恵にあると思われる。この点こそが、産業革命の産業革命たる所以をなすからである。 現代の時点で見て、女工と資本家をことさら対立させて、どちらに与するかという視点で、歴史を問い返すことにどれほど意味があるのか疑問である。革命―産業革命も革命の一つである―と戦争と恐慌を繰り返す嵐のような時代、20世紀前半を、駆け抜けた二者とも戦士であり、互いに不可欠の両極として等価の関係においてみる必要がありはしないだろうか。命を賭けたのは女工だけではなかった。資本家もそうであった。その資本家の戦う相手は他の資本家であって、女工ではなかった。だからこそ製糸業を「生死業」と言われたのである。女工は確かに過酷な搾取を受けたが、それは、あたかも困難な戦における将兵の関係である。たとえば、先の第2次世界大戦におけるインパール作戦 の牟田口廉也中将のように、将軍が自らのケチな功を焦って、めちゃくちゃな戦を仕掛け、兵士をことさら死地に追い立てた。製糸家をこのような暗愚な将軍と観ることは、まったく正当を欠いている。

また女工の側から観て、彼女らが哀れな小作人の家計補助のために単に「売られて」行ったとだけ観るのも同じく正当を欠いている。彼女らの側もまた、青春の憧れと愛のエネルギーを燃焼させなかったわけではない。前出の「あゝ野麦峠」で原田美枝子演ずる役回りは、悪役として描かれるが、このような愛と失恋に生きた女工もけっして少なくなく、なんら道徳的にもとるものではない。女工の中に岡谷にとどまって結婚をし、生涯を終えるものもいた。野麦峠歴史資料館の館長が、歴史資料として、野麦峠を越えた女工が岡谷の男性に書いたラブレター(非公開)をわれわれに提示しながら語ったことは、まさにその一例である。その手紙は、驚くほどの女工の教養を示唆して余りある。女工も立派な一戦士だったのである。彼女の兄弟が兵士として戦場で戦ったのと等価である。たとえその戦争が間違っていたとしても。この視点なしに、昭和2年(1927年8~9月)の岡谷女工大争議も語り得ない。野麦越えを行った女工を「哀史」一色のお涙ちょうだいの物語の主役としてのみ描くことは、女工を侮辱するものであり、娯楽映画の世界でしか市民権をもちえない。

このようにして、女工と製糸家を等価に観た日本の原開発を考える場合、飛騨―野麦峠―岡谷―大菩薩峠―横浜―(太平洋)―ニューヨークという地球大的なシルクロードがイメージされるのである。

(脚注1)映画について:
新日本映画社制作のこの映画は、当時の社長が「大衆運動」として、制作していこうという意気込みで、40歳直前のぼくにも、ミーティングへの招請状が来た。たぶん山本茂実先生の紹介があったのだろう。そのミーティングの初期の部分に出席してみて、「負け」を悟った。若い参集者の「売れる」映画を作ろうという意気込みが強く、推薦人範囲を文部省(文科省の前身)、全国PTA連合会、はては皇太子妃(現皇后)にまで広げる云々、そして「お涙ちょうだい」路線で行くことが、圧倒的に大勢であった。ぼくは、「公平な歴史観」を主張したのだが、映画社広報部長に一笑に付された。「金にならない」という。ただし、当時の社長は大衆運動の唱道者で採算抜きを叫んで、「しまおか先生のご意見に賛成である」とサポートしてくれた。ぼくは、多忙だったし、短気だったから、勝負あったと観て(負け)さっさと身をひいた。上映に際しても、試写会には行かず、街の封切り映画館で人々と一緒に観た。その折り、ぼくの後ろに3人の女子高校生が座っていた。学校をさぼって来たらしい。彼女たちは、上映が始まる始めの部分に「全国PTA連合会」「文部省」「皇太子妃雅子さま」ご推薦の字幕をみて、「しらけた 帰ろう」と言って、観ないで出て行った。心の中で、彼女たちにぼくは拍手を送った。

(脚注2)牟田口廉也中将について:
1944年3月、北東インド・インパールに駐留する英軍を征伐するために、牟田口中将(巷間無茶苦茶中将あるいはムチャグチ中将と呼ばれた)はビルマを抜けてインドに攻め込む作戦を強行した。補給は原則、現地調達(強奪)という乱暴なもの。そのビルマの地形をみると、主力はあたかも、甲府から甲斐齣ヶ岳―槍ヶ岳(いずれも3,000メートル級の岳)を越え、山頂で優勢な敵と交戦しながら、上高地から岐阜高山に至る作戦。「軍は兵隊の骨までしゃぶる鬼畜と化しつつあり」(当時に師団長佐藤中将の言)、撤退作戦の道しるべは日本兵の白骨であり、それらは「白骨街道・靖国街道」と言われた。投入兵力は、86,000名、帰還時兵力12,000名。戦死者のほとんどは餓死であり、人肉が食われたと言われている。帰還兵の一人に故片木清倫理学教授がおり、彼は終生カントの「恒久平和」論を奉じ、かつしまおかとともに最初の「野麦越え」(1974年)を敢行した埼玉大学教授であった。







Last updated  2009.10.04 09:14:48
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