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2004年02月07日
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 このようなことからみて、個人といっても差し支えないようなベンチャービジネスが重要な発明(基本発明)を行い、大企業がそれを様々な形で実用化するということは、極めて一般的な構図なのである。
 このような、研究テーマの選択の自由とか、人事管理からの解放といった、組織的規律からの自由さは、大きな企業において研究者がチームを組まされたり、相互に比較されながら研究開発をするような状態では発生しない。
 かつて私の属していた技術予測の研究会で、画期的な研究や発明をされた方を何人かお呼びして分析し、どのような状態で画期的な発明が出てくるかを長期間にわたって分析したことがある。
その結果、画期的な発明は個人に向き、長時間掛けて改良していく発明は企業の研究所に向くという結論になった。しかし企業でも画期的な発明を作り出したいのである。そこで問題とされるのが発明の条件であって、様々な事例を分析した結果、次のようなことが言えたのである。
一研究者に熱意のあること
 ニ研究者は研究テーマについて充分な知識があること
 三研究者はその技術についてやや素人であること(現在の実験的常識から自由であること)
 四研究者が研究上の短期目的に拘束されず、研究テーマの選択その他で心理的に自由であるこ  と(遊びがあること)
 五異なった分野の者が連携して研究していること
六設備その他の条件の良いこと
そして以上の条件の中で不可欠なのは一、四、五だったのである。
 ここで問題にしているのはハード面での研究テーマである。したがって開発対象がソフトの場合、研究者はそれ以上に自由でなければならない。
 それで研究者が企業にいる場合と、独立しているか、別の研究機関に出て自由な研究をしているなど、かなり自由度が高い場合を比較してみよう。
 企業内の研究者は、まず専門家である前に社員として、定時に出勤し、同年次の同僚と競争をし、勤務評定を受け・・・といった細々した問題で頭を使わなければならない。管理職になると雑用が押し寄せてくる。したがって研究業績でも同僚や他企業の研究者との比較が問題になる。論文や特許出願の数である。かつて古在由秀は日本経済新聞のコラムで次のように述べた。「このような厳重な審査を経て膨大な数の論文が発表されるのだが、その中で光輝くものというと、数は限られる。大多数の人が正しいと思ってきた事実を覆したり、誰もが予想もしなかった事実を見つけたりするのが、優れた研究であり、論文である。これらは、少数意見の持ち主から生まれる。一般的には、多数意見を支持したものは、ユニークな論文とはいえない。」(同紙一九八九・六・六)
 一方独立した研究者は、他人から評価を受ける研究なり、製品開発をするのに、命がけである。だから論文点数や出願件数などを気にしている暇はない。しかしオリジナリティーのある製品は作らなければならないのである。
 今までに多数のコンピュータ・プログラムが作られたが、それらのプログラムは大雑把に二種類に分けられる。
 一つは天才的な人間が組んだプログラムである。表計算プログラムではダン・ブルックリンがアイデアを出して、ボブ・スクラントンがプログラムにした「ヴィジカルク」が最先であり、また、日本語を漢字混じり仮名書きで文にするプログラムは人工頭脳ものであるといわれたが、例えば一太郎で簡単にできるようになった。この二つのプログラムはその作成者を特定できるものであり、学生だったり個人であって、研究所の研究者ではないのである。
 これらのプログラムにおいて、設計者の頭脳の反映は他人が完全には真似ができない。両方とも、その後のバージョンアップにおいて、多数の付属機能が付加されたが、その基本となる構成はほとんど変化していないのである。
もう一種類のプログラムは、多数の単純な機能を組み合わせたもので、大勢掛かりで作られるものである。一九六四年の東京オリンピックでは、IBMがコンピュータを納入し、大勢の選手名簿や記録のデータ、多数の計時装置や掲示板を一度に計算したり作動させるプログラムを作った。そのとき採用された開発方式は、お互いにコンピュータの使用メモリの範囲などを決めて、分業してプログラムを作成するという方式であった。このようなプログラムは企業において大量に作ることができるが、目新しいものはできないのである。先に述べた企業の中央研究所で行える研究と個人しかできない研究との相違は、ここでも現れている。
 ところで、このような独立した研究を好む者は、どちらかというと組織活動に馴染まない。
自動制御の理論を完成させたノーバート・ウィーナーは、その著書『発明』(鎮目恭夫訳、みすず書房、一九九三)の中で、戦後の産業が必要とし、かつ育成したのは天才ではなく、企業に都合の良い研究者に過ぎなかったといって、このような企業による研究者育成に警告を発していた一人である。
 この書は一九四〇年代末に書かれたもので、執筆後長く出版されなかったものであるが、その中でウィーナーは、技術的な開発は、その状況が変化して、科学者の手から昔は蔑まれていた商人やビジネスマンの手に渡り、科学よりも科学がもたらすものに興味を示すようになったと言っている。如何にその要点の一部を抜き出してみよう。
 例えば、エディソンの最大の発明は、科学的よりもむしろ経済的なものであって、自分の研究所にいる研究者がその個人名を出さないように細心の注意を払い、特許を独占した。
 さらに長距離通信の困難性については、ヘビサイドが無歪線を提案しているにも拘らず、その欠陥を周到に探してキャンベルとピューピンにヘビサイドがやったのと同じ研究をさせて、それを五〇万ドルで買い上げ、ヘビサイドの研究から逃れようとした。
 ウィーナーは、最近の科学研究が「メガ・ドル科学」に移行したとしている。そしてその中で、一方には真の科学的な創造を行おうとしている科学者、アイデアの生み手の精神があり、他方には「尻尾を切り落とされた狐」という、既成のアイデアを商業的利用として扱うのに充分なものにするためだけの、機械的な仕事に帰着する、末期段階に適応した組織で働く科学的精神があるといい、さらに真の科学者は往々修練不足というレッテルを貼られやすく、コントロールしやすい研究者のみが重宝に使われ、また特許制度は近代産業の大規模賭博のための一連の規定になってしまったと述べている。
 事実、真の科学者が使いにくいと言って追放された例としては、その著作の執筆以後に、トランジスターの発明者ショックレーが研究所長の職を長期間追われたことが上げられよう。しかし、LSIの開発になって彼はまた復帰したのである。
 日本の場合、このような企業の行動に、さらに中小企業軽視の風潮が重なる。日本でベンチャービジネスが発達しないのは、後で見るように、基本的には終身雇用制に原因があるのであって、学生が大企業優先の職業選択をするからである。





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最終更新日  2004年06月07日 21時14分17秒
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