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テーマ:虐待の経験(146)
カテゴリ:うつ病
母のパワハラの相談を主治医にしました。
母は姉と私を肉体的にも精神的にも虐待を続けてきました。 姉は松の木に括り付けられたり、頭を殴られた時には血が流れたり、暴言を吐き続けてきました。 私も物を投げつけられたり、思い出のある大学時代のバレーボールで使っていたシューズをカッターで切り刻まれてゴミとして捨てられました。 私は母から逃れるように父のそばに居て、カープを見たり、韓国ドラマのチャングムの誓いを父といっしょに見ていました。料理と東洋医学のドラマなので、私にぴったりで。何度もこのドラマを繰り返し見ていました。 母は父にも暴言を吐き続けていたので、父も食事以外は部屋に引きこもるか農業をしていました。 姉はピアノ教室を自宅で開いていますが、母の暴力に耐えきれず、アパートに引っ越して、ピアノレッスン時だけ自宅に帰宅し、アパートで生活していたこともあります。 夫と結婚してから、母の子育てが失敗で、母は毒親だと分かりました。夫は農業を最初は手伝っていましたが、母からのパワハラに耐え切れず、もう無理!と言って手伝う事をやめました。 夫の両親は母を難しい人だねと言っています。 舅と母がトラブって、母は地鎮祭にも参加しませんでした。 新築が出来ても、農業は新築の周りで行っているのですが、トイレを新築の私の家で使ってもいいのに、家に入らず、自宅まで帰っています。 母はみんなに嫌われていると言ってますが、パワハラ発言をするので当たり前です。 先代の出雲大社広島分祠長に母について相談に行きました。 夫の両親と母はウマが合わないと。ワンマンな傾向は年を重ねるごとにひどくなるから、当たらず触らずにいなさい。母のようになるなよと言われました。 父がすい臓がんで入院中に見舞いに行っていたのですが、父は母と姉が見舞いに来ても喜ばず、私が来るのを待ちわびていたのです。 父と私は仲良しで、父は町内会のためにボランティア精神で尽くしていました。父の葬式では町内の人に愛されていたことが分かりました。照ちゃん(父の愛称)がいたから、町内会議もスムーズでトラブルがあっても潤滑油のように宥めてくれたと。とても好かれていた父でした。 私は父がとても人間が出来ているので、毒を吐く母を離婚せずに耐え続けてきたのだと思いました。 父があの世に旅立つ直前に、母に今までありがとうと感謝を告げました。 父のように優しい男性はなかなかいないと思います。 父の大親友の大工さんは父の嫁さんになりたいと思ったほどだったと教えてくれ、死亡したら、亡き父のそばに居たいので、出雲大社広島分祠で50日祭を執り行ってほしいと頼まれました。 これを言うと主治医は男同士なのにとびっくりされていました。 主治医は母の両親はどうだったのかと問われました。 母の父親は母が小学校に上がる前に広島原爆の被爆の影響で亡くなりましたと。山中女学校と修道中学校の社会の教員で、7000冊の蔵書があり、広島大学生を始め、市民に本を貸し出し、座談会を開いていたのです。原爆詩集で有名な峠三吉とも交流があったようです。 母の母親は、夫が無くなるときに貧乏に負けるなと遺言を残されたようですが、保険勧誘員として働き、母にすべて家事を任せていたようです。母は母親から愛情を受けずに育ったと言いました。母は4人兄弟で3人は男子だったので、家事全般は母1人でこなしていました。 母の母親は近所にあった原爆市長と呼ばれる濱井信三さん宅に度々訪問し、頼っていたようです。それは夫が亡くなって男に頼る部分の相談に行っていたのかもしれません。 下の名前の信三さんと呼んでいたそうですから。。。 気になって原爆市長と呼ばれる濱井信三さんの書籍を読みました。その写真を見ると面影が亡き父に似ているのです。 原爆資料館に行きましたが、そこに濱井信三さんの銅像があるのですが、やはり雰囲気が亡き父に似ているのです。 祖母が父を見つけ、惚れ込み、母と見合い結婚させたのです。きっと濱井信三さんに片思いしていたのかもしれません。 主治医は大変な母に育てられたんだねと。次回詳しくまた話しましょうと。 きっと、峠三吉さん、濱井信三さんの書籍を読まれてから、次回相談に乗りたいのかもしれません。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2025.03.06 17:39:32
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