狭山差別裁判糾弾闘争略年譜(1970年4月21日~74年9月26日)
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 1970(昭和45)年━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 4月21日* [[1970年]] - [[狭山事件]]で、[[第二審]]第三六回[[公判]]が開かれる [[裁判長]]は[[井波七郎]]([[久永]][[裁判長]][[退官]])。 12月3日* [[1970年]] - [[狭山事件]]で、[[第二審]]第三九回[[公判]]が開かれる 12月5日* [[1970年]] - [[狭山事件]]で、[[第二審]]第四〇回[[公判]]が開かれる 12月8日* [[1970年]] - [[狭山事件]]で、[[第二審]]第四一回[[公判]]が開かれる 『石川一雄獄中歌集』より 暗雲に苦悶の我が身に光り満つ正義の支援者其処此処にあり(二・九) 寄せられし署名にあふるる真心を思いて獄のわれを支えり(五・二八) 冤罪のわれ哀しみて綴りたる友の会等(ともら)の交に涙落ち来も(五・二八) 独房に生けられし菊枯らすまじ朝な夕なに水替えをして(十一・二〇)━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 1971(昭和46)年━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━2月12日* [[1971年]] - [[狭山事件]]で、[[第二審]]第四二回[[公判]]が開かれる。3月2日* [[1971年]] - [[狭山事件]]で、[[第二審]]第四三回[[公判]]が開かれる。3月4日* [[1971年]] - [[狭山事件]]で、[[第二審]]第四四回[[公判]]が開かれる。3月9日* [[1971年]] - [[狭山事件]]で、[[第二審]]第四五回[[公判]]が開かれる。3月11日* [[1971年]] - [[狭山事件]]で、[[第二審]]第四六回[[公判]]が開かれる。5月11日* [[1971年]] - [[狭山事件]]で、[[第二審]]第四七回[[公判]]が開かれる。5月15日* [[1971年]] - [[狭山事件]]で、[[第二審]]第四八回[[公判]]が開かれる。5月20日* [[1971年]] - [[狭山事件]]で、[[第二審]]第四九回[[公判]]が開かれる。7月15日* [[1971年]] - [[狭山事件]]で、[[第二審]]第五〇回[[公判]]が開かれる。7月22日* [[1971年]] - [[狭山事件]]で、[[第二審]]第五一回[[公判]]が開かれる。 [[証人]]は[[長谷部梅吉]](警視)。9月7日* [[1971年]] - [[狭山事件]]で、[[第二審]]第五二回[[公判]]が開かれる。 [[証人]]は[[青木一夫]](警部)、[[関源三]](巡査部長)。9月16日* [[1971年]] - [[狭山事件]]で、[[第二審]]第五三回[[公判]]が開かれる。 [[証人]]は[[関源三]](巡査部長)、[[五十嵐勝爾]](警察医)。11月9日* [[1971年]] - [[狭山事件]]で、[[第二審]]第五四回[[公判]]が開かれる。 [[証人]]は[[五十嵐勝爾]](警察医)、[[関源三]](巡査部長)。11月11日* [[1971年]] - [[狭山事件]]で、[[第二審]]第五五回[[公判]]が開かれる。━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 1972(昭和47)年━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━2月8日* [[1972年]] - [[狭山事件]]で、[[第二審]]第五六回[[公判]]が開かれる。2月10日* [[1972年]] - [[狭山事件]]で、[[第二審]]第五七回[[公判]]が開かれる。2月15日* [[1972年]] - [[狭山事件]]で、[[第二審]]第五八回[[公判]]が開かれる。4月15日* [[1972年]] - [[狭山事件]]で、[[第二審]]第五九回[[公判]]が開かれる。4月18日 * [[1972年]] - [[狭山事件]]で、[[第二審]]第六〇回[[公判]]が開かれる。 [[宮内]]、[[上野]][[鑑定書]]([[筆圧痕]])採用される。6月15日* [[1972年]] - [[狭山事件]]で、[[第二審]]第六一回[[公判]]が開かれる。6月17日* [[1972年]] - [[狭山事件]]で、[[第二審]]第六二回[[公判]]が開かれる。7月22日* [[1972年]] - [[狭山事件]]で、[[第二審]]第六三回[[公判]]が開かれる。7月27日* [[1972年]] - [[狭山事件]]で、[[第二審]]第六四回[[公判]]が開かれる。8月26日* [[1972年]] - [[狭山事件]]で、[[第二審]]第六五回[[公判]]が開かれる。8月29日 * [[1972年]] - [[狭山事件]]で、[[第二審]]第六六回[[公判]]が開かれる。 [[弁護]]側提出の[[上田鑑定書]](死体)、[[綾村鑑定書]](筆跡)、[[大野鑑定書]](筆記能力)、[[磨野鑑定書]](同)、[[上田・和歌森鑑定書]](墓制について)、[[八幡鑑定書]](玉石・残土)が採用される。9月16日* [[1972年]] - [[狭山事件]]で、[[第二審]]第六七回[[公判]]が開かれる。9月19日 * [[1972年]] - [[狭山事件]]で、[[第二審]]第六八回[[公判]]が開かれる。[[秋谷鑑定書]](脅迫状訂正部分インキ)、[[三木・大沢鑑定書]](脅迫状封筒の糊、唾液)が採用される。━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 1973(昭和48)年━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━11月27日* [[1973年]] - [[狭山事件]]で、[[第二審]]第六九回[[公判]]が開かれる。[[寺尾正二]][[裁判長]]になり、[[公判]]手続きの更新がなされる(~七二回)。11月の[[退官]]までに[[判決]]を下したいと述べていた[[井波]][[裁判長]]の[[審理]]方針は崩れる。12月6日* [[1973年]] - [[狭山事件]]で、[[第二審]]第七〇回[[公判]]が開かれる。12月8日* [[1973年]] - [[狭山事件]]で、[[第二審]]第七一回[[公判]]が開かれる。 『石川一雄獄中歌集』より 青竹になびく我らの荊冠旗歴史を噛締め熱あれ闘魂(三・ ) 同胞(はらから)よ熱血沸き立て解放へ祖先先輩われら学ばん(三・ ) 同胞(きょうだい)の怒りと悲願の荊冠旗今日も頭上に輝きなびく(十一・三) わが躯幹(からだ)暗夜の獄に埋もれども心は常に荊冠旗の下━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 1974(昭和49)年━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━2月7日* [[1974年]] - [[狭山事件]]で、[[第二審]]第七二回[[公判]]が開かれる。2月14日* [[1974年]] - [[狭山事件]]で、[[第二審]]第七三回[[公判]]が開かれる。3月22日* [[1974年]] - [[狭山事件]]で、[[第二審]]第七四回[[公判]]が開かれる。5月23日* [[1974年]] - [[狭山事件]]で、[[第二審]]第七五回[[公判]]が開かれる。9月3,5,10,20,24,26日 * [[1974年]] - [[狭山事件]]で、[[第二審]]第七六~第八一回[[公判]]にかけて、最終[[弁論]]が行われる。 『石川一雄獄中歌集』より 除夜の鐘一つ二つと胸に沁む族(うから)を思いて獄になみだあり(一・一) 獄(ひとや)にも新春告げる折詰め手に咬みくだきつつ真の春待つわれ(一・一) 権力を打倒に燃えてわが獄に夢は告げくる勝利の明日を(一・一)