エロチックの水脈
インターネット上で、圧倒的な関心を呼んでいるテーマ。「恋愛」について言及する。折角、エロチックなものを巡って話題にしているのだから、俺流儀で敷衍しよう。恋愛とは、あたかも個人の意思によって配偶者選択がなされていると自分で納得する傾向を基礎としている。これまで、このブログにおつきあい頂いている方ならばすぐに理解できると思うがデカルト「省察録」の世界なのだ。さてこのわずかな言葉で私は、私が真に知っていることの、あるいは少くとも、私が知っているとこれまでに私の気づいたことの一切を要約した。いま私はおそらくなお私のうちに何か他の未だ私の振り返ってみなかったものがありはしないかどうか、さらに注意深く調べてみよう。私が思惟するものであるということは、私に確実である。しからばまた私は或ることが私に確実であるためには何が要求せられるかをも知っているのではあるまいか。疑いもなく、この第一の認識のうちには、私が肯定するところのものの或る一定の明晰で判明な知覚のほか他の何物も存しない。かかる知覚はもちろん、もし私がかように明晰に判明に知覚する何らかのものが偽であることがかつて生じ得るならば、私にものの真理を確実ならしめるに十分ではないであろう。従ってすでに私は、私が極めて明晰に極めて判明に知覚するものはすべて真である、ということを一般的な規則として立てることができると思う。 もっとも私は、後になって疑わしいものであるとわかった多くのことを、以前にはまったく確実で明白なものとして認めていた。しからばこれはどういうものであったか。言うまでもなく、地、天、星、その他私が感覚によって捉えた一切のものである。しかしそれらのものについて何を私は明晰に知覚したのであるか。言うまでもなく、かかるものの観念そのもの、すなわち思想が、私の精神に現われたということである。そして現在といえども、もちろん、かかる観念が私のうちにあることを、私は認めまいとは思わない。しかし或る他のことで、私が肯定し、またこれを信じる習慣によって明晰に知覚すると考えたことで、しかも実際には私の知覚しなかったことがあった。言うまでもなく、かかる観念がそれから出て、それにまったく類似している或るものが私の外にあるということである。そしてまさにこの点において私が過っていたか、あるいは私の判断が正しかったのならば、確かにその判断は私の知覚の力によって生じたのではなかったのである。 しかしそれなら、算術あるいは幾何に関することで、何か極めて単純で容易なこと、例えば二と三とを加えると五であるということ、あるいはこれに類することを私が考察した場合、私は少くともこれを、真であると肯定することができるよう十分に明瞭に直観したのではあるまいか。実際、私がこれについて疑うべきであると後になって判断したのは、おそらく何らかの神が、最も明白なものと思われることに関してさえ欺かれるような本性を、私に付与したかもしれないという考えが私の心に浮かんだからというよりほかの理由によるのではないのである。しかしながら神のこの上ない力についてのこの先入の意見が私に浮んでくるたびごとに、もし神が欲しさえすれば、私が精神の眼で極めて明証的に直観すると考えることにおいてすら、私が間違うようにすることは神にとって容易である、と告白せざるを得ないのである。とはいえ私は、私が極めて明晰に知覚すると信じるものそのものに私を向けるたびごとに、私はそれによってまったく説得せられ、かくておのずと次の言葉を発する、できる者は誰でも私を欺くが宜い、しかし、私が私は或るものであると思惟するであろう間は、彼は私が無であるようにすることは決してできないであろう、あるいは、私は有るということが現在真であるからには、私がかつて有らなかったということがいつか真であるようにすることは決してできないであろう、あるいはおそらくまた、二と三とを加えると五よりも大きいないし小さいとか、あるいはこれに類すること、すなわちたしかにそのうちに明白な矛盾を私の認めること、が生ずるようにすることはできないであろう、と。そして確かに私は何らかの神が欺瞞者であると見做すべきいかなる機会も有しないのであり、また実に何らかの神が存するかどうかを未だ十分に知らないのであるからして、単にこのような意見に依繋する疑いの理由は極めて薄弱であり、そしていわば形而上学的である。しかしかかる理由もまた除き去られるように、機会が生ずるや否や直ちに、神は存するかどうか、そして、もし存するならば、欺瞞者であり得るかどうか、を検討しなければならぬ。というのは、このことが知られていないと、まったく他の何事も決して私に確実であり得ると思われないからである。 しかるにいま、省察の順序は、まず私の一切の思惟を一定の類に分ち、そしてこの類のうちいったい何れに真理または虚偽は、本来、存するかを探究することを要求すると思われる。私の思惟のうちの或るものはいわばものの像であって、これにのみ、本来、観念という名称は適当するのである。例えば私が人間とか、キマイラとか、天とか、天使とか、神とかを思惟する場合がこれである。しかし他のものは、そのほかに、或る他の形相を有している。例えば私が欲する場合、恐れる場合、肯定する場合、否定する場合がこれであって、この場合私はつねにもちろん或るものを私の思惟の対象として把捉するが、しかし私の思惟はかかる、もののかたどり以上にさらに或るものを含んでいる。そしてこのようなもののうち或るものは意志あるいは感情と名づけられ、他のものは判断と名づけられる。 いま観念についていえば、それが単にそれ自身において観られ、それを何か他のものに関係させなければ、それは、本来、偽であり得ない。なぜなら、私が山羊を想像しようとキマイラを想像しようと、私がその一を想像するということは他を想像するということに劣らず真であるからである。また意志そのもの、あるいは感情においても、何ら虚偽を恐れることを要しない。なぜなら、たとい私は曲ったこと、あるいはどこにも有しないものをさえ願望するかもしれないとはいえ、それだからといって私がこれを願望するということは真でなくはないからである。かようにして残るのはただ判断のみであり、これにおいて私は誤らないように用心しなければならぬ。しかるに判断において見出され得る主要な、そして極めて普通の誤謬は、私のうちにある観念が私の外に横たわる或るものに類似している、あるいは一致している、と私が判断するということに存する。なぜなら、実際、もし私が単に観念そのものを私の思惟の或る一定の仕方として考察し、何か他のものに関係させなかったならば、それはほとんど私に何らの誤謬の材料を与え得なかったからである。省察MEDITATIONES神の存在、及び人間の霊魂と肉体との区別を論証する、第一哲学についてのDE PRIMA PHILOSOPHIA, IN QUIBUS DEI EXISTENTIA, ET ANIMAE HUMANAE A CORPORE DISTINCTIO, DEMONSTRANTUR.デカルト Renati Descartes三木清訳つまり、近代ににわかに活況を呈している思弁の対象である恋愛と結婚はなんら疎通のない個別の事項である。結婚しなくても、近代的な意味での恋愛は成立するだろうし、性関係は皆さん私以上によく精通されておられる筈。それが、結果的に一義的に結婚(婚姻)に収斂するように措置されているのは近代以降、極めて新しい事象である。これが普遍的な事柄のように思い込むことは、キマイラがとりついている脳みその持ち主である。恋愛論では、スタンダールが有名だが恋愛の構造を基礎づけているのは個人的にはデカルトの省察録だと思えてならない。スタンダールが、恋愛の心理が起動するプログラムを論じているのならば、デカルトは、恋愛に向かう人間のOSを語っているような調子だ。恋愛感情とは、すでにフランドランJean Louis Flandrinが描写しているとうり、階層性の高い地域(農村)と、比較相対的に水平化が進行している中間層が厚い地域(農村)との差異を深く考究すれば、おのずと知れてしまう内実だと分かる。当然、水平化している地域のほうが「配偶者の選択肢が幅広い」のが想像できるとうり。つまり、村の中でさえ(閉鎖系)結婚可能な相手がわずかしかない場合ですら、それが当人が選んで納得しているという意識さえ生じさせる事が可能でありさえすれば、自分で選んだという意識を強く持てた程度に応じて、結果的に恋愛感情は高く維持されて文芸作品にまで昇華されかねないエネルギーとして確認できるのである。一方、都市化してののち現代では「配偶者の選択肢」は、ほぼ無限大に拡大したと信じられている。しかし、信じているのは都市住民の勝手であって、そのように思い込んでいる人たちそのものの脳もキマイラで占められていると疑ってかかったほうが良い。自分は、共産主義の解読を猪木正道などから示唆をうけて共産主義者の活動に地域的偏差、歴史的偏差が生じていることを他ならぬ共産主義者自身が自己解明できないでいるのをさんざん目撃してきた。つまり、彼らの綱領やら活動方針も、キマイラ脳で不器用に恣意的に考えられているために、彼らの思念がこのような「制度装置」を見抜くことが一般に可能でなかった事が大きいと思う。東欧型共産主義と西欧型共産主義の間に横たわっている「格差」は、イデオロギー上の偏差というよりもこの「制度装置」の迫力に左右されていると考えるほうがまともである。この歴史社会学的なフレームは、冷戦崩壊後の社会活動を冷静に読み解きする上でも今なお有効であると個人的には考えている。こういう有効性について一度も意識していない論者が恋愛を話題にしているのは、言葉を自身の官能の道具として過剰に用いる経験のみしか持ち合わせていない貧者の習性である。