関係力(相対性)経済学RELATIVITY ECONOMICS

2011/09/11(日)15:34

時報がない

非常に一般的に言って、傾向としてであるが、タイ人は日本人に比べて、時を刻む観念とか、定時性(周期性)の観念が希薄のような気がする。 季節性がおおざっぱ、あるいは夏時間・冬時間の差が僅少だとか、そういうことと関係があるのかもしれない。しかしながら、日本人の時間観念が産業主義の成立以前(日露戦争=1905年以前)にも、似たようなものであったのではないだろうか?当時は30分以下の時間の刻み方は、「分」として存在はしていたが、日常的には存在しなかった。落語で、四半刻(しはんとき=30分)以下の時間の刻み方は出てこないと思う。時間も季節によって、伸び縮みがあった。なぜなら、日の出から日没を6等分し、日没から日の出までを6等分する時間の刻み方なので、「一刻」(いっとき)と言っても、現代の時間の刻み方では春分と秋分には2時間で昼夜同じ刻み方になるが、夏は「短夜」といって、一刻が短かった。「秋の夜長」とは秋分の日(2044年まで9.23<ただしうるう年は今年から9.22>)を挟んで夜が長くなることを言ったものである。だから、機械的に時を刻むこと(時計によって)は、為政者、宗教的権威か金持ち以外には無縁であった。それにしても、落語などに「時蕎麦」という噺があるように、日本人はかなり時間にうるさい人種だったようである。というのは、「今何時でぃ?」と尋ねる客に対して、「へえ 九つ(夜の0時~2時)で」答える蕎麦屋がいる。 まことに遅い客のお帰りである。遊郭で遊んできた来たのだろうか。客はどうして時刻が気になるのか?蕎麦屋はどうして間髪を入れず時刻を答えるのか。誤差が2時間も許されるのだから、答えられるのかもしれないし、蕎麦屋はいつも寛永寺か浅草寺の鐘の音を気に懸けているものなのか。いずれにせよ、吉原大門は何時に閉じるのか浅学にもぼくは知らないが、一般の町木戸は暮四つ(夜10時~11時ごろ)に閉じる。この賢い方の客は、町木戸を通り抜けて帰宅するには、番太(木戸の門番)と交渉したり、抜け道を考えたり、何よりも女房門に対する対策も、思案しなければならない。極めてナーバスになる時刻なのである。だから、自然に蕎麦屋に尋ねる。蕎麦屋も心得たものである。そこがこの落語の落とし穴なのだろう。なお、蕎麦屋は暁(あけ)七つ(4時から5時ごろ)に店じまいすると相場が決まっていた。 この国に住んで、驚くのは、車の運転者に「あとどのぐらいで目的地に着くの?」「そう遠くはないわよnot so far」「何分ぐらい?」「30分ぐらい」。現実的結果は、1時間、2時間後に着く。不慮の交通渋滞があったわけではない。こういうことは珍しくない。だからぼくは「そう遠くはないnot so far」という答えに、「2時間」という訳語を当てる習慣が身についた。そうしておけば、仮に1時間後に着いたとすれば、「やったー 1時間得した」と幸せになれるからである。 もう一つ驚くことのうちに入ると思うことがある。この国には時報というものがない。ラジオやテレビは時報の役を果たさない。朝のうちは、TV画面の片隅に時刻が表示される。それが過ぎると、まったく時刻がラジオ・テレビからは知ることができない。ウィークデーには、1時半ごろから3チャンネルで始まる韓国ドラマ「女人天下」を観る。しかし、始まる時刻はだいたいの目安である。定刻に始まらないことがある。時には、何にも断りなしに放映中止になる。土日の夕方「同伊(トンイー)」という韓国ドラマがある。こっちのドラマの方がぼくには面白い。どちらも言葉がチンプンカンプンである。時々ナンナさんに「こいつ良い方?悪い方?」と聞いて理解のヒントを得る程度である。この途中で突然、国歌と国王と国旗が画面に現れる。だいたい6時ごろである。それが終わると、何事もなかったかのように、ドラマの続きが流れる。国歌と国王と国旗の時間は6時と決まっているらしいが、それもおおよそである。10分も早いということがある。遅いこともある。 コンサートやサッカー試合も映画も同様である。定刻に始まることは珍しい。MKレストランという「タイスキ」と食べさせるレストランがある。ここは夕方6時ごろ、突然店員がいっせいに踊りだす。すっかりそのファンになった。先日昌が滞在したとき、夕方6時ごろMKレストランに行った。店員が踊りださない。この国の気まぐれなのだろうとぼくは思って、昌にそう解説していた。じっさい、以前にもそういうことがあったので、ナンナさんが理由を尋ねてもらった。そうしたら、今日は店員が少ないのでやるひまがないと。彼女は理由を尋ねた。「国王の親類の王女さまがお亡くなりになって間もないので自粛している」と。いや、たいへん、失礼をした。 アインシュタインの言葉: 熱いストーブの上に一分間手を載せてみてください。まるで一時間ぐらいに感じられるでしょう。 ところがかわいい女の子と一緒に一時間座っていても、一分間ぐらいにしか感じられない。 それが相対性というものです。

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