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量子力学を英語でいうと、quantum mechanicsと書く。量子とは素粒子(時代によって分類が異なる)をさらに抽象化したものであって、「質のどんづまりで量的にのみ区別されるある実体」=物質(これはマルクスが価値実体である「抽象的に人間労働」を突き止めたときに用いたフレーズである)と理解していた。たぶん、それは間違いがない。だからこそ、つまり色もにおいも目にも見えない手触りもできない五感的な質的認識を超えたものの運動の記述、すなわち、量子力学の記述は量を扱う数学でのみ可能であるということもある程度納得できた。でも、それは物理学者の言語学的な怠慢あるいは自らの貧困な言語能力の吐露であると、ぼくは思い続けている。マルクスは数学をほとんど用いずに価値の諸法則を展開した(正直言って、『資本論』でマルクスが数学を使えば簡単なのにと思うことしばしばであった)。ぼく自身「経済学」で数学を使うときは常に自虐的であった。 今、アインシュタインの相対論(とくに一般的相対論=重力場の理論)と量子力学との統合理論の候補である「超弦理論」を勉強している。ある本の中で、量子力学の歴史を振り返る箇所で、quantize またはquantizationという言葉が出てくる。この言葉は量子quantumと語源的に同じである。ちなみに量を英語にするとquantityである。だから、ぼくは頭の中で「量子化(すること)」と言う言葉をみると、量子力学の概念としてのイメージを描いていた。 著者は、物質はquantizedされるものという発見とか、物質のquantizationが量子力学の始原(プランク定数の登場などのことを想起せよ)という表現を用いていると、このquantizeという動詞とかquantizationという名詞に出会っていると、はっと思い当たった。量子力学のそもそもの初めに、既存の概念を利用できないときに、この言葉が、きっと他から借用されて、なぜ利用されたかという疑問が生じたのである。それは量子力学の範囲で「量子」を考えてはならないということを意味する。 辞書を引いてみた。ぼくの辞書は、weblio (http://ejje.weblio.jp/)である。そうしたら、次のような記述が見つかった。 “量子化すること 変数のとる範囲を,重複しない,必ずしも等間隔でなくてもよい有限個の区間に分けて,その各区間をその区間内のある割り当てられた値を使って指定すること. 〈例〉人間の年齢は1年という量(区間)で量子化されることが多い“ 非常にびっくりしてしまった。人間の年齢の「年」ということで区切ることが「量子化」することになるとは・・・じゃあさぁ なんとあたしたちは事物をひっきりなしに量子化しちゃってるじゃん? 英語でびっくりしたことの一つで、芭蕉を字引で引いてみた。なんとjapanese bananaだって、あれバナナかよ。写真はわが家のジャパニーズ・バナナ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
えっと 写真は芭蕉ではなく ミズバショウの部類では無いでしょうか? 芭蕉の木はこちら長崎でもよく見かけます。バナナにそっくりの小ぶり実がなります。実を見るたびに食べてみたい衝動にかられますが、芭蕉の実は食べられないと聞いています^^;奄美大島の織物『芭蕉布』、これは糸芭蕉から作られると書いてありました。
(2013.02.06 20:07:11)
Tenmariさん
>えっと 写真は芭蕉ではなく ミズバショウの部類では無いでしょうか? 芭蕉の木はこちら長崎でもよく見かけます。バナナにそっくりの小ぶり実がなります。実を見るたびに食べてみたい衝動にかられますが、芭蕉の実は食べられないと聞いています^^;奄美大島の織物『芭蕉布』、これは糸芭蕉から作られると書いてありました。 ----- はい。その通りで、書いてしまってから、しまった勘違いだと思いました。水芭蕉と芭蕉と混同していたことになります。ご訂正ありがとうございました。 (2013.02.06 21:14:26) |