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2005年07月25日
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世界各地で、たくさんの高級ホテルを買収。ひいては油田開発、通信事業にも
進出した。しかしバブル崩壊以後、1兆8000億円もの借金を背負う。
そのメインバンクであった、日本長期信用銀行は、名をかえ今や新生銀行など
と称して過去の悪行を糊塗したつもりでいる。

ノーパンしゃぶしゃぶだけが話題となり、むなしく記憶から剥がれ落ちて行くが
あの大蔵省解体論を惹起し、多くのキャリア官僚が失脚劇を演じた。その引き金
を引いたひとりの人物が、18日急死したという。


東京税関長は、高橋治則の自家用飛行機ファルコン、ボーイング727、737
などに同乗して香港へ高橋と豪遊に出向いたと衆院議員の証人喚問で答えている。
東京税関長は、将来大蔵省事務次官を嘱望されていた田谷広明だ。

ボーダーフォンという会社は、以前は日本携帯電話といった。のちに名をかえた。
東京デジタルフォンがその前身である。実は、この日本携帯電話社長は、日経連の
専務理事から就任。この会社は、オリエントコーポレーションと共同出資で成立
する。社長に起用したのは高橋治則である。実は、高橋治則に、元日経連専務理事
を紹介するかたちで介入したのは、あの山口敏夫だとされている。

「歴史には、起こらなかったことは記されない」


高橋治則の母は、大蔵大臣と首相を歴任した"ライオン宰相"浜口雄幸の娘婿と従兄妹であった。

浜口は翌30年11月14日に東京駅で狙撃されて重傷を負い、外相の幣原喜重郎が首相代理に就任した。
その翌年8月に浜口がこの世を去った直後、9月18日に満州事変がひき起こされ、日本の大々的な
中国侵略がはじまったのである。
当時の日本国内の世情は、ちょうど現在と同じように、政界の腐敗が頂点に達していた。その腐敗
に対する反発が、陸軍内部の若手を暴走させ、彼らが満州事変を計画する口実として利用され、
軍国主義に移ってゆく最大の動機となった。

浜口首相の長男・雄彦は、東京銀行の頭取から国際電信電話会社(現在のKDD)の社長となった人物
である。

浜口雄彦と、中部電力会長・井上五郎とは義兄弟であり、井上は原子力委員会の委員長代理で、
動燃の初代理事長でもあった。雄彦の弟・浜口厳根は、日本長期信用銀行(長銀)の設立者で、
頭取であった。長銀もまた、戦後1952年に出発した金融機関で、最大株主は、第一勧銀である。
そしてこの長銀が、高橋治則の東京協和信用組合に49.2%出資する母体行だったのである。
安全信用組合理事長の鈴木紳介が、95年3月に参院で説明したところによれば、「日本長期信用銀行
の指示で、高橋治則個人に約50億円の融資を実施した」という。したがって、高橋ひとりの背任
ではなく、明らかに金融のプロである長銀の背任罪のほうが大きかった。
さらに、浜口雄幸首相の直系の孫にあたる大橋宗夫は、85年にプラザ合意がなされ、日本がバブル経済
に突入したとき、日銀政策委員会の大蔵省代表委員という最重要ポストにいる大蔵官僚であった。

幣原時代の最も重要な出来事は、GHQと激論を交しながら誕生した戦後の新しい憲法の制定であった。
日比谷で幣原内閣打倒を叫ぶ7万人集会が開かれ、鳩山一郎が右翼の児玉誉士夫と組んで反共演説
をぶつという、全土騒乱の時代であった。この時代に、幣原内閣の秘書をつとめていたのが、数々
の週刊誌で「東京二信用組合救済計画を仕組んだ男」と噂されてきた右翼の政商・四元義隆であった。
四元は、三幸建設工業を経営する社長として、政財界に隠然たる勢力をもつ大物右翼とされてきたが、
鈴木進とは戦前からの知り合いで、鈴木進・紳介親子が経営する安全信用組合の理事にも就任していた。それは、安全信用組合が、創業時から三菱財閥によって経営されてきた金融機関だったからである。つまり、幣原喜重郎の妻は、三菱財閥の創始者・岩崎弥太郎の娘であった。

まず三菱財閥の岩崎家があり、その娘ムコ・幣原喜重郎の秘書が、のちの政商・四元義隆であった。
そのため、四元が三菱財閥の安全信用組合の理事に就任した。また、幣原喜重郎の息子の姪が、鈴木
紳介と結婚したため、鈴木が理事長となって、高橋治則と共に95年に逮捕されることになったのである。

では、その高橋治則と行動を共にした中西啓介は、どこから出てきたのか。
彼は、高橋治則の兄と学友であり、小沢一郎とも学友だったという。

安全信用組合への預金額をみると、イ・アイ・イが9億2990万円であったのに対して、ゼネラルリース
という金融業者は、実に5億120万円の預金額を記録していたという。この金融業者の監査役だったの
が、広瀬篁治という人物であった。 

この広瀬が、ほかならぬ東京協和信用組合で理事をつとめ、安全信用組合では参与総代という重要
ポストについていた。 彼は、やはり高橋治則の兄の友人だったとされている。
しかし広瀬篁治の叔父は、佐藤栄作内閣の経済企画庁長官をつとめた藤山愛一郎であった。
佐藤栄作の息子である通産大臣・佐藤信二がいた。さきほど、浜口雄幸首相の孫・大橋宗夫は、85年
のプラザ合意がなされ、日本がバブル経済に突入したときの大蔵省代表日銀政策委員という最重要
ポストにいたと述べたが、大橋宗夫の妻と、佐藤信二の妻は、従姉妹であった。
実は、この藤山愛一郎の姪の夫の祖父・山口喜久一郎という衆議院議員がおり、その秘書だったのが、
中西啓介であった。しかも中西は、山口喜久一郎の姪と結婚し、その地盤を継いで、和歌山一区から
出馬して衆議院議員になったのである。 - -
中西啓介は、"安全信用組合に5億円の大口預金をもつゼネラルリース"の監査役だった広瀬篁治と
近親者であり、ほとんど従兄弟同士に近い関係にあった。 
その信用組合から、中西のマンション代金やパーティー、カジノ旅行の代金が捻出されたことになる。
そして広瀬の金融機関の預金を守るため、一族仲間の大蔵官僚たちが東京共同銀行を設立し、全国の
銀行預金から莫大な資金が捻出されることになった。

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最終更新日  2005年07月26日 07時37分25秒
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