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2005年08月21日
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カテゴリ:汝自身を知れ。


森崎和江;吉本(隆明)さんんというのは大変ありがたい方で、対幻想という
言葉をくださいましたでしょう。本当にたすかりました。

上野千鶴子;助かったってどういう意味ですか?

森崎;私も同じようなことを、何度もいろいろと書いてきましたけれど、
でも吉本さんは集団とか個人というものと対幻想を並べてお書きになってる
でしょう。これはとても助かったんですね。

上野;「共同幻想論」(河出書房新社刊)が出たのは1968年ですけれど、
出た当時にはお読みになりました?

森崎;難しくてね、きちんと読んでないんです。でもたった一度お訪ねした
ことがあるんですよ。いつだったか忘れちゃいましたけど、ある編集者の方が
この近くに吉本さんがいらっしゃるから引き合わせましょうとおっしゃったの。
こわいからいいですって言ったんですけど、すぐそこだからって。ご自宅で
ちょっとお話ししてすぐおいとましましたけど。お会いして本当によかったと
思いました。ああ、この方は対幻想というのを分かって生きていらっしゃるな
と思ったのね。存在から感じとれた。ひょっとしたらこの方は海辺で育たれた
のではないかしらという感じがしてね。潮の時間というか、海辺の時間というか。
海辺には独特の対意識というのがあるんですよね。

上野;え、どういうことでしょう。

森崎;こんな話でいい?海辺っていうのはもう全く違うんですよ。生命に
あふれていて。私、海岸線の思想というものを書きたかった。

                   見果てぬ夢/「性愛論」上野千鶴子


「助かった」、「ほんとうに助かりました」と、くりかえす森崎和江に、自分は
瞠目した。「ああ、助かった人がいるんだ」、と。あれは、いったい何だったの
だろう、という思いがいまやフランス語訳も存在するという「共同幻想論」。
その呪文のような言葉に纏わりついていた。が、助かった人の声をきけば、その
意味の所在がみえてくるような気がするからだ。

吉本隆明自身の解説や、彼の信奉者らの述べるところは皆韜晦のようなものに
みえて、いかがわしい印象がすることが続いた。森崎自身の述べているものは、
結局論というよりも、ある種の啓示めいた「感覚」なのだと感じた瞬間だ。
それならば、自分にも特別違和感がない。

実は、彼女のこのような感じ方は、その後の彼女とその周囲の党派の闘争に
参加した際に勃発した「事件」で、彼女の倫理を揺るがす根拠として強く働いた
もののように思った。わたしは、倫理の突き詰めた姿が根源的にこのような
森崎の「感覚」のようなものであれば、むしろ理解できる。それがもしや
森崎をして助かったと述べさせる「対幻想」という表現を繰り出した感受性
と、重なるのだといわれれば納得できるような気がする。

森崎は、子どもを孕んだ自身のからだを語ることばがないことに気づき、唖然とした
感覚をもつ。そして、産む、生まれるという人間にとっての根源的な経験をめぐる
大きな領域が空白のまま残されていることを発見するのである。
そののち、森崎は、ある事件をきっかけとして、自身のセクシュアリティがからだ
から奪われていくという経験をする。エロスを取り戻すために、森崎は、自分自身
のセクシュアリティとさまざまな他者のセクシュアリティを受けとめる、長くつらい
心の旅を遍路するのである。(Takaira Kenichi氏のサイトより)



エロスは、個々の男、女の肉体的な感受性や反射などに停滞する閉じたものではなく、
やはりそれを支えている、感覚の共同体が背景に深く根ざしているのだという気が
する。そこでは、自分のような者にすら、経験を踏まえて自分なりの感銘が湧く。

逆に、言えばいま時代にカルトへ傾斜する心の病理のようなものも合点がゆくのだ。
どこかで森崎などの年代において体験されたという。馥郁と立ち込めるそんな海辺の
生命感と時間の中で育ち、育まれたエロスの水源など望むべくもない。遥かに隔絶した
都市の環境。われわれのアルミサッシュと板ガラスの内側に閉塞感を抱きながらテレビ
の画像だけに脳をもってゆかれてゆく枯渇した魂に、渇望される擬似的なエロスの代位
のようなもの。それは明らかにカルトの跋扈する現実を反照させるものを含んできた
ような気がする。

一度もお会いした事もない、ミュージシャンのlalameansさんを推量して実に
恐縮ながら、ふと思ったことがある。繊細な表現者として都市生活者ではあり
ながら、誰よりも何処から氏に満たされていたそのエロスのリソースは、濃密
に氏にとっても、Simplificationされてあって、男性でありながらかつて森崎
和江などがはからずも体験したような、哀しい「個」への強い引き戻しの轍を
不本意に踏襲されるようなことがあったのかもしれない。

一連で、そんなことを思った。

森崎;私たちの仲間の妹さんが犯されて殺されたことがあるんです。そのことに
ついて、私と一緒に暮らしてくれていた谷川(雁)と、どっちともとても衝撃を
受けました。私、ほんとうに辛くて。これは他人事ではないわけでしょう。
自分自身の内部と共感しているものが殺されたわけですから。ですから闘いの
プロセスはみんな中止しても、この問題をもっと掘り下げたい、私たちの思想と
して、共通のものが生みたい、そうしなければ、今まで暮らして来たことが
だめになってしまう、そう思いました。それは谷川も分かってくれたようです。
けれども、女性の問題というか。対というか、性というか、そういうことを
問題にする状況ではないほど、当時の私たちの生活は、さしせまっていたんです。
炭鉱閉山の闘争のまっただ中で、警察に取り囲まれていたし。集団で支え合って
きた闘争を、それは表面的に後退させたり、内面化したりするわけですね。
そうすると力がフッと弱ったりする瞬間が出てくるわけでしょう。それを大変
懸念したんですね。          見果てぬ夢/「性愛論」上野千鶴子



われわれの日常根城とする企業社会は、本来エロス的な結合が組織内に横溢して
いることはマレである。かろうじて、製造業や加工業者などでは、永年の筋肉蓄積
と、それを支える地域や一族にそんな「見果てぬ夢」へ向かう共同性が漂うといった
幸運も残っているかもしれない。しかし、残念ながらわれわれの企業社会は、
そんなエロティックなものと、もっとも疎遠な殺伐としたものが大半である。

われわれの倫理感覚を、大きく狂わせているもの。それは、間違いなく企業社会の
反エロス的な矮小化された、「生きるため」の賃労働によるものだという気がする。


「食うこと、飲むこと、産むこと、などなどは、なるほど真に人間的な諸機能ではある。
しかし、それらを人間的活動のその他の領域から引き離して、最後の、唯一の究極的
目標にしてしまうような抽象がなされるところでは、それらは動物的である。」
「人間は一つの類的存在(Gattungswesen)である。……人間は自己自身に対して、眼前
にある生きている類に対するようにふるまうからであり、彼が自己に対して、一つの
普遍的な、それゆえ自由な存在に対するようにふるまうからである。」(93-94)
「「人間の普遍性は、実践的にはまさに、自然が1)直接的な生活手段であるかぎりに
おいて、また自然が2)人間の生命活動の素材と対象と道具であるその範囲において、
全自然を彼の非有機的肉体とするという普遍性のなかに現れる。自然、すなわちそれ
自体が人間の肉体でないかぎりでの自然は、人間の非有機的身体である。人間が自然に
よって生きるということは、すなわち、自然は、人間が死なないためには、それとの
不断の[交流]過程のなかに留まらねばならないところの、人間の身体であるということ
なのである。」(94)          カール・マルクス『経済学・哲学草稿』








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最終更新日  2005年08月22日 06時14分35秒
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