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私は富裕層ではなく一般庶民でありつづけています。
母方の祖父は7000冊の蔵書を保有していたことから、富裕層であったと思います。 占い師から私は母方の祖父の生まれ変わりと言われましたが、祖父の新聞記事を見て同じ思想と行動をしているので納得しています。 ![]() 広島原爆の焼野原から広島市の文化教養を立ち上げた祖父は、被爆の影響からか短命に終わりました。 東京に次いで広島の師範学校の教員として、広島の教育界を支えてきたのだと思います。 祖父は宮城県出身ですが祖母と東京の大学で出逢い、祖母の方に婿入りして広島の教育界を支え続けていたのだと思います。 原爆詩集の峠三吉さんと交流が深く、平和の尊さを広島市民にいっしょに語りつくしたことでしょう。 まだ使命を果たしていないために、私が生まれ変わったのだと思っています。 戦後は男性社会でしたが、今は女性社会が優位になると見越してか、私は女性として生まれ変わったのです。これは占い師に言われました。 天界の至高神は天界の校長ですが、私は占い師によれば天界の教授だったようです。 1兆年に1回の天界の改革が秘密裡に計画され実行されましたが、今は天界の改革が終了したため地上の改革が始まったものと思っています。 私がこの地球に転生に入ったのも、天界の至高神が計画していたことに実行に移すために使わされたのだと思っています。 地上の改革の実行に移すためには、富裕層の生まれでは地上の改革が出来ないと神々が判断されたのだと思います。 私は庶民の家系に生まれ、小学校時代では遊ぶか農業の出荷の手伝いをすることに専念していたため、本格的に勉強はしていませんでした。 ママゴトやかくれんぼをして友達と遊び、虫やザリガニを取って自然に親しんでいました。 農業の手伝いでは、学校から帰ってほうれんそうの出荷のために赤葉をむしって綺麗に整える作業を手伝い、出荷場所に行ってトラックの運転手さんに待ってもらうように伝えていました。 田植えはヒルに血を吸われながら稲苗を田に植え付け、稲刈りでははぜ干しのために一輪車を使って運搬しはぜに掛けるために渡す補助をしていました。 こんな状況でほとんど勉強をしてはいませんが、公文教室で算数を習っていたくらいです。 何故か算数だけは授業を受けなくても、教科書を貰ったらその日のうちに全ての問題を解いていました。 ただ、そろばんだけは習っていないのでついていけませんでした。 算数の授業では班の友達に暇なので教えていました。 国語、理科、社会は勉強をしていないので、テストも普通の成績だったと思います。 母は教育一家で育った影響からか、広大付属中学校の受験をするように勧めていました。 私は庶民であり続けたいために受験することに抵抗してきました。 しかし、何度も母が勧めるものですから、勉強せずに受験して不合格。 テスト問題を見て、高難度の問題を初めて見て驚き、当然回答欄は空欄が多かったのです。 そこで普通の中学校に進みましたが、そこから本格的に勉強をすることを心に誓い、バレーボールの部活動から帰宅したら、コツコツと真面目に勉強を始めました。 担当教員に質問攻めしたこともありましたが、先生も親切に教えてくれました。 学校の授業だけではなく、先生が勧める地球大紀行のテレビ番組を見て感動し、学校よりテレビ番組の方が勉強になっていました。 当時のテレビ番組は今より質が高かったと思います。 先生とテレビ番組の会話をするのが楽しかったのです。 高校は進学校である安古市高校ですが、生徒は皆優秀で不良は皆無でした。 数学だけは公文教室で先取り勉強をしていたお陰か、友達に数学を教えていました。 3年間で学ぶ数学を母校は2年間で短期に終了していたのです。 私は英語が苦手でしたので、英語部に入ると英語の成績が上がると期待しましたが、才能がないためかレベルが上がらず1年で退部しました。マイフェアレディの英文を学んだ記憶しかありません。。。 広島大学教育学部体育教育学専修で4年間体育の教員免許の資格取得のために学びました。 しかし、バレー部に所属していましたが人間関係運が悪く、孤独な4年間でした。 体育は軍隊的な組織が多いのか、4年生は神様、1年生は兵隊扱いでした。 今はパワハラという概念がありますが、当時はいつも誰かが先輩から怒られて泣いていたのです。 大学卒業後も超氷河期のベビーブーム世代の私はコネがないため、体育の教員試験を受けても2次試験で不合格。常勤講師しかありませんでした。 舟入高校では体育祭という一番忙しい時期に短期集中で現場を学びました。 高取北中学校では中学校3年生の受験シーズンで一番忙しい時期に短期集中で現場を学びました。 この両校の経験を積む中で、学校は社会の縮図だと思い、学校の問題はこの現場では解決できないと悟り、教育書、哲学書、政治経済の本を読みながら納得いく真実の情報を探し続けていたのです。 そして、社会教育現場としての大規模施設のスポーツセンターで施設管理と指導業務を経験しました。 ここでは体育会系ならではのパワハラもあり、苦労の連続が続き、孤独に陥ったこともしばしばでした。 ずっと一番年下の私は、先輩の分まで働かされる環境に置かれ、教えてくれない環境からか独学が始まりました。 大変な職場でしたが、今思うと大修行を積むためにこの経験が必要だったことが分かりました。 1人経営者で何でもできる自信が付いたのです。 建物管理をすることで、建物の修繕の職人さんから智慧と現場の苦労を知りました。 広報担当でもあったので、情報発信が得意になっていました。 指導業務も幼児から高齢者まで幅広いために、意義深い指導研究が出来たと思います。 公民館、区民センター、植物園、いきいきサロン、体育協会、体育指導員、障害者団体等様々な組織と連携してイベントを組むことで、大きな学びとなったのです。 障害者との付き合いは小学校高学年からですが、中学校では知的障碍者と毎日いっしょに登校し、中学校の常勤講師では障害児学級の副担当、家庭教師では知的障害の双子の高校生に足し算を教え続けることで忍耐力が付きました。 そして精神病院に入院することに追い込まれたのですが、ここでも知的障碍者も含めて様々な精神疾患者と交流することで、大変な経験を積んだのだと思っています。 刑務所暮らしのような精神病院の入院生活でこの世の底辺を経験したのです。 今、私は53歳になりますが、ここに至るまで波乱万丈の人生を歩み、人生を深堀りしたのです。 試練を乗り越え続けてきたお陰で問題解決能力が自然と身に着いたのだと思います。 苦労して分かることが多いのですが、机上論ではなく現場主義の大切さを学ぶために、この悪環境に身を置くことを前世で決めてきた気がしています。 それはこの腐敗しきった社会の膿を出すために必要な経験だったとも言えます。 精神病院を退院してから、先代の出雲大社広島分祠長は今までの苦労は先祖のカルマが返ってきたので、これからは自分の人生を生きなさいと言われました。 どの先祖がどんな罪を犯したかは知らなくて良いと言われましたので、そのまま気にしないことにしました。私はこの先祖のカルマを返すために酷い環境に身を置いたのでしょうが、私のこれからの活躍に必要な修行であったと思っています。 もし私が富裕層の生まれであったならば、世の底辺を知ることはなかったので、この世の膿出し後の改革は出来なかったのだと思うのです。 下級国民の立場で考えられない富裕層にはこの世治しは何が問題なのかが分からないと思うのです。 苦労して分かることが多いのですが、苦労の少ない富裕層は問題解決の原因がつかめないと思うからです。 だから、庶民であり続ける必要があり、これからもそのように生きることでしょう。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2025.11.10 17:54:54
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